Month: December 2019

黒衣の花嫁 – Wikipedia

『黒衣の花嫁』(こくいのはなよめ、The Bride Wore Black )は、コーネル・ウールリッチ(ウィリアム・アイリッシュ)のミステリ・サスペンス小説。フランスで映画化された。 原書は1948年刊。 1968年公開のフランス映画。フランソワ・トリュフォー監督。原題「La mariée était en noir」は原作の仏題である。 指輪交換の直前に婚約者を殺された花嫁が、5人の男たちを次々に殺していく復讐劇。 ジャンヌ・モローが『突然炎のごとく』以来6年ぶりにトリュフォー映画に出演した。モローの脚を執拗に映すカメラが特徴的。自他共に認める脚フェチであるトリュフォーの情熱が遺憾なく発揮されている[1]。 ストーリー[編集] ジュリー(ジャンヌ・モロー)とダヴィッド(セルジュ・ルソー)は幼いころから将来を誓い合った仲だったが、指輪交換の直前に、ダヴィッドは何者かに撃たれて殺されてしまう。ジュリーは冷たくなったフィアンセの指から指輪を抜きとり、復讐を誓う。 その日、教会の向かい側の建物の一室に、5人の男が集まっていた。彼らは狩りと女が好きな独身男であるという以外は何の共通点も持たなかったが、ときどき集まって遊びやおしゃべりに興じるのだった。酒に酔った勢いで、教会の風見鶏を撃ついたずらを思いついたが、誤って花婿を撃ってしまった。5人は一目散に逃げ出し、二度と会うことはなかった。 ジュリーは5年かけて男たちの居場所をつきとめた。1人目のブリス(クロード・リーシュ)はテラスから突き落とし、2人目のコラル(ミシェル・ブーケ)は薬の入った酒を飲ませて毒殺した。3人目のモラーヌ(ミシェル・ロンスダール)は狭い物置に閉じ込めて窒息死させた。モラーヌは死に際に、実際に銃を撃ったのはデルヴォー(ダニエル・ブーランジェ)であることを白状した。ジュリーは娼婦を装ってデルヴォーのもとを訪ねたが、デルヴォーは別の事件で逮捕され、目の前でパトカーに連行されてしまった。ジュリーはひとまず諦め、フェルギュス(シャルル・デネル)のもとに向かった。フェルギュスは有名な画家だったので、ジュリーはモデルを装って彼に近づき、殺す機会を窺うが、ここで思わぬ誤算が起きてしまう。 キャスト[編集] ※括弧内は日本語吹替(テレビ版・初回放送1974年3月24日『日曜洋画劇場』) パロディ等[編集]

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応神村 – Wikipedia

応神村(おうじんそん)は、徳島県板野郡に属していた村。1966年に徳島市へ編入され徳島市応神町となる。また応神町一帯を応神地区という。東西5.44km、南北2.82 km、面積9.06km2。 四国三郎で有名な吉野川下流部にある町で、四国三郎橋や吉野川橋などの有名な橋梁が町へ架かっている。 近年では近郊農業が振興し、四国大学や生光学園などの多くの教育機関が充実するなど、都市化が進んでいる。「応神」の名は村内に鎮座する別宮八幡神社の主祭神から付けられた。 河川[編集] 南部には吉野川が流れ、その吉野川水系である正法寺川が町の西部を流れている。北部には今切川が流れており、北島町と町境になっている。 画像[編集] 隣接している自治体(合併時)[編集] 1889年 町村制施行に伴い東貞方村, 西貞方村, 古川村, 中原村, 吉成村が合併して板野郡応神村が成立。 1916年 応神村吉成字轟に吉成駅が開業。 1928年 吉野本町と応神村を結ぶ吉野川橋が開通。 1963年 四国大学が応神村古川に新キャンパスを創立。

