Month: January 2018

拡張ヒュッケル法 – Wikipedia

拡張ヒュッケル法(かくちょうヒュッケルほう、英: extended Hückel method)は、1963年からロアルド・ホフマンによって開発されている半経験的量子化学手法の一種である[1]。ヒュッケル法に基づいているが、元々のヒュッケル法がπ軌道のみを考慮するのに対して、拡張ヒュッケル法はσ軌道も含める。 拡張ヒュッケル法は分子軌道を決定するために用いることができるが、有機分子の構造上の幾何学的形状を決定するためにはあまり成功していない。しかしながら、異なる幾何配置の相対的エネルギーを決定することができる。拡張ヒュッケル法は単純な方法で電子相関を計算に含める。電子-電子反発はあらわに含まれず、全エネルギーは単に分子中のそれぞれの電子に対する項の和である。ハミルトニアン行列の非対角要素は、ウォルフスバーグとヘルムホルツによる近似によって与えられる。この近似は非対角要素を対角要素と重なり行列要素と関連付ける。 Hij=KSijHii+Hjj2{displaystyle H_{ij}=KS_{ij}{dfrac {H_{ii}+H_{jj}}{2}}} Kはウォルフスバーグ=ヘルムホルツ定数であり、通常は1.75である。拡張ヒュッケル法では、価電子のみが考慮される。内核電子のエネルギーおよび関数は同種の原子間で多かれ少なかれ一定であるとされる。拡張ヒュッケル法は、フォック行列の対角要素を埋めるために、原子のイオン化ポテンシャル化から計算される一連のパラメータ化されたエネルギー、あるいは理論的手法を用いる。非対角要素を埋めて得られたフォック行列を対角化すると、原子価軌道のエネルギー(固有値)および波動関数(固有ベクトル)が得られる。 CNDO/2法やab initio量子化学手法といったより洗練された手法によって分子軌道を決定する多くの理論研究では、予備的段階として、拡張ヒュッケル分子軌道を用いることが一般的である。拡張ヒュッケル法の基底関数系は固定されているため、得られた一電子波動関数を正確な計算を行う基底関数系に射影しなければならない。大抵は最小二乗法によって新しい基底関数系の軌道を古い軌道に対して調節することで達成される この手法では価電子の波動関数のみ考慮するため、内核電子関数を埋めるためには、残りの基底関数系を計算した軌道を用いて正規直交化し、次にエネルギーが低い軌道を選択しなければならない。これによって、より正確な構造および電子の性質の決定ができる。Ab initio法の場合は、収束が幾分速くなる。 拡張ヒュッケル法はロアルド・ホフマンによって使われた。ホフマンはロバート・バーンズ・ウッドワードと共に反応機構を説明する規則(ウッドワード・ホフマン則)を開発している。ホフマンは、これらのペリ環状反応における軌道相互作用を分析するために、拡張ヒュッケル理論から得られた分子軌道の描写を用いた。 水素化ホウ素の研究のために非常によく似た手法がホフマンとウィリアム・リプスコムによってこれ以前に用いられていた[2][3][4]。ハミルトニアン行列の非対角要素は重なり積分に比例するように与えられる。 Hij=KSij{displaystyle H_{ij}=KS_{ij}} ウォルフスバーグとヘルムホルツの近似に対するこの単純化は、水素化ホウ素に対しては妥当である。これは、ホウ素と水素の間の電気陰性度の差が小さいため、対角要素がかなり似るためである。 この手法は電気陰性度が大きく異なる原子を含む分子に対してはうまく機能しない。この弱点を克服するため、複数のグループが原子の電荷に依存した反復スキームを提案している。フェンスキー=ホール法はこのような手法の一つであり、無機化学および有機金属化学において今でも広く使用されている[5][6][7]。 関連項目[編集]

