Month: August 2018

小川武志 – Wikipedia

この項目では、柔道選手について記述しています。その他の同名の人物については「小川武志 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 獲得メダル 日本 柔道 ユニバーシアード 金 2003 済州島 60kg級 小川 武志(おがわ たけし、1979年7月9日 – )は、神奈川県出身の、日本の柔道選手である。階級は60kg級。身長164cm。組み手は右組み。得意技は背負投[1]。 目次 1 経歴 2 戦績 3

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宋家豪 – Wikipedia

宋 家豪(ソン・チャーホウ、1992年9月6日 – )は、台湾出身のプロ野球選手(投手)。右投左打。東北楽天ゴールデンイーグルス所属。台東県出身のアミ族。 プロ入り前[編集] 台湾の国立体育大学出身で、2014年には仁川アジア競技大会と第1回21U野球ワールドカップへ野球チャイニーズタイペイ代表として出場した[2]。 2015年には、中華職業棒球大聯盟 (CPBL) が6月に催したドラフト会議で、統一ライオンズから2巡目で指名されるも、日本球界を目指すため入団を拒否した[3]。2015年夏季ユニバーシアード[3]や第1回WBSCプレミア12に、第1回WBSCプレミア12のチャイニーズタイペイ代表として参加した[4]。プレミア12では、1次ラウンドのキューバ戦に先発。7回途中1失点(自責点0)という好投によって、チームの勝利に貢献した[5]。 2015年10月20日に、東北楽天ゴールデンイーグルスと1年間の育成選手契約で合意したことが発表された。入団当初の背番号は143で、登録名は、本名の読み方をカタカナで表記したソン・チャーホウ[2][注 1]。 楽天時代[編集] 2016年には、育成選手として二軍生活に終始し、イースタン・リーグ公式戦では6勝3敗、防御率2.44という好成績を記録。勝利数は、ジェイク・ブリガムおよび濱矢廣大とともにチームトップであった。シーズン終了後の11月28日には、推定年俸440万円という条件で、育成選手契約を1年延長。2日後の11月30日には、登録名の表記を本名の宋家豪に変更することが発表された[6]。 2017年には、NPBのオープン戦期間中に開かれた第4回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に、チャイニーズタイペイ代表の一員として参加した[7]。韓国での1次ラウンドA組で、第2戦のオランダ戦に先発したが、4回途中4失点という内容で降板[8][9]。チームも、この試合を含めた3戦全敗でA組の最下位に終わり、東京での2次ラウンド進出に至らなかった。 NPBのレギュラーシーズンでは、イースタン・リーグ公式戦33試合に登板。防御率4.28ながら、古川侑利と並んでチームトップの8勝を挙げ、チーム2位の5セーブを記録した。7月31日に、同期入団の八百板卓丸と共に支配下選手契約へ移行し、背番号を94に変更[10]。8月11日の対オリックス・バファローズ戦7回裏に、救援投手として一軍公式戦へのデビューを果たした。この試合では、最速152km/hと一軍初の奪三振を記録。外国人枠との兼ね合いで8月14日に出場選手登録を抹消されたが、レギュラーシーズン終盤の10月4日に再び登録されると、10月7日の対オリックス戦(いずれも京セラドーム大阪)で初ホールドを記録した。レギュラーシーズン全体では、一軍公式戦への登板が5試合にとどまったものの、同月の登板ではオール救援で4試合連続無失点。10月10日には、千葉ロッテマリーンズとのシーズン最終戦(Koboパーク宮城)で、2イニングにわたって4者連続奪三振を記録した。一軍監督の梨田昌孝は、この試合での投球を高く評価。チームがレギュラーシーズン3位でポストシーズンを迎えることを背景に、宋をクライマックスシリーズ(CS)での救援要員に抜擢すると[11]、埼玉西武ライオンズとのファーストステージ(メットライフドーム)で第1戦(10月14日)と第3戦(10月16日)に救援で登板させた。両チームとも1勝1敗で臨んだ第3戦では、1点リードの6回裏無死一塁から登板すると、後続の打者を三者凡退に抑えて交代。チームがこのまま勝利したため、宋はレギュラーシーズンを含めた一軍公式戦での初勝利、チームは2013年以来4年ぶり(勝ち上がりは2009年以来8年ぶり)のCSファイナルステージ進出を果たした。福岡ソフトバンクホークスとのファイナルステージ(福岡ヤフオク! ドーム)でも、第2戦(10月19日)の救援登板で勝利投手になった[12]。翌10月20日の第3戦にも、6回裏に1点リードの場面で登板。しかし、2者連続被本塁打(内川聖一の同点ソロ本塁打と中村晃の逆転ソロ本塁打)で敗戦投手になった[13]。チームはCS敗退、シリーズ終了後の11月27日には、1年契約による宋の残留と背番号43への変更が球団から発表された[14][15]。 2018年、外国人枠の関係で開幕を二軍で迎えるものの外国人野手、中継ぎ陣の不調が重なったこともあって5月に一軍昇格。その後は外国人枠の関係でしばらく降格と昇格を繰り返すものの6月にゼラス・ウィーラーの骨折、8月にはジャフェット・アマダーのドーピング問題等もあり、一軍に定着。6月24日の日ハム戦(楽天生命パーク)でレギュラーシーズンにおける来日初勝利を記録[16]。シーズン最終盤ではセーブ機会は無かったものの抑えを任されるようになった。40試合の登板で5勝3敗、防御率1.73という好成績を挙げた。 2019年は新外国人投手のアラン・ブセニッツと外国人枠を争う形となったが、これを制して初の開幕一軍入りを果たす[17]。開幕後も安定したピッチングを続けたが、6月には防御力が悪化し、13日に登録抹消[18][19]。その後はファームでも苦しいピッチングが続いたが[20]、8月22日に一軍昇格を果たすと[21][22]、その後はシーズン終了まで無失点の好投でシーズンを終えた。最終的に防御率2.18でチーム4位の48試合に登板し、チーム3位の24ホールドの成績を残してチームのクライマックスシリーズ出場に貢献した。オフには2019 WBSCプレミア12 チャイニーズタイペイ代表に選出されるも、出場を辞退した[23]。

