細川通薫 – Wikipedia

細川 通董(ほそかわ みちただ)は、戦国時代の武将。諱は通重(みちしげ)、通頼(みちより)とも。細川晴国の子。細川野州家7代当主。

父・晴国は一時期管領細川高国および稙国の後継者と目されていたが、通董は叔父である輝政(通政)の猶子となり、戦国時代に在地領主としての自立を目指した。

ところが、晴国の経歴を研究していた馬部隆弘は通董の子孫である長府細川家が持つ「長府細川系図」に関して添付されている古文書の多くは真正であるものの、系図自体は古文書の内容に合わせようと擦り合わせようとしたものだと評価し、特に細川輝政(通政)については創作された架空の人物であると結論付けた。また、通董についても野州家と呼ばれた家が、晴国の父である細川政春が備中守護に任じられた後は、政春の官途名(安房守)から「房州家」と呼ばれるようになっていた(従って、早世した晴国も安房守は名乗っていないものの、世間からは房州家当主として扱われていた)のにも関わらず、その後継者である筈の通董が官途名を下野守と称して家名を「野州家」に戻してしまっていることを指摘し、通董が細川晴国の後継者として立てられたのは事実であるが晴国の子ではなく傍流からの継承であったと推測している。通董とその子孫である長府細川家が野州家の直系としての正統性を強調するために輝政(通政)という晴国と通董の間を埋める存在を創作したものの、野州家が房州家に家名を改めていた事実を確認できず(あるいは無視したために)、系図と添付の古文書の内容が示す事実関係と合致しなくなってしまったとしている[1]

なお、通董が晴国の後継者であることを示す文書としては、「長府細川文書」に所収された某年7月13日付の細川氏綱から通董に充てられた書状があるが、細川氏綱が「氏綱」と称し始めるのは天文12年(1543年)8月であるため、天文5年(1536年)の晴国の死の直後ではなく時間を経過してから出された文書であり、同文書自体が「安房守殿家督」の継承を認めたと記して晴国(通称:八郎)本人を意味する「晴国殿家督」「八郎殿家督」と表記しなかったのは、高国没後の後継争いで晴国とは微妙な関係にあった氏綱が、通董を房州家の後継者としては認めたものの、後日になって通董が「高国ー晴国ー通董」という京兆家相続の正統性を主張するのを阻止したい思惑があったとみられている[1]

室町時代と備中国[編集]

室町時代初期から、備中国は細川氏による支配の強化が図られていた。南北朝時代に、細川氏は本貫の三河国から畿内・四国にその勢力圏を広げており、さらに中国への拠点として備後国、備中への影響を深めていた。当初は細川頼之・頼元ら、細川氏宗家にあたる「京兆家」による影響力の滲透を図っている。備中の国人となっていた庄氏とは特に連携を強め、やがて庄氏一門は京兆家内衆として細川氏の権力基盤を支えるようになる。室町期の守護は、支配力強化の手段として国衙の実効支配を押し進めることがあったが、京兆家も備中の依然広大な国衙に介入し、これを支配下に収めていった。後に備中守護には、細川頼之の末弟・満之を祖とする細川氏の一族が任じられ、代襲により「備中守護家」と称されるようになった。ただ京兆家の支配体制は維持されたままであったようで、守護家は守護権に基づいて、残された荘園に、あるいは直轄領などに経済基盤を置かざるを得なかったようである。また応永14年(1407年)に細川満国(「野州家」)が鴨山城を領有しており、これは備中国浅口郡の経営拠点となっていたと思われる。鎌倉時代には、このようにやや多元的な支配構造は一般的であったとは思われるが、備中では一門の利害が複雑に交叉する場合もあり、室町時代の守護家による一円的な支配基盤としては脆弱であった。さらに戦国時代への移行期には後継問題も加わり、その守護領国制は大きく揺らぐ事になる。

すなわち応仁・文明の乱の影響が全国に及んだ守護細川勝久の時代、備中でも国内を二分する兵乱が起きた。延徳3年(1491年)10月、京兆家内衆であった庄元資は、備後衆・松田(管)勢に与力を頼むと、守護方の倉(河邊之倉・宮内之倉)に討ち入り、守護の郎党、被官、五百余人を討ち取った。ここに備中大合戦と呼ばれる戦乱が始まったのである(蔭凉軒日録)。これに先立つ文明12年(1480年)3月、元資は京兆家内衆安富元家らと共に丹波に発向、一宮宮内大輔を討滅し、細川政元を救出している。後に両者は政元の感状をめぐり対立し、さらに延徳2年6月に備中河邊郷の代官職をめぐって安富新兵衛尉(元家)と争ったとの記録もある(安富氏は備中国衙の京兆家代官職と判断できる)。両者の間には度重なる因縁が生じており、さらに在地の守護被官とも確執が生じていたことも想像される状況では(守護の相伝領も存在する地域)、庄元資の行動は本格的な反乱を意図するものではなく、鬱憤晴らしに近いものであった可能性も推測される。