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鼻ぐり井手 – Wikipedia

鼻ぐり井手(はなぐりいで)は、熊本県菊陽町の馬場楠にある特別な構造の用水路で、この構造により、阿蘇方面から流れてくる土砂が堆積することなく水を通す仕掛けである。加藤清正が造らせた。 鼻ぐり井手(鼻ぐり大橋から望む) 鼻ぐりの語源[編集] 『広辞苑』によると、鼻削(はなぐり)、鼻木、牛の鼻に通す環とある。穴を穿って水流を結ぶやり方がこれに似ている[1]。 「辛川の九十九刎」ともいう。発音はからかわの つくもばね、外に つづらおれとも称した[2]。辛川は当時の名称で、益城郡沼山津(ぬやまづ)手永、辛川村。 加藤清正は白川沿いの馬場楠(ばばぐす)村に大きな堰を作り、頑丈な人工の用水路(井手(いで)=人工の川)を掘り、下流の託麻、益城、合志の3郡の田に水を引いた[3]。 その方法とは 石堰1か所 長さ63間(約113メートル) 馬場楠村 井手 913間(約1638メートル) 堰の取り入れ口から鼻ぐりまで 井手 215間(約387メートル) 山中の岩を掘りぬいた距離 を造り、3番目の387メートルの所は山の中を掘り抜いている。底は岩になっている。白川の流域では阿蘇の火山灰(ヨナと称する)による土砂が多く、岸が高いところでは、さらえても土砂は捨てることができない。そこで鼻ぐり(地下の穴)を80箇所作った。これは岩の上の方を、橋の如く残し、その下だけを刳りぬくことで穴になっており(はなぐり)、水は狭いところを流れ、上の広いところに水を貯えるようにする。すると川底の水は激流となり、土砂がかき回され、川下に流れるという仕掛けである[4]。別の言葉でいうと、川底に高さ4m×幅1mの仕切岩盤を残し、水の通る下辺には直径約2mの穴が左右交互にくり抜かれ、一つの穴から出た水は必ず壁につきあたり渦巻くことになる[5]。流れくる火山灰は舞い上がり、底に堆積することなく下流に流れる仕組みになっている。 沈砂施設[編集]

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ドミトリー・リス – Wikipedia

この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。 ドミトリ・リス ドミトリー・イリイチ・リス(ロシア語: Дмитрий Ильич Лисс, ラテン文字転写例: Dmitri Ilyich Liss, 1960年10月28日[1] – )は、ロシアの指揮者[2][3]。 サラトフ州バラショフの出身。モスクワ音楽院でドミトリー・キタエンコに指揮法を学び、在学中よりドミトリー・キタエンコ指揮下のモスクワ・フィルハーモニー管弦楽団の練習指揮者として研鑽を積んだ。1984年に音楽院を卒業すると、クズバス交響楽団の指揮者陣に加わり、1991年に首席指揮者に昇格。1995年にロヴロ・フォン・マタチッチ国際指揮者コンクールで優勝[4]してウラル・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に転じたが、1997年から1999年までロシア・アメリカ・ユース管弦楽団の首席指揮者、1998年から2003年までロシア・ナショナル管弦楽団の准指揮者、2016年から南ネーデルランド・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者[5]を兼務。 [脚注の使い方] ^ Маслова, Ольга (2015年4月30日). “Дирижер

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奥茶臼山 – Wikipedia

奥茶臼山(おくちゃうすやま)は、長野県飯田市と下伊那郡大鹿村にまたがる赤石山脈(南アルプス)の標高2,474 mの山[3]。山頂には二等三角点が設置されていて[1]、山頂部は大鹿村に位置する[4]。 山域がシラビソ、コメツガなどの亜高山帯針葉樹林の国有林[5]となっている。山域は南アルプス国立公園の指定区域外である[6]。日本山岳会により日本三百名山の一つに選定されている[5]。別称が、上沢山、中山日向[7]。江戸時代には、キダル前山と呼ばれていた[7]。北麓の釜沢では東斜面に朝日が当らず、昼ごろに日が当たるころから「お昼山」と呼ばれている[7]。1343年(興国4年)から約30年後醍醐天皇の宗良親王が北山麓の大河原城に滞在した[5]。麓から林道が頂上近くまで延びるにつれて、国有林の伐採が進み、ニホンジカなどが生息している[7]。伊勢湾台風により倒木の被害を受けたが、天然更新が進み、樹林下ではオサバグサ、マイヅルソウ、コケ類などが自生している[7]。 二つのルートの登山道が開設されている。山頂は樹林に囲まれ展望はきかないが、北側斜面を少し下った辺りは伐採されているため、南アルプス、中央アルプス、伊那谷を望むことができる。従来は青木林道入口のゲートから長い林道歩きをするルートしかなかったが、2006年に飯田市が尾高山から奥茶臼山へ続く尾根伝いの登山道を開通させたため、奥茶臼山山頂まで登山口のしらびそ峠から8時間から8時間30分程度のコースタイムで往復できるようになりメインルートになっている[5][8][9]。付近に山小屋はないが、しらびそ峠登山口から南に徒歩10分ほどのところに宿泊施設のしらびそ高原 天の川がある。 しらびそ峠からのルート[編集] 登山経路は、しらびそ峠(標高1,833 m) – 前尾高山(標高2,089 m) – 尾高山(標高2,212 m) – 奥尾高山(標高2,266 m) – 岩本山(標高2,269 m)

