Month: January 2020

陳曾燾 – Wikipedia

陳曾燾(ちん そとう、トーマス・チャン、中国語: 陳曾燾、英語: Thomas Tseng-tao Chen)は、香港の実業家。不動産開発会社・恒隆集団と同社子会社の恒隆地産の創業者[1]であり、第2代董事長も務めた[2]。中華人民共和国広東省順徳市(現:仏山市順徳区)出身[3]。 兄は同社の創業者および初代董事長の陳曾熙[4]。陳曾熙の長男は陳啓宗(現在の恒隆集団および恒隆地産の董事長)[5]。 中国広東省順徳市(現:仏山市順徳区)生まれ、香港育ちであり、初等中等教育を受けた[6]。 1948年、復旦大学を卒業後、建設業を営むために香港に戻り、陳曾熙と共に恒隆集団と恒隆地産を設立し、取締役会の総支配人兼会長を務めた[6]。1986年、陳曾熙の死去後に同社の董事長を引き継ぎ、5年間務めた[7][8]。1991年からは陳曾熙の長男である陳啓宗に引き継がれた[5]。1993年をもって退任した[3]。 長年にわたり教育支援を行っており、復旦大学や南京大学、香港中文大学、香港科技大学等の多くの大学の理事および諮問委員を務めていた[3]。1996年、香港中文大学より社会科学の名誉博士号を取得した[3]。 [脚注の使い方] ^ “香港大學表揚八位傑出人士”. 香港大学 (2006年12月15日). 2019年4月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年11月5日閲覧。 ^ “恒隆集團致股東函(2019年報)|陳啟宗:溫故與知新,恒隆這60年”. 觀點地產網 (2020年3月25日).

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ニック・フェニックス – Wikipedia

ニック・フェニックス 生誕 1967年??月??日 出身地 ロンドン ジャンル エピック、ロック、クラシック・クロスオーバー 職業 作曲家、プロデューサー 活動期間 1997年 – 現在 共同作業者 トーマス・バーガーセン 公式サイト https://nickphoenix.com/ ニック・フェニックス(Nick Phoenix、1967年 –

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アイザイア・ジャクソン – Wikipedia

アイザイア・ジャクソン(Isaiah Ju’mar Jackson, 2002年1月10日 – )は、アメリカ合衆国・ミシガン州ポンティアック出身のプロバスケットボール選手。NBAのインディアナ・ペイサーズに所属している。ポジションはパワーフォワード。 ハイスクール[編集] 高校時代はジョーダン・ブランド・クラシックに選出されるなど[2] 、5つ星の新入生として評価された。アラバマ大学やシラキューズ大学などからオファーがくる中、ケンタッキー大学にコミットした[3]。 氏名 出身 高校 / 大学 身長 体重 コミット日 アイザイア・ジャクソンPF Pontiac, MI

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埼玉桶川スカイダイビング墜落事故 (1969年) – Wikipedia

