Month: October 2017

戸隠流 – Wikipedia

戸隠流(とがくしりゅう、とがくれりゅう)は、忍術の流派のひとつ。伝説上の始祖は異勾という亡命中国人、歴史上の始祖は平安時代末期、戸隠山で修験道を学び、木曾義仲に仕えた仁科大助(戸隠大助)であるとされるが文献による裏付けはない。木曾義仲が源義経に討たれた後は伊賀に逃れ、伊賀流忍術をも取り入れて完成させたとされる。 先代の宗家は初見良昭で、初見は戸隠流以外にも八流派を兼ねた九流派の流儀を持つ総合武道を名乗り、自身が運営する武神館のうちの一流派と位置づけている。2019年12月5日、1988年にテレビ朝日で放送された『世界忍者戦ジライヤ』での指導の縁で初見に弟子入りした俳優の筒井巧が三十五代宗家に指名された[1]。 現存する忍術の流派の一つであり、1980年代ではショー・コスギのニンジャ・アクション映画、近年では『NARUTO -ナルト-』の影響などから、日本よりも欧米での弟子のほうが多い。1986年頃には日本に20の支部道場と100名の師範を持ち、門下生は10万人、世界中には約50の道場が存在するとした[2]。 また、アメリカの総合格闘技大会UFC初期には、戸隠流の弟子を名乗る現役警官(スティーブ・ジェナム)が参戦していたが、彼は武神館系列の門下生には当らず、傍流程度に当るかも不明である。 訓練分野[編集] 忍者八門[編集] 初見良昭はこれを流派無関係にある必修科目のこととしている。 十八門[編集] 武芸十八般にならったもので、「忍者」に必要とされる18種類の武技。 精神的教養 骨法体術 剣法 棒術 手裏剣 鎖鎌 槍 薙刀 馬術 水練

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トゥデラのベンヤミン – Wikipedia

トゥデラのベンヤミン(ヘブライ語: בִּנְיָמִין מִטּוּדֶלָה‎, 発音 [binjaˈmin mituˈdela]; アラビア語: بنيامين التطيلي‎, スペイン語: Benjamín de Tudela, 英語: Benjamin of Tudela、1130年頃 – 1173年)は、ユダヤ人のラビ。イベリア半島北部のナバラ王国トゥデラに生まれ、1165年から1173年に地中海周辺地域、西アジア、アフリカ北部を訪れ、カスティーリャ王国で没した。 ベンヤミンはマルコ・ポーロに約100年間先行して地中海沿岸諸国を旅行し、12世紀の中近東史やユダヤ史についての貴重な資料を残した。12世紀のヨーロッパはイスラーム教世界とキリスト教世界が複雑に絡み合っており、ベンヤミンの旅行記はユダヤ人のディアスポラ(英語版)を知るための優れた書物である。ベンヤミンはユダヤ法と歴史学に長けており、ヘブライ語、アラム語、ラテン語を扱うことができた。中世の主要なユダヤ人地理学者・歴史学者に数えられている。ベンヤミンの旅行記はユダヤ人コミュニティの描写が優れているだけでなく、中世の地理や民俗に関する信頼性の高い情報源でもある。ベンヤミンは中世の日常生活を正確に描写しているとされている。 11世紀から13世紀のイスラーム圏では、地中海を取り囲むようにユダヤ人が点在しており、各地のユダヤ教徒を結ぶネットワークが形成されていたという。当時はムラービト朝とムワッヒド朝がユダヤ人を迫害しており、ソロモン・イブン・ガビーロールなどユダヤ人の知識人がパレスチナ巡礼を行っていた。終末論やメシア思想がユダヤ人の間に広まり、アブラハム・イブン・ダウード(英語版)は1188年-1189年に終末が訪れると算定した。