在京していた勝久は、翌年の明応元年(1492年)に軍勢を引き連れて備中に入国し、庄元資らと合戦におよびこれを打ち破った。勝久は元資らを一旦は国外へ追い出したが、庄氏一門や彼らに与する者たち(安芸・石見の国人衆(毛利弘元らの名もある))は侮りがたく、和睦を結んでいる。そして勝久は国内の鎮撫に努めていたようだが、明応2年(1493年)頃に死去したようである。勝久は後継に、阿波守護家から細川成之の次子である之勝を迎えていたが、之勝は長享2年(1488年)の実兄・政之の死去により阿波守護家の家督を継ぎ、延徳3年6月には将軍足利義材より一字を与えられて義春と称している。守護家の後継には、「細川駿河守(人名不詳)」が推されたようであるが、庄元資は再び戦陣を開き、備中の混乱は続いた。その元資は、文亀2年(1502年)7月頃に死去したらしく、文亀3年(1503年)頃までには、義春の子之持が備中守護に任じられて混乱は収束に向かったようだが、永正9年(1512年)に之持は死去している[2]。ところが近年の研究によって、永正5年(1508年)頃より、細川野州家分家の細川国豊(細川春倶の長子)が守護として活動し始めていることが判明した。しかし、国豊は間もなく没し、その後を継いだ九郎二郎某も永正12年(1515年)に19歳の若さで自害をしたため、野州家の細川政春が備中守護となっている[3]。同じ備中国に之持と国豊の2人の守護が存在した背景には細川政元の死後に発生した後継者争い・永正の錯乱が原因であったとみられている。争いの当事者であった細川澄元は之持の弟、もう一方の当事者である細川高国は国豊の従兄で政春の実の息子でもあった。澄元と高国の争いの最中である永正4年(1507年)に、前将軍・足利義稙(義材)を戴き大内義興が中国・九州勢を率いて上洛を開始すると、やがて細川高国はこれに呼応し、永正5年(1508年)春に共に入京した。これにより将軍・足利義澄は追放され、義稙が将軍に復職、高国は京兆家家督に就任し、そして義興は管領代として幕政を執行した。この結果として、澄元派で阿波守護を継承していた之持の影響力は低下し、高国の意向で之持に代わる自派の備中守護として国豊が任命されたと考えられている。

2人の守護が並立した結果、守護家が備中の戦国大名へと変貌することは無かった。そして、政春の没後、備中守護の任命の記録はなく、これをもって備中守護家は事実上断絶した。

以後、備中では中世的権威は大いに衰え、有力国人勢力が台頭してするようになり、備中は守護代であった庄氏・石川氏、また庄氏との連携を深めていた三村氏、さらに秋庭氏・新見氏・丹治部氏・上野氏・陶山氏・中島氏・姫井氏などの備中36氏と称された諸勢力が、国人としてそれぞれ割拠する状況であった。これを助長したのは京兆家のみならず、大内氏、さらには覇を競う尼子氏らの介入が続いたことによる。

天文2年(1533年) になると、猿掛城の庄為資は出雲の尼子氏と結び、備中松山城(以後この頁では松山城と表記)の上野頼氏を打ち破りその拠点とし、諸氏と姻戚を結ぶと、備中では抜きん出た存在となる。天文5年(1536年)には、尼子晴久が本格的に備中に侵入し、国人衆を支配下におさめはじめた。やがて圧迫に耐えられなくなった細川通政(細川晴国の猶子)は、浅口の地から同じく野州家が所領としていた伊予宇摩郡へ逃れた。その頃通薫は伊予の川之江城に在ったが、やがて叔父通政(輝政)の名跡を継承し、旧領である備中・浅口の回復を目指した。いささか簡単な記述であるが、実際のところ野州家の動静については、備中史と同様に詳細は不明である。そもそも、馬部隆弘の説のように通政(輝政)が後世の創作による架空の人物とすれば一層不明となる。

ただ天文年間(1550年前後)に細川氏綱と書状の遣り取りを行ったことや、備中沿岸で起きた合戦に対し浅口衆に感状を出すなどの記録は散見される。通薫の時代には大内氏に代わり中国地方の覇者となった毛利氏の影響が備中にも及んでおり、毛利氏の尼子氏に対する戦略に基づく形でその後援を受けたのである。

