Month: July 2018

イミノ糖 – Wikipedia

イミノ糖(イミノとう、英: Iminosugar)は、環中の酸素原子が窒素原子に置き換わった構造を持つ糖のアナログである。 イミノ糖は植物に含まれ、植物の持つ一部の医薬品効果の原因と考えられている[1]。天然から初めて単離されたイミノ糖は、クワに含まれる1-デオキシノジリマイシン (DNJ) で、1976年に報告されたが、その後数年間は他にほとんど発見されなかった[2]。 生化学的活性の面では、DNJや初期に発見されたイミノ糖の他の例である1,4-ジデオキシ-1,4-イミノ-D-アラビニトール (DAB) は、α-グルコシダーゼ阻害剤として作用し、抗糖尿病薬、抗ウイルス薬の性質を持つ。DNJから作られた2種類の誘導体が現在も用いられている。N-ヒドロキシエチル-DNJ(ミグリトール)は糖尿病、N-ブチル-DNJ(ミグルスタット)はゴーシェ病の治療に用いられている。1980年代には、マンノースアナログのスワインソニンやグルコースアナログのカスタノスペルミンで、抗癌活性や抗ウイルス活性が発見された[3]。現在、植物や微生物中から200種類以上が報告されている。初期のものの生物学活性はグリコシダーゼ阻害作用に由来していたが、最近は、糖受容体や、ライソゾーム病や嚢胞性線維症等のシャペロン欠損酵素と関連するものが増えてきている[2]。 構造と安定性[編集] イミノ糖の環の窒素原子はヘミアミナール結合を持ち、通常の配糖体のヘミアセタールのように不安定である。イミノ糖の1-デオキシアナログはC-グリコシドであり、窒素原子はアミン結合の一部となる。これらのピペリジン、ピロリジンや似たような環は安定である[4]。 ^ Watson AA, Fleet GW, Asano N, Molyneux RJ, Nash

