Month: May 2020

薬師川虹一 – Wikipedia

薬師川 虹一(やくしがわ こういち、1929年1月30日 – )は、日本の英文学者、詩人、写真家、同志社大学名誉教授。 京都市生まれ。1952年同志社大学文学部英文科卒、54年同大学院修士課程修了。立命館大学専任講師、助教授、教授、同志社大学文学部教授、99年名誉教授[1]、東海学園大学経営学部教授[2]。 英国初期ロマン派が専門。詩誌『Ravine』編集・発行同人。1997年京都市芸術文化協会賞受賞。2010年瑞宝中綬章受勲。 日本現代詩人会、日本詩人クラブ、日本翻訳家協会、日本写真協会、日本バイロン協会、関西詩人協会、京都現代詩協議会、京都写真芸術家協会、京都市芸術文化協会に所属。 目次 1 著書 1.1 共編著 1.2 翻訳 2 論文 3 脚注 『疲れた犬のいる風景

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中野ブロードウェイ – Wikipedia

中野ブロードウェイ(なかのブロードウェイ、Nakano Broadway、正式総称コープ・ブロードウェイ・センター[1])は、東京都中野区中野五丁目にある複合ビルである。低層階はショッピングセンター、中・高層階は集合住宅(マンション)となっている。 開業[編集] 中野ブロードウェイが現在建つ敷地は元々、木造家屋が密集する地域だった。中野駅北口から続く商店街(現在の中野サンモール商店街)がそこで行き止まりになってしまっていたため、地元有志の発案により、ここをまとめて買収してビルを建て、1階に裏の早稲田通りに抜ける広い通路を貫通させようという計画が持ち上がった。「ブロードウェイ」という名称は、この「広い通路」に由来する。 しかし資金難でこの事業は頓挫し、開発業者の東京コープに引き継がれた[2]。なお東京コープ社長の宮田慶三郎は先に東京・表参道に完成した高級マンション「コープオリンピア」(渋谷区神宮前6)も手掛けている[3]。 東京コープの半ば自転車操業ともいえる資金難、それに伴う極度の経済効率性重視の設計、地元商店街の反対、買収対象敷地に乃木希典ゆかりの土地が含まれて権利者が反対するなど、建設には様々な困難が立ち塞がった。中野ブロードウェイの敷地の一部は、乃木希典が、自分の死後に妻の静子が生活に困らないようにと、あらかじめ買っていた土地である。ところが乃木は、明治天皇崩御後、その葬儀日の夜に、夫妻で自害し、この土地は相続等により親族の手に渡った。あまりに広いため三つに分筆され、親族はそのうちの一つに住むなど静かな生活を送っていた。親族は、大切な土地が売却されて経済活動に利用され、乃木の痕跡が何もなくなってしまうことを気にして、当初は反対していたようである。 これらの困難を一つ一つ乗り越えて、1966年(昭和41年)、中野駅北口開発の一環として、中野サンモール商店街に続くショッピングコンプレックス(商業住宅複合施設)として中野ブロードウェイは開業した。なお、「広い通路」を貫き通すという建設当初の目論見は、現ダイソー中野早稲田通り店である当時の宮田家具の立地買収に失敗したため外れる結果となった。建設事業費は当時としては破格の60億円と、大変高額だった[3]。この高額な建設費を早期に回収するため、設計者で建築家の馬場信行(馬場建築事務所)に対し、馬場によるモダニズム思想に基づいた当初提案・グランドデザインの大幅変更を命じた。 床面積の大幅増のためのこの変更により廊下等の共用スペースは最小限に抑えられ、メインストリート以外の廊下は自分の居場所がわからなくなるが如く不自然に折れ曲がり、接客スペースや廊下からは外が見えないようになった。エレベーターは数が少ない上にわかりにくい場所に追いやられ、階数を稼ぐ代わりに天井高は低く抑えられ、エスカレーターは上りしかなく中途半端なところまでしか行かないといったように、目的達成の裏で設計思想やその背景にある利便性が犠牲となった。 なお東京コープ販売KKは、1960年(昭和35年)に渋谷区桜丘町に完成した高級マンションの「渋谷コープ」、1963年(昭和38年)に新宿区大京町に完成したデラックス・マンションである「エンパイア・コープ」、そして1965年(昭和40年)には一括払いにもかかわらず完売した原宿駅前の「コープ・オリンピア」を相次いで成功させている。続くデラックス・マンションとして大規模な商業施設を備えた中野ブロードウェイを1966年に完成させるが、1964年東京オリンピック後の不景気が災いして完売まで時間を要したため、その後のコープ計画を断念している。 