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伊甚屯倉 – Wikipedia

伊甚屯倉(いじみのみやけ)は、後の上総国夷灊郡(現在の千葉県夷隅郡・いすみ市・勝浦市)を中心とする地域にあった屯倉。 『日本書紀』安閑天皇元年(534年)4月1日条によれば、内膳卿の膳臣大麻呂は勅命を受けて使者を遣し伊甚に珠を求めた。伊甚国造らは京に着くのが遅れ期限を過ぎても珠を納めなかった。怒った膳臣大麻呂は国造らを捕らえて尋問した。国造の稚子直らは恐れて後宮の寝所に逃げ込んだ。春日皇后はこれに驚き倒れてしまわれた。みだりに後宮に入った闌入罪も加わり罪科は重大であった。その贖罪のために春日皇后に伊甚屯倉を献上した。これが分かれて上総国の郡(こおり)となったという[1]。 後の、『日本三代実録』貞観9年(867年)4月20日条に、節婦として表彰された上総国夷灊郡の春日部直黒主売の名がみえる。このことから、夷灊郡に春日皇后にかかわる春日部という名代が設置されていたと推測でき、春日皇后のため伊甚屯倉が設けられたのは史実と考えられている。 また、『日本書紀』に「分かれて郡なった」とあるので、その領域は夷隅郡のみならず、埴生郡や長柄郡にもおよぶ広大な屯倉であったと推測されている[2]。 同年閏12月には三嶋県主の飯粒(いいぼ)が大伴金村の諮問に答えて竹村(たかふ)の地40町を献上したが、大河内味張(おおしこうち の あじはり)は同年7月に良田の貢進を渋ったため、三嶋竹村屯倉に田部を出すことになった[3]。また、同月、廬城部枳莒喩(いおきべ の きこゆ)が娘の窃盗の罪を購うため、安芸国の廬城部屯倉を寄進しており、武蔵国造家の争乱があったのもこの月である[4]。 これらの出来事は安閑天皇時代に屯倉の設置が推進され、その設置された国を統轄する官人として地域の豪族が国造に任命されていったことと深いつながりがあり、継体天皇以降の大和政権の経済的基盤の拡充と政治権力の強化とを促していった[5]。 ^ 『日本書紀』 巻第十八、安閑天皇元年4月1日条 ^ 『日本古代史地名事典』 239ページ ^ 『日本書紀』 巻第十八、安閑天皇元年12月4日条 ^

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ディ・クルップス – Wikipedia

この項目では、ドイツのインダストリアルロックバンドについて説明しています。バンドの名前の由来になった重工業企業については「クルップ」をご覧ください。 Die Krupps (ドイツ語発音: [diː ˈkʁʊps]) (“The Krupps”)はドイツのインダストリアル・メタル/EBMバンドで、1980年にデュッセルドルフでユルゲン・エングラーとベルンワード・マラカによって結成された。 [1] バンドは、パーカッシブなインダストリアル・サウンドの「Stahlwerksynfonie」(1981年)から、よりシンセ・ポップなスタイルのVole Kraft voraus!(1982年)やEntering the Arena(1985年)を発表し、後者には初の英語曲が収録されている。その後、インダストリアル・メタル・バンドとしての地位を確立し、1992年から1997年にかけて「1」から「4」までの4枚のアルバムをリリースしたが、1997年以降も追加のアルバムをリリースしており、その中には主にエレクトロ・インダストリアルな作品も含まれている。2005年の再結成以降ではAls wären wir für immer (2010年)やThe Machinists of