Continue reading

オゾケライト – Wikipedia

オゾケライト(ozokerite)は、昔風には地蝋(earthwax)と呼ばれる、自然界に存在する芳香性の鉱物質のワックスまたはパラフィンである。多くの地域に存在する。明確な組成と結晶構造がないため、鉱物ではなく準鉱物と見なされる。オゾケライトとは、ギリシャ語で「臭い」を意味するΌζο (oze)と「蝋」を意味するκερί (kero)から造語された。 標本は、スコットランド、ノーサンバーランド、ウェールズ、その他約30か国から採集されている。これらのオゾケライト産地のうち、カスピ海のトルクメンバシュ湾(英語版)のチェレケン島(英語版)(現在は半島)、インドのヒマラヤの一部、およびアメリカのユタ州の鉱床が言及に値するが、最後のものは大部分が枯渇している。商業生産を続けている鉱山が今もガリツィアにはあり、ウクライナのボリスラフ(uk:Борислав)、スタールニア(uk:Старуня)、ジウィニアック(:uk:Дзвиняч)などがある。鉱物自体はカルパティア山脈の東西(南北)どちらの斜面からも発見されている。 オゾケライトの鉱床は、鉱脈とほぼ同じ過程で形成されたと考えられている。地中の割れ目や隙間に入り込んだ石油が、ゆっくり蒸発して酸化したことで、堆積したパラフィンだけが残った。天然に見られるオゾケライトは、非常に柔らかいワックスから石膏のような固さの黒い塊までさまざまである。 比重は0.85から0.95の範囲で、融点は58 – 100 °C (136 – 212 °F)。ジエチルエーテル、石油、ベンゼン、テレビン油、クロロホルム、二硫化炭素などに可溶である。ガリツィアのオゾケライトは、淡黄色から暗褐色まで色が異なり、二色性のために緑色に見えることがよくある。通常の融点は62 °C (144 °F)。化学的には、オゾケライトはさまざまな炭化水素の混合物で、85〜87重量%の炭素と14〜13重量%の水素を含む。 オゾケライトの採掘は1880年代にガリツィアで始まり、当初は手労働で運ばれていた。しかし鉱山の深さが200メートルを超えた頃にオゾケライト鉱山を保有していた企業が電力を導入して、搬送、排水ポンプ、および換気などが電気で動くようになった。これらの鉱山には通常、縦坑と横坑(水平坑道)があり、オゾケライトの存在する深さに達すると、鉱床の走向に沿って掘り進む。産出されるワックスの純度は様々である。最良の場合、手づかみで純粋な資源を分離できる。他の場合には、資源が土壌と混合している。この場合、手作業で岩や石を除去してから、「ワックスストーン」を大きな銅器に満たした湯の中に入れて加熱沸騰させ、純粋なワックスが表面に浮かび上がるようにする。その後、今度は水なしで再び溶かして不純物をすくい取った後で、わずかに円錐形の円筒鎔笵に流し込み、出荷用にブロック形状にする。粗製オゾケライトは、最初に硫酸で処理し、次に木炭で処理することによって精製され、セレシン(Ceresin。セレシンワックスとも)が得られる。通常は61 – 78 °C (142 – 172 °F)の融点を持つセレシン(精製オゾケライト)は、主に蜜蝋の混和物として使用される。混ぜたときの見た目の違和感を減らすため、人工的に着色されることも多い。 過熱蒸気を流しながら蒸留すると、オゾケライトからはろうそく原料を得られる。これは石油やシェールオイルから得られるパラフィン(石油ワックス)と似ているが、石油起源のものよりも融点は高い。したがって、たとえば気温が高い環境でも使用できるロウソクを作ることができる。その他、軽油やワセリンに似た製品も得られる。留分(蒸溜加熱した時に気化せずに残る部分)は固くて黒い、蝋のような物質になる。天然ゴムと混合することでオコナイト(英語版)という電気絶縁体を製造できる。また、魚拓用の墨や靴墨などの原料となるヒールボール(heel-ball)も同じくオゾケライトの留分から製造できる。 オゾケライトの採掘は、石油から精製するパラフィンとの競合により、1940年以降は減少した。しかし、ほとんどの石油製ワックスよりも融点が高いため、電気絶縁体やロウソクなどの一部の用途では依然として需要がある。

Continue reading

沖縄県立球陽中学校・高等学校 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “沖縄県立球陽中学校・高等学校” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年2月) 沖縄県立球陽中学校・高等学校(おきなわけんりつきゅうようちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、沖縄県沖縄市南桃原にある県立中学校・高等学校。2016年度より併設型中高一貫校となった。 1980年台後半から1990年代にかけて設置された「4K」と呼ばれる全県学区の新設県立高等学校の一つである。ただし開邦高校や向陽高校などとは異なり寮を持たないため、離島や遠方からの入学者は、下宿あるいは学校近隣のアパートでの生活となる。 授業は、朝7時30分開始の0校時から6校時までの60分6コマ(早朝講座は50分)であり、夏休みの20日間の夏期講座など、全員必修の講座が多種ある。 また、2003年からは総合的な学習の時間の一環として、「球陽プロジェクト(略称:QP)」と呼ばれる県外実地研修及び実地研修で学んだことの発表会を行なわれ、この模様はインターネット放送された。現在は筑波・台湾研修が実施されており、それぞれの学部の生徒が最先端技術を学んだり、国際交流の機会を持っている。 那覇市およびその隣接区域には、同じく4Kとよばれる開邦高校や那覇国際高校と、旧制中学校を前身とする首里高校や那覇高校、私学では昭和薬科大附属高校や沖縄尚学高校があるのに対し、本島中部に立地する進学重点校は球陽高校のみとなっている。このため合格に最低限必要な点数を大きく上回る生徒も数多く在籍している。 校地は1984年に閉校した中央高等学校(私立)の跡地を利用しているが、校舎はすべて新しく建て替えられている。 設置学科[編集] 中学校 1学年1クラス40名(平成31年度入試より80名) 高等学校 理数科(5クラス:200名)

