近衛前久 – Wikipedia

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近衞 前久(このえ さきひさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての公卿。太政大臣・近衛稙家の子。官位は従一位・関白、左大臣、太政大臣、准三宮。近衛家17代当主。

前歴[編集]

天文5年(1536年)、近衞稙家の長男として京都に生まれる。母は久我通言の養女(細川高基の娘)・慶子。

天文9年(1540年)、元服し、叔母・慶寿院の夫でもある室町幕府12代将軍・足利義晴から偏諱を受け、晴嗣(はるつぐ)を名乗る。

天文10年(1541年)、従三位に叙せられ公卿に列する。

天文16年(1547年)に内大臣、天文22年(1553年)に右大臣、天文23年(1554年)に関白左大臣となる。また、藤氏長者に就任した。

天文24年(1555年)1月13日、従一位に昇叙し、足利将軍家からの偏諱(「晴」の字)を捨てて、名を前嗣(さきつぐ)と改めた。この当時、将軍・足利義輝は三好長慶との対立により、京から朽木に動座しており、改名したのは義輝との関係を断とうとしたからとされる。

上杉謙信との盟約[編集]

永禄2年(1559年)、越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)が上洛した際、前嗣と景虎は互いに肝胆照らし合い、血書の起請文を交わして盟約を結んだ。

永禄3年(1560年)、前嗣は関白の職にありながら、景虎を頼り、越後に下向した。

永禄4年(1561年)初夏、前嗣は景虎の関東平定を助けるために上野・下総に赴き足利藤氏を支援するなど、公家らしからぬ行動力をみせた。景虎が越後に帰国した際も危険を覚悟の上で古河城に残り、情勢を逐一越後に伝えるなど、大胆かつ豪胆な人物でもあった。その後、謙信は信濃へ出兵し、武田信玄といわゆる第四次川中島の戦いを演じることになる。謙信の活躍はただちに古河城の前嗣にも伝えられ、前嗣は謙信に宛てて戦勝を賀す書状を送っている(『歴代古案』)。この頃、名を前嗣から前久(さきひさ)に改め、花押を公家様式から武家様式のものに変えた。古河入城にあたった前久の決意めいた気概が窺える。

しかし、武田・北条の二面作戦から謙信の関東平定が立ち行かなくなると、次第に前久は不毛感を覚え、永禄5年(1562年)8月、失意のうちに帰洛する。この帰洛は謙信の説得を振り切ってのことで、謙信はかなり立腹したとされる(「尊経閣文庫所蔵文書」『上越史』337)。しかし、一説には謙信の関東平定後に上洛を促す計画であったともされている[注 1]

二条晴良・足利義昭との対立[編集]

永禄8年(1565年)5月、永禄の変で将軍・足利義輝を殺害した三好三人衆は将軍殺害の罪に問われる事を危惧して、揃って前久を頼った。前久は義輝の従兄弟であったが、その正室である自分の姉を保護した事を評価してこれを認め、彼らが推す足利義栄の将軍就任を決定した。

永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じ上洛を果たした。義昭は永禄の変後の前久の行動から兄の死には前久が関与しているのではと疑い、更に前関白の二条晴良も前久の罪を追及した。吟味の結果、義昭はついに前久を朝廷から追放した[注 2]

関白の解任[編集]

前久は、都から丹波国の赤井直正を頼って黒井城の下館に流寓。その後、本願寺11世・顕如を頼って摂津国の石山本願寺に移り関白を解任された。この時、顕如の長男・教如を自分の猶子としている。後に「信長包囲網」の動きが出てくると、前久も三好三人衆の依頼を受けてこれに参加して顕如に決起を促したと言われている。だが、前久自身は信長に敵意は無く、将軍・足利義昭と関白・二条晴良の排除が目的であった。

そのため、天正元年(1573年)に義昭が信長によって京都を追放され、一方の晴良も信長から疎んじられるようになると、前久は再び赤井直正のもとに移って「信長包囲網」から離脱した。

天正3年(1575年)2月、信長の奏上により、帰洛を許された。

織田信長との親交[編集]

以後は信長との親交を深め、特に鷹狩りという共通の趣味を有していた事から、前久と信長はしばしば互いの成果を自慢しあったと言われている[注 3]

天正3年9月、毛利輝元への包囲網構築を画策する信長に要請される形で、九州に下向し、大友氏・伊東氏・相良氏・島津氏の和議を図った。

天正5年(1577年)2月、京都に戻り、翌天正6年(1578年)には准三宮の待遇を受ける。

天正8年(1580年)、次いで信長と本願寺の調停に乗り出し、顕如は石山本願寺を退去した。特に10年近くかかっても攻め落とせなかった石山本願寺を開城させた事に対する信長の評価は高く、前久が息子・信基にあてた手紙によれば、信長から「天下平定の暁には近衞家に一国を献上する」約束を得たという。

天正10年(1582年)2月、太政大臣となるが、5月には辞任している。これは信長の三職推任問題に関連して前久が信長に同職を譲る意向であったからだとも言われている。3月の甲州征伐には信長と同行する。

本能寺の変[編集]