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スーパーキー (キーボード) – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “スーパーキー” キーボード – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年12月) スーパーキー(英語: Super key)はコンピュータのキーボードのキーの一つであるが、コンピュータの歴史上、複数のキーボードで異なる働きをするキーが「スーパーキー」と呼ばれてきた。 最初にスーパーキーと呼ばれたのは、スペースカデットキーボードの修飾キーであった。現在では、スーパーキーはLinuxやBSDにおいて、Windowsキーやアップルキーボードのコマンドキーの別名として使われている[1]。 ナイトキーボードとスペースカデットキーボード[編集] トム・ナイト(英語版)はナイトキーボード(英語版)とスペースカデットキーボードを作った。ナイトキーボードからスペースカデットキーボードへの改善は、バッキービットのための2つの修飾子、ハイパー(Hyper)とスーパー(Super)を追加したことだった。スーパーキーは第3のバッキービット(十進数で 4 を表す)を修飾した[2]。LISPマシンでのスペースカデットキーボードの使用法から、スーパーキーはEmacsが使用する修飾キーの一つとして採用された。そのため、スーパーキーのない現代の大部分のシステムでEmacsを使う場合には、スーパーキーを他のキーで代用する必要がある。 LinuxとBSD[編集] スペースカデットキーボードの時代に設計されたため、X11では(キーボードで一般的に利用可能だった「シフト (Shift)」「コントロール

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シコルスキー S-58 – Wikipedia

シコルスキー S-58(Sikorsky S-58)は、アメリカ合衆国の航空機メーカー、シコルスキー・エアクラフト社が開発したヘリコプター。シコルスキー S-55の機体を大型化し、エンジン出力も増大して実用性を高めた機体である。日本をはじめ世界各国へ輸出、イギリスやフランスでも生産が行われることで、全世界で2,261機が製造されるベストセラー機種となった。 S-58は同社の社内呼称であるが、販売にもこの名称を使用していた。 S-55の対潜哨戒機型であるHO4Sの航続力や搭載能力の不足を指摘したアメリカ海軍からの開発要求を受けて、1952年から開発が始まった。試作機は1954年に初飛行、海軍によってHSS-1と名づけられ、1955年に配備が開始された。 S-55同様、空冷星型レシプロエンジンを後ろ斜め上向きにして機首に搭載し、出力軸(メインローター駆動軸)が機内を斜めに貫く独特の配置であった。しかし胴体は再設計されてキャビン容積が拡大し、エンジン出力も強化されたことに伴いローターの枚数が増えトランスミッションも一新された。これによって搭載量は大幅に増加し、充分な対潜機器を装備することができ、対潜機器を備えなければ輸送機として多くの人員や荷物を積むことができた。しかしそれでも対潜機器と武装を同時に搭載することはできず、ソナーを装備した探知用の機体と、爆雷や魚雷を装備した攻撃用の機体がペアを組み(ハンター/キラーチーム)、駆逐艦とセットで対潜戦闘を行った。 アメリカでの運用[編集] 海軍での採用に続いてアメリカ海兵隊(HUS-1)やアメリカ空軍(H-34)にも導入された。陸軍、沿岸警備隊でも、高い実用性を評価され、輸送機や救難機として採用された。 陸軍での愛称チョクトー(Choctaw)は北米インディアンの部族名にちなむ。また、HSS-1にシーバット(Seabat)、HUS-1にシーホース(Seahorse)の愛称を用いていた。 1962年に米軍統一命名基準が定められたため、空軍が付与していたH-34が当機の制式名称となり、対潜哨戒機がSH-34、多用途機がUH-34、輸送機がCH-34となった。 ベトナム戦争にも参加し、後継機(海軍ではSH-3(HSS-2)、陸軍ではUH-1など)が配備されると、1980年代はじめに引退した。 イギリスでの運用[編集] ウェストランド ウェセックス イギリスのウェストランド社がウェセックス(Wessex)と名づけてライセンス生産していたが、エンジンをターボシャフトエンジンの単発あるいは双発とし、電子装備を英国製に変更するなどの改良を行い、独自に輸出も行っている。 イギリス海軍で対潜ヘリとして採用されただけでなく、海兵隊を支援する輸送ヘリコプターとしても使用された。空軍でも救難ヘリコプターとして採用された。これらはフォークランド紛争にも参加し、2003年まで現役であった。 日本での運用[編集] 日本では、1957年(昭和32年)に海上自衛隊が対潜哨戒機HSS-1として採用したことから、三菱重工業が1958年(昭和33年)から5年間に20機をノックダウン生産した。 海上自衛隊では昭和33~36年度に8機(8551

