Month: March 2018

あそどっぐ – Wikipedia

あそどっぐ(1978年12月29日 – )は、日本のお笑い芸人である。脊髄性筋萎縮症により、顔と左手親指を除いた部位が動かない状態である中、「お笑い芸人界で初の寝たきり障害者」を名乗って芸能活動を行っている[2]。熊本県合志市在住[2]。血液型はO型。星座は山羊座。身長150センチメートル、体重24キログラム[1]。 1978年12月29日、佐賀県みやき町に生まれる[2]。生後間もなく脊髄性筋萎縮症を発症した。福岡県立筑後養護学校赤坂分校へ進学。養護学校(現:特別支援学校)高等部1年の時に、筋ジストロフィーを患う同級生とコンビを組んでお笑い芸人を志したが、その同級生は卒業後に他界し、芸人への道を一度断念した[2]。 その後、2011年よりニコニコ生放送へお笑いネタの動画投稿を始め、2012年にはNHK Eテレの『バリバラ〜障害者情報バラエティー〜』にてテレビ初出演。日本一おもしろい障害者パフォーマーを決める「SHOW-1グランプリ」の第3回大会にて、準優勝を果たす。同番組に出演していたカンニング竹山は、「笑いの天才っぽい人が出てきたな」と評価した[3]。 この後も同グランプリに出場を続け、第4回大会では7位、第5回大会では2位。本人は「寝たきり障害者がキャラ負けした」とコメントした[4]。 2017年に入り、同年4月に本人主演ドキュメンタリー映画『寝たきり疾走ラモーンズ』を公開。同年8月には、自身初の写真集『あそどっぐの寝た集』(白順社)を発表するなど、精力的な活動を行っている。 R-1ぐらんぷり2017では、2回戦に進出している。また、福岡市で開催されているライブイベント「お笑い番長」など、地元九州各地のイベントにも出演している[2]。2020年バリバラSHOWー1グランプリ (6月25日NHKにて放送)ではついに、芸人のハウス加賀谷とコンビを組み優勝[5][6]。2020年7月11日には、極真空手、US大山空手、と並んで世界中で人気を有する、日本空手道高見空手の十級を取得。「世界初」の寝たきりで空手の有級者となった。当日は、京都から日本空手道高見空手(京都支部師範代)の大熊良樹が、熊本のあそどっぐを訪問。証書を授与しその模様がYouTubeにて放映された[7]。 2021年6月より、分身ロボットカフェDAWN Ver.βで生まれて初めてのアルバイトを始める。分身ロボット「OriHime」を遠隔操作することで熊本県の自宅から東京のカフェに出勤できることから「簡単な操作で楽しく働けるし、地方よりも時給は良い」と語ってる。 あそどっぐ(文・出演)越智貴雄(写真) 『あそどっぐの寝た集 : 越智貴雄写真集』 白順社、2017年。 ISBN 978-4-8344-0215-5。  ^ a b

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檜倉郡 – Wikipedia

檜倉郡(フェチャンぐん)は、朝鮮民主主義人民共和国平安南道に属する郡。 隣接行政区[編集] 行政区域[編集] 1邑・4労働者区・16里を管轄する。 檜倉邑(フェチャンウプ) 百霊労働者区(ペンニョンノドンジャグ) 石抗労働者区(ソカンノドンジャグ) 新作労働者区(シンジャンノドンジャグ) 火田労働者区(ファジョンノドンジャグ) 佳雲里(カウンニ) 九龍里(クリョンニ) 内洞里(ネドンニ) 大谷里(テゴンニ) 大徳里(テドンニ) 大峯里(テボンニ) 徳連里(トンニョンニ) 文語里(ムノリ) 松洞里(ソンドンニ) 崇仁里(スンインニ) 新成里(シンソンニ)