Continue reading

基本類 – Wikipedia

類体論の基本類については「類構成(英語版)(class formation) 」をご覧ください。 この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “基本類” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2009年12月) 原文と比べた結果、この記事には多数(少なくとも5個以上)の誤訳があることが判明しています。情報の利用には注意してください。正確な表現に改訳できる方を求めています。 数学において、基本類(fundamental class)は、向きづけられた多様体 M に付随するホモロジー類 [M] であり、ホモロジー群 Hr(M;Z)≅Z{displaystyle

Continue reading

さらば青春の光 (映画) – Wikipedia

『さらば青春の光』(原題:Quadrophenia[2])は、1979年のイギリス映画である。1960年代初期のイギリスに実在した二つの若者集団である「モッズ」と「ロッカーズ」の対立を軸に、あるモッズの熱狂的な青年が全てを失っていく姿を通じ、沈滞したイギリス社会の閉塞感や、若者の疎外感を描いている[3]。 コッツウォルズにあるCotswold Motor Museumに展示されるエースのスクーター(再現品)とモッズファッションの人形 イギリスのロック・バンドのザ・フーが1973年に発表したアルバム『四重人格』(原題は同じくQuadrophenia)を原作とした。 モッズおよびロッカーズのファッションと乗り物(タイトなスーツ、M51 (モッズコート)、ウインドシールドが装備され多数のミラーとライトで飾られたランブレッタ社などのスクーター、ロッカーズのカフェレーサー)、音楽、ドラッグなどの1960年代文化が詳細に再現されている[3]。 公開40周年となる2019年にデジタルリマスター版が公開された[3]。 作家のピーター・メドウズが映画にインスピレーションを得た小説「To Be Someone」を原作とする続編映画の製作が発表されている[4]。 ストーリー[編集] 1964年。広告会社の郵便室係、ジミー・クーパーは、退屈な仕事と両親に幻滅し、10代の苦悩のはけ口として、モッズ仲間とともに、乱交パーティー、改造スクーターでの暴走、アンフェタミン(覚醒剤)の乱用、そして、敵対するロッカーズたちとのケンカに明け暮れていた。敵対するロッカーズには、ジミーの近所に住む幼なじみのケヴィンがおり、対立が激化する中にあってもふたりは友情を保っていた。ある晩、モッズ仲間の通称「スパイダー」がロッカーズたちの襲撃に遭い、重傷を負った。モッズたちは報復として、ロッカーズのケヴィンがひとりになったときに襲撃する。いたたまれなくなったジミーは、ひとりでその場から走り去る。 ジミーたちのドラッグ中毒はやがて深刻な状態となり、薬局での窃盗や、職場の無断欠勤を起こすようになる。 モッズとロッカーズとの一連の対立は激しさを増し、ある月のバンク・ホリデーに、海沿いの町・ブライトンで起きた大乱闘で頂点に達する。警察が出動し、若者たちをつぎつぎと逮捕する。ジミーは想いを寄せている女性・ステフとともに路地裏へ逃げ込み、ふたりはそこで愛し合う。やがてジミーは警察に見つかり、逮捕される。 護送車の中でジミーは、モッズのカリスマ的存在であり、ジミーにとっても憧れの存在であるエース・フェイスと知り合った。裁判で、ジミーは50ポンドの罰金を科せられる。一方エースは、75ポンドの罰金をその場で小切手で払うことを申し出て治安判事をコケにし、傍聴に来たモッズの仲間たちが歓声を上げた。 帰宅したジミーは、息子の部屋でドラッグを見つけた母親から家に入ることを拒否され、そのまま追い出される。さらに、たび重なる無断欠勤と乱闘への関与疑いのために上司と口論になり、衝動的に仕事をやめてしまう。 ある夜、仲間の集まるパブに現れたジミーは、退職金をすべてはたき、ドラッグを購入する。そこでステフとのことを冷やかしたモッズ仲間のデイブを殴り飛ばす。そのときのステフの態度を見たジミーは、ステフがデイブの彼女になったことを悟る。翌朝、ジミーと街で会ったステフは、「ブライトンでのことはただの遊びよ。本気にしないで」と冷たく告げる。ジミーはあてもなくスクーターでさまよっているうちに、郵便車との衝突事故を起こし、自身は無傷であったものの、スクーターは大破してしまう。 ジミーは鉄道でふたたびブライトンへ向かい、乱闘が起きた海岸や、ステフとともに逃げた路地を訪れた。ジミーは街角に、モッズ仕様に改造された銀色のスクーターが停められているのを見つける。そこはホテルで、エースが平凡なベルボーイとして働いていた。これを目撃したジミーは落胆し、スクーターを盗んで、ビーチー岬へと向かった。ジミーは崖下の海岸へ向かって疾走するが、自殺を思いとどまり、スクーターだけを崖下へ落とした。 キャスト[編集]