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エイドリアン・ヒース – Wikipedia

エイドリアン・ポール・ヒース(英語: Adrian Paul Heath、1961年1月11日 – )は、イングランドの元サッカー選手、現サッカー指導者。選手時代のポジションはFWもしくはMF。 クラブ歴[編集] スタッフォードシャーのニューカッスル=アンダー=ライムに生まれた。地元のリーグでプレーしていた所からストーク・シティFCに加入[1]、17歳でプロ契約を締結してハワード・ケンドール選手兼任監督の下でリザーブチームでプレーしていた。彼の活躍によってクラブはザ・セントラル・リーグで2位、そしてクラブの年間最優秀若手選手に輝いた。1979-80シーズンにはトップチームでレギュラーを摑み、昇格組であったトップチームを残留に導いた[1]。翌シーズンも41試合、さらにその次のシーズンも半年の在籍で20試合に出場した[1]。 彼のスピードは国内で最も欲しがられる才能となった中で、1982年1月にストーク・シティのリッチー・バーカー監督はハワード・ケンドール率いるエヴァートンFCへの移籍を承認、エヴァートンは彼をクラブ史上最高値の75万ポンドで獲得した[1]。1982-83シーズンでは18得点を記録しチーム内の得点王となった。1983-84シーズンはEFLカップ決勝でオックスフォード・ユナイテッドFCのケヴィン・ブロックのバックパスを引っ掛けてアウェーゴールを奪う活躍を見せたがクラブは準優勝に終わった。翌1984-85シーズンは怪我もあって17試合出場に止まったが、クラブはリーグ優勝を記録した。また、1986-87シーズンにも優勝を記録している。 1988年11月にリーガ・エスパニョーラのRCDエスパニョールに移籍したが、1シーズンで退団した。 1989年夏にアストン・ヴィラFCに移籍しイングランドに復帰した。 1990年にマンチェスター・シティFCに移籍。当時の監督はハワード・ケンドールで、エヴァートン時代の教え子を集めており、彼にとっては三度目の指導となった[2]。1990-91シーズンはナイアル・クインとコンビを組んでおり、大柄で空中戦を制するクインと小柄ですばしっこい彼とのコンビで33試合のスターティングメンバーを飾った。しかしながら彼の得点だけは伸びず、僅かに1得点であった[3]。その後も得点はなかなか記録出来ず、1991年11月になって46試合ぶりの得点、それも2得点を記録した[4][5]。しかしこの1991-92シーズンの間に若手のマイク・シェロンが頭角を現し、ポジションを失っていった。 1992年3月に古巣のストーク・シティに復帰し、3部に落ちていたクラブで6試合に出場しプレーオフの末に昇格を決めた[1]。 同年夏にバーンリーFCに移籍、1994年の1部昇格に貢献した。 1995-96シーズンにシェフィールド・ユナイテッドFCに加入したが、シーズン中に再びバーンリーに移籍、1996-97シーズンで引退した。 U-21代表としてUEFA U-21欧州選手権1982に出場した。 英国[編集] 1996年3月に選手兼任監督としてバーンリーで指導者としての経歴を始めた。同シーズンを9位で終え、引退と同時に退団した。 その後はエヴァートンとマンチェスター・シティでチームメイトであったピーター・リードとともに、サンダーランドAFCで働き、彼は下部組織を任せられた[6]。