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北見中継局 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “北見中継局” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年3月) 北見中継局(きたみちゅうけいきょく)は、北海道北見市大正の緑ヶ丘にあるテレビとFMラジオの中継局である。ここでは、2008年6月1日に開局したコミュニティFM放送「FMオホーツク」の送信所、AMラジオに関しても紹介。同じ北見市内の北見若葉中継局・常呂中継局・留辺蘂中継局、2012年度内に開局する北見仁頃中継局と北見美里中継局は各項目を参照。 北海道オホーツク総合振興局庁舎は網走市に置かれているが、最大都市は北見市である。NHK北見放送局は北見市内にあり、かつて自局制作を行っていたHBC北見放送局(局舎があったが、番組制作は旭川放送局に移管され、現在は取材・送信業務の目的としてFMオホーツクのあるビルに移転)、現在もごくわずかに自局制作を行っているSTV北見放送局(住友生命ビル内)も北見市に存在するが、親局となる送信所はいずれも網走市の天都山に置かれている。北見市内でも親局を受信できないことはないが、距離が離れているため、電波が弱まる。これを改善するために設置された。 NHK北見放送局は、アナログテレビ・FMラジオ・AMラジオについては、網走市の親局を「北見送信所」としているため、中継局名を「新北見中継局」(送信施設の名称としてはNHK新北見テレビ中継放送所)としているが、ここでは便宜上「北見中継局」として記述する。なお、地上デジタル放送の中継局については、民放に合わせ、「北見中継局」と称しているが、FMラジオ・AMラジオは「新北見中継局」のままである。 なお、2007年10月1日の地上デジタル放送の道内エリア拡大および2011年11月11日のテレビ北海道(TVh)中継局設置に際しては前述の事情を考慮し、網走親局と同時開局となった[1]が、エフエム・ノースウェーブ(NORTHWAVE)のみ中継局を設置していない。TVhはアナログでは開局しないことが確定したものの、デジタル新局として2011年11月11日に開局[2][3][4][5][6]で、既に2007年10月1日の放送開始から運用している在札民放4局共同使用の中継局施設に相乗りする。 放送送信施設[編集] 地上デジタルテレビジョン放送[編集] NHK北見放送局(デジタル・FM込み) 在札民放デジタル施設 地上アナログテレビジョン放送[編集] HBC(在札民放デジタル施設後方) チャンネル

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メトン周期 – Wikipedia

メトン周期(メトンしゅうき 英: Metonic cycle, 古希: Μετωνικός κύκλος)とは、ある日付での月相が一致する周期の1つであり、19太陽年は235朔望月にほぼ等しいという周期のことである。メトン周期は、太陰太陽暦において閏月を入れる回数(19年に7回の閏月を入れる)を求めるのに用いられた[2]。 紀元前433年にアテナイの数学者・メトンが当時行われていた太陰太陽暦の誤りを正すために提案したのでこの名がある。中国では、19年を1章と呼ぶことから章法(しょうほう)と呼ばれた(独自に発見したとも、東漸したとも言われる)。 周期の根拠[編集] 19太陽年は、約365.242192640 日×19 = 約6939.60166016 日である。一方、235朔望月は、約29.530588853 日×235 = 約6939.688380455 日であり[注釈 1]、ほぼ等しくなっている(誤差は 約 1.25 × 10−5)。12か月 ×

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ボーパルバニー – Wikipedia

『ボーパルバニー』は、江波光則による日本のライトノベル。イラストは中原が担当した。ガガガ文庫(小学館)より、2015年9月から全2巻が刊行された。 バニーガールの衣装に身を包んだ女殺し屋と彼女の暗殺にかかわる人間たちを描いたピカレスク小説である本作は、コンピュータゲーム『ウィザードリィ』を下敷きとしており、タイトルも同作に登場するモンスター「ボーパルバニー(英語版)」に由来するものである。 登場人物が自分たちの過去を交えながらストーリーを語るスタイルをとっており[1]、語り手は章ごとに異なる。 あらすじ[編集] #1[編集] ある日、リーダー格の青年・怜を頂点に裏社会で生計を立てる男女6人組が地下銀行から中国へ移送されている現金3億円の横取りに成功した。その後、6人組の1人である来霧がバニーガール姿の女に首を斬られて殺され、助けを聞いて駆けつけてきた玻瑠人もバニーガールによって気絶させられた。その日から、彼らは1人ずつバニーガールに立ち向かって殺されていった。 #2[編集] なんとか生き残った怜は大金の扱いに困り、灰人を名乗りある反政府ゲリラに非合法ダイヤモンドとの交換を持ちかけた。ゲリラが壊滅したため、取引は成立しなかったものの、ゲリラが雇っていた傭兵軍団「ナイト・オブ・ダイヤモンド」がその取引に応じた。その時から「ナイト・オブ・ダイヤモンド」は何者かの依頼を受けた件のバニーガールによって戦力をそがれつつも、諜報兵プリーストの活躍もあり取引の準備を進めることができた。灰人もまた、知り合いの老人・南斗から美舟という女剣客を預かり、取引の準備を進めていた。そして、バニーガールを差し向けるよう持ち主である呂商会に依頼したグレイ・T・デイモンもまた、取引の対象品を横取りするための計画を進めていた。 登場人物[編集] 呂小丑(ル・シャオチョウ) 年齢不詳。本作のタイトルキャラクターである、バニーガール姿の女殺し屋。 #1からの登場人物[編集] 道場 怜(みちば れい) / 灰人(はいと) 6人組のリーダー格である冷静な青年。21歳。警察官の父親がいる。#1で左腕と仲間を失うもなんとか生き残り、#2では38歳になり、戸籍上は死んだことにしてもらいつつも、「灰人」という偽名で10年間をすごしていた。#2の時点では、左腕に仕掛け付きの義手「籠手」をはめている。 龍童(りゅうどう) 怜の幼馴染。21歳。格闘を極めたものの、効率を求めるあまり平気で反則するなどスポーツマンとしての精神が育たなかったため、喧嘩に明け暮れている。

