イーストポート(英: Eastport)は、アメリカ合衆国メイン州南東部のワシントン郡に位置する市である。2010年の国勢調査では人口1,331 人であり、メイン州23都市の中で人口最少である[4]。市全体が島の上にあり、陸地面積でも最少である。主要な島はムース島であり、本土とは土手道で繋がっている。アメリカ合衆国では最も東にある都市である。ただし近くにあるルーベック町が最も東にある自治体である。 シーコースト・カニング社第4工場の労働者集団、1911年 裁断師達、全て第2工場。彼らの1人ハロルド・ウェイレンは最年少ではなく、タッペン・アベニュー14に住み、1日1ドルを得ている。1911年8月撮影。全国児童労働者委員会の記録写真 パサマクォディ族インディアンが、少なくとも1万年前からイーストポートのある地域を本拠地にしていた。考古学者の中には2万年前から住んでいたと推計する者もいる[5]。最初に知られているヨーロッパ人の接触は、1604年のフランス人探検家サミュエル・ド・シャンプランが設立したセントクロア・コロニーだった。現在のカレスに近く、セントクロア島のアカディア開拓地は成功こそしなかったものの、イギリス人による最初の開拓地バージニア州ジェームズタウンより3年先行するものだった。1604年6月25日、シャンプランとその部下はセントクロア島で長く厳しい冬を過ごし、清水が無く、物資も消えていた状態だった。隊員の5分の2は壊血病で死に、この植民地はファンディ湾を渡って現在のノバスコシア州ポートロイヤルに移動した[6]。 17世紀には漁師や貿易業者がこの地域を訪れていた。ムース島は1772年にマサチューセッツのニューベリーポート出身のジェイムズ・コクランが入植したのが始まりであり、ニューベリーポートやニューハンプシャー州ポーツマスから他の漁師が入って来た。1798年2月24日、イーストポートはマサチューセッツ州議会によって、プランテーション第8号の中から町として法人化され、アメリカ合衆国で最東端という位置づけからイーストポートと名付けられた。1811年6月21日に本土にあるルーベック町が分離して町として法人化された[7]。 1807年から1809年、町はトーマス・ジェファーソン大統領が課した通商禁止法が適用された間、2方向の密貿易の中心となった。1809年、町の丘の上にサリバン砦が建設されたが、米英戦争中の1814年7月11日にはイギリスのトマス・ハーディ卿が指揮する艦隊に占領された。これはニューアイルランド植民地を作ろうといく動きの一部だった。イギリスは、1783年に設定された国境の内側にムース島があると主張した。それでも町は1818年にアメリカ合衆国に返還された。アメリカ合衆国とカナダの国境に関する論争が解決されたのは、1842年のウェブスター=アッシュバートン条約が締結された時だった。イーストポートは1893年3月18日に市として法人化された[8]。 農家は干し草とジャガイモを生産した。工業としては製粉所、箱工場、梳綿工場があった。しかし、この島の経済は主に海に向けられたものだった。イーストポートは潮汐高低差が約25フィート (7.6 m) あり、年間を通じて広い不凍港だった。最初のイワシ加工場は1875年頃に建設された。イワシ漁と関連する缶詰事業の出現で人口が増加した。イワシの加工場は19世紀が終わるまで海岸線を埋めていた。1886年時点で、町にはイワシ工場13か所があり、季節によっては日夜操業され、週間約5,000ケースを生産したこともあった。約800人の男女、子供が工場で働いた[9]。しかしこの産業も衰退し、多くの人が離れて行った。実際にイーストポート市が1937年には破産した。1976年、グラウンドホッグ・デイ突風で水際にあった多くの建造物が破壊された。今日、漁業は主要産業のままだが、観光業も重要になって来た[10]。 イーストポートは関税手続き地である。国境を越えるフェリーがニューブランズウィック州ディア島に渡っている。この島は多くの著名人が過ごす場所となってきている。長年7月4日の独立記念日には海軍の艦船がイーストポートに停泊する。1988年には市制100周年を祝った。毎年9月、歴史ある中心街でメイン州サーモン祭を開催している[11]。 イーストポートとパサマクォディ湾、1839年、ウィリアム・ヘンリー・バートレット画 ワシントン通り、1905年頃 ウォーター通り、1906年 エルム通り、1909年 ウォーターフロント、1908年 ユニオン・ドック、1910年 フロンティア国定銀行、1915年、現在はイーストポート警察署
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