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有楽町ビルヂング – Wikipedia

有楽町ビルヂング(ゆうらくちょうビルヂング)は、東京都千代田区有楽町一丁目にある建築物である。 本ビルが立地する山手線・京浜東北線有楽町駅西口には、1946年暮れに開館したスバル座とオリオン座の二つの映画館があった。スバル座は1953年9月6日に火災により焼失。オリオン座はその後も上映を続けたが、1956年9月末で閉館した。毎日新聞社は北側にあった東京本社社屋の拡張用地として両映画館跡地を取得したが、三菱地所はこの土地を1964年5月に買収。同年7月に「有楽町国際ビル」の仮称で新ビルを着工した。当初は、従来の建築基準法に基づき地上9階建てで設計されたが、南側と北側の道路幅員が狭いために斜線制限を受け、建物上部をセットバックする必要が生じたことから、改正建築基準法の容積率制度を取り入れ、地上11階建とした。ビル名称は1965年9月に「新有楽町ビルヂング」とされたが、1966年1月に「有楽町ビルヂング」と再度変更され、これが正式名称となった。 1966年5月に竣工したが、前年の証券不況や、1963年に建築基準法が改正されたことからビルの「駆け込み着工」が相次ぎ、賃貸オフィスは供給過剰となっていた。このため竣工時にはオフィスフロアが1/3ほどしか入居せず、低層階の商店に家賃の回収に行った三菱地所の営業社員が「これでは商売にならない」と店主から叱られ、なかなか回収できなかったという逸話がある。その後の勧誘によって、竣工後1年弱で入居率は7割ほどに向上した[1]。 1968年3月13日未明。本ビル2階で藤田小女姫が名目上の経営者となっていた「有楽サウナ」で、木製ベンチの下に設置された電熱炉の熱で木材が炭化し、無焔着火により出火。一酸化炭素中毒で利用者3名が死亡している[1][2]。 2021年7月28日に三菱地所より、有楽町エリアの再構築の一環として新有楽町ビルヂングと共に当ビルを建て替えることを発表した[3]。なお、三菱地所の関係者によれば、「オフィスや飲食店を中心とした複合ビル」を構想しているという[4]。また、2021年11月12日に行われた三菱地所の2022年3月期第2四半期の決算説明会において、「丸の内への今後のテナント誘致戦略」について問われた際に、この新有楽町ビルヂングとの建て替えに関し「銀座との結節点としてファッションやメディア系のテナント誘致や、様々な実証実験の場としての活用等も検討している。」と説明した[5]。 3階までの低層部は白い大理石の柱とアルミニウムの壁で縁どられ、4階以上はワインレッドのカーテンウォール構造とされた。地下1階から地上2階にかけては商店や飲食店、2階と3階は有楽町スバル座(2019年10月20日をもって閉館)、4階は医院を中心としたフロア構成で、屋上は夏にはビアガーデンが開設された[1]。 参考文献[編集] 三菱地所『丸の内百年の歩み 三菱地所社史下巻』、1993年3月6日、153-156頁。 関連項目[編集] 新有楽町ビルヂング – 本ビルの北側に、1969年6月に竣工したビル。建設中の一時期は、こちらが「有楽町ビルヂング」の仮称であった。 外部リンク[編集]

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赤れんがSummerJazz+ – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “赤れんがSummerJazz+” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年5月) 赤れんがSummerJazz+(あかれんがサマー・ジャズプラス)は、京都府舞鶴市の赤れんが倉庫群にて、プロ・アマのジャズ演奏が行われる、舞鶴の夏を飾る一大イベント。 「赤れんがの街舞鶴」を全国にアピールするため、1991年(平成3年)から始まった赤煉瓦サマー・ジャズin舞鶴が、2010年をもって終了したため、その流れを引き継いで始まる。 赤煉瓦サマー・ジャズin舞鶴が、第20回(2010年度)で一旦の区切りとして、これまでのライブイベントを中止する、と主催者発表が出た際、市内外から「せっかく定着したのに残念」との声が多く上がり、それまでスタッフとして参加していた人達で、小規模ながらも存続させていこう、と赤煉瓦サマージャズ+in舞鶴(あかれんがサマー・ジャズ プラス いん まいづる)として、2011年9月4日にライブイベントを行うことが発表される。 以来、毎年1回夏に行うというスタンスは継続しながら、内容的には地元周辺ミュージシャンを多く登用し、料金も抑えて気軽に観に来やすい形となる。また、第2回では、手作り市やウェディングフェアなど他イベントとの融合を図る。この時から、周辺イベントも含めた全体を赤れんがSummer+と呼ぶようになる。 2013年には、赤煉瓦倉庫群が赤れんがパークとして整備されたこともあり、赤れんがSummerJazz+2013という名称で8月4日に開催される。また、イベントのテーマが設定されるようになる。 2014年には、舞鶴出身で、日本のファンク系ドラマーとしてトップアーティストと共演している岸田容男が参加。SummerJazz+となってからは最大の集客数を記録する。 2018年8月5日、赤れんがSummerJazz+2018を開催。この年は赤れんがSummer+2018というコンセプトで、前日の8月4日には赤れんが蔵っとほろ酔いabout music