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トーマス・エドワード・ロレンス – Wikipedia

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2020年2月) トーマス・エドワード・ロレンス(Thomas Edward Lawrence、1888年8月16日 – 1935年5月19日)は、イギリスの軍人、考古学者。オスマン帝国に対するアラブ人の反乱(アラブ反乱)を支援した人物で、映画『アラビアのロレンス』の主人公のモデルとして知られる。 生い立ち[編集] トーマス・エドワード・ロレンスは1888年にウェールズのトレマドックで生まれた。父はトーマス・ロバート・タイ・チャップマン(英語版)(後に第7代チャップマン準男爵(英語版)となる)、母はセアラ・ロレンス。夫妻は正式な結婚ができなかったため、ロレンス姓で生活し、彼らの子供たちもこれに倣った。 1907年、オックスフォード大学ジーザス・カレッジに入学。1907年と1908年の夏には長期に渡ってフランスを自転車で旅し、中世の城を見て回った。1909年の夏にはレバノンを訪れ、1,600キロもの距離を徒歩で移動しながら、十字軍の遺跡調査をしている。1910年の卒業時には、これらの調査結果を踏まえた論文[1]を著し、最優秀の評価を得た。 卒業後は、アラビア語の習得のためベイルートを経由してビブロスに滞在した。1911年には、恩師のデイヴィッド・ホガース(英語版)博士による大英博物館の調査隊に参加し、カルケミシュで考古学の仕事に従事した。同じ頃、ガートルード・ベルと知己を得ている。 ロレンスは短期の帰国をはさんで再び中東に戻り、考古学者のレオナード・ウーリーと共にカルケミシュでの調査を続けた。同地での研究のかたわらで、ウーリーとロレンスはイギリス陸軍の依頼を受け、水源確保の点から戦略的価値が高いとされていたネゲヴ砂漠を調査し、軍用の地図を作成している。 トーマス・エドワード・ロレンス アラビアのロレンス[編集] 1914年7月、第一次世界大戦が勃発し、イギリスも連合国の一員として参戦することになった。ロレンスは同年10月に召集を受け、イギリス陸軍省作戦部地図課に勤務することになる。臨時陸軍中尉に任官された後、同年12月にはカイロの陸軍情報部に転属となり、軍用地図の作成に従事する一方で、語学力を活かし連絡係を務めるようになった。 1916年10月には、新設された外務省管轄下のアラブ局(英語版)(局長はホガース)に転属され、同年3月には大尉に昇進。この間の休暇にアラビア半島へ旅行し、オスマン帝国に対するアラブの反乱の指導者候補たちに会った[2]。 情報将校としての任務を通じて、ロレンスはハーシム家当主フサイン・イブン・アリーの三男ファイサル・イブン・フサインと接触する。ロレンスはファイサル1世とその配下のゲリラ部隊に目をつけ、共闘を申し出た。そして、強大なオスマン帝国軍と正面から戦うのではなく、各地でゲリラ戦を行いヒジャーズ鉄道を破壊するという戦略を提案した。この提案の背景には、ヒジャーズ鉄道に対する絶えざる攻撃と破壊活動を続ければ、オスマン帝国軍は鉄道沿線に釘付けにされ、結果としてイギリス軍のスエズ運河防衛やパレスチナ進軍を助けることができるという目論見があった。 1917年、ロレンスとアラブ人の部隊は紅海北部の海岸の町アル・ワジュの攻略に成功した。これによりロレンスの思惑通り、オスマン帝国軍はヒジャーズの中心であるメッカへの侵攻をあきらめ、メディナと鉄道沿線の拠点を死守することを選んだ。続いてロレンスは、戦略的に重要な場所に位置するにもかかわらず防御が十分でなかったアカバに奇襲し、陥落させた。この功により、ロレンスは少佐に昇進している。 1918年、ロレンスはダマスカス占領に重要な役割を果たしたとして中佐に昇進する。大戦が終わりに近づく中、従軍記者のローウェル・トーマスと彼のカメラマンは、ロレンスの写真と映像を記録している。 戦後[編集] 戦争終結後、ロレンスはファイサル1世の調査団の一員としてパリ講和会議に出席する。1921年1月からは、植民地省中東局・アラブ問題の顧問として同省大臣のウィンストン・チャーチルの下で働いた。1921年3月21日にカイロ会議に参加した。

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