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ジャパン・オープン・テニス選手権 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ジャパン・オープン・テニス選手権” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年2月) 楽天ジャパン・オープン・テニス選手権(Rakuten Japan Open Tennis Championships)は、10月初頭に有明コロシアム及び有明テニスの森公園で開催されるテニスの国際大会である。通称は「楽天オープン」[1]。国内初のオープン大会であり、2008年までは男女同時開催。 2019年現在の大会ランクはATP500シリーズ(シングルス32ドロー、ダブルス16ドロー)[1]。日本で開催される大会の中ではもっとも高いトーナメントカテゴリに位置する。主催は日本テニス協会[1]。 1972年に田園コロシアムで第1回大会が開催される。しかし、この大会は準備大会として開催され選手は招待という形式で行われたため、グランプリ・シリーズの公式戦ではなかった。1973年第2回大会から男子部門がATPツアー編入。大阪オープンに次いで日本2番目のオープン大会公式戦となる。1983年大会から女子部門がWTAツアーに編入されるようになった。1983年から完成した有明テニスの森公園で開催。コートもクレーコートからハードコートに変更。 1987年、サントリーが冠スポンサーになりサントリー・ジャパン・オープンとして大会規模を拡大。賞金総額を前年の19万5000ドルから65万ドルに増額。メイン会場も1万人収容できる有明コロシアムで開催となる。開催時期を10月から4月に移行。 1990年、男子トーナメントではアジア初のチャンピオンシップシリーズへ昇格する。2000年再び10月開催に変更。 1992年にバブル崩壊のため、4億円の冠協賛金を出していたサントリーがスポンサーから降りた際、当時日本テニス協会会長を務めていた小坂徳三郎が、鈴木俊一東京都知事に話を持ち込み、朝日生命と東京都がダブルスポンサーとなった。自治体が賞金大会を協賛するのは異例のことであった[2]。 1993年大会以降は、東京フロンティア・朝日生命カップ、世界都市博覧会・朝日生命カップ(朝日生命と東京都の外郭団体・東京フロンティア協会と東京都観光連盟がスポンサーとして参加)、朝日生命カップ等を経て2001年からは、AIGグループの協賛によりAIGオープンとして行われた。