埼玉桶川スカイダイビング墜落事故(さいたまおけがわスカイダイビングついらくじこ)は、1969年12月15日に埼玉県桶川町(当時)で発生したスカイダイビングの死亡事故[1]。スポーツ・スカイダイビングで日本で初めて起きた死亡事故でもある[2]。以後、事故被害にあったスカイダイバーをAと表記する。 事故背景[編集] Aが属していたスカイダイビング・クラブは、本事故の起きる直前の1969年7月に発足したばかりで[1]、社会人が中心であった[1]。本拠地は調布飛行場であったが[1]、スカイダイビングを行なうには手狭であったため、ホンダエアポートや千葉県習志野市の陸上自衛隊第一空挺団の施設を利用していた[1]。Aは、この時、降下6回目[1]で自動索降下によるトレーニング期間中であった[1]。 自動索降下[編集] 自動索降下とは、リップコード[注釈 1]に自動索とよばれるロープを取り付け、この自動索を飛行機に引っ掛けておき、スカイダイバーが飛行機から飛び出すと、自動索が伸びきり自動的にパラシュートが開くようにしたものである[3]。自動索降下は事故当時、初心者に対する一般的なトレーニング方法であった[3]。またリップコードには減速用の誘導傘がついていた[1]。Aはメインパラシュートの他に予備パラシュートも装着していた[1][2]。 事故状況[編集] 天候[編集] 事故のあった日の天候は、桶川町近くの熊谷の午前9時の地上の気象観測データによると、快晴、気温は1.4℃、北西の風、風速0.5m/sであった[4]。 事故の概要[編集] Aを含む10人が1969年12月15日、午前7時30分ごろ、セスナ機でホンダエアポートを離陸した[1]。インストラクターの指導のもと、自動索降下で、高度700メートルから空港滑走路の延長上にあるオーバーランの芝生の上に降下する訓練を行う予定であった[1]。 この時、Aは女優の應蘭芳とペアを組んでおり[1]、應蘭芳が降下した後に、続いて降下を始めた[1]。しかし、パラシュートが開かず、補助パラシュートも使用しないまま[5]芝生の上に墜落した[1]。即死だった[1]。 事故の原因[編集] Aがセスナ機から降下を開始直後、通常の姿勢とは異なり、背中が下になってしまった[2]。その時誘導傘が脇の下に挟まり[2]、またメインのパラシュートを抱えてしまったため、予備パラシュートを開く動作ができなかったと推定される[2]。 注釈[編集] ^ パラシュートを開くために引く紐のこと 出典[編集] 参考文献[編集] “死のスカイダイビング”.

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カントリー・ライフ – Wikipedia

『カントリー・ライフ』(Country Life)は、ロキシー・ミュージックが1974年に発表したアルバム。通算4作目。 『フォー・ユア・プレジャー』以降のアルバム制作に協力してきたレコーディング・エンジニアのジョン・パンターが、本作では共同プロデューサーとしてもクレジットされている。2人の女性モデルがシースルーの下着を着ているジャケット写真が物議を醸し、アメリカでは袋入りで販売され、ドイツでは1人のモデルの顔をアップにした写真に差し替えられ、カナダでは女性2人を消すといった措置が取られた[1]。なお、この2人のモデルは、「ビター・スウィート」の作詞にも協力(歌詞の一部をドイツ語に翻訳した)。モデルの1人はカンのギタリスト、ミヒャエル・カローリの妹である。なお、カバーのモデルは性転換者であるというデマが流れている。 ロキシー・ミュージックのアルバムとしては初めて、アメリカのアルバムチャートでトップ40入りを果たした。「オール・アイ・ウォント・イズ・ユー」[2]はシングル・カットされ、母国イギリスのシングル・チャートで12位。「カサノヴァ」は、ブライアン・フェリーのソロ・アルバム『レッツ・スティック・トゥゲザー』(1976年)でセルフカヴァーされた。 「『ローリング・ストーン』誌が2003年に選出したオールタイム・グレイテスト・アルバム500」で387位にランク・イン[3]。 特記なき楽曲はブライアン・フェリー作。 「ザ・スリル・オブ・イット・オール」 – “The Thrill of It All” – 6:24 「スリー・アンド・ナイン」 – “Three and Nine”

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克本かさね – Wikipedia

この存命人物の記事には、出典が全くありません。信頼できる情報源の提供に、ご協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “克本かさね” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年4月) 克本 かさね(かつもと かさね、9月30日[要出典] – )は、日本の漫画家[1]。新潟県出身、血液型はO型。1987年、別冊「ASKA」夏の号掲載の『SCAT EGG』でデビュー。[要出典]代表作は『愛の鉄人』[1]、『恋愛中毒』[1]、『口説き上手な男たち〜若社長の愛のおしおき〜』など[1]。ティーンズラブ漫画を手がける[1]。 デビューから2002年ごろまでは『ASUKA』(角川書店)にて、中高生の少年が主人公のファンタジー作品などを多く描いていた。この時期の代表作は『その手をどけろ!』(全8巻)、『光の子』(全4巻)など。[独自研究?]また、原作付きの作品や小説の挿絵なども手掛けている。 2003年ごろからは『COMIC Honey』(同社)にてやや性描写のある作品を[独自研究?]発表するようになり、2005年ごろには秋田書店に移り、『恋愛LoveMAX』にて性描写の多い作品を発表するようになっている。[独自研究?] 2018年には『恋愛LoveMAX』作家の一員として扱われている[2]。 作品リスト[編集]