Continue reading

総理府 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “総理府” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年8月) 総理府(そうりふ)とは、内閣総理大臣自らが分担管理する事務、及び各行政機関の総合調整にかかる事務を所掌した日本の行政機関である。 明治憲法下における内閣所属部局を基礎として過渡期における総理庁を経て、1949年(昭和24年)に新設され、2001年(平成13年)に中央省庁再編により内閣府に統合された。 1948年(昭和23年)2月26日 – バラックだった庁舎が全焼。 1949年(昭和24年)6月1日 – 国家行政組織法および総理府設置法の施行に伴い、総理庁を廃止して、総理府が発足。 内部部局は当初、内閣総理大臣官房・恩給局・統計局・新聞出版用紙割当局からなった。特に大臣官房は、規定された事務のほか、「内閣法(昭和22年法律第5号)第12条に定める内閣官房の所掌に属する事務をつかさどる」(総理府設置法第6条第2項)とされた。 総理府の長は内閣総理大臣であり、内閣法にいう主任の大臣であるが、実際に所管事項の事務を監督するのは内閣官房長官およびそれを補佐する内閣官房副長官とされた。 1956年(昭和31年)1月1日

Continue reading

菅豊 – Wikipedia

菅 豊(すが ゆたか、1963年 – )は、日本の民俗学者。東京大学東洋文化研究所教授。長崎県出身。日本と中国をフィールドに、地域社会における自然資源や文化資源の利用や管理のあり方、コモンズ、無形文化遺産の管理手法、伝統文化(錦鯉)のトランス・ナショナリズム、ヴァナキュラー文化などについて民俗学の方面から研究。また、日本におけるパブリック・フォークロア(公共民俗学、「新しい野の学問」)やパブリック・ヒストリーに関する理論的研究も行ってきた。 1986年筑波大学第一学群人文学類を卒業、1991年筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科を中退し、1998年「日本におけるサケ民俗の形成 民間宗教者の関与を中心として」で文学博士。国立歴史民俗博物館民俗研究部助手(1991-1996年)、北海道大学文学部助教授(1996-99年)、東京大学東洋文化研究所助教授・准教授(1999-2007年)を経て、2007年より東京大学東洋文化研究所教授、2018年より東京大学大学院情報学環・学際情報学府教授(東京大学東洋文化研究所教授兼任)、2021年より東京大学東洋文化研究所教授。その他、中央民族大学民族学與社会学学院客員教授(中国)、大連外国語大学日本研究院客員教授(中国)、ハーバード・イェンチン研究所Visiting Scholar(米国)、復旦大学芸術人類学與民間文学研究中心特約研究員(中国)、山東大学文化遺産研究院流動崗教授(中国)、山東大学主辦《民俗研究》編輯委員会編輯委員(中国) 、日本学術会議連携会員(2014-2020年)などを歴任。 1993年10月 第13回日本民俗学会研究奨励賞受賞 2020年3月 新潟県小千谷市 小千谷市褒賞   単著[編集] 菅豊『修験がつくる民俗史 ―鮭をめぐる儀礼と信仰』吉川弘文館、2000年 菅豊『川は誰のものか ―人と環境の民俗学』吉川弘文館、2006年

