Month: October 2018

ジーノ・バルタリ – Wikipedia

ジーノ・バルタリ(Gino Bartali, 1914年7月18日 – 2000年5月5日)はイタリア・フィレンツェ近郊に位置するポンテ・ア・エマ出身。往年の名自転車競技選手である。 第一期全盛時代[編集] 1935年にプロ選手となったバルタリは、その年のイタリア国内選手権を制覇。また同年のジロ・デ・イタリアでは山岳賞も受賞するが、ジロではこのあと通算7回の受賞を経験。さらにこの記録は今もなおジロ史上同賞最多受賞記録となっている。翌1936年、ジロでは総合優勝並びに山岳賞を制覇し、ジロ・ディ・ロンバルディアも優勝。1937年にはジロの総合連覇並びに山岳賞3年連続受賞、さらに2度目のイタリア国内選手権制覇も飾る。また同年のツール・ド・フランスにおいて区間1勝を挙げるも、その後の区間で落車した上に大怪我を負いリタイアしている。 1938年、イタリア国内におけるファシストの圧力が強さを増したことから、バルタリは拠点をパリに移す。そしてこの年、ツール初優勝を飾る。ピレネー超えステージを終えた段階で総合2位につけたバルタリは、第14ステージにおいて中盤のアロ峠で一気にトップに立つとヴァル峠、イゾアール峠もトップで通過しそのまま押し切るという圧勝を演じる。また、このステージでマイヨジョーヌを奪ったが、何と総合2位に18分近い差をつけて早くもこの時点で総合優勝をほぼ確定づけてしまった。また、ツールでは初となる山岳賞も受賞している。 しかし翌1939年、第二次世界大戦の影が忍び寄ってきたこともあってイタリアチームのツール・ド・フランス参加は見送られることになり、バルタリの連覇は自動的に潰えた。ちなみにこの年、ジロ・ディ・ロンバルディアとミラノ~サンレモを制覇している。1940年、ジロ・ディ・ロンバルディアとミラノ~サンレモのダブル連覇を達成した他、3度目の国内選手権優勝も果たしている。だが、バルタリは自転車選手としてのキャリアは一旦ここで途切れることとなる。 ユダヤ人の逃亡を幇助[編集] 1940年のシーズンを最後に事実上引退状態を強いられたバルタリはその間、強制収容所に収監されているユダヤ系人を救うべく、カトリック教会との接点を多く持ったり、はたまたピウス12世と接見したり、果ては大主教やフランシスコ会にも救いの手を求めていた。このあたりの話については1969年にインタビューを受けた際に言明している。しかしこの後の話はバルタリの生前に語られることはなく、2000年にバルタリの死後、息子たちが遺言代わりに残していた当時のバルタリの日記を公表したことで漸く公にされたものであった。 ルッカ修道院らはかくまっていたユダヤ系人たちの国外逃亡を図るべく、身柄引き渡しのための偽造文書を作成する秘密工場を設けた。しかしそれには身分を証明する写真も必要であった。そこで同修道院らは、バルタリにお願いしてトレーニングと装わせて、ファシストにばれぬよう、別の場所に隠してあった写真が入った募金箱を持ち出させた。バルタリは以前よりレジスタンス運動に声明文を送るなどして強くファシストに対する抵抗者たちに対して支援を行っていた。そのため、ファシストから格好の標的とされたが、一方で自転車選手として著名であるバルタリを迫害するようなことをすれば、それに乗じて抵抗者たちが大暴動を起こしかねないということをファシストは強く恐れていたため、前述したバルタリの慈恵活動については、当初は見てみぬ振りという形を取っていた。ルッカ修道院らは、ファシストに強く反発していたバルタリの名声を借りたわけである。 