戦国時代の備中国[編集]

尼子氏の興亡[編集]

天文7年(1538年)に尼子氏はほぼ備中を平定したが、天文10年(1541年)に吉田郡山城を攻めきれず兵を引いてしまうとその威光にも翳りが見え始めた。すると備中では、庄氏の一族である穂井田(穂田とも)実近が、三村氏と争いを起こした。三村家親は毛利元就に助けを請い、これが毛利氏の備中侵入のきっかけとなった。毛利氏は備後平定を図り、天文18年(1549年)には神辺城を支配下に置いた。

同22年(1551年)に、毛利元就・隆元は井原に陣をすえ、吉川元春が出陣し、三村家親を先陣に猿掛城を攻めたが、穂井田実近は勇敢にも城から打ち出すと、家親を追い立て毛利勢に打撃を与えた。その上で庄氏は毛利氏に講和を申し入れ、家親の子元祐を庄為資の養子とすることで庄・三村両氏の和睦が成立したのである。この結果備中の大半は毛利氏の幕下に入ることになり、いよいよ尼子氏の勢力は限定的なものとなった。さらにこのころ備前の浦上宗景(宇喜多氏 )も尼子氏に従う兄の政宗と袂を分かち、対立勢力として毛利氏の庇護を受けるようになっている。

月山富田城にこもる尼子氏が、毛利氏に降伏したのは永禄9年(1566年)のことである。

通薫の動向[編集]

さて通薫は永禄2年(1559年)、海を渡り浅口郡大島(大嶋)郷西部(現在の笠岡市大島中~浅口市寄島町)の青佐山城を修築し入城した。当時このあたりは大内氏の築いた水軍砦の趾を、毛利氏に従う村上氏が支配していたものと思われる。

通薫は細川家旧臣たち(赤沢・大内・安部・秋田・河田・藤沢・今城・大島氏ら)に迎えられると、山麓に屋形を設け、周りに家臣を配置した。また城の鬼門の守りには「八幡宮(大浦神社)」を遷座勧請せしめ、伝統文化や産業の振興に力を入れた施策を行ったようである。

ただ周囲の大半は同盟相手であり、この頃は文字通り客将の扱いであったと思われる。毛利氏が通董を援助した理由の一つに、通董が細川晴国の子であり、京兆家の細川高国・稙国とは血縁上近いことがあるとの説がある。つまり通董は京兆家を継承し管領を伺える人物であったため、毛利家としては中央政権対策上重要な存在であったことが示唆される。(通董を管領に戴き、輝元が管領代として政権を握る構想もあったと伝わる。)また通董としても、戦国の世に独力では川之江の維持は不可能であるとの判断も働いた可能性もあり、地続きの後援者を望める備中を目指したのではないかとも思われる。(近隣である備中守護家の所領であった新居郡は、すでに守護代石川氏が実力者となっていた。さらには三好氏や大西氏らの圧迫もあったのではないかと思われる。)結果論だが元亀元年(1570年)頃には、宇摩郡などは同じく毛利氏の同盟者となった河野氏に譲渡(併呑)されている。

やがて次第に庄氏をしのぐ勢いとなった三村氏と、宇喜多直家(浦上氏)との対立が深まり、永禄6年(1563年)頃に戦が始まると、備前との対峙が懸案となったようである。毛利元就は一族の兼重氏に対し、宇喜多氏の攻撃にさらされる「連嶋」を支援するために、能島村上氏の動員を命じている。元就の言う「連嶋」とは通董を差しており、守備方面を重ねることでこう呼んだのであろうか。(当時浅口郡の東端の連嶋(連島)付近は文字通り島であり、それを考慮し地図を眺めると、同じく藤戸が本州との海峡であった児島、また小豆島、あるいは四国へは、海路では総じて隣地の感覚であるのも頷ける。)永禄7年(1564年)には、宇喜多勢との備前竜の口城合戦に従軍している。永禄9年(1566年)、大島郷中部の六条院(現在の浅口市南部)に竜王山城を創築し、青佐山城より移って本城とした。山麓の「円珠院」(旧寺跡)近くには通董が寄進したという円珠院石造大宝塔一基が残されている。

また、永禄7年(1564年)頃に三好氏と対立した西讃の有力領主であった香川之景が自己の勢力圏にあった備中国の神島に追われていた。毛利氏では三好氏との対抗上、之景を庇護して讃岐への復帰を働きかけ、通董も之景と連携している[4]

宇喜多氏との抗争[編集]