Continue reading

鄭亨 – Wikipedia

鄭 亨(てい こう、生年不詳 – 1434年)は、明代の軍人。本貫は廬州合肥県。 洪武年間、父の鄭用の引退により職を嗣いで、大興左衛副千戸となった。1392年(洪武25年)、北元に対する使者に応募し、オノン川にいたった。帰国すると、密雲衛指揮僉事に転じた。 1399年(建文元年)、靖難の変が起こると、部下とともに燕王朱棣に降伏した。真定では先頭に立って耿炳文と戦い、指揮使に進んだ。大寧を襲撃するために劉家口にいたり、諸将が関を攻めようとしたとき、朱棣は関を守る兵が大寧に逃れて急報し大寧が守りを固めるのを心配して、鄭亨に精鋭の騎兵数百人を与えて旗を巻いて山に登らせ、ひそかに関の後ろに出るよう命じて、敵兵の退路を断った。朱棣の軍が関を攻撃すると、関を守っていた兵は全て捕縛された。朱棣の軍はにわかに大寧に達した。鄭亨は北平都指揮僉事に進んだ。鄭村壩の兵を夜襲して破り、西方の紫荊関を落とし、広昌を攻略した。1400年(建文2年)、蔚州を奪取し、大同を直撃した。軍を返して白溝河の戦いに参加し、敵軍を追って済南にいたり、都指揮同知に進んだ。滄州を攻め、北門に軍を進めて、東昌への糧道を扼した。戦いに敗れて張玉が戦死すると、鄭亨は敗残兵を集め、深州に軍を返した。1401年(建文3年)、夾河や藁城で戦い、各地を攻略しながら彰徳に達し、黄河の上で兵力を示威した。引き返して完県に駐屯した。1402年(建文4年)、朱棣に従って東平・汶上を破り、小河に軍を進めた。戦いに敗れて、王真が戦死した。諸将はみな北に軍を返そうと望んだが、鄭亨は朱能とともに反対した。南京に入ると、中府左都督に転じ、武安侯に封じられ、1500石の禄を賜り、世券を与えられた。北京の留守をつとめた。このとき父の鄭用はなお生存しており、鄭亨が封爵を受けるところを見ていた。 1403年(永楽元年)、鄭亨は総兵官とされ、武成侯王聡や安平侯李遠らを率いて宣府を守備した。鄭亨は宣府・万全・懐来の地理的形勢の有利な場所に兵を集め、城壁を高く濠を深くして守りを固めた。敵襲があると、夜間に篝火を焚き、昼に砲を鳴らして堅守した。1405年(永楽3年)2月、南京に召還され、ほどなくまた宣府に派遣された。1409年(永楽7年)秋、開平を守備した。 翌年、鄭亨は永楽帝の第一次漠北遠征に従い、食糧の輸送を監督するよう命じられた。塞北に進出すると、右哨を率いてオルジェイ・テムルを追撃し、これを破った。明軍がアルクタイの軍と遭遇すると、鄭亨は先頭の部隊を率いてこれを撃破した。論功では諸将の筆頭に挙げられた。この年の冬、そのまま宣府に駐屯した。1414年(永楽12年)、永楽帝の第二次漠北遠征に従い、中軍を管轄した。忽失温の戦いでオイラトの軍を追って流れ矢を受けたが、再び軍と合流してマフムードを破った。1422年(永楽20年)、永楽帝の第三次漠北遠征に従い、左哨の兵1万人を率いて、龍門道を進軍し、ウリャンカイを屈烈河で破った。輜重隊を率いて帰還の途につき、輜重を狙って追ってきた敵を撃破して、そのまま開平を守った。永楽帝は5度の漠北遠征を行ったが、鄭亨はいずれも従軍した。 1424年(永楽22年)、洪熙帝が即位すると、鄭亨は大同に駐屯した。1425年(洪熙元年)2月、洪熙帝により辺境の総兵官に将軍印が分与されると、鄭亨は征西前将軍の印を賜った。大同で耕地を開墾して穀物を備蓄し、北辺の守りを固めた。1426年(宣徳元年)、北京に召還されて後府の事務を代行した。大同に駐屯して、糧食を宣府に送った。漠北の部長49人を招降し、これを厚遇したので、帰順する者が相次いだ。1434年(宣徳9年)2月乙丑、鄭亨は大同で死去した。漳国公に追封された。諡は忠毅といった。妾の張氏が殉死して、淑人の位を贈られた。子の鄭能が後を嗣ぎ、明の滅亡まで武安侯の爵位は世襲された。 参考文献[編集] 『明史』巻146 列伝第34