しかし、ドイツ・ナチスがイタリア国内に駐留するようになると一層ユダヤ系人追跡への動きが強くなった。バルタリはフィレンツェでナチスから度重なる尋問を受けることになった。その上でユダヤ系人に対する慈恵活動をやめるよう諭したが、バルタリは怯まなかった。なおも表向きは慈恵活動を行いながら、一方では逃亡作戦に加担していたバルタリは、ナチスやファシストのユダヤ系人迫害の動きがさらに強まる中、1943年にユダヤ系人を連れて改造したワゴン車でスイスアルプス方面へ向け逃亡を企てた。その間、たびたび検問を受けるとバルタリは、トレーニング用品を積んでいるいうことにして逃れていたという。 第二期黄金時代&強力ライバルの出現[編集] 第二次世界大戦後、バルタリは復帰した。そして同胞の宿命のライバルであるファウスト・コッピと鎬を削ることになる。 5歳年下にあたるコッピは、1940年のジロで総合優勝。そして1942年には45.798kmのアワーレコードを樹立していた。そんなコッピのことをバルタリは可愛がっていた。1939年のシーズン終了後に自らの所属するチームに引き入れ、1940年のジロのときにはコッピのアシストにも回っていた。だが戦前はまだまだバルタリの存在はコッピにとってみれば雲の上であった。 戦後まもない1946年に入ってバルタリとコッピの立場は対等となる。ジロでかろうじてコッピを退けて3度目の総合優勝を果たしたバルタリだが、ミラノ~サンレモではコッピに完敗していた。その後、バルタリは同年のツール・ド・スイス、チューリッヒ選手権を制覇。一方、コッピはグランプリ・デ・ナシオン、ジロ・ディ・ロンバルディアを制していた。1947年、バルタリは3度目のミラノ~サンレモ制覇及びツール・ド・スイス連覇を果たしたが、この年のジロの総合優勝はコッピの手に渡った。 1948年のツール。バルタリはイタリアのエースとして出場。第1ステージを早くも制したバルタリは、その後、ルイゾン・ボベにマイヨの座を明け渡すものの、アルプス超えの第13ステージにおいて、イゾアール峠でトップに立つとそのまま押し切って区間優勝。そしてここでマイヨもボベから奪取。するとその余勢をかって、続く第14・15ステージまでも制し、アルプスステージ終了時点ではボベに13分以上の大差をつけていた。そして終わってみれば、総合2位のブリック・ショットに26分16秒の差をつける圧勝劇を演じた。 1949年、この年のジロを制したコッピはツールも出場。そしてバルタリも出場することになったことからイタリアチームは当時としては極めて異例の「ダブルリーダー制」を取ることになった。第16ステージ、先にイゾアール峠を通過したコッピだが、バルタリがその後追随してくるだろうと考えていた。またバルタリもコッピを追撃した。その結果、ゴール地点のブリアンソンでは同タイムで仲良くワンツーフィニッシュ。区間優勝はバルタリの手に落ち、またマイヨもここでバルタリの手に渡ったが、続く第17ステージではコッピが圧勝し、マイヨもコッピに移動。そして第20ステージの個人TTでコッピはバルタリに大きく差を広げ、終わってみればバルタリに10分以上の差をつけた。コッピは史上初の「ダブルツール」を達成した。 と同時に、ここで対等の立場と考えられてきたバルタリとコッピの立場は大きく変わり、その後バルタリは1950年のミラノ~サンレモ、1952年の国内選手権を制した程度に止まったのに対し、コッピはその後もダブルツールを1952年に果たすなど次々と大レースをモノにしていった。コッピが丁度「カンピオニッシモ」と言われるようになった1954年に、バルタリは現役を引退した。