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第87回都市対抗野球大会 – Wikipedia

第87回都市対抗野球大会(だい87かいとしたいこうやきゅうたいかい)は、2016年7月15日から26日まで東京ドームで開催された都市対抗野球大会である。 予選が開始直後に三菱自動車工業の不祥事が発覚し、三菱自動車岡崎と三菱自動車倉敷オーシャンズの2チームが予選出場を辞退した[1]。 予選では、有力チームがおおむね順当に勝ち上がったが、前年まで12年連続で出場していたHonda(狭山市)は予選で敗退した。また、門真市・パナソニックは、日本生命(大阪市)以来史上2チーム目となる50回目(前身の「松下電器野球部」時代も含む)の本戦出場を勝ち取った。東北地区では、活動66年目の山形市・きらやか銀行が第1代表を獲得し、初の本戦出場を決めた。山形県勢の本選出場は1950年大会の山形ハッピーミシン以来66年ぶり[2][3]。 本戦では、全31試合中15試合が2点差以内で決着し、6試合が延長戦にもつれ込む接戦が続いた。前回大会を制した日本生命が開幕戦で敗れ、パナソニックはきらやか銀行にタイブレークで敗れるなど古豪が序盤で姿を消す中で、投打のバランスの取れたチームが上位に進出した。決勝はいずれも初優勝を目指す豊田市・トヨタ自動車と日立市・日立製作所が対戦し、7年ぶりに決勝進出したトヨタ自動車がこれを4-0で制し初優勝を遂げた。 出場チーム[編集] トーナメント[編集]   1回戦 2回戦 準々決勝 準決勝 決勝                

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ダンマ氷河 – Wikipedia

ダンマ氷河(ダンマひょうが、ドイツ語:Dammagletscher)とは、ユーラシア大陸の西部のアルプス山脈に存在する、氷河の1つである。 この氷河は、スイスのウーリ州とヴァリス州とにまたがっているダンマシュトックの東側、つまりウーリ州側の斜面に存在している。1973年時点でのダンマ氷河は、約2.35kmの長さがあり、約5.09km2の範囲を覆っていた[1]。 ダンマ氷河の起点は、ダンマシュトック東側の山腹の絶壁の下、標高約3300m の地点にある。氷河は東に向かって広く雪原のように延び、その勾配は一部で 1/2.5 を越える。南にはグレッチホルン(標高3305m)とヴィンターシュトック(標高3203m)が隣接する。幅の狭い氷舌は谷をさらに下り、標高2060m で終端に達する。ここからはダンマロイス川が流れ出してゲシェネラルプ湖へと注ぎ、その水はまたゲシェナー・ロイス川として流れ、ゲシェネンでロイス川に合流する。ダンマ氷河の北には、ヴィンターベルク東側斜面上に1km2 ほどの規模で広がる別の雪原ロートフィルンが隣接する[2]。 ダンマ氷河は、世界的にさまざまな手法で研究されている氷河のひとつである。その規模は1921年から記録されている。チューリッヒ工科大学と、その他のスイス、ドイツ、イギリスやアメリカなどの大学との共同研究では、温度・湿度・降水量・周辺大気の窒素含有量、そして末端後退ごとの計測を継続的に行ってきた。1850年代における小氷期の終わり、ほぼすべてのアルプス氷河が過去3世紀中で最大規模に達した。ダンマ氷河は現在ゲシェネラルプ湖がある谷にまで届いていた。1850年代以降のダンマ氷河は、短い「幕間の伸長」による中断を挟みつつ、後退を繰り返している[3]。 ダンマ氷河の下にあるモースシュトック上の標高2439m地点には、スイス山岳会 (SAC) の山小屋「ダンマヒュッテ」が建っており、冬季における登山や登攀の出発点として用いられている。 ダンマ氷河とゲシェネラルプ湖 旗竿を立てたダンマヒュッテ(尾根に懸かる氷河の右にある) ベルクゼーヒュッテより南西を望む 画像の左下の端に、形成域から切り離されて岩屑の山に覆われた氷舌(デッドアイス)が見える。 ^ a b c