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じゅもんをあげるよ – Wikipedia

「じゅもんをあげるよ」は、ナムコ(後のバンダイナムコゲームス)のパズルゲーム『ことばのパズル もじぴったん』シリーズに使われている曲。作詞:後藤裕之、作曲:神前暁、歌:古原奈々。歌詞は全てひらがなで記述されている。 「じゅもんをあげるよ」が初めて使われたのは、2003年1月に発売されたPS2用ソフト『ことばのパズル もじぴったん』である。もともとは、サウンド担当の神前が2人対戦モード用のインストゥルメンタルとして作曲したものだったが、『もじぴったん』のゲームデザイナーである後藤の発案により、歌詞を付けて同ソフトのエンディング曲として使用することになった(CD『ことばのパズル もじぴったん おりじなるさうんどとらっく』のライナーノーツより)。当時の歌詞は1番のみであった。また、同曲はGBA用ソフト『ことばのパズル もじぴったん アドバンス』にも収録されている。 その後、もじぴったんシリーズはPSP版やDS版などが発売され、「ふたりのもじぴったん」など他の人気曲は毎回収録されたが、ゲーム内にエンディングが存在しなかったため「じゅもんをあげるよ」が使われることはなかった。 2008年3月に配信開始されたWiiウェア用ソフト『ことばのパズル もじぴったんWii』で、久しぶりに同曲が使用された。2番以降の歌詞が追加されてフルバージョンとなり、アレンジも変わり、歌も再レコーディングされた。ゲーム中、ある条件を満たすと出現するスタッフクレジットで聴くことができる。 2009年2月、ナムコ『THE IDOLM@STER』の企画CD『THE IDOLM@STER MASTER SPECIAL 01』に、登場キャラクター・高槻やよいの歌うカバーバージョンが収録された。なおやよいによる「もじぴったん」使用曲のカバーは2度目となる(企画アルバム『Your Song』でやよいが「ふたりのもじぴったん」をカバーしている)。 なお2011年現在で、どのバージョンでもJASRACへ管理委託がされていない。JASRACのデータベースには「高槻やよい」名義のカバーのみが登録されているが、それも管理委託されていないことが明記されている。 バージョン[編集]