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エドワード・ルイス – Wikipedia

この項目では、遺伝学者について説明しています。プロデューサーについては「エドワード・ルイス (プロデューサー)」をご覧ください。 Edward Lewisエドワード・ルイス エドワード・ルイス(1986) 生誕 Edward Butts Lewis (1918-05-20) 1918年5月20日 アメリカ合衆国 ペンシルベニア州ウィルクスバリ 死没 2004年7月21日(2004-07-21)(86歳) アメリカ合衆国 カリフォルニア州パサデナ 国籍 アメリカ合衆国 研究分野

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ダーレクの中へ – Wikipedia

「ダーレクの中へ」(ダーレクのなかへ、原題: “Into the Dalek“)は、イギリスのSFドラマ『ドクター・フー』の第8シリーズ第2話。フィル・フォード(英語版)とスティーヴン・モファットが脚本を執筆し、ベン・ウィートリーが監督を務めた。2014年8月30日に BBC One で初放送された。 本作では異星人のタイムトラベラー12代目ドクター(演:ピーター・カパルディ)とコンパニオンのクララ・オズワルド(演:ジェナ・ルイーズ・コールマン)が、人間のレジスタンスに捕えられた損傷したラスティという名のダーレクの体に入り込み、憎悪に塗れたダーレクという生物を善良な存在へ変えようとする。 イギリスでの非公式な放送当夜の視聴者数は520万人に達し、その晩のテレビ視聴者の24.7%を記録、2番目に多くの視聴者を獲得した番組となった[1]。最終合計視聴者数は729万人に上った[2]。 ラスティの精神に流れ込んだドクターの記憶として、「ダーレク 孤独な魂」(2005年)と「旅の終わり」(2008年)の映像が流れている[3]。ドクターは、The Daleks(1963年 – 1964年)での惑星スカロでのダーレクとの初遭遇のことにも言及している[3]。 共同執筆者兼エグゼクティブ・プロデューサーのスティーヴン・モファットは、『ドクター・フー』のパソコンゲーム用のコンセプトを話し合っている際に本作のコンセプトを思いついた。 本作の台本の読み合わせは「深呼吸」と同じく2013年12月17日に行われ、撮影は2014年1月25日に開始され、「クリスマスイブの奇跡」(2011年)の撮影にも使用されたUskmouth発電所 (en) がロケ地として使用された[5]。ニューポートのセイント・アセン(英語版)やカーディフの格納庫でも撮影が行われた[5]。通常の撮影は2014年2月18日に完了した。グレッチェン(演:ローラ・ドス・サントス)とミッシー(演:ミシェル・ゴメス)の登場するラストシーンは、「深呼吸」のラストシーンと同じ2014年5月23日に撮影された[5]。ウィートリーの日程が合わなかったため、エンドクレジットには記載されていないもののラストシーンはいずれもレイチェル・タラレイが監督した。彼女はウィートリーと相談し、彼のアイディアを取り入れようとした[6]。 放送と反応[編集] 放送前の漏洩[編集] 2014年7月6日、「ダーレクの中へ」を含む第8シリーズの前半5話分の台本がBBCワールドワイドのラテンアメリカ本部から漏洩し、BBCワールドワイドは同5話分のストーリーラインを公開しないよう要請した[7][8]。エピソードには当初ダウンロードを妨げる不具合が起きていたが、2014年8月の第2週までにはダウンロードできるバージョンがオンラインに流出していた[9]。 プロモーション[編集]