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臨安府 (雲南省) – Wikipedia

臨安府(りんあんふ)は、中国にかつて存在した府。明代から民国初年にかけて、現在の雲南省玉渓市と紅河ハニ族イ族自治州一帯に設置された。 1256年(憲宗6年)、モンゴル帝国により休臘に万戸が置かれた。1271年(至元8年)、元により休臘に臨安路が置かれた。臨安路は雲南等処行中書省に属し、河西・蒙自の2県と舎資千戸と建水州・石坪州と寧州に属する通海・嶍峨の2県、合わせて3州4県1千戸を管轄した[1]。 1382年(洪武15年)、明により臨安路は臨安府と改められた。臨安府は雲南省に属し、直属の河西・通海・嶍峨・新平・蒙自の5県と建水州・石屏州・阿迷州・寧州・新化州・寧遠州の6州と納楼茶甸長官司・教化三部長官司・王弄山長官司・虧容甸長官司・渓処甸長官司・思佗甸長官司・落恐甸長官司・左能寨長官司・安南長官司の9長官司、合わせて6州5県9長官司を管轄した[2]。 清のとき、臨安府は雲南省に属し、河西・通海・嶍峨・蒙自・建水・石屏州・阿迷州・寧州の3州5県を管轄した[3]。 1913年、中華民国により臨安府は廃止された。 ^ 『元史』地理志四 ^ 『明史』地理志七 ^ 『清史稿』地理志二十一 表 話 編 歴 明朝の行政区分   直隷 北直隷(北平布政司) 順天府

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フセイン・モハンマド・エルシャド – Wikipedia

フセイン・モハンマド・エルシャド(ベンガル語: হুসেইন মুহাম্মদ এরশাদ; 、1930年2月1日 – 2019年7月14日)は、バングラデシュの軍人、政治家。1983年から1990年まで大統領を務めた。 エルシャドは1930年2月1日、英領インドのクーチ・ビハール王国(現在のクーチ・ビハール県のディンハタに生まれた。 1948年にディンハタから東ベンガルに移住した後、ランプールのカーマイケル大学で学んだ。彼は後の1950年、ダッカ大学を卒業した。 エルシャドは1952年にコハトの将校訓練学校からパキスタン軍に就役した。最終階級は中将。 1982年のクーデター後、エルシャドは議会を解散し、戒厳令を宣言し、CMLAの地位に就き、憲法を一時停止し、政治活動を禁止した。エルシャドは、バングラデシュの穏健で非同盟の外交政策を再確認した。 1983年12月、エルシャドは大統領に就任した。その後の数か月間、彼は公の秩序に対する潜在的な脅威に対処しながら選挙の公式を模索した。 1986年1月1日、大規模な公開集会を開催する権利を含む完全な政治的権利が回復した。同時に、戒厳令からの移行のためのエルシャドの政治的手段として設計されたジャティヨ(人民)党(JP)が設立された。エルシャドは陸軍幕僚長を辞任し、1986年10月に大統領に選出された。(BNPとALの両方が反対候補者を立てることを拒否した。) 1987年7月、野党は政府の政策に反対して初めて団結した。同時にエルシャドは、11月に非常事態を宣言し、12月に議会を解散し、翌年3月に新しい議会選挙を開く予定とした。同年、人口と環境問題への貢献が認められ、1987年に国連の人口賞を受賞した。 主要な野党は全て参加を拒否した。エルシャドの党は300議席のうち251議席を獲得した。参加した他の3つの政党、および多数の独立した候補者が残りの議席を共有した。この議会は、イスラム教を国教にする物議を醸す修正を含む、多数の立法案を可決した。 1990年半ばにはエルシャドの独裁に対する反対運動が巻き起こった。同年11月以降、ゼネストやキャンパス抗議の増加、公の集会などといった民衆蜂起(英語版)が激化し、1990年12月6日に辞任した。その後エルシャドは汚職で有罪判決を受け、懲役刑に服した。 2019年6月26日、体調が突然悪化し、6月29日にダッカの複合軍病院に入院した。2019年7月14日に同病院で死去。89歳没。 国葬は死去から2日後に行われた。

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