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杉田あきひろ – Wikipedia

杉田 あきひろ (すぎた あきひろ、本名:杉田 光央(読み同じ)、1965年[1]5月4日[2] – )は、日本の歌手、舞台俳優。福井県小浜市出身。身長177cm、体重68kg。血液型はO型。福井県立若狭高等学校を経て慶應義塾大学文学部哲学科美学美術史学専攻を卒業。 1989年、慶應義塾大学在学中にミュージカル、『レ・ミゼラブル』のオーディションに合格し、舞台デビュー。その他、多数の作品に出演する。 1999年4月5日から2003年4月5日までの4年間、『おかあさんといっしょ』にて9代目うたのおにいさんを務めた。共演のうたのおねえさんは18代目のつのだりょうこ(同期就任・同期退任)、たいそうのおにいさんは10代目の佐藤弘道、たいそうのおねえさんは3代目のタリキヨコ(同期就任)。 うたのおにいさん就任中、2000年12月23日発売の『サンデー毎日』において覚醒剤の使用疑惑が報じられた。杉田は発売元の毎日新聞社を相手取って、損害賠償を求める裁判を起こしている。 うたのおにいさんを卒業した後は、ミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』にバーチック役で出演。そのほか子供関連を中心に舞台、コンサート、TVなどで活躍。おかあさんといっしょ関連イベント『(ぐーチョコランタン→モノランモノラン→ポコポッテイト)がやってきた!』には、おかあさんといっしょ出演中の2002年から2013年まで11年に渡って参加していた。 2012年頃からはシャンソンライブに活動のメインを置いており、逮捕前に当たる2016年3月まで月に1回のペースで新宿区にあるライブハウス『新巴里』でのライブに参加していた。 2016年4月13日、東京都内で警視庁により、覚せい剤取締法違反の現行犯で逮捕された。取調べに対し本人は、容疑を認めたと報じられた[3]。2016年6月14日に東京地方裁判所で開かれた初公判では、覚醒剤使用を認め、『おかあさんといっしょ』のコンサートツアーのメンバーから降ろされたことが遠因であると説明すると同時に、「今まで携わってきた仕事上の仲間や番組を見ていた子供たち、親御さん、家族にも迷惑をかけてしまったことを反省しています」と述べた[4]。6月20日、懲役1年6月執行猶予3年の判決が言い渡された[5]。年齢は逮捕時の報道では「50歳」[3]、初公判時には「51歳」[4]とされ、それまで1967年生まれと称して芸能活動を行っており、公称年齢を2歳偽っていたことも発覚した[1]。 2016年7月19日、フジテレビ系列の情報プレゼンター とくダネ!の取材に応じた模様が放送された。この中で裁判以降の様子が密着取材され、都内の自宅を引き払い、長野県上田市にある長野ダルクで依存症回復プログラムを受ける為に寮生活をしている模様が取り上げられた[6]。2017年1月、杉田の再起を支援したいという松川村職員の発案で、同村内で杉田のコンサートが開かれた[7]。2018年1月10日のフジテレビ系列の「バイキング」に出演した。なお、逮捕報道以降の各種メディア取材においては本名の杉田光央表記で取り上げられているが、歌手活動としては引き続き杉田あきひろ名義で活動している。 2019年6月29日、執行猶予が開けたことに伴い長野ダルクを出所し、その後自身のTwitterを開設する。 2019年9月9日、「ASK認定依存症予防教育アドバイザー」の資格を取得する。 2020年3月1日、厚生労働省主催の「依存症の理解を深めるための普及啓発イベント」に清原和博・高知東生と共に出席。 2021年3月17日、厚生労働省主催『Re-START~みんなで考えよう 依存症のこと』へ高知東生、清原和博、塚本堅ーとともに参加[8]。同イベントにはサプライズゲストとして、『おかあさんといっしょ』で共演したつのだりょうこが登場した[8]。つのだとは5年ぶり(自身の逮捕後は初)の再会となり、不祥事を涙ながらに謝罪した[8]。