備中からの圧迫を受ける立場であった宇喜多氏には、強大となった三村氏は疎ましい存在であった。宇喜多直家が、三村家親を除いた手段は鉄砲による暗殺であり、このことは両氏の間に遺恨として続いた。

永禄11年(1568年)、備中の軍勢が毛利氏の九州進攻に参加していた隙をつき、宇喜多直家が備中に侵攻した。
「中国兵乱記」によると、松山城の庄高資や斉田城 (佐井田城)の植木秀長(庄氏一門)らは、本領安堵を条件に降伏し宇喜多氏の幕下となった。また尼子氏の遺臣山中幸盛は織田信長の後援を受けると、伯耆・出雲の毛利属城を攻め落とし、遂に月山富田城を囲んだ。さらには大友氏に支援された大内氏再興軍が、周防へ上陸し山口攻撃を開始するに至り、毛利氏は背腹の敵に苦しむ事になった。
この状況を打開するために、元就はまず大友氏との講和を図り九州から兵を引き上げると毛利元清(穂井田元清)を備中へ向かわせた。元清は江原の伊勢氏を従え、小田氏を帰服させ、宇喜多勢から猿掛城を奪還した。こうして後月・小田・浅口の備中南西部を回復した元清は、諸兵を従えて植木秀長が立て籠もる斉田城を攻めたが、包囲戦となるうち宇喜多直家の援軍と合戦となり、穂井田実近は戦死、三村元親も深手を負い、元清は退却した。

元亀元年(1570年)冬、(再興)尼子氏の月山富田城攻略は失敗に終わるが、尼子氏と宇喜多氏は手を結び、再び備中を席巻した。尼子式部・大賀駿河守らと宇喜多勢は浅口にも迫り、通薫にも降伏を迫るが、通薫は拒絶し杉山城にこれを迎え撃った。敵方津々加賀守・福井孫左衛門を討ち取るも、奮戦むなしく敗れ去ったとある(陰徳太平記)。

元亀2年(1571年)6月14日、毛利元就は死去する。毛利元清は備中中部で反撃を開始し、松山城を落城させると、元亀3年(1572年)に戦功のあった三村家親の子元親を松山城主とした。備中の覇権は完全に庄氏から三村氏に移る一方、備中と備前の間では、一進一退の抗争を繰り返していた。やがて将軍足利義昭、織田信長の命令に応じ和睦し、つかの間の平和を得る。

毛利氏の支配[編集]

天正2年(1574年)、将軍義昭は織田信長との抗争に敗れ、毛利氏を頼り備後鞆に座すと、信長討伐令を各地に放った。毛利氏と織田氏は対立し、備中を巡る情勢にもまた変化が表れた。

浦上宗景は信長にその地位を保全されていたが、主家と対立を深めた宇喜多直家は、毛利氏に講和を求めると宗景に反旗を翻した。信長は浦上家中の内紛として、毛利氏に仲介を期待したようでもあるが、毛利氏は積極的に直家を支援した。この状況に宇喜多氏に遺恨のある三村元親は、織田氏の勧誘を受け、結果的に同盟者の入れ替わりが生じた。

直後に毛利氏は中島大炊助から三村元親謀反のしらせを受けると、小早川隆景を討伐軍の大将として、同年11月10日笠岡城に出陣した。そして総大将毛利輝元は小田に陣を布き、ここに備中兵乱と称される毛利氏と三村氏の戦が始まった。毛利氏、宇喜多氏は協力して三村勢の諸城を攻め、12月には猿掛城を包囲し落城させると、毛利氏に従っていた三村親成の案内で国吉城を天正3年(1575年)1月1日に落城させ、ついで鶴首城を攻め落とした。天正3年6月2日、ついに三村元親は自刃し、備中に長らく覇を唱えた三村氏は滅んだ。

そして政宗の孫・浦上久松丸を擁立した宇喜多直家は、勢いに乗じて浦上宗景を天神山城から播磨へ放逐し、事実上の下克上を行った。

この後備中国では、高梁川を境に東を宇喜多領とし、西を毛利領としたのである。
この年毛利元清は、穂井田元資(庄元資)の養子となり、穂井田元清と名乗る。

戦国の終焉[編集]

天正3年(1575年)に、細川通菫は鴨山城に入った。通菫は城を大改修し備中守護を輩出した細川家の勢力回復に努めたものの、既に守護が国を支配した時代は過ぎ去り、立場は戦国大名毛利氏の客将でしかなかった。なお永禄6年(1563年)には毛利隆元が備中守護に任じられているが、その後は誰も任命を受けることはなかった。
武将としての活躍は毛利氏の信頼を得るには十分なもので、備中兵乱では毛利方として国吉城攻めに加わっている。
なお天正6年(1578年)7月には、毛利勢は上月城で羽柴秀吉・尼子連合軍との決戦に及び、尼子勝久・山中幸盛ら尼子氏残党を滅ぼした。