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区分行列 – Wikipedia

区分行列(くぶんぎょうれつ)もしくはブロック行列 (block matrix) とは、いくつかの長方形のブロックに「区分け」された行列である。 例えば、4つの行列 A=[2−15−14181−2],B=[−361341],C=[−426],D=[91]{displaystyle A={begin{bmatrix}2&-1&5-1&4&18&1&-2end{bmatrix}},quad B={begin{bmatrix}-3&61&34&1end{bmatrix}},quad C={begin{bmatrix}-4&2&6end{bmatrix}},quad D={begin{bmatrix}9&1end{bmatrix}}} を並べてできる 4 × 5 行列 [ABCD]=[2−15−36−1411381−241−42691]{displaystyle {begin{bmatrix}A&BC&Dend{bmatrix}}={begin{bmatrix}2&-1&5&&-3&6-1&4&1&&1&38&1&-2&&4&1&&&&&-4&2&6&&9&1end{bmatrix}}} を、A, B, C,

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山陽郡 – Wikipedia

この項目では、漢代に現在の山東省西部に設置された山陽郡について説明しています。東晋により現在の江蘇省に設置された山陽郡については「山陽郡 (東晋)」をご覧ください。 山陽郡(さんよう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から三国時代にかけて、現在の山東省西部に設置された。 紀元前144年(景帝中6年)、前漢の梁王劉武が死去すると、劉武の子の劉定を山陽王とし、梁国を5分割した1国である山陽国が置かれた。紀元前136年(建元5年)、山陽王劉定が死去すると、山陽国は廃止されて、山陽郡が置かれた[1]。紀元前97年(天漢4年)、劉髆が昌邑王に封じられると、山陽郡は昌邑国と改められた[2]。紀元前63年(元康3年)、昌邑王劉賀が海昏侯となると、昌邑国は廃止されて[3]、山陽郡が再び置かれた。山陽郡は兗州に属し、昌邑・南平陽・成武・湖陵・東緡・方与・橐・鉅野・単父・薄・都関・城都・黄・爰戚・郜成・中郷・平楽・鄭・瑕丘・甾郷・栗郷・曲郷・西陽の23県を管轄した。前漢末に17万2847戸、80万1282人があった[4]。王莽のとき、鉅野郡と改称された。 新末に梁王劉永が支配されると、山陽郡の称にもどされた。39年(建武15年)に後漢の光武帝の子の劉荊が山陽公となり、41年(建武17年)に山陽王に進み[5]、山陽国が立てられた。58年(永平元年)、劉荊が広陵王に移封される[6]と、山陽国は廃止されて、山陽郡となった。山陽郡は昌邑・東緡・鉅野・高平・湖陸・南平陽・方与・瑕丘・金郷・防東の10県を管轄した[7]。212年(建安17年)、献帝の子の劉懿が山陽王に封じられ、山陽郡は山陽国と改められた[8]。 220年(黄初元年)、曹魏が建てられると、山陽国は山陽郡となった。265年(泰始元年)、西晋が建国されると、山陽郡に高平国が置かれた[9]。 ^ 『史記』梁孝王世家 ^ 『漢書』武帝紀 ^ 『漢書』宣帝紀 ^ 班固『漢書』地理志第八上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、308-310頁。 ^ 『後漢書』光武十王列伝 ^ 『後漢書』顕宗紀 ^ 『後漢書』郡国志三

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ルイス・キュービット – Wikipedia

ルイス・キュービット(英語: Lewis Cubitt, 1799年9月29日 – 1883年6月9日)は、イギリスのシビルエンジニア・建築家[1]。 ブリックレイヤーズ・アームズ駅、1844年 キングス・クロス駅、1852年 彼は、19世紀第2四半期のロンドンを代表する建築棟梁のトーマス・キュービット(英語版)の弟である[2]。彼は兄によって手掛けられた多くの住宅団地の設計にたずさわった。また、彼は、ロンドン市長のウィリアム・キュービット(英語版)の弟でもある。 彼はそのキャリアの中で多くの橋を建設したが、そのほとんどが南米、オーストラリア、インドにおける物だった。ルイスは1844年に建てなおされたロンドン・ブリッジ駅の設計を共同で担当した[3]。また、彼は、ブリックレイアーズ・アームズ駅(英語版)(1844年)、キングス・クロス駅(1851-52年)、グレート・ノーザン・ホテル(1854年)なども設計している。鉄道用地に隣接する地所の再開発の一環として、現在キングス・クロス・セントラル(英語版)として知られている地域に作られたキュービット設計の穀倉が、改修の上、ロンドン芸術大学の構成大学であるセントラル・セント・マーチンズのメインキャンパス施設として利用されている。 キュービットが穀倉で用いた構造用リベットは、キュービット兄弟の名を冠したアイウェアブランド「キュービッツ(英語版)」で使用されているヒンジに影響を与えた。 1830年1月23日、彼はソフィア・ケンダル(1811年-1879年)と結婚した。 ^ Brodie, Antonia (20 December 2001). Directory of