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スプーン階級論 – Wikipedia

スプーン階級論(スプーンかいきゅうろん)あるいはさじ階級論(韓国語: 수저계급론)は、大韓民国発祥のスラングあるいはミーム。現在の韓国社会に広まる「親の職業や経済力によって人生が決定され、本人の努力では社会階層が上昇することはない」という考え方を象徴する言葉。日本の「親ガチャ」に類似したネットスラングである。 英語のイディオムである“born with a silver spoon in one’s mouth”(銀のスプーンを咥えて生まれる=裕福な家庭に生まれる)から派生した、親の資産・年収によって人物をランク付けする考え方で、2015年に韓国のSNS上で流行した[1][2][3]。なお、韓国の新聞や放送などで古くから「出身背景が良い人」を指す用語として使われてきた금수저(クムスジョ、金匙)という言葉があるという[4]。なお、本来スジョ(수저)はスプーン(匙、さじ)のスッカラック(숫가락)と箸のチョッカラック(젓가락)のセットを指すが、由来するイディオムから単にスプーンまたはさじと訳される。 「さじ」のランクは概ね以下のように分けられる[5]。ただし金額については違う数字を挙げるものもある。 名称 資産 年収 金スプーン 20億ウォン(約2億円) 2億ウォン(約2000万円) 銀スプーン 10億ウォン(約1億円) 8,000万ウォン(約800万円)

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ツバメしんどろ〜む – Wikipedia

『ツバメしんどろ〜む』は、茜虎徹(あかね こてつ)の漫画作品。富士見書房の雑誌『月刊ドラゴンエイジ』で2003年5月号から2008年1月号まで連載された。 あらすじ[編集] 主人公の少年・倉敷敦河(タイガ)は、一応健康な高校2年生。2年前の事故で両親と記憶を失った(と思っている)。今は姉の燕(ツバメ)と2人暮らしだが、なぜか姉のことが気になってしかたがない。 そんなある日、敦河の心臓の鼓動が上がった時、異形の怪物が出現した。実は、敦河の心臓は謎のエネルギー体「源始の心臓(オリジン・ハート)」であり、感情が高ぶると暴走して激しくドキドキし、それは宇宙から怪物を呼び寄せてしまうものだった。 そして姉の燕は、そんな敦河を怪物から守る任務を帯びた銀河連邦の調査員で宇宙人だった。 そんな敦河の周囲は、クラスメイトの遥をはじめ、宇宙海賊の(外見は)少女や、妙にセクシーなメイドロボットまで出現し、騒動となってしまうのだった。 登場人物[編集] 倉敷 敦河(くらしき たいが) 本作品の主人公。作中では「タイガ」とカタカナ表記されることが多い。2月13日生まれの高校2年生。身長171cm。 非常に優しい性格だが、その裏返しでやや優柔不断なところもある。運動、勉強ともに普通レベル。 心臓は「源始の心臓(オリジン・ハート)」というもので、これが暴走(ドキドキ)すると、異形の怪物(ファントム)を呼び寄せてしまう。 2年前に事故に遭い、両親と記憶を失った(と本人は思っている)。また、筋金入りのカナヅチだったが、犬かきぐらいはできるようになった。 ツバメに恋愛感情を持っているが、相手が姉ということで押さえ込んでいる。 遥とは、高1の時に知り合った。 カクテルに一度は「迷惑だ」と言ったものの、またひとりぼっちになる寂しさを理解し「おかえり」という最大級の優しい言葉をかけた。 ツバメに頼りすぎないために、ウーラに頼んで身体を鍛える特訓をしたことがある。 実は、敦河の身体自体に、本人も知らない秘密がある。それはツバメが敦河を守る理由でもあると同時にツバメの心を曇らせ、ウーラが驚愕するほどのものらしい。

