旧土岐家住宅洋館 – Wikipedia

旧土岐家住宅洋館(きゅうときけじゅうたくようかん)は、群馬県沼田市に所在する西洋館である。「パンの殿様」と呼ばれた旧上州沼田藩主の子・土岐章により、大正時代後期に東京の渋谷に建てられ、平成に入り国許の沼田に移築された。

土岐家は、上野国沼田藩主の12代の頼知の時に明治維新を迎え、本拠を東京・赤坂の江戸見坂の江戸屋敷[注釈 1]に本拠を移し、別邸を沼田に置いた。1892年(明治25年)、頼知の子・章が生まれる。明治30年代、財産を失った頼知は赤坂の本邸と沼田の別邸を売り払い、東京の北千住で庶民として再出発することとなる。章は東京府立第一中学校[注釈 2]を卒業する前後に家の激変にあったとみられ、すぐに東京帝国大学[注釈 3]に進まずに千葉高等園芸学校[注釈 4]に進学。さらに明治法律学校[注釈 5]を中退したのちに帝大に入学し、発酵学を学んだ、1917年(大正6年)に卒業したのちは独立し、仲間とともにパンの製造販売業を立ち上げた。事業としては失敗するのだが、木村屋を始め製パン業界の人脈を得る[2]。共通の知人の紹介で貞子と結婚すると、貞子の実家の近くの日本橋三越前でハチブドー酒を扱う近藤商会に入社。発酵学の研究のため同社より二度にわたりドイツに派遣されたが、その留守中に関東大震災に見舞われる。被災当時は土岐家は北千住から高樹町に移っていたが、帰国した章は渋谷に土地を取得し、1924年(大正13年)8月に新たな邸宅を起工。同年12月に完成した[3]。当初は木造2階建の洋館部と平屋の和館部を連接させた大規模な邸宅であったが、昭和50年代前半に和館部を解体した後に鉄骨造り2階建ての主屋が建てられた。1979年に章が死去した後は、1988年秋まで妻の貞子が1階の和室に暮らしていたが、同年冬からは使用されなくなっていた[1]

設計は伊藤平三郎、施工は森田錠三郎。当時のドイツで流行していたユーゲント・シュティール様式を基調とし、塊のような大きな屋根と、そこに開けられた牛の目状の換気窓 (Oeil-de-boeuf、石積みのテラスなどに特徴がみられる[3]

黒灰色の天然スレート葺で、傾斜の急な屋根には唐破風のような牛の目窓がアクセントとなっている。2階外壁は茶色ペンキ仕上げの下見板張り。裾広がり状とすることで窓の彫りを深く見せ、窓の下には花台が設えられている。1階外壁は黄土色のドイツ壁仕上げ、その下の基礎部は自然石乱積み張りで壁面の意匠に変化を付けている[4]。玄関や応接間の窓にはアーチ状の装飾が施されている[5]
1階・2階とも洋室と和室がある擬洋風建築の一つであるが[6]、洋間の壁や天井は白の漆喰仕上げとし、明治期の西洋館とは異なり華美な装飾は避け、充足した生活のための内部意匠を優先した[4]

1989年(平成元年)、章の子の實光より沼田市に対して寄贈の申し出があり、翌1990年8月に沼田市西倉内町の沼田公園に移築され[7]、郷土人物資料館として公開された。1997年11月5日には、国の登録有形文化財として登録を受ける[8]

沼田公園の再整備及び沼田城跡の発掘調査のため[9]、2020年(令和2年)に市内上之町の国道120号(本町通り)沿いに移築された。隣接地には生方記念文庫や2016年に市内材木町から移築された沼田貯蓄銀行があり、本館と同様に沼田公園内にあり登録有形文化財の登録を受けた旧日本基督教団沼田教会紀念会堂も2020年に移築され、大正期の建築物が立ち並ぶ街並みが形成されている[10]。館内は有料で一般公開されている[11]

注釈[編集]

出典[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]