Month: January 2019

ベルセオレガメ – Wikipedia

ベルセオレガメ(Kinixys belliana)は、爬虫綱カメ目リクガメ科セオレガメ属に分類されるカメ。 ウガンダ、エチオピア、エリトリア、ガーナ、カメルーン、ガンビア、ギニア、ギニアビサウ、コートジボワール、コンゴ共和国、コンゴ民主共和国北東部、ケニア、ザンビア、シエラレオネ、ジンバブエ東部、スーダン南部、セネガル、ソマリア、タンザニア、チャド南部、中央アフリカ共和国西部、トーゴ、ナイジェリア、ニジェール南西部、ブルキナ・ファソ、ベナン、マラウィ、マリ共和国南部、南アフリカ共和国北東部、モザンビーク、リベリア、ルワンダ[1]。マダガスカル北西部に移入[1]。 最大甲長22センチメートル[1]。オスよりもメスの方が大型になり、オスは最大甲長20.6センチメートル(18センチメートル以上に達することはまれ)[1]。背甲は細長いドーム状で、属内では最も盛り上がる[1]。左右の第12縁甲板は癒合する[1][2]。 腹甲の色彩は淡黄色だが、濃黄色や黄褐色の個体もいる[1]。不規則な小型の暗色斑や放射状の暗色斑が入る個体もいる[1]。 頭部は中型からやや大型(属内では小型)[1]。上顎の先端は突出するが、三又にはならない[1][2]。頭部の色彩は褐色や黄褐色だが、黒や明黄色の個体もいる[1]。後肢の踵に滑車状の大型鱗が発達し、後肢の爪は3-4本[1]。四肢や尾の色彩は灰褐色や黄褐色で、前肢が濃灰褐色で大型鱗周辺が黄褐色の個体もいる[1]。 卵は長径3.8-4.7センチメートル、短径3-3.6センチメートル[1]。幼体は背甲の頂部が盛り上がって椎甲板にはキールがあり、後部縁甲板の外縁が弱く尖る[1]。成長に伴い頂部は平坦になり、キールや縁甲板の突起は消失する(マダガスカル個体群では成体でも縁甲板の突起が消失しない)[1]。 種小名bellianaはThomas Bellへの献名[1]。 スピークセオレガメやロバツィセオレガメを亜種、ナタールセオレガメをシノニムとする説もあるが、1980年代以降はそれぞれを独立種とする説が有力である[1]。 2-5亜種に分ける説がある[1]。亜種間の識別形態に左右の胸甲板の継ぎ目(シーム)の長さ(間胸甲板長)があるが、識別形態の基になった基亜種の標本にはスピークセオレガメ(間胸甲板長が長い)や亜種ニシベルセオレガメが含まれていたとされること、個体変異が大きいことから、識別形態としての有効性は疑問視されている[1]。 ウガンダとコンゴ民主共和国北部の個体群をK. b. mertensiとする説があるが、標本が限られていること、上記のように識別形態の間胸甲板長は有効性が疑問視されている[1]。 タンザニアから南アフリカ共和国にかけての個体群をK. b. zombensis(シノニムとしてK. b. zuluensis)とする説もある[1]。この個体群は背甲の斑紋が放射状になる個体もいるという報告はあるものの、個体変異が大きく基亜種のシノニムとする説が有力である[1]。この個体群がマダガスカルに移入されたと考えられている[1]。 マダガスカル移入個体群をK.

Continue reading

炭化珪素繊維 – Wikipedia

炭化珪素繊維(たんかけいそせんい)は炭化珪素でできた繊維。 1975年、東北大学金属材料研究所の矢島聖使が有機金属化学を専門とする林丈三郎、大森守らの協力を得て開発した[1][2][3]。 近年、ジェットエンジンやガスタービンのように高温で高強度を要求される部品への適用が進みつつある。これは、ガスタービンのような熱機関は運転温度を高温にするほどカルノー効率が高まり燃費が改善するためである。 年代順[4] 1960年代 CVD-SiC繊維の開発(Galasso) 米のもみ殻からSiCウイスカの合成 1975年 PCS-SiC繊維の開発(矢島) 1980年代 PCS-SiC繊維(Nicalon)の工業化(日本カーボン) 次世代複合材料の研究開発(1981~1989通産省工業技術院) Si-N-C系繊維の開発(HPZ,DowCorning) Si-Ti-C-O系 繊維(Tyranno,Lox-M)の工業化(宇部興産) SiCN繊維の開発(FIBERAMI,Rhone-Poulenc) 超耐環境性先進複合材料 の研究開発 (1989~1997通産省工業技術院) 1990年代