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統治行為論 – Wikipedia

統治行為論(とうちこういろん)とは、「国家統治の基本に関する高度な政治性」を有する国家の行為については、法律上の争訟として裁判所による法律判断が可能であっても、高度の政治性ある事柄に関しては司法審査の対象から除外するという理論。三権分立の民主主義国家の国際法・国家間合意に関する外交問題など国家の行く末に関わるような重大な事柄に関して、国民に選ばれた訳でなく間違った判断をした際の責任も負えない裁判所よりも国民に選挙で選ばれた政府の立場尊重を基本とするために「司法自制の原則」ともいわれる[1][2][3]。統治行為論は、フランスの判例が採用した『acte de gouvernement(アクト・ド・グベルヌモン)』の理論に由来するものであり、フランスでは行政機関の行為に関して問題とされた。これに対し、アメリカでは『political question(ポリティカル・クエスチョン)』と言われ、同様に選挙で選出された立法機関(議会)の行為に対しても、立法府の司法府への優越が適用される[1]。日本では「統治行為」という名称に、フランスの影響が見られる。 徹底した法の支配の原則を採用した日本国憲法の下においては、各機関の自律権や自由裁量に属する事項の他に、法律上の争訟とされながら司法審査が及ばない領域を認めることはできないという見解(否定説)もあるが、統治行為論を認める見解(肯定説)の方が多数説である[4]。同様にイギリス・アメリカ・フランス・ドイツなど先進国には外交問題は裁判所(司法府)が政府(行政府)の立場を尊重する「司法自制の原則」という裁判所の判決が政府の立場と違う場合には政府の立場を尊重して優先される原則がある[1][2]。 高度に政治性を有する国家行為に関しては、主権者である国民の政治的判断に依拠して、政治部門において合憲性を判断すべきであるという判断を基礎にしているが、理論的な説明としては、 三権分立の原則や国民主権原理の観点から、民主的基盤が弱く政治的に中立であるべき裁判所にはその性質上扱えない問題が存在することを根拠とする見解(内在的制約説)。 法政策的観点から裁判所が違憲・違法と判断することにより生ずる政治的混乱を回避するため自制すべき問題があることを根拠とする見解(自制説)。 内在的制約説を基本として自制説の趣旨を加味し、権利保障の必要性や司法手続きの能力的限界、判決の実現可能性など諸般の事情を考慮して判断するという見解(折衷説(芦部説))。 の3説がある[5]。 日本における判例[編集] 最高裁判例[編集] 砂川事件上告審判決(最高裁昭和34年12月16日大法廷判決) 「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」の合憲性判断について、統治行為論と自由裁量論を組み合わせた変則的な理論を展開して、司法審査の対象外とした。時の最高裁判所長官・田中耕太郎が初めて用い、“日米同盟”の憲法適否が問われる問題では、以後これが定着するようになる。 苫米地事件上告審判決(最高裁昭和35年6月8日大法廷判決) 衆議院の解散の合憲性判断について、純粋な統治行為論を採用して、司法審査の対象外とした。統治行為論をほぼ純粋に認めた唯一の判例とされる。事件名は提訴した青森県選出の衆議院議員・苫米地義三にちなむ。 これ以降、議員定数不均衡訴訟などにおいて、被告の国側は統治行為論を主張するが、最高裁はそれを採用せず、裁量論で処理。 長沼ナイキ事件 第1審判決(札幌地裁昭和48年9月7日判決)では一般論として統治行為論を肯定した上で、自衛隊問題については統治行為論の適用を否定し、違憲判決を下した。第二審判決では札幌高等裁判所(裁判長・小河八十次)は1976年8月5日、「住民側の訴えの利益(洪水の危険)は、防衛施設庁の代替施設建設(ダム)によって補填される」として、一審判決を覆し、原告の請求を棄却。最高裁判所は1982年9月9日、原告適格の観点において、原告住民に訴えの利益なしとして住民側の上告を棄却したが、二審言及の自衛隊の違憲審査は回避 下級審判例