大規模不動産事業が黎明期にあったとはいえ、当時の東京コープ社長の宮田慶三郎は、中野ブロードウェイの建設と立ち上げで大いに苦労したことから、その後は一切の不動産事業から手を引いて東京コープを解散してしまった。その懲り具合は、宮田が自著『一瞬と永遠 建学の精神の基礎にあるもの』(明海大学企画広報課刊、1990年)で自身の経歴欄から、中野ブロードウェイを含んだ不動産事業に関する記述を一切排除していることからも伺われる。 なお、不動産事業をやめてからの宮田は学校経営事業に進出し、明海大学や朝日大学といった大学を設立した。「日本で不動産学が学べる唯一の場所」と言われる不動産学部が明海大学に設置されているのは、かような経歴を持つ宮田の意向によるものと言われている。 「サブカルチャーの聖地」[編集] 中野ブロードウェイ商店街 今でこそ中野ブロードウェイを表すフレーズとして、「サブカルチャーの聖地」という言い回しが世間でよく言われる。ただし、元々はブロードウェイとサブカルチャーやオタク文化とは何の関係もなかった。両者が結実したのは、以下のとおり、タイミングのなせる妙である。 中野ブロードウェイの建っている場所は、建設前は家屋が大半で、その中に小さな商店が点在している、比較的落ち着いた場所だった。そして中野ブロードウェイ建設の目的は前述の通り、中野駅前から続く当時の美観商店街(現・中野サンモール)を昭和通り(現・早稲田通り)まで延長することで、既存の業種を量的に拡大するという意味での一大商圏作りを見込んでいた。実際、オープン当時に中野ブロードウェイ内で開業したのは食品・服飾・雑貨・宝飾品販売店、食堂、理美容室、町医者、書店、占い業といった、言わば商店街がそのままビルに入ったような多様な小売・サービス業の個人営業店が大半だった。 1980年代中頃から1990年代にかけて、区分所有者兼経営者の高齢化、中野に近い新宿や池袋、吉祥寺をはじめとする近隣商圏の著しい発達、中野地区でのチェーン店台頭といった環境的要因や、少子高齢化といった人的要因により、相対的に中野ブロードウェイの集客力を低下した。その結果、たち行かなくなった店を閉める経営者が増えた。店を続ける高齢の商店主達も効果的な対策を打ち出せず、集客力が弱いところに新規に出店しようというテナントも現れず、なお一層集客力が落ちるという状況が続く、完全な負のスパイラルに陥っていた。一時は、平日の昼間でもシャッターを降ろした店舗が目立ち、夕方のかき入れ時でも人がほとんど歩いていないという状態となった。 このタイミングを逆に商機ととらえ、空き店舗に積極出店し、開館当時の商店街ライクな雰囲気をサブカルチャーの殿堂と評される雰囲気に塗り替え、より高い発展を遂げることに成功したのが「まんだらけ」である。 元々、中野ブロードウェイのあるJR中央線の東京都西部うちは、「中央線文化」の名前があるように、アニメ制作会社や大学、学校、若者といったマニア向け商品の顧客層が多い土地柄であった。例えば中野はお笑いを中心とした芸人、高円寺はミュージシャンが多く住むと言われ、住人層や街の雰囲気は「サブカルの殿堂化」する前から、オタク・サブカル文化とは親和性が高かった。 1980年、このビルでわずか2坪の、2階の開業時の分譲スペースをさらに細かく区切った区画を借りて、漫画古本専門店「まんだらけ」が開業する。漫画古書専門という当時としては珍しい業態だったまんだらけは、商材を中古漫画一本から、原作者のサインや漫画のグッズといった漫画周辺商材、セル画などのアニメなど漫画と親和性のある商材、ひいては昔のホーロー看板やレトロなミニカー、景品類、ドール等のサブカルチャー全般にまで拡大したことで売り上げを伸ばした。1987年には株式会社化し、徐々に店舗を拡大していった。2階の細切れスペースから3階の突き当たりの区画へと賃借で移転し、3階のメインストリートに接する区画を購入してからは、隣接スペースに拡大したり、館内の離れた区画へ飛地的に出店したりと、縦横無尽に拡大を続けた。その後1990年代から始まった不況下で先述の理由から空き店舗が増えると、まんだらけに集まる客を狙ったマニア向け専門店が次々に開業。そのうちに「サブカルチャーの聖地」と呼ばれるほどになっていた。2018年現在では国内のみならず国外からも客を集めて賑わっている。 この変化により客層やフロア内の雰囲気も一変したため、治安の悪化、トラブルの発生を危惧する声もあった。しかし、世のオタク・サブカルブームに乗ったことで、それ狙いの中野外の人間の呼び込みのみならず、一時は離れたはずの地元民をも再度呼び込むことに成功し、新たなテナントも続々入居した。こうした変化で中野ブロードウェイ全体の商業活性化に繋がったとの意見もある。[要出典]