Continue reading

ヴォルフガング・パノフスキー – Wikipedia

ヴォルフガング・クルト・ヘルマン・パノフスキー(Wolfgang Kurt Hermann Panofsky, 1919年4月24日 – 2007年9月24日)はアメリカ合衆国の物理学者。スタンフォード線形加速器センターの創設者・初代所長。 ドイツ・ベルリン生まれ。父は美術史家のエルヴィン・パノフスキー。1934年にアメリカに渡り、1942年にアメリカに帰化した。プリンストン大学、カリフォルニア工科大学で学び、カリフォルニア大学バークレー校の助教授、スタンフォード大学の教授となった。1961年に初代のスタンフォード線形加速器センターの所長となった。 1985年から、素粒子物理学の功績に対してアメリカ物理学会などが授与するパノフスキー賞が設けられている。 日本語訳には、共著で『電磁気学』(上下、林忠四郎・天野恒雄訳、吉岡書店、1968年/新版2002年)がある。 アーネスト・ローレンス賞(1961年) アメリカ国家科学賞(1969年) フランクリン・メダル(1970年) エンリコ・フェルミ賞(1978年) マテウチ・メダル(1996年) 外部リンク[編集] W.K.H. Panofsky’s C.V. SLAC

Continue reading

松岡朝 – Wikipedia

松岡 朝(まつおか あさ、1893年(明治26年)7月11日 – 1980年(昭和55年)10月16日)は、明治から昭和にかけての社会福祉家。東京府京橋区(後の中央区)生まれ。日本女性として初めて、アメリカの大学の法学博士号を取得した。戦前はアメリカでの日本文化紹介や中華民国での教育・慈善活動などを通じて、戦後はユニセフの活動やオーストラリアとの美術交流を通じて、一貫して日本と諸外国との友好、相互理解のために奔走した。筆名として松岡暁美を用いた[注釈 1]ほか、松岡朝子表記で記されることもあった。 アメリカ留学[編集] 1893年(明治26年)、東京府京橋区で貿易商「福富洋行」を営む松岡健一の三女として生まれる。父・健一は私費で片瀬と江の島間の橋梁を寄付するほど裕福な篤志家であったが、思想的にも開明的で、「男女同権」「夫婦同等」「独立自主自由平等ノ主義」「仁慈博愛」を家憲とする自由な家風のもとで育てられた。一方で母・幸は典型的な明治女性で、女性のたしなみとしてお花、お茶、踊り、三味線といった日本文化をはじめ、ピアノなどまで多くの習い事を朝に習わせた。朝にとってこれらの稽古は厳しく振り返りたくない思い出となったというが、のちに海外で人脈を広げる際のきっかけになるなど[注釈 2]、朝の人生を助ける形となった。 21歳の時、弟健吾が18歳の短い生涯を終えた。元気が取りえだった健吾だが、雨の日に登った富士山で足を滑らせ、下山はできたものの冷えた体で肺炎をこじらせたのだった。この時、死にゆく跡取りの枕元で、父健一は健吾になぜか「朝は将来、子供の福祉のために、社会福祉に働くからね」と語りかけたというが、この言葉を朝は後年何度も思い出し、社会福祉の道に進む一つのきっかけとなった。 同じ21歳の年、内務官僚であった鈴木雅次との縁談が舞い込んだ。二人に不満はなく、雅次の仕事の関係上、茨城県霞ヶ浦に居を構えての仲睦まじい新婚生活が始まった。しかしながら、雅次を婿養子として迎えたつもりの松岡家と、それに納得していない雅次実家の鈴木家との認識の違いが露呈し、新婚生活は3年で引き裂かれてしまった。 離婚の理不尽さに、新婚生活を営んだ年数と同じだけの3年間、泣き暮らした朝であったが、その期間に自分の夢を見つめなおし、結婚の前にかつて夢だった、勉学の道に進みたいと考えるようになった。普通の結婚を女性の幸せと考えていた幸には反対されたが、健一の応援を受け、朝は留学のため客船大洋丸に乗り込み、アメリカへと渡った。この時1922年(大正11年)、朝は28歳になっていた。 Evening public ledger紙で報道された渡米時の朝 アメリカでの最初の留学先は、イリノイ州エバンストン市ノースウェスタン大学であった。朝の渡米は、現地の地方紙でも「日本の女性、生涯を貧者救済に捧げようとする」などと報道された[注釈 3]。在米中、朝は勉学及び世界婦人キリスト教禁酒協会(WWCTU)(英語版)の活動などを通じて広くアメリカの人士との交流の機会に恵まれた。彼らによる後見などの助けを得て、ペンシルベニア州フィラデルフィア市のペンシルベニア大学附属社会事業専門学校、ニューヨーク市コロンビア大学傘下のバーナード・カレッジ、コロンビア大学大学院と勉学を続けた。 関東大震災で健一の事業が回らなくなり、実家の援助が得られなくなったため、奨学金取得や私物の処分などに加えて、幼いころ父の骨董取引を間近で見た経験を活かし、日本美術品の整理などを請け負うことで学費を得始めた。その腕がよいことが見込まれて、ブルックリン美術館のステュアート・キューリン館長、メトロポリタン美術館のバッシュフォード・ディーン(英語版)博士などに次々と縁がつながり、勉学の傍ら、それらの美術館で日本美術や刀剣・甲冑の整理担当を任されることとなった。ここで朝は日本の刀剣・甲冑についての膨大な古書を読み漁り、片っ端から読み、また専門家であるディーン博士自らの教えにも触れ、日本文化に関する理解の基礎を固めた。 正倉院での曝涼参加[編集] コロンビア大学での修士号取得後の1928年(昭和3年)、朝は1年間、日本に帰国した。帰国にあたり、メトロポリタン美術館からの土産として、ヨーロッパの古い甲冑を紹介した記録映画を借りてきていたが、秋山光夫を通じて東京帝室博物館に相談したところ、皇族を含めた上映会を帝室博物館で行うことになった。その上映会に列席した東伏見宮妃周子妃の侍従から推挙があったためか、朝はさらに周子妃の招きを受け、宮中でも同じ上映会を開催することとなった。

