ヤマニンウエーブ – Wikipedia

ヤマニンウエーブは日本の競走馬、種牡馬。福永洋一とのコンビで1972年秋の天皇賞に優勝し、同年の啓衆社賞最優秀5歳以上牡馬に選出された。

馬齢は当時の表記とする。

4歳時の1970年2月8日にデビュー、初勝利までに3戦を要するなど順調に勝ち上がれず、4、5歳時は重賞への出走もないまま、2年を条件馬として過ごした。1972年4月に格上挑戦で鳴尾記念に臨んで重賞に初出走すると、次走・33戦目の1000万下条件戦に優勝しオープンクラスに昇格する。

昇格後、春シーズン3戦を消化し、3ヶ月の休養を経て秋を迎える。この緒戦に出走した朝日チャレンジカップから、かつて条件戦で1戦のみコンビを組んだ福永洋一を鞍上に迎えた。するとこの競走で2着、次走のハリウッドターフクラブ賞で3着と好走を見せ、続く京都記念(秋)に優勝し、38戦目で重賞初制覇を果たした。

次走に迎えた第66回天皇賞で、八大競走に初出走。出走馬の中に八大競走優勝馬が1頭もおらず、この年春の天皇賞で2着、前走でハリウッドターフクラブ賞をレコードタイムで優勝していたキームスビィミーが1番人気、ヤマニンウエーブは15頭立ての7番人気という評価であった。レースはスタートの瞬間にオウジャが落馬競走中止という展開で始まり、直後に新田幸春騎乗のパッシングゴール(8番人気)が先頭に立ち、そのまま他馬を大きく引き離していった。同馬は2周目の向正面で30-40馬身程度の大逃げを打ち、その後方でヤマニンウエーブは14番手を進んでいた。しかしこの展開に、福永は向正面から1000メートル近くのロングスパートを掛けると、最後の直線で逃げ粘るパッシングゴールを猛追、ゴール寸前にクビ差捉えての優勝を果たした。枠連配当は10,210円で、天皇賞史上初の万馬券となった。

その後は8歳まで競走生活を続行、勝利は挙げていないが、重賞で4度の2着を記録している。

競走馬引退後は日本軽種馬協会の種牡馬として宮城県で繋養される。3年間の供用で産駒は28頭と環境に恵まれず、1978年に千葉県の牧場に移動し種牡馬生活の続行が試みられた。しかし同年12月4日の放牧中に右前脚を骨折。予後不良と診断され、安楽死の措置が執られた。

競走成績[編集]

  • 1970年(13戦2勝)
    • 1着 – 端午賞
    • 3着 – つつじ賞
  • 1971年(13戦4勝)
    • 1着 – 中距離特別、布引特別、オクトーバーハンデキャップ、貴船特別
    • 2着 – 寿賞、生田特別、水無月ハンデキャップ、長良川特別、三河特別
  • 1972年(14戦4勝)
  • 1973年(6戦0勝)
    • 2着 – 京都記念 (秋)、サファイヤステークス
    • 3着 – 京阪杯
  • 1974年(2戦0勝)

参考文献[編集]

  • 典厩五郎「ヤマニンウエーブ – いまや伝説のレースとなった第66回天皇賞」(『夢はターフを駆けめぐる4』〈光栄出版部編、1994年〉所収)
  • 大川慶次郎ほか『サラブレッド101頭の死に方(文庫版)』(徳間書店、1999年)

外部リンク[編集]