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全的堕落 – Wikipedia

全的堕落(ぜんてきだらく、英語: Total Depravity)は、すべての人間が罪によって全的に堕落しているという聖書の教理の前提であり、プロテスタント、特にカルヴァン主義神学の根幹となる教理である。カルヴァン主義の5特質TULIPの一つ[1]。宗教改革者とプロテスタント正統主義において、教父アウグスティヌスによる原罪論が神学的に発展、展開、構築され、教理的、神学的に提示された。この教えは、ルーテル神学、改革派神学(カルヴァン主義)、ウエスレアン・アルミニアン神学など、プロテスタントにおける各神学的立場を横断して受け入れられている。ただしルーテル教会、カルヴァン主義と、ウェスレアン・アルミニアン神学の間には若干の違いがある。 ローマ・カトリックにおいては、アウグスティヌスの原罪論は採るものの、全的堕落説は採られず、アウグスティヌスの論を全的堕落の根拠とすることについて否定している[2]。 正教会では、アウグスティヌスを全否定はしないものの、アウグスティヌスの自由意志に係る論そのものを受け入れず、全的堕落という考え方は全く採られない。 ラテン教父[編集] 聖書のコンテキストからの聖典解釈から導かれる「全的堕落」や、さらにはアダムの堕罪さえも人類に対し影響を及ぼすべきものではないと最初に主張し始めた4世紀のペラギウスは、救霊は人間の自由意志によって実現され得るのだから、神の救済を必要としないとする(ペラギウス主義)。これに対立する、人間の自由意志は認められようが、かかる意志も神が予定したものに過ぎないとするアウグスティヌスとの論争は、ペラギウス派駁論集として著述に残されている。結果、ペラギウスはエフェソス公会議において異端であるとの審決が確定し、排斥された。 カルヴァン主義[編集] すべての人間の堕落[編集] 人は、アダムの創造主である神への反逆、すなわち堕罪ゆえに、その結果として「全的に堕落」したとするもので、ここに「全的」とは、二重の意味を持つ。第一に、その「堕落」が全人類に広がりアダムの末裔である限り、その「堕落」から逃れた者はいない、という「堕落」普遍性を示すことばであり、第二に、人格のすべての領域にその「堕落」が及んでいると言う意味において「全的」なのである。つまりすべての人間は堕落しており、また人間の人格もすべて堕落しているという意味である。「神学の第一原理は、人間の堕落、人間の罪である。」[3]と言われている。 教会史上神学の基本的な形は、ペラギウス主義、半ペラギウス主義、アウグスティヌス主義の三つしかないとする指摘がある。ロバート・チャールズ・スプロールは、ペラギウス主義は亜キリスト教、あるいは反キリスト教であり、自由主義神学(リベラル)とペラギウス主義に救いはないとしている[4]。 人格すべての堕落[編集] 意志[編集] まず「意志」の分野において、神に背いた人の意志は、罪(sin)の奴隷となっていて、いのちの源である神のいのち、すなわち「永遠のいのち」に与らない限り、意志は常に罪(行)に傾いてゆく。 アウグスティヌスは堕落前と堕落後の人間をこのように分類する。 posse peccare エデンでは罪を犯す自由もあった non posse

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ツンドラ土 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ツンドラ土” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年9月) ツンドラ土とは、ツンドラ気候と亜寒帯冬季少雨気候の一部の永久凍土層の上にある強酸性を示す土。 ツンドラ気候は最暖月平均気温が0〜10℃のため微生物は生息せず、土壌は分解されずに炭化される。強酸性なため農業はできない。地衣類や蘚苔類が地表部に生えることはできる。 主な都市はバロー(米アラスカ)、ディクソン・ハバロフスク・イルクーツク(ロシア)、アンマサリク(グリーンランド)、平壌(北朝鮮)。 農業による経済発展が不可能であるため、都市はどれも新しいもの、原住民の集落が発展したもののどちらかである。 [脚注の使い方] 参考文献[編集] この節の加筆が望まれています。 外部リンク[編集] この節の加筆が望まれています。 この項目は、書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています。このテンプレートは分野別のスタブテンプレート(Wikipedia:スタブカテゴリ参照)に変更することが望まれています。 表