Continue reading

小川和夫 – Wikipedia

小川 和夫(おがわ・かずお、1909年8月10日 – 1994年3月26日)は、英文学者で、元NHK職員。 東京市浅草区(現・東京都台東区)生まれ。1935年、東京帝国大学英文科を卒業。 翌1936年に当時社団法人だったNHKにアナウンサーとして入局。戦前のNHKは軍の宣伝機関であったこともあり、今日のような分業制はとられておらず、報道記者も兼ねていた。戦後の改革で報道専業となり、外信部(現在の国際部)に配属。1961年ロンドン支局長、1962年ヨーロッパ総局長、1965年報道局長、1967年解説委員室主幹。 記者勤務の傍ら、イギリス・ロマン派の文学を研究、翻訳を行った。NHKを定年退職後の1968年成蹊大学教授、1976年東洋大学教授、1980年定年で東洋大学を退職した。 バイロン『ドン・ジュアン』の訳注で、読売文学賞(研究・翻訳部門)を受賞後まもなくに没した。 近代英文學と知性 自我の發展 研究社出版, 1952 アメリカ文学における新批評 ランサム、ブルックス、ベン・ウォーレンなど 早川書房, 1954 ロンドン暮色 イギリス紀行 研究社出版, 1956。英米文学語学選書

Continue reading

ばんせい証券 – Wikipedia

ばんせい証券株式会社(ばんせいしょうけん、英: Bansei Securities Co.,Ltd.)は、日本の証券会社である。 創業家である藤井家が京都の地場証券会社としてスタートし、2008年(平成20年)で創業100周年を迎えている。1998年(平成10年)に商品先物取引会社である大雄社先物社に買収されたが、子会社である萬成証券を存続会社とした合併が行われ先物系証券会社となった。2008年12月にユニマット山丸証券株式会社の事業を一部承継し、2008年12月1日より現在の名称となり、後に村上豊彦が社長に就任したため、役員から創業家がいなくなった。 一時期は全国に20ヵ所以上の支社や支店があり、従業員も1000人以上いたが、手数料自由化などの法改正を見越しての理由により人員や規模を縮小し、東京・名古屋・京都・大阪の大都市に集約した。支社は京都にあり、支店は名古屋・大阪・札幌・宝塚・大宮・福岡・ロンドン(駐在員事務所)にある。宝塚支店及び越谷支店(現在は大宮に移転)は2009年(平成21年)8月1日よりインヴァスト証券より譲り受けた支店である。 現在は証券業務に注力し、株式や投資信託、日経225先物、金融商品の組成、ロンドンAIM市場などの国内外市場の上場支援(東西キャピタルと提携)、ディーリング業務などの証券業務や投資銀行業務などを手掛けている。以前は商品先物取引(サヤ取り)や商品ファンドなどを個人顧客に対して販売していたが、2008年10月に同業務完全撤退。両替業務においても2009年2月において業務終了した。また「FX-FACTORY」などの店頭外国為替証拠金取引や取引所為替証拠金取引(くりっく365)はインヴァスト証券に事業譲渡した。 1908年(明治41年)7月 – 京都証券取引所から仲買人の免許を受け、藤井新七商店を創業 1923年(大正12年)3月 – 藤井真次郎商店に商号を変更 1949年(昭和24年) 3月 – 金新証券株式会社を設立 4月 – 商号を萬成証券株式会社に変更