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レッドベリー – Wikipedia

レッドベリー(Leadbelly または Lead Belly、本名:ハディ・ウィリアム・レッドベター、1888年1月23日 – 1949年12月6日)は、アメリカ合衆国のフォークとブルース[1] のミュージシャンである。 人物/音楽性[編集] 澄んだ力強い歌声、12弦ギターの技巧、そして彼の導入した豊富なフォークソングのスタンダードの曲集で知られる。 彼はほとんどの場合は12弦ギターを演奏したが、ピアノ、マンドリン、ハーモニカ、ヴァイオリン、コンサーティーナ、そしてアコーディオンも演奏することができた。録音の一部では、フォークバラッド「ジョン・ハーディ」の彼のバージョンの曲などで、ギターの代わりにアコーディオンを弾いた。他のレコーディングでは、ただ手を叩き足を踏みならして歌ったりもした。 レッドベリーの音楽で歌われる内容は、ゴスペルや、女性、酒、そして差別を歌ったブルースと、カウボーイ、刑務所、仕事、船乗り、牛追い、そして踊りを歌ったフォークソングなど、幅広い題材をカバーした。彼はまた、フランクリン・ルーズベルト大統領、アドルフ・ヒトラー、スコッツボロ・ボーイズ、億万長者のハワード・ヒューズなど、当時の時の人に関する曲も書いた。 誕生の日付けの議論[編集] レッドベリーは1888年1月23日に生まれた[2]。レッドベリーの誕生の日付けはずっと議論の的になっている。最も早い年は1885年と言われ、他のソースでは1888年か1889年のどちらかとも言われる。1900年の人口調査によると、ハディ[3] はテキサス州ハリソン郡第2判事管区の、ウェスとサリー(ブラウン)・レドベリーの、二人の子供のうちの一人[4] となっている。ウェズリーとサリーは1888年2月26日に法律上結婚し、すぐ後にレッドベリーが誕生し、さらに数年間彼らは夫婦として共に暮らした。1900年の人口調査は、通常の国勢調査に記載されている誕生の年月どころか年齢とも異なっており、「Hudy」・レッドベターの誕生年を1888年とし、誕生月を1月としている。ハディの年齢は12歳と記されている。1910年と1930年の人口調査も誕生年として1888年としている。 彼の誕生の日付けもまた議論されている. 最も一般的な日付けは1月20日とされているが、他のソースは1月21日または29日に生まれたと示唆している。レッドベター彼自身に関する唯一の書類は彼の第二次世界大戦の徴兵登録で、そこには1889年1月23日と記述されている。 若年期[編集] レッドベリーはウェズリーとサリー・レッドベター夫妻の下で、ハディ・ウィリアム・レッドベターとして、ルイジアナ州ムアリングズポート(Mooringsport)近くのプランテーションで生まれた。しかし家族は彼が5歳の時にテキサス州リーへ引っ越した。1903年までに、レッドベリーはすでに多少名の知れたシンガーでギタリストであった。彼はルイジアナ州シュリーブポート近郊の、街の悪名高い赤線地区、セントポールズ・ボトムの聴衆の前で演奏した。レッドベリーはボトムのサロンの列、売春宿、ダンスホールのあるシュリーブポートのファニン通りで、さまざまな音楽を人前でパフォーマンスをして、やがて独自のスタイルを追求し始めた。 1910年の人口調査の時点で公式にはまだ「Hudy」と記録されていたレッドベリーは、彼の両親の隣に、最初の妻のアレサ・”レテ”・ヘンダーソンとともに住んでいた。人口調査時点で彼女は17歳であり、したがって1908年の彼らの結婚の時点では15歳であった。彼の叔父から受け取った彼の最初の楽器、アコーディオンもそこにはった。20代前半までに、彼は少なくとも二人の子供の父となった後に、ギタリストとして(時折労務者として)生きるために家を出た。

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ホスピタル・ホスピタリティ・ハウス – Wikipedia