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モスポイント (ミシシッピ州) – Wikipedia

モスポイント(英: Moss Point)は、アメリカ合衆国ミシシッピ州の南部メキシコ湾岸、ジャクソン郡の都市である。パスカグーラ大都市圏に属している。2010年国勢調査での人口は13,704 人だった。2005年にメキシコ湾岸を襲ったハリケーン・カトリーナの進路では、風が強い東側にあたり、市の大半が水に浸かるか破壊された。このために人口が激減している。 モスポイント市は北緯30度24分40秒 西経88度31分31秒 / 北緯30.410999度 西経88.525140度 / 30.410999; -88.525140に位置している[2]。 アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、市域全面積は26.8平方マイル (69 km2)であり、このうち陸地25.0平方マイル (65 km2)、水域は1.8平方マイル (4.7 km2)で水域率は6.61%である。 人口動態[編集]

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私たちがプロポーズされないのには、101の理由があってだな – Wikipedia

各話 初放送日 エピソードNo. エピソード 脚本 監督 シーズン1 #1 2014年11月4日 001 独身の楽しさが半減するぐらいなら、結婚しない方がマシと思っている。 渡辺千穂 本橋圭太 002 泥酔した彼の甘い言葉を、すべて信じている。 003 鉄を熱いうちに打たなかった。むしろ冷や水をぶっかけた。 #2 11月11日 004

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土橋章宏 – Wikipedia

土橋 章宏 プロフィール 誕生日 (1969-12-19) 1969年12月19日(52歳) 出身地 日本 大阪府豊中市 主な作品 映画 『超高速!参勤交代』 受賞 第38回日本アカデミー賞最優秀脚本賞 テンプレートを表示 土橋 章宏(どばし あきひろ、1969年12月19日[1] – )は、日本の脚本家、小説家、放送作家。

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鳥取市営サッカー場 – Wikipedia

鳥取市営サッカー場(とっとりしえいサッカーじょう)は、鳥取県鳥取市にあるサッカー専用の球技場である。施設は鳥取市が所有し、一般財団法人鳥取県サッカー協会が指定管理者として運営管理を行っている。愛称はバードスタジアム[1]。 なお、鳥取市に本社を置く株式会社アクシスが命名権を取得しており、2020年(令和2年)4月1日から「Axisバードスタジアム」(略称「Axis」)の呼称を用いている(後述)。 1995年(平成7年)開場。愛称「バードスタジアム」は、所在地「鳥取」と「はばたく鳥」をイメージして命名された。中国地方唯一のサッカー専用スタジアムである。 施設概要[編集] 収容人員:16,033人 メインスタンド:6,367人、バックスタンド:6,610人、サイドスタンド:3,056人[1] メイン・バックスタンドは座席、サイドスタンド(ゴール裏)は立見席。 観客席からピッチまでの距離は最も短い場所で約5メートルである[2]。 スコアボード:オーロラビジョン(2013年3月設置) 2012年度までの仕様はフリーボードではない磁気反転のもので、氏名の表記や各種案内は表示できなかったため、選手名表記はゴール裏付近にパネルを張って対応した。同じようなことはJリーグの本拠についてはかつてのさいたま市大宮公園サッカー場、鳥栖スタジアム(上述2箇所は現在は大型ビジョンがある)、大分市営陸上競技場、北九州市立本城陸上競技場など。 ガイナーレの試合では、2011年から2012年までリボンビジョン[3] を導入し、簡易動画、および氏名表記や各種表示も一行表示であるが可能となった。 2013年より設置された大型映像装置[4] は、バードスタジアム国際交流基金を全額取り崩した上での施設改善工事の一環[5] であった。 照明設備:4基(最大照度1500Lx)[1] 周辺に田が多い環境に立地しており、「田んぼの中」という形容がメディア報道でなされることがある[6]。元々はインターハイのサッカー会場のため、収容人数3000人程度、メインスタンド以外は芝生席の予定だったが建設時期がJリーグ開幕と重なったため、Jリーグ開催規格を満たすスタジアムへと計画変更された[7]。この他、路面が土のサブグラウンドが隣接しており、ガイナーレのホームゲーム開催時には専用駐車場(有料。駐車券事前販売制)として使用されている。 収容人員はJ1基準(15,000人)を満たす16,033人収容であるが、消防条例上のキャパシティーはそれよりも実際には少なく、J1基準を満たすには更なる収容人員の増加が必要になるため、2013年度はJ2ライセンスのみしか取得することができなかったガイナーレがスポーツ振興くじの助成を受けて改修するように鳥取市側に要請している。[8] なお、2014年度にガイナーレがJ2リーグに残留するという前提のもとで座席を3000人分増設する計画が予定されていた[9] が、J2・JFL入れ替え戦でカマタマーレ讃岐に敗れてJ3リーグへ降格することが決まったことを受けて、鳥取市は増設工事の実施を見送ると発表した[10]