Continue reading

セントルイス (軽巡洋艦) – Wikipedia

セントルイス (英語: USS St. Louis, CL-49) は、アメリカ海軍の巡洋艦[注釈 1]。 セントルイス級軽巡洋艦 (St. Louis-class cruiser) の1番艦[注釈 2]。艦名はミズーリ州セントルイスに因む。その名を持つ艦としては5隻目。 セントルイスは1936年(昭和11年)12月10日にバージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船所で起工した。1938年(昭和13年)4月15日にナンシー・リー・モリルによって命名、進水し、1939年(昭和14年)5月19日に艦長チャールズ・H・モリソン大佐の指揮下就役した。 太平洋戦争以前[編集] 同年10月6日に調整を終えたセントルイスは、ノーフォークを母港とし、西インド諸島において中立パトロールを11ヵ月にわたって実施した。1940年(昭和15年)9月3日、セントルイスはレンドリース法の結果、イギリス海軍に貸与された駆逐艦と引き換えに獲得した、ニューファンドランド島と英領ギアナの海軍および空軍基地の点検を行い、10月27日にノーフォークに戻った。 11月9日、セントルイスはノーフォークを出港して太平洋に向かい、5日後のパナマ運河を通過して12月12日に真珠湾に到着した。セントルイスは1940年冬から1941年にかけて艦隊運動に加わった後、メア・アイランド海軍造船所に回航されオーバーホールに入った。セントルイスは6月20日に真珠湾に戻り、ハワイ水域での活動を再開した。 2ヵ月後、セントルイスは戦闘艦隊の他の巡洋艦と共に西方に向かい、ミッドウェー島、ウェーク島およびグアムを経てマニラに到着した。9月下旬に真珠湾に戻った後、9月28日に整備のため真珠湾海軍工廠に入渠した。 太平洋戦争[編集]

Continue reading

董文華 – Wikipedia

董 文華(とう ぶんか、ドン・ウェンホア、1962年6月29日 – )は、中華人民共和国の軍隊歌手。国家一級演員の称号を有しており、中華人民共和国国務院からの特別政府手当てを受けている。現職は中国人民解放軍総政治部歌舞団のソロ歌手。 1962年6月29日、遼寧省瀋陽市で生まれた。親は労働者階級の一般人である。 1977年、中国人民解放軍に入隊。同年末、瀋陽軍区39軍歌舞団に入団。 1984年、「十五の月亮」で一躍有名になり「月のお姉さん」と呼ばれるようになった。同年、同じ団体所属のテノール歌手の張楠と結婚。 1989年、中国人民解放軍芸術学院から卒業し、中国人民解放軍総政治部歌舞団に移籍、ソロ歌手となった。 1993年6月6日、長男を出産。 1998年、中国中央電視台春節聯歓晩会で「遠航」を披露。 2000年、遠華密輸事件の主犯である頼昌星と密かに関係を持っていたことが判明し、芸能界から引退した[1]。 2002年、第九回全国政協委員会中華全国青年連合会委員に選出された。その後、中国音楽家協会理事、中国軽音楽家協会常務理事、中華海外聯誼会理事等を歴任した。 2004年、新しいアルバム「港湾」を発売、歌手復帰。 2015年4月19日、甘粛省会寧県の紅軍会師旧址にて「紅色経典唱響会寧文芸演出」活動に出演。 十五的月亮 望星空 血染的風采 長城長 今天是你的生日我的祖国

Continue reading
Exit mobile version