長福寺 (名古屋市中区) – Wikipedia

Camera-photo Upload.svg 画像提供依頼:戦前の本堂や三重塔がある七堂伽藍及び木造持国天・毘沙門天像などの像の画像提供をお願いします。2018年2月

かつての七寺(『尾張名所図会. 前編 巻1 愛智郡』より「七ツ寺」)

長福寺(ちょうふくじ)は、愛知県名古屋市中区大須にある真言宗智山派の準別格本山の寺院。山号は稲園山(とうえんざん)。本尊は観音菩薩・勢至菩薩。七寺(ななつでら)とも称される。

創建[編集]

寺伝によれば、天平7年(735年)、行基によって尾張国海東郡萱津(現・愛知県あま市)に開かれたのに始まる。当時の寺名は正覚院と称した。

延暦6年(787年)12月、紀是広が7歳で亡くなった我が子を弔う為に7区の仏閣と12の僧坊からなる七堂伽藍を建立したことから、以後、これに因んで七寺と呼ばれるようになった。七堂伽藍は仁和3年(887年)の水害や天慶4年(941年)の兵火により荒廃したが、仁安2年(1167年)、勝幡城城主・尾張権守大中臣安長が娘の菩提を弔うため、婿であった豊後守親実と共に計らって寺を現在の稲沢市七ツ寺町に移し、七堂伽藍と12僧坊を再建した。

安長は安元元年(1175年)から治承2年(1178年)に掛けて一切経を書写させると共に、阿弥陀如来像と観音菩薩・勢至菩薩像を奉納し、寺の名を稲園山長福寺と改めたが、安長が建立した寺塔のほとんどは建武の乱の戦火で焼失してしまった。

天正19年(1591年)、豊臣秀吉の命を受けた清洲の豪族・鬼頭孫左衛門吉久が清洲に寺を移して本堂を再建し、大塚村性海寺の住僧であった良圓を迎えて中興開山とし、復興を行った。

慶長16年(1611年)秋、徳川家康の清洲越しの命によって現在地に移転されるに当たって本堂が清洲から移築され、かつて失われた諸堂も再建された。元禄13年(1700年)には尾張藩第2代藩主徳川光友により三重塔が再建され、享保15年(1730年)より尾張徳川家の祈願所となった。

境内には芝居小屋や茶店が建ち並び、他、多くの露店・出店なども建ち並び、縁日なども行われて多くの人達で賑わっていたという。当時の大須界隈にあっては大須観音や名古屋御坊(西本願寺)[1]を凌ぐ寺勢を誇ったともいう。

近代[編集]

1879年(明治12年)、総本山智積院の末寺となった。1892年(明治34年)10月15日に七堂伽藍の境内に愛知教育博物館が開館された。しかし1910年(明治43年)に愛知教育博物館は取り壊され、愛知県商品陳列館が開設(愛知県商品陳列館は(1934年(昭和9年)に取り壊し)。1911年(明治44年)には準別格本山に昇格したが、太平洋戦争中の1945年(昭和20年)3月19日の名古屋大空襲で本堂、三重塔など経蔵以外の七堂伽藍全てが焼失した。

戦後には大須観音などと共に大須の住民や関係者などから七寺再建の期待が上がったが、資金難など様々な理由で七堂伽藍の再建は難しく、境内のほとんどは戦後復興に伴う再開発で大須の町の一部となった。現在では三重塔や芝居小屋などがあった場所は駐車場やビル、飲食店が建ち並び、街中にある小さな寺の様相となっている。

重要文化財[編集]

年中行事[編集]

  • 1月1日 – 新春元朝護摩祈祷会
  • 旧2月初午 – 初午大祭大般若祈祷会
  • 春分の日 – 春季彼岸法要
  • 8月19日 – 盂蘭盆施餓鬼会
  • 秋分の日 – 秋季彼岸法要
  • 11月酉の日 – 大須酉の市
  • 毎月18日 – 観世音菩薩御縁日

参考文献[編集]

  • 『戦災等による焼失文化財(増訂版)建造物編』文化庁、便利堂、1983年(日本語)。
  • 『戦災等による焼失文化財(増訂版)美術工芸品編』文化庁、便利堂、1983年(日本語)。
  • 『尾張名所図会』 第一巻 七ツ寺、1844年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]