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伊藤匠 – Wikipedia

伊藤 匠(いとう たくみ、2002年10月10日[1] – )は、日本将棋連盟の棋士[2]。棋士番号324[3]。宮田利男門下[1]。東京都世田谷区出身[1]。 得意戦法は相掛かり。 5歳のときに父に将棋を教わる。2010年の第9回全国小学生倉敷王将戦の低学年の部で準優勝した[4][5]。同学年に藤井聡太がおり[6]、2012年1月に行われた第9回小学館学年誌杯争奪全国小学生将棋大会では、伊藤と藤井が準決勝で対局し伊藤が勝利している[7](伊藤は2位、藤井は3位)[5]。同年4月、宮田利男の三軒茶屋将棋倶楽部で将棋の研鑽を積む様子がNHK教育の「カラフル!」で放送された[8]。2013年7月には父親とともにベラルーシのミンスクで開催されたヨーロッパ選手権の会場を訪れ、世界オープン将棋選手権に参加して優勝した[9][10]。このときカロリーナ・ステチェンスカとも対局して勝っている[11]。 2013年9月奨励会入会。2018年4月より三段リーグに参加。2020年9月12日に第67回三段リーグで14勝2敗となり、1位が確定したため、四段昇段を内定させた[6]。誕生日は10月10日であるため、7月19日生まれの藤井より遅く、4年ぶりに最年少棋士が交代した[2][12]。 2021年3月27日にAbemaで放送された「第4回ABEMAトーナメント」のドラフト会議では、リーダー棋士を務めた藤井聡太から指名を受けて高見泰地とともに「チーム藤井」を結成した[13]。同年9月18日の決勝まで勝ち進んだチーム藤井は、5勝3敗でチーム木村を破って優勝を果たした[14]。 プロ入り同期の古賀悠聖との決勝となった第52期新人王戦決勝三番勝負では、2021年10月11日に行われた第2局を2連勝で勝利して棋戦初優勝を飾った[15]。新人王戦の優勝者にはその時点のタイトル保持者1人との記念対局が組まれることが恒例となっており、同年11月に竜王を獲得して史上最年少四冠となった藤井聡太との記念対局が2022年1月2日に放送され、98手で藤井聡太竜王が勝利している[16]。なお、記念対局が同学年同士の棋士で行われるのは史上5例目、10代同士の棋士で行われるのは史上初であった[17]。 2021年12月3日には第63期王位戦予選3組決勝で日浦市郎に勝利し、自身初となる挑戦者決定リーグ進出を決めた[18]。この予選ではタイトル保持者である永瀬拓矢王座を下す金星を挙げている[19]。 第80期順位戦では最終戦開始前の段階では8勝1敗だが初参加で順位が悪く自力昇級ではなかったが近藤正和七段に勝利しさらに競争相手が敗れたため結果9勝1敗の好成績でC級2組の1期抜けを成功させC級1組への昇級と五段へ昇段を果たした。 2022年3月30日、第63期王位戦挑戦者決定リーグ紅組で西尾明七段に勝利し、2021年度の勝率を0.818(45勝10敗)とし、年間勝率1位となった。これにより、藤井聡太五冠[20]がデビュー以来続けていた年間勝率1位の記録を4年で途絶えさせた[21]。 プロ野球の中日ドラゴンズの熱狂的ファン[15]。 昇段履歴[編集] 昇段規定は、将棋の段級 を参照。 2013年9月 6級 –