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宇宙大怪獣ドゴラ – Wikipedia

公開前々年に開通したばかりの若戸大橋。劇中でドゴラによって破壊される。 『宇宙大怪獣ドゴラ』(うちゅうだいかいじゅうドゴラ)は東宝が製作し、1964年(昭和39年)8月11日に封切り公開された日本の怪獣映画[5]。81分、総天然色、東宝スコープ[5][1]。同時上映は『喜劇 駅前音頭』[1]。 ドゴラは、本作品の劇中に登場する宇宙怪獣の名称。 従来の怪獣映画とは異なる不定形の宇宙怪獣の表現に挑んだ異色作[7]。ストーリー面でも、従来の人間対怪獣の構図に並行して宝石強盗団とそれを追うダイヤGメンや刑事との攻防が描かれ、娯楽性を高めている[出典 3]。脚本を手掛けた関沢新一は、アクション映画も多数手がけており[8]、アクションシーンなど、当時大流行していた「007シリーズ」の影響が見られる。 後年のDVDパッケージなどにも用いられた公開当時の宣伝用ポスターでは、建物やF-104を空中に舞わせるドゴラの姿が描かれていたが、作中にそのような場面は存在しない。 ドゴラは大変な工夫と苦労を重ねて撮影されたが、後述の理由によって姿が不明瞭な怪獣とならざるを得なかったため、内容が人間アクションに重点を置いている理由にはこのような面もあった[11]。 ドゴラを表現する技術力は評価されているが、怪獣としてのキャラクター性は薄いとされる[12][6]。東宝プロデューサーの田中友幸は、自身では好きな作品であるとしつつ、目先を変えようとしてストーリーにリアリティを持たせたものの、ドゴラの形状が曖昧でうまくいかなかったと述べている[13]。本作品と『マタンゴ』の興行的失敗から、本格SF路線はゴジラシリーズなどの怪獣路線に吸収されていった[12]。一方で、『三大怪獣 地球最大の決戦』や『怪獣大戦争』など、本作品と同じく関沢が脚本を手掛けた怪獣映画では、人間ドラマを中心とした作品が増えていった[8]。 ストーリー[編集] 日本上空を周回中のテレビ中継衛星が、原因不明の消失を遂げる。それと並行して世界各国の宝石店が襲われ、多量のダイヤモンドが盗まれる事件が頻発する。警視庁は、ダイヤモンド盗難事件を全世界に指名手配されている宝石強盗団一味の仕業と判断して捜査を開始したが、実は宝石強盗団も正体不明の別の強盗団に強盗を妨害され、いらだっていた。 警視庁外事課の駒井刑事は、マークと名乗る謎の外国人を宝石強盗団の仲間と見て追跡中、彼が逃げ込んだと思われる、ダイヤモンドの研究を行なっている宗方博士のもとを訪れ、マークを発見するもあと一歩のところで出し抜かれてダイヤを強奪されてしまうが、マークもまた別の強盗団の一味と疑われて強盗団に拉致され、ダイヤを強奪されてしまう。しかし、マークが強奪したダイヤは宗方博士が開発・研究中の模造品「人造ダイヤ」であったことが判明し、マークもまた強盗団の隙を突いて逃亡する。強盗団は、数日後に横浜から運ばれるダイヤを強奪することを決意する。一方、宗方博士の助手をしている女性・昌代を護衛していた駒井と、電波異常の調査をしていた桐野の目の前で、石炭集積場の石炭が空に吸い取られるという事件が起きる。 数日後、ダイヤを輸送していたトラックを襲撃した強盗団は、彼らを追っていたマークとの銃撃戦になる。その最中、突如トラックが浮遊してダイヤを輸送していたトラックに落下するという異常が起きる。辛くも強盗団はダイヤを強奪するが、今度の中身は氷砂糖であった。後日、宗方博士の元を訪れた駒井刑事ら警視庁と合流したマークは、自身が世界ダイヤ保険協会の調査官(ダイヤGメン)であることを明かし、共同で強盗団に立ち向かうことになる。 それからまもなく、宗方博士や国連科学委員会の調査によって、両事件とも突然変異した宇宙細胞の仕業であることが判明する。炭素をエネルギー源としている宇宙細胞は、エネルギー補給のために炭素を大量に含んだダイヤモンドや石炭などの物質を必要としていた。そして、巨大化した宇宙細胞は「ドゴラ」と命名される。ドゴラは次々と世界各国を襲撃し始め、とくに石炭の産地として有名だった福岡県の北九州市では自衛隊が集結してドゴラを対空砲で迎え撃つが、ドゴラはまったく動じずに石炭を吸い上げ続けながら、触手を伸ばして若戸大橋を持ち上げ、水面に叩きつける。そこで自衛隊は対空ミサイルを発射してドゴラを粉砕するが、ドゴラは無数の小さく光る細胞へ変化し、状況は悪化してしまう。しかし、ジバチの群れが上空に現れるとドゴラは結晶化する。実は、ドゴラの細胞はジバチの毒によって結晶化するという弱点を持っており、炭鉱にある巣をドゴラに襲われたジバチが反撃したことによってそれが判明する。ドゴラ対策に躍起になっていた矢野博士は、ジバチの毒を世界中で大量生産することを指示する。こうして地上からドゴラへの反撃が開始され、地球上のドゴラはすべて結晶化し全滅した。 宇宙大怪獣ドゴラ[編集] 原水爆実験の影響により放射線が蓄積して一種の「吹き溜まり」状態になっている日本の上空で、その影響によって宇宙を漂流していた単細胞が突然変異して複数の単細胞が超巨大な宇宙細胞へと融合した怪獣[出典 9]。 炭素をエネルギーとしているため、ダイヤモンドや石炭を狙って世界各国の炭鉱地帯や貴金属店を襲撃する。単細胞状態では細胞全体から金庫の扉を溶かすほどの高熱を出すほか、人間やトラックを浮遊させることで排除できる。その後、北九州上空で複数の細胞が結合してクラゲ状の生物となり、巨大な触手で若戸大橋を持ち上げて破壊する。 対空砲による攻撃はまったく効果がなかったが、対空ミサイルで粉々になったことにより、単細胞状のドゴラが大量発生する。しかし、ジバチの毒で細胞が結晶化することが判明すると、ジバチ毒を積んだ落下傘やF-86戦闘機などの攻撃で全滅する。

