終戦の表情 – Wikipedia

終戦の表情』は、第42代総理大臣鈴木貫太郎の談話録。

労働文化社の河野来吉が8時間の談話を整理し、昭和21年8月に「労働文化」の別冊として出版した[1]。労働文化版で63ページの小冊子である。

1948年の東京裁判判決が出る前であり、それに影響する可能性のある細かい事情までは触れていない。

『終戦の表情』自体には背景の説明は少ないので、以下は背景となる事項に『終戦の表情』内の文章を加えたものである。

戦時最終内閣成る[編集]

余としてはもちろん首相などになる意志は毛頭なかったのである。(中略)政治についてはまったく素人であり、従来陛下の側近において長らく奉仕して参っただけであって..

  • 4月8日 『国力の現状』の分析を迫水に命じる。

組閣早々、まず全日本の生産状態、軍事基地の設備状態を徹底的に調査させてみた。その結果、七、八月頃には重大な危機に直面するということを想像するにいたった。

和戦を胸中に秘めて[編集]

余は閣議をリードすることなく、もっぱら聞き役に回り、意見は存分に述べて貰うこととした。

  • 5月7日 ドイツ無条件降伏。

当面の問題として沖縄戦においてある程度先方を叩いたら和議を踏み出してみようと思っていたのである。ところが、沖縄の戦局は日に日に我が方の不利となり、本土へのB29の来襲は急速度を増し、かつ大規模な編隊による爆撃がくり返されるようになった。

広田弘毅氏を煩わして、ソ連側マリック氏との私的会談を進めて貰うことにした。この会議は最初やや順調に進みつつあったようであるが、我が方の沖縄作戦が徹底的に不利になるに及んで一頓挫をきたしてしまった。

  • 6月6,8日 『国力の現状』報告をもとに最高戦争指導会議。国力が払底していることが確認されたが、本土決戦の方針は不変。

もはや目前に敵の侵寇を控えた現在としては、皇土と民族を護りおおせれば我が方の戦争目的は遂行されたものと見做すという悲痛な戦争目的の転換説が台頭した。

  • 6月9-13日 臨時帝国議会。施政方針演説で議会紛糾[注 4](天罰発言事件)。
  • 6月22日 天皇の意向による最高戦争指導者との懇談会。あらためてソ連仲介による和平方向。

陛下には親しくご懇談あらせられ、戦争に関してなんらかの方法をもって速やかに終結するように考慮するようにとお諭しがあった。

  • 6月23日 牛島満が自決、沖縄戦終了。
  • 7月12日 ソ連へ近衛文麿和平特使を天皇が任命。
  • 7月16日 米、原爆実験に成功。テニアン島に向け出荷。
  • 7月17日~8月2日 米英ソがポツダム会談。

滅亡か終戦か[編集]

  • 7月27日 米英中名義のポツダム宣言を外務省が受信。閣議はこれに対しノーコメントの方針。
  • 7月28日 鈴木は記者会見で「私はあの共同声明はカイロ会談の焼き直しであると考えている。政府としては、なんら重大な価値あるとは考えない。ただ、黙殺するだけである。われわれは戦争完遂にあくまでも邁進するのみである[注 5]。」と発言。ロイターとAP通信は「黙殺する」を’reject(拒否する)’と翻訳。

内閣記者団との会見において「この宣言は重視する要なきものと思う」との意味を答弁したのである。この一言は後々に至るまで、余の誠に遺憾と思う点であり..

余はこの上は終戦する以外に道はないとはっきりと決意するに至った。

余はそこで、閣内の意見対立のまま、いたずらに時を過ごすことは、一分を争う現下の情勢に忠実ならざること主張し、かくなる上は、陛下のご聖断を仰ぎ奉ろうと決意したのである。

  • 8月9日 23:30御前会議招集[注 6]。8月10日am0:03開始。

ところがこの八月九日から十日の午前二時にかけての御前会議においては、出席者の意見が三対三で根本的に対立してしまったのである。(中略)

そこで余は、起立し、「議を尽くす事すでに数時間、なお論議はかくの如き有様で議なお決せず、(中略)これより私が御前に出て、思召をお伺いし、聖慮をもって、本会議の決定と致したいと存じます」と述べ、(中略)

余のお伺いにたいして、深くうなずかれ、余に自席へ戻るよう指示遊ばされてから、徐ろに一同を見渡して「もう意見は出つくしたか..」と仰せられた。一同は沈黙のうちに頭を深くたれて、陛下の次のお言葉をお待ち申し上げたのである。

「それでは、自分が意見をいうが、自分は外務大臣の意見に賛成する。」と仰せられた。ご聖断は下ったのである[注 7]

  • 8月10日 am2:20聖断で御前会議終了。am3:00-4:00閣議再開し聖断を閣議決定。am6:45天皇制維持を保証するならポツダム宣言を受諾すると連合国へ電報。20:00同盟通信がこれを世界へニュースとして発表。
  • 8月11日 バーンズ国務長官は天皇制是非についての回答を英ソ中と調整。
  • 8月12日 天皇制についてのバーンズ回答が電文される。「天皇の権限は連合軍最高司令官の下に置かれる。」15:00-17:30閣僚懇談会。
  • 8月13日 9:00-15:00最高戦争指導会議。16:00-19:00閣議。バーンズ回答を受け入れるか紛糾。
  • 8月14日 10:00再閣議。それを11:00-12:00の緊急御前会議[注 8]に切り替え、再度天皇の意を確認。

三名の意見開陳後、陛下には最後の断を下し給うたのである。

「自分の意見は去る九日の会議に示したところとなんら変わらない。先方の回答もあれで満足してよいと思う。」と仰せられ..[注 9]