だが、6月2日の本能寺の変によって、信長が横死したため、前久の運命も変転を余儀なくされる。失意の前久は落飾し、竜山(龍山)と号する。しかし、「本能寺を攻撃した明智光秀軍が前久邸[注 4]から本能寺を銃撃した[注 5]」と讒言に遭い、織田信孝や後に猶子となる羽柴秀吉からも詰問される。そのため、以後は徳川家康を頼り(徳川氏の創姓は前久と吉田兼右が関わっていた)、遠江国浜松に下向した。

一年後、家康の斡旋により秀吉の誤解は解け京都に戻るが、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで両者が激突したため、またもや立場が危うくなった前久は奈良に身を寄せ、両者の間に和議が成立したことを見届けてから帰洛した。

隠棲後[編集]

天正15年(1587年)以降、足利将軍家ゆかりの慈照寺東求堂を別荘として隠棲した。貞享3年(1686年)刊行の『雍州府志』によると、前久が隠棲していた時代の慈照寺は「時に此の寺、住職無し」の状態だったという。

慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦時には、東軍に与した水谷勝俊の嫡男勝隆を匿う一方で、西軍の島津氏と音信する等中立を保ちつつ、関ヶ原合戦の詳細な情報を息子の信尹に伝えるなど、かつての活躍を伺わせる行動をしている。

慶長17年(1612年)5月8日、薨去。享年77。京都東福寺に葬られた。法名は東求院龍山空誉

人物・評価[編集]

前久は五摂家筆頭という名門貴族の生まれにありながら、その半生を流浪に費やした。また、当代屈指の文化人でもあり、中央の文化の地方波及にも貢献している[7]

前久は藤原氏嫡流の五摂家らしく、和歌・連歌に優れた才能を発揮した。書道は、青蓮院流を学び、有職故実にも詳しかった。更に馬術や鷹狩りなどにも抜群の力量を示して「龍山公鷹百首」という鷹狩りの専門的な解説書を兼ねた歌集も執筆し、秀吉と家康に写本を与えている。古筆の蒐集でもしられ、前久が所持した久我通親筆と謂われる千載和歌集はその分割に際して、古筆家により龍山切と命名された。

歌道については、信長の七回忌(天正十六年六月二日)に詠んだ追悼歌の六首が残っている。六首全てで五七五七七の書き出しの一字がそれぞれ「なむあみだぶ」で揃えられている[8]

なけきても 名残つきせぬ なみた哉 猶したはるゝ なきかおもかけ
むつましき むかしの人や むかふらむ むなしき空の むらさきの雲
あたし世の あはれおもへは 明くれに あめかなみたか あまるころもて
みても猶 みまくほしきは みのこして みねにかくるゝ みしかよの月
たつねても たまのありかは 玉ゆらも たもとの露に たれかやとさむ
ふくるよの ふしとあれつゝ ふく風に ふたゝひみえぬ ふるあとの夢

京都を離れ、地方を流浪遍歴することを余儀なくされたが、前久にとっては、単に経済的困窮や戦乱を逃れるためのものではなく、むしろ政治への積極参加のための手段の一つであった。同時に地方に中央の文化を伝播する上で、重要な役割を果たしたと評価されている。

以下表中、日付は旧暦、西暦年は和暦年を日付にかかわらず単純にユリウス暦に置換したものである。

略系図[編集]

凡例 – 実線は実子、縦点線は養子、横点線は婚姻。

前久を題材とする作品[編集]

テレビドラマ[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 湯川敏治は、近衛尚通の妹・慶寿院が将軍・足利義晴に嫁いで所生の義輝が将軍になったことで、近衛家を介して朝廷と室町幕府の関係が強化されたことを指摘し、前久の下向の背景には、近衛家先代稙家・正親町天皇・将軍義輝・慶寿院らによって進められていた朝廷(室町幕府)再興計画の一環として謙信の上洛を促すために派遣されたとする説を採る[3]。ただし、近衛家と関東地方に関しては尚通の姉である通称「北の藤」と呼ばれた女性が北条氏綱の後妻になっていたことも考慮する必要がある。しかし、「北の藤」は天文年間末頃には亡くなっていたと推定されるため[4]、近衛家と後北条氏の関係が前久の行動を抑制することはなかったとみられる。
  2. ^ 谷口研吾は叔父である久我晴通(近衛稙家の実弟)が前久の追い落としに関与した可能性を指摘しているが、金子拓は晴通が細川藤孝・一色藤長らと連絡を取り合い、義昭の京都追放後も公家で唯一義昭に同行したことを指摘するものの、前久とも関係があったことを指摘して結論を保留している[6]
  3. ^ 天正6年(1578年)6月には2人で少数の供だけを連れて鷹狩りに出て満喫した信長が、その場で当時の公家領としては破格の1,500石の加増の命令書を書いて前久に渡したという。
  4. ^ この前久邸は元は天正7年(1579年)に羽柴秀吉が自邸として建設したものの、信長に没収されて代わりに前久に贈られた物であり、二条御所周辺で唯一の武家造の建物であったという。
  5. ^ この事から本能寺の変の黒幕を前久だとする説があるが、本能寺の変直前には信長を後任に推挙して太政大臣を辞任し、かつ変前日にも信長と歓談していた程の親密な関係であった前久にとって、信長の死は痛恨の窮み以外の何物でもなかった。これは、本能寺の変直後に出家している事や、既に徳川氏の天下になっていた慶長13年(1608年)の信長の命日に追悼句会を開いている事からも明白である。

出典[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]