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クレートーン – Wikipedia

クレートーン(古希: Κρήθων, Krethōn)は、ギリシア神話の人物である。長母音を省略してクレトンとも表記される。メッセニア地方の都市パライの王ディオクレースの子で、オルティロコスと双子の兄弟[1]。またアンティクレイアという妹もいた[2]。クレートーンとともに軍事全般に精通し、老将ネストール率いるメッセニア勢の武将としてトロイア遠征軍に加わったが、いずれもアイネイアースによって討たれた。ホメーロスは2人の死を人間の家畜小屋から家畜をかすめ取ったために人間に殺される2頭のライオンに喩え、また2人が倒れる様をモミの大木が倒れる様に喩えている[1]。 ^ a b 『イーリアス』5巻541行-560行。 ^ パウサニアース、4巻30・3。 参考文献[編集] パウサニアス『ギリシア記』飯尾都人訳、龍溪書舎(1991年) ホメロス『イリアス(上)』松平千秋訳、岩波文庫(1992年) 表 話 編 歴 イーリアスの登場人物 ギリシア軍 総司令官 アガメムノーン

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福田啓作 – Wikipedia

福田 啓作(ふくだ けいさく、1878年(明治11年) – 1969年(昭和44年)12月27日)[注釈 1]は、昭和期に活躍した教育者、郷土史家。邑楽館林地方の郷土史研究のため尽力した。群馬県邑楽郡富永村(現在の邑楽郡千代田町)出身。 教育者、公務員として[編集] 1899年(明治32年)に群馬師範学校を卒業後、館林町、西谷田村(現板倉町)の小学校教諭を歴任。1913年(大正2年)、多々良村の多々良尋常高等小学校(現館林市立第八小学校)校長となる。1916年(大正5年)には北甘楽郡視学となり、その後は佐波郡豊受村、邑楽郡小泉町、多々良村、館林町の尋常小学校長を歴任した後、1933年(昭和8年)3月に退職した。同年の12月には初代の館林町立図書館館長に就任し、1946年(昭和21年)3月まで同職を務めた。 郷土史家として[編集] 郷土史の研究に心血をそそぎ、1932年(昭和7年)9月、同じく郷土史家であった寺島錬二と共に「館林郷土史談会[注釈 2]」を立ち上げ、同12月に秋元文庫で発会式を執り行った。月1回の例会で会員の研究を発表する場を設け、またその蓄積として『館林郷土叢書』を発行した。館林郷土叢書は戦時下の紙不足のため1943年(昭和18年)で廃刊となったが、月一の例会は戦後も続けられた。個別の研究としては、不明であった館林城鐘銘の応声寺での発見や、愛宕神社での青石地蔵板碑の研究などにより、館林郷土史研究の先鞭をつけた。館林町文化協会より、第1回文化賞を受賞している。 何事も自分で確かめたものでなければ書物に書かないという、真摯で学究肌の人柄であったが、一方で温厚で人に恨まれるようなことはなかったという。 盟友の寺島錬二の死にあたっては、弔辞をあげたいとしてその文面作成を川島維知に依頼したが、告別式の朝文面を受け取り一読したものの、気に入らなかったのか、なぜか告別式ではそれを読まなかった。 『館林の話』 – 群馬県邑楽郡館林尋常高等小学校、1932年 『公園躑躅ケ岡』 – 館林郷土史談会、1934年 『名勝躑躅ケ岡』

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野口大誠 – Wikipedia

野口 大誠(のぐち たいせい、1989年8月7日 – )は、熊本市出身[1]の競輪選手。日本競輪学校(以下、競輪学校)第105期生。師匠は松川高大(競輪学校第94期生)。父は元競輪選手の野口悦宏(競輪学校第52期生)。 九州学院高等学校を経て、中央大学(以下、中大)へと進む。 2008年  全日本学生選手権自転車競技大会(全日本学生選手権トラック)・ケイリン 優勝。 2010年 全日本大学対抗選手権自転車競技大会(インカレ)・ケイリン 優勝[2]。 全日本アマチュア自転車競技選手権大会・ケイリン 優勝。 その後、中大を中退[3]し、競輪学校へ入校。在校競走成績第1位(29勝)。 2014年7月11日、熊本競輪場でデビューし初勝利を挙げた。 2015年、ヤンググランプリ優勝[4]。 ^ 105期NO・1野口大誠ようやく勲章/京王閣 2015年12月30日9時46分 日刊スポーツ紙面から ^ 野口 大誠

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