Continue reading

トマス・サウスウェル (第3代サウスウェル子爵) – Wikipedia

第3代サウスウェル子爵トマス・アンソニー・サウスウェル(英語: Thomas Anthony Southwell, 3rd Viscount Southwell KP、1777年2月25日 – 1860年2月29日)は、アイルランド貴族。 第2代サウスウェル子爵トマス・アーサー・サウスウェル(英語版)とソフィア・マリア・ジョセファ・ウォルシュ(Sophia Maria Josepha Walsh、1796年1月27日没、フランシス・ジョセフ・ウォルシュの娘)の息子として、1777年2月25日にハマースミスで生まれた[1]。1796年2月15日に父が死去すると、サウスウェル子爵位を継承した[1]。 1799年5月7日、ジェーン・バークリー(Jane Berkeley、1776年頃 – 1853年10月26日、ジョン・バークリーの娘)と結婚[1]、2男5女をもうけた[2]。 トマス・アーサー(1801年10月22日 –

Continue reading

奥久慈男体山 – Wikipedia

奥久慈男体山 南から望む 標高 653.8 m 所在地 日本茨城県常陸太田市・久慈郡大子町 位置 北緯36度43分27秒 東経140度25分11秒 / 北緯36.72417度 東経140.41972度 / 36.72417; 140.41972座標: 北緯36度43分27秒 東経140度25分11秒 / 北緯36.72417度