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JRA賞最多勝利障害騎手 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “JRA賞最多勝利障害騎手” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年11月) JRA賞最多勝利障害騎手(ジェイアールエーしょう さいたしょうり しょうがいきしゅ)は、JRA賞の騎手部門の1つ。 該当年度中に障害競走で10勝以上した騎手の中で最多勝の者が受賞となる。 なお日本中央競馬会の厩舎関係者表彰の部門の1つに優秀障害騎手賞というのもあり同様の規定であるが、厩舎関係者表彰は障害競走で10勝以上を満たせば複数人が受賞することもある。 歴代受賞者[編集] 年度 受賞者 所属厩舎 勝利数 1987年

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ジェームズ・モートン・ショップ – Wikipedia

ジェームズ・モートン・ショップ(James Morton Schopf、1911年6月2日 – 1978年9月15日)はアメリカ合衆国の古生物学者、地質学者である。古生物学、特に石炭の古生物学を専門とした。 ワイオミング州のシャイアンで生まれた。イリノイ大学で植物学を学んだ。1934年からイリノイ州立地質調査局の石炭部で、ケディ(Gilbert H. Cady)のもとで、働いた。石炭層の研究を行い、石炭層に含まれる花粉、胞子の分類の研究や層序学への応用を研究した。1943年からピッツバーグの鉱山局で、石炭の成因と石炭の分類を研究した。1947年からワシントンの地質調査所の古生物学部門、層序学部門で働き、1950年から1961年までオハイオ大学のアメリカ地質研究所(U.S. Geological Laboratory)の燃料部門や古生物学部門で働いた。 アメリカ植物学会の功労賞、古植物学特別功労賞、南極活動賞(Antarctic Service Award)、アメリカ地質学会のGilbert H. Cady Award、米国科学アカデミーのMary Clark Thompson Award、古生物学会賞(Paleotological Society

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えーでるわいす – Wikipedia

えーでるわいすは、日本の同人(インディーズ)ゲームサークル。 シューティングゲームやアクションゲームを制作しコミックマーケットやSteamなどでゲームを販売している。スタッフには主にプログラム担当で代表の「なる」と、主にグラフィック担当の「こいち」他がおり、両者共に企業でのゲーム開発のチーフ経験者で、2011年に独立、2014年時点では同サークルの活動に専念している[1]。 2014年にボストンで開催されたゲームイベントPAX East(英語版)では、インディーズゲームブースにおいてシューティングゲーム『アスタブリード』の展示が行われた[2]。 Fairy Bloom -花咲か妖精-[編集] 2005年にフリーウェアとして公開されたWindows用のアクションゲーム。制作者の「なる」は、2ちゃんねるのスレッドに参加したのが開発を始めるきっかけであり、「成長」および「一ヶ月」という課題を基に制作した作品であると述べている。また苦労した点としてキャラクタグラフィックをあげており、ゲームバランスにも労力を割いたと述べている[3]。 Vector の「新着ソフトレビュー」では、「ルールが簡単で、テンポよく遊べるアクションゲーム。操作性もよい。そして、なんといってもグラフィックがすばらしい」「主人公そのものは傷つかず、その代わりに大勢の敵から花を守り抜かなくてはならないというアイデアはユニーク」と評されている。一方で「思い通りに敵を攻撃できるようになるには、ある程度のやり込みが必要」とも指摘されている[3]。 2014年にはUnreal Engine 4によるリメイク作『花咲か妖精 Ultra Encore』のダウンロード販売がPLAYISMにて開始された。 ETHER VAPOR[編集] この節の加筆が望まれています。 2007年公開のシューティングゲーム。 花咲か妖精フリージア[編集]

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