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ブラックヘレン – Wikipedia

ブラックヘレン(Black Helen, 1932年 – 1957年)は、アメリカ合衆国の競走馬、繁殖牝馬。競走馬としては1935年のコーチングクラブアメリカンオークスに優勝したほか、牡馬に混じってアメリカンダービーなどにも優勝、後の1991年にアメリカ競馬殿堂入りを果たした。また繁殖牝馬としても母ラトロワンヌの系図を広げていった。 特記がない限り、競走はすべてダートコース。また、当時はグレード制未導入。 出自[編集] 20世紀初頭の有力オーナーブリーダーであったエドワード・ライリー・ブラッドリーの持つ、ケンタッキー州にあるアイドルアワーストック牧場で生産されたサラブレッドの牝馬である[1][2]。ブラックヘレンは母ラトロワンヌの第2仔で、のちに生まれるバイムレックの全姉にあたる馬であった。ブラックヘレンは体つきが小さく、最も大きくなった時期でも体重900ポンド、体高15ハンド程度であった[3]。また身体的な不具合から処分も検討されたほどであったが、いざウィリアム・ハーリー調教師に預けられて調教が行われると、その隠れていた才能を発揮するようになった[3]。 2歳時(1934年)[編集] ブラックヘレンは2歳となった1934年7月にシカゴ地域の競馬場でデビューした[4]。ブラックヘレンが最初に周囲の耳目を大きく集めたのは6月18日のワシントンパーク競馬場で行われたウェストプルマンパースという競走においてで、5ハロン戦のこの競走でブラックヘレンは4馬身差の勝利、その時の勝ちタイム0分59秒60はレコードタイムにあとコンマ20秒まで迫るタイムであった[5]。また7月3日にはアーリントンパーク競馬場で行われた5ハロン戦で6馬身差の勝利、さらに0分58秒40のトラックレコードを記録した。『New York Times』紙はこの勝利に「今季最高の2歳牝馬」とブラックヘレンを評している[6]。 その後喉の病気のために一時休養に入り、10月16日のローレルパーク競馬場で行われたアンアランデールパースという競走で復帰、1番人気に支持されたブラックヘレンは半マイル過ぎから先頭に立ってそのままゴール、1馬身半差で連勝記録を5に伸ばした[4][7]。 10月23日のローレルパーク競馬場で行われたエリコットパースではスタートからゴールまで先頭をひた走り、最後の直線で騎手が手綱を緩めたにもかかわらず2馬身差で勝利した。この競走でのブラックヘレンの単勝オッズは1.1倍と、このローレルパークでの秋開催での最低オッズを記録していた[4]。さらに10月30日にはピムリコ競馬場でパイクスヴィルパース(8ハロン70ヤード)に出走、今まで短距離戦ばかりであったブラックヘレンにとって初のマイル戦であったが、それでも単勝1.25倍と1番人気に支持された。そしてレースではきれいなスタートを切るとそのまま競りかけられることもなく疾走、3馬身差で勝利し、連勝を7に伸ばした[8]。 しかし、ブラックヘレンはその後の2戦、ウォルデンハンデキャップとピムリコハンデキャップで1番人気ながらも敗れ、その敗戦をもってこのシーズンを終えた[9]。ブラックヘレンはこの年大きなステークス競走には出走していなかったが、1934年の『ブラッド・ホース』誌の選考では最優秀2歳牝馬部門においてメイトロンステークスなどに勝ったネリーフラッグ(英語版)に次ぐ第2位の馬と位置づけられていた[2]。 3歳時(1935年)[編集] 1935年に迎えた3歳シーズンの始動は2月27日のハイアリアパーク競馬場で行われた一般戦で、スタートからゴールまで先を行ったまま競馬で2馬身差で勝利を収めた[10]。次走は3月9日のフロリダダービー[注 1]で、ブラックヘレンにとっては初となる牡馬相手の競走であった。この競走で先頭に立ったのはブラノンという馬で、ブラックヘレンはその後ろにつけて追走、全体のペースを上げていった。最終コーナーでブラックヘレンが先頭に立つと、今度はマンターニャという馬に競りかけられるが、最後の直線で突き放して4馬身差の勝利を手にした[11]。 当初、馬主のブラッドリーはブラックヘレンをプリークネスステークスに登録して、ケンタッキーダービー優勝馬のオマハと対決させようと考えていたが、直前になって登録は取り消された[12]。その代わりに出走した5月25日のワシントンパークで行われたドレクセルパースという競走でブラックヘレンは勝利を挙げた[13][14]。 その後、ブラックヘレンは6月1日のコーチングクラブアメリカンオークスに出走、13頭立てで行われたこの競走で、同厩舎のブラッドルート・バードフラワーとともに1番人気に支持された[注

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