天正7年(1579年)になると、毛利氏と織田氏の対立の最前線に位置するようになった宇喜多直家は、毛利方と手を切り羽柴秀吉のもとに降った。以後、天正7年から9年にかけて毛利勢は再三にわたって宇喜多領に侵入し、備中忍山合戦、備前八浜合戦、備前辛川合戦、美作寺畑城合戦など、各地で宇喜多勢と激戦を展開した。

そして天正10年(1582年)には、備中高松城の戦いに通菫も加わり、織田勢と対峙した。この直後に本能寺の変が生じ、織田氏と講和した毛利氏は、安芸・周防・長門・石見・出雲・隠岐・備後・備中半国・伯耆半国、を領する中国の太守に、また豊臣政権下では五大老となった。

通薫は浅口を中心に6000石余(貫高制の時代のはずだが)の知行を有するようになっており、永禄2年に備中の地を踏んで以来の旧領回復に、一定の成果を上げたとも言える。天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐の際には、通薫は小早川隆景に従って出陣し先鋒をも勤めるまでにいたるが、帰国途中の赤間関で死没す。享年53。

通薫の子細川元通(浅口元道)は穂井田元清の娘を妻としており、元清の麾下で、朝鮮出兵に出陣し軍功を収めた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い以後に、西軍の毛利氏が防長二カ国に削封されると、元通も浅口を去り義弟毛利秀元のもとに身を寄せた。家臣たちは備中に止まるもの、防長に下るものありと離散せざるを得なかった。元通の子孫は長府毛利家の家老となり、やがて明治維新を迎えている。

理解の補助として、以下に細川氏の系図(実子関係を主にした抽出形式)、及び周辺概略図を示す。

頼春
 ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
頼之   詮春   頼有  頼元(頼之 嗣)            満之
     ┃   ┃     ┣━━━━━━━━┓         ┣━━━┳━━━┓ 備中守護家 
     義之    頼長   満元       満国        基之  満久  頼重
    阿波   ┃     ┣━━┳━━┓   ┃      (頼長?嗣)(義之嗣)┃
     守護家 持有  持元 持之 持賢 持春        頼久  教祐  氏久
       和泉       ┃ 典厩家 ┣━━┳━━┓  和泉   ┃   ┃
        上守護家    勝元    教春 政国 賢春 下守護家   成之  勝久
                ┃     ┃  ┃          ┣━━━┓
                政元    政春 政賢         政之  義春(之勝)
              京兆家     ┣━━┳━━┓       ┏━━━╋━━━┓
                     高国 晴国 輝政?      之持  氏久  澄元
                          ┃ (通政)   
                         通董 
                          ┃
                                       元通
                        野州家

岡山白地図.戦国2-1.jpg

大島の傘踊り[編集]

貞享3年(1686年)に、名君と慕われた細川通董の百回忌が通董の菩提寺(長川寺)で営まれた。この時に旧大島地区の遺臣たちが武芸の“はしばし”を取り入れた供養踊りを奉納していたところ、たまたま夕立となり刀の代わりに雨傘を使用して踊ったことが起源といわれる「大島の傘踊り」が現代にも伝わっている。 これは全国的に多い輪踊りの形をとるもので、2人1組となり傘を刀に見立てて斬り合うように踊るのが特徴的である。岡山県指定重要無形民俗文化財となっている。現在は地元の保存会により、その一部が盆踊りとして舞われている。

  1. ^ a b 馬部隆弘 「細川晴国・氏綱の出自と関係-「長府細川系図」の史料批判を兼ねて-」、天野忠幸; 片山正彦; 古野貢 他編 『戦国・織豊期の西国社会』 日本史史料研究会、2012年。 /所収:馬部 2018, pp. 500–537
  2. ^ 馬部隆弘「細川澄元陣営の再編と上洛戦」『史敏』通巻14号、2016年。/所収:馬部 2018
  3. ^ 馬部隆弘「細川高国の近習と内衆の再編」『史敏』通巻13号、2015年。/所収:馬部 2018, p. 144
  4. ^ 川島佳弘 「天正五年元吉合戦と香川氏の動向」、橋詰茂編 『戦国・近世初期 西と東の地域社会』 岩田書院、2019年6月、17-19頁。ISBN 978-4-86602-074-7。 

参考文献[編集]

関連項目[編集]