無条件降伏の時の間に[編集]

  • 8月14日の続き 23:00終戦詔書完成。玉音盤の録音。ポツダム宣言受諾を連合国に通告。阿南陸相が首相室の鈴木に挨拶。

阿南陸相は余のところに挨拶に来られて
「自分は陸軍の意志を代表して随分強硬な意見を述べ、総理をお助けするつもりが反って種々意見の対立を招き、閣僚として甚だ至らなかったことを、深く陳謝致します。」と語られたのであるが[注 10]

(中略)それから二、三時間後、阿南氏は見事に武人としての最後を飾って自決されたのである。

  • 8月15日未明 軍務課の椎崎中佐・畑中少佐らが首謀し近衛兵団の一部が反乱(宮城事件)。阿南自決。鈴木は自宅から避難、鈴木家と平沼家は炎上。am11:00枢密院会議。12:00 玉音放送。この日の各社の新聞は放送後に発行。14:00閣議で内閣総辞職。16:00天皇に辞表提出[注 11]。19:20ラジオで最後の首相談話。同日東久邇宮稔彦が後継首相に推薦される。
  • 以後鈴木は襲撃を避けて3ヶ月で7回転居。11月27日千葉県関宿町(現野田市)へ。

敗戦日本の一年[編集]

  • 12月15日 鈴木は枢密院議長に復職。
  • 翌年6月11日 枢密院議長を辞職。

こういうことであろう。日本国民が嘘をつかぬ国民になることである。そして絶えざる努力を続けてゆくことである。それ以外に道はない

注釈[編集]

  1. ^ 鈴木は辞退したが、藤田尚徳『侍従長の回想』によれば、「鈴木の心境はよくわかる。しかし、この重大な時に当たって、もう他に人はいない。頼むから、どうかまげて承知してもらいたい。」と昭和天皇から異例の懇願を受けた。
  2. ^ 鈴木一は農林省山林局長を辞して首相秘書になった。『父と私』[2]に秘書兼ボディーガードだったと次のように書く。: 「日本には父以外にもはや人物はいないのだ。肉親を越えた気持ちから、私は父の、いな総理のボディーガードになろうと決心したのである。(中略)父の行くところ、必ず影のごとくについて歩いた。宮中はもちろん、戦災の焼け跡にも、地下工場の視察にも、そして廊下の曲がり角をはじめ、いついかなる瞬間といえども、ただちに父の前に飛び出せる用意をしていた」
  3. ^ 首相、外相、陸相、海相、陸軍参謀総長、海軍軍令総長の6人による。
  4. ^ 『終戦の表情』はこのことに触れていないが、迫水『機関銃下の首相官邸』[3]や、鈴木一の『父と私』[2]には、施政方針演説の「両国共に天罰を受くべし」という文面が修正・再修正されたエピソードが書かれている。
  5. ^ この文は迫水が陸海軍の軍務局長と議論の末に作成した[3]
  6. ^ 御前会議開催には陸海軍両総長の花押が必要だったが、この日の午前に迫水は、緊急開催もありえるからと両者を説得して、花押をもらっていた[3]
  7. ^ 情報局国務相の下村宏『終戦秘史』[4]によれば、続く言葉の要旨は以下。「大東亜戦は予定と実際とその間に大きな相違がある。本土決戦といっても防備の見るべきものがない。このままでは日本民族も日本も亡びてしまう。国民を思い、軍隊を思い、戦死者や遺族をしのべば断腸の思いである。しかし忍びがたきを忍び、万世のため平和の道を開きたい。自分一身のことや皇室のことなど心配しなくてよい。」
  8. ^ この時は両総長の花押はなかったが、「陛下ご自身のお召しである」として花押なしの御前会議となった。これはその日の朝8:40に鈴木が天皇としめし合わせた方法だった[4]
  9. ^ 下村宏『終戦秘史』[4]によれば、次のような有名な言葉が続く。「外に別段意見の発言がなければ私の考えを述べる。反対論の意見はそれぞれよく聞いたが、私の考えはこの前申したことに変わりはない。私は世界の現状と国内の事情とを十分検討した結果、これ以上戦争を継けることは無理だと考える。国体問題についていろいろ疑義があるとのことであるが、私はこの回答文の文意を通じて、先方は相当好意を持っているものと解釈する。先方の態度に一抹の不安があるというのも一応はもっともだが、私はそう疑いたくない。要は我が国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の申し入れを受諾してよろしいと考える。どうか皆もそう考えて貰いたい。(後略)」
  10. ^ 阿南が去った後「阿南君は暇乞いに来たのだね。」と鈴木は迫水に言った。阿南は陸軍内の暴発を抑えるために、8月14日まで継戦発言を続けざるをえなかったのだと迫水は考えた[3]
  11. ^ 長男で秘書の鈴木一『父と私』[2]から: 終戦の前夜八月十四日の夜のことであったと思う。終戦の詔勅のご裁可をいただいて、万事決定して家に帰り着いた時、父は私を呼んで「今日は陛下から二度までも『よくやってくれたね』『よくやってくれたね』との言葉をいただいた」としばし面を伏せて感涙にむせびながら話してくれた。

出典[編集]

  1. ^ 鈴木貫太郎述 終戦の表情 月刊労働文化別冊 1946
  2. ^ a b c
    鈴木一編 鈴木貫太郎自伝 時事通信社 1968 (pp.273-316が『終戦の表情』、pp.317-336が鈴木一『父と私』)
  3. ^ a b c d
    迫水久常 機関銃下の首相官邸 恒文社 1964
  4. ^ a b c 下村海南 終戦秘史 講談社 1950