Continue reading

北の洋昇 – Wikipedia

北の洋 昇(きたのなだ のぼる、1923年2月1日 – 2002年1月8日)は、北海道網走郡網走町(現:網走市)北浜出身で、1940年代後半から1960年代にかけて活躍した大相撲力士である。本名は緒方 昇(おがた のぼる)[1]。 目標は、双葉山を倒すこと[編集] 1923年2月1日に、北海道網走郡網走町北浜(現:北海道網走市北浜)で料理屋を営む家に次男として生まれた。幼少期から地元では有名な腕白だったが、小学4年生の時に実兄が事故で没したことでショックを受け、それ以降は腕白な性格から内気な性格へ変わっていった。実家が地元で人気の料理屋だったことから、厳しい父親に毎日家の手伝いをさせられていた。当時の網走郡は網走刑務所のイメージから陰惨とした場所であると勘違いされやすかったが、本人が入幕後に語ったところによると冬の寒さは厳しいが、道立公園には6月頃から9月頃まではハマナス、エゾキスゲ、カンゾウ、スズラン、ヒオウギアヤメなど50種類程度の花が咲き誇る明るい街であったという。幼少期の緒方が育った網走では、ニシン漁がある時だけ駆り出されそれが終わると捨てられたどさんこが強く育ち、捨てられてから生き残ったどさんこがまたニシン漁に駆り出された[2]。 1938年の暮れのある日、自宅へ宿泊した旭川の馬飼いが緒方少年の大きな体格を見い出し、その人物が旭川幸之焏とも親しかったことで立浪部屋への入門を勧めたが、緒方少年は相撲好きだったものの「他の部屋に入って双葉山定次に勝つ相撲取りになりたい」と考えて出羽海部屋への入門を希望していた。当時の双葉山は、同年に玉錦三右エ門が現役死亡したことで角界を代表する大横綱となっており、出羽海部屋では一門ぐるみで「打倒双葉」を合言葉に、どのように破るかで連日猛稽古と研究に明け暮れていた時期だった。馬飼いはこの姿勢に一度は引き上げたものの、1939年の春に再び訪ねて来て熱心に説得すると、一家の稼ぎ手を失うことを心配した母親から反対されたものの、立浪部屋への入門が決定した。 立浪部屋で初土俵[編集] 立浪部屋への入門が決まった緒方少年だったが、1939年1月場所4日目に安藝ノ海節男が双葉山の連勝を止めたことを知ると、双葉山のような強い関取になることを目標に掲げるようになった。入門時の体重は71kgだったが、入門直前の緊張から3kgも減ってしまった。これでは新弟子検査で合格しないと感じた緒方少年は、検査直前に飯や水を口にして増量を図るも1.5kg不足してしまった。検査を担当した若者頭が鳴戸に目配せして合格を頼んだが聞き入れてもらえず、さらには力士を諦めて床山になることを勧められた。当時は入門者が殺到していたので検査も厳しく、体重の目溢しなどしてもらえなかった。さらに自費養成力士制度もなかったのも緒方に対して不利に働いた[2]。 それでも力士になる夢を諦めなかった緒方少年は、翌場所も新弟子検査を受験して合格し、1940年1月場所で初土俵を踏んだ。四股名は郷里・北海道に因んで「北ノ海」にする予定だったが、同名の者が前相撲の初日にいたことが判り、「北ノ洋」に変更した。 幕内定着[編集] 新弟子時代の頃の立浪部屋を「1日、2日おきには新弟子たちがずらっと並んで、部屋には70人近くいたと思う。寝るところにも困って、稽古場、女中部屋にまであふれていた」と本人は述懐している[3]。この頃の立浪部屋は出羽海部屋のように一門連合稽古のようなことは行わず、新弟子時代には親方衆も少なかったため自分で相撲四十八手の本を買って相手がいると思って1人で技をかける相撲版シャドーボクシングのようなことをやるなどして、当時の大抵の所属力士達が自分のコンディションを中心として調整したように北ノ洋自身も稽古を積んだ[3]。入門後は第二次世界大戦が激化したが、幸いにも兵役に取られることが無いまま着実に昇進し、1948年10月場所にて新十両昇進を果たした。初めは軽量ながら立合いに頭で当たり、四つに組んでから投げを中心に俊敏な変化を交える半端な相撲だったが、体重が増えて着実に力を付けていくと左を差してから右で押っ付けて一気に寄り切る取り口に変わった[1]。この結果、1950年9月場所で新入幕を果たしてからは上位陣、とりわけ朝潮太郎には滅法強くなり、他にも東富士欽壹・栃錦清隆・千代の山雅信などといった戦後間もない頃を代表する名横綱を度々苦しめ、獲得した金星10個は当時の最多記録だった。 1957年11月場所において腰痛と左足首関節を捻挫して以降は、稽古での申し合いを減らした上で、通勤ラッシュで混雑する平日朝8時頃の両国駅の階段を廻し姿で昇り降りするなど、足の鍛錬を増やしていった。本場所では負け越す回数が増えていくが、怪我をしたならば北の洋なりの回復方法を探って、少しでも長く幕内で活躍しようとする姿勢に、驚く乗客もいたが激励の声も多かった。 現役引退~晩年[編集] 1962年3月場所で5勝10敗と大きく負け越し、来場所の十両陥落が決定的になったところで現役を引退し、年寄・武隈を襲名した。引退時は39歳で、両国駅での毎朝の自主トレーニングが丈夫で長持ちするということを実証した形となった。年寄・武隈としては日本相撲協会の理事や監事を歴任し、春日野理事長の体制を支える重要な役割を担った。弟弟子である安念山治(羽黒山礎丞)からも全幅の信頼をおかれ、1969年10月に先代立浪(元横綱・羽黒山)が亡くなると、年寄・追手風を襲名していた羽黒山礎丞(=安念山)が「立浪」を継承する際に「武隈親方がいれば大丈夫だ」と言われるほどだった[1]。在職中には日本テレビの相撲放送解説を務めていた。 1987年の年末に横綱・双羽黒光司が立浪とちゃんこの味付けを巡って衝突し、女将を突き飛ばして部屋を飛び出す騒動が発生した(双羽黒廃業騒動)。武隈は双羽黒の居場所を突き止め、結果としてそのまま廃業となったことで失敗に終わったものの、双羽黒に対して部屋に戻って謝罪するように説得に当たるなど、騒動解決に奔走した。 1988年1月場所を最後に停年退職し、娘婿の元関脇・黒姫山秀男[1]に年寄・武隈の年寄名跡を譲った。自身は本名の「緒方

Continue reading