ホスピタル・ホスピタリティ・ハウス(Hospital Hospitality House)とは、難病や高度な医療を受ける必要性から家族、自宅を遠く離れて入院生活をする子供を見舞い、付き添うために遠隔地からでてきた両親、家族のために経済的にあまり負担にならない金額(利用料は、一泊1,000円程度)で滞在できる宿泊施設である。家族滞在ハウス、ファミリーハウス、サポートハウス、慢性患児家族宿泊施設など呼称はさまざまなものが使われている。基本的には宿泊施設であるが、一般に「ハウス」という呼び名が共通に用いられている。 運営団体は、任意団体、財団、NPOが運営しているもの、病院が直接自ら運営しているもの、そして、企業の社会貢献活動として運営されているものがあり、この種のものではマクドナルドが運営するものが、最もよく知られている。 1970年代から、まずアメリカ合衆国で生まれたものである。世界最初のものは、1972年に誕生した「ザ・ケビン・ゲスト・ハウス」である。次いで、同年「ロナルド・マクドナルド・ハウス」の第1号がアメリカで誕生した。以来、マクドナルドは世界中で、病気の子供と家族のための滞在ハウスの提供を行っており、日本にも2001年に「ドナルド・マクドナルド・ハウスせたがや」ができた。 1986年に、アメリカでこうしたハウスの全米組織「全米ホスピタル・ホスピタリティ・ハウス連盟」(National Association of Hospital Hospitality House, Inc; NAHHH)が結成され、1988年には「病気のこどもヨーロッパ協会」(European Association for Children in Hospital; EACH)が、ハウスの必要性を明記した「病院のこども憲章」に合意している。 日本では、家族または家族により雇われた付き添い人(職業介護人)によって病児の介護が行われ、それらは院内(病児の脇の通路など)に簡易ベッドを持ち込んで宿泊していた。しかし、1994年に導入された「新看護体系」では、院内での宿泊が不可となり、また、看護は看護職員が行うという職業分離がなされた。このため、病院を締め出された家族たちの宿泊市場が生まれ、そこにホスピタル・ホスピタリティ・ハウスが参入し、1993年にはNPO法人ファミリーハウスにより日本第1号のハウスである「かんがる〜の家」が出来た。1997年には全病院で家族・職業介護人の看護が廃止され、1998年には厚生省の追加予算により、全国にハウスを32ヵ所建設することが決まった。現在、日本国内には、北海道から沖縄県まで約125施設がある。

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灰島かり – Wikipedia

灰島 かり(はいじま かり、1950年6月2日- 2016年6月14日[1])は、日本の児童文学研究者・翻訳家。本名・鈴木貴志子。旧姓・蓜島[2]。夫は法政大学名誉教授の鈴木晶、娘は作家の鈴木涼美である。 千葉県生まれ。割烹旅館や料亭を経営する裕福な家庭に生まれる[3]。実家の『鴻月』は大正時代創業の市川三業組合に属する料理旅館で、市川市国府台にあった行楽地「里見八景園」の一事業として始まり、渡し船など遊船業も行っていた地元の老舗だった[2][4]。 お茶の水女子大学附属中学校・高等学校を経て国際基督教大学を6年で卒業[5][6]。中学より幾度か留学する[6]。高校時代に沢田博脚本演出の高校演劇に客演し、大学時代は演劇に熱中して浪曼劇場研究生となる[3][7]。大学卒業後(卒論テーマはアラン・ガーナー[7])、ホテルの通訳、資生堂宣伝部『花椿』編集部、コピーライターを経て、出産後翻訳などを手掛け、1994年に夫のサバティカルに同行して渡英し[3]、サリー大学ローハンプトン大学院児童文学科で児童文学を学ぶ。帰国後は、児童向けの本の専門家として活動。白百合女子大学講師[8]。 2016年6月14日、胃がんにより死去。66歳没[9]。 夫は法政大学名誉教授の鈴木晶、娘は社会学者、タレント、作家、元AV女優の鈴木涼美。祖父は「里見八景園」共同創業者、「鴻月」は祖母と母親が経営し、父親の蓜島正次は東京ベイ信用金庫会長、市川警察署内金融防犯協議会会長、市川市行政改革審議会会長、県教育委員会委員長、市川市緑の基金理事長、市川市文化振興財団理事長などを歴任し、市川市名誉市民の称号が贈られた[10]。 『こんにちは』おぼまこと絵 アスク講談社 あかちゃんじゃないもん・しつけ絵本 1990 『絵本翻訳教室へようこそ』研究社 2005 『あいうえおのえほん』小中大地絵 玉川大学出版部 2011 『ラブレターを書こう』藤原ヒロコ絵 玉川大学出版部 小学生のための文章レッスン

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