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安藤更生 – Wikipedia

安藤 更生(あんどう こうせい、1900年(明治33年)6月10日 – 1970年(昭和45年)10月26日)は、日本の美術史家。日本の仏寺、中国美術、鑑真、書道などを研究した。 東京出身。本名は正輝。早稲田中学を経て東京外国語学校(現東京外国語大学)を卒業。早稲田大学仏文学科へ進むも中退[1](1924年)。 会津八一に師事し、1923年、奈良美術研究会を創設(のち東洋美術研究会)。1929年に研究誌『東洋美術』を創刊。1938年、中華民国に渡り、新民印書館に勤務。 安藤が編集した『北京案内記』は、北京に関する案内書としては、名著と言われ、評価が高い。1966年、多摩美術大学で教授を務めた。[2] 戦後は早稲田大学教授を務めた。鑑真研究をライフワークとし、「鑑真大和上伝之研究」で文学博士号を取得(1954年)。 平泉の中尊寺の藤原氏のミイラの調査に携わったので、「ミイラ博士」の呼び名もあった。 カフェーなど昭和初期の銀座風俗を活写した『銀座細見』(1931年)は、ベストセラーになったが、師、会津八一の叱責を受けたという[3]。 1970年10月26日、肺癌および尿毒症のため死去、享年70歳[4][5][6]。 1996年5月25日、『鑑真大和上伝之研究』を書いた安藤更生と、それを元にした鑑真伝となる小説『天平の甍』を書いた井上靖の2人の功績をたたえる顕彰碑「天平の甍」が、唐招提寺境内に建てられ、除幕式が行われる[7][8]。 単著[編集] 『三月堂』飛鳥園〈仏教美術叢書 第1篇〉、1927年11月。 『美術史上の奈良博物館』飛鳥園〈仏教美術叢書 第2篇〉、1929年9月。 『銀座細見』春陽堂、1931年2月。 『鑑真』美術出版社、1958年6月。

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