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小田原短期大学 – Wikipedia

小田原短期大学(おだわらたんきだいがく、英語: Odawara Junior College)は、神奈川県小田原市城山4-5-1に本部を置く日本の私立大学である。1956年に設置された。大学の略称は小田短。 大学全体[編集] キャンパスは、小田原城を見渡せる場所に位置する。 2014年度より大学名から「女子」が外されたが、通学課程には女子のみが在籍している(通信教育課程は男女共学)。 建学の精神(校訓・理念・学是)[編集] 教育理念は「女性を人として教育する、女性として教育する、国民として教育する」となっている。 教育および研究[編集] 保育学科と食物栄養学科が設置され、いずれも専門職を養成する学科となっている。 学風および特色[編集] 「海外文化事情」と題したイベントとしてハワイでの研修が実施されている。ほか、卒業宿泊研修が行われる。 1957年 小田原女子学院短期大学(おだわらじょしがくいんたんきだいがく)として開学。家政学科および別科を設置。 1960年11月1日 小田原女子短期大学と改称。 1969年 小田原女子短期大学附属保育専門学校を併設。 1979年

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ウルトラ (アルバム) – Wikipedia

ウルトラ (Ultra)はイギリスの音楽グループ、デペッシュ・モードの9thアルバム。1997年4月14日発売。 背景、アルバム制作[編集] 1993年から1994年、前作ソングス・オブ・フェイス・アンド・デヴォーションリリース後に行われた「デヴォーショナル・ツアー」と、アフリカ、東南アジア、オセアニア公演を含む「エキゾチック・ツアー」の計14ヶ月に達する世界ツアーの結果、バンドは全世界的な成功を収めるに至ったが、それに伴うバンドの精神的・肉体的な疲弊はもはや限界に達していた。 特に当時ロサンゼルス在住だったデイヴ・ガーンの薬物中毒は悪化の一途を辿っていき、ロンドンにいたその他のメンバーとも疎遠になっていった。また同じ頃マーティン・ゴアもアルコール中毒に悩まされており、メンバーの一人であるアラン・ワイルダーはそんなバンドの状態に見切りを付け、自身の36歳の誕生日である1995年6月1日にバンド脱退を発表する。アランと親しい仲であったデイヴの状況はますます深刻化、ドラッグ漬けの日々を送っていたデイヴに対し当時の妻がデイヴの元を去る。その後の自宅の強盗被害やリストカットによる自殺未遂を経て、翌1996年5月にはロサンゼルスのホテルにてスピードボール(ヘロインとコカインの混合物)のオーバードースにより意識不明に陥る。駆けつけた救急車の中で2分間の心停止から生還したものの、ドラッグ摂取による逮捕状を請求され、これを受理した。 一方で他のメンバー2人は1996年初めからロンドンでニューアルバムのためのトラック制作を開始しており、春にはニューヨークでデイヴを迎えてレコーディングを行うも、6週間で使えるボーカル・テイクは一つしかない状態だった[1]。それでもデイヴの回復を待ちながら辛抱強くレコーディングを行い、翌1997年2月にようやくアルバムが完成、前作から4年ぶりの新作リリースに漕ぎ着けた。 プロデューサーにはボム・ザ・ベースでの活動で知られるティム・シムノンが担当した。それまでのバンドが経験した過酷な状況を反映したような、暗くヘヴィな歌詞やサウンドが押し出された。脱退したアラン・ワイルダーの音響を重視したアレンジから、ティムの手によるヒップホップやモダンロックからの影響が濃い、リズムを重視した攻撃的な音作りへと変化した。 商業的には前作に続き全英初登場1位を獲得、その他ドイツ、スペイン、スウェーデン、ベルギーなどでチャート1位を獲得し、ビルボードでは5位を記録。バンドの復活を印象付けた。 全曲マーティン・ゴアによる作詞作曲 バレル・オブ・ア・ガン / Barrel of a Gun – 5:35 ザ・ラヴ・シーヴス / The

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マートルビーチ – Wikipedia

マートルビーチ(Myrtle Beach)は、アメリカ合衆国サウスカロライナ州北東部、大西洋岸に位置する観光都市。市域人口は3万5682人(2020年)に過ぎない小都市であるが、都市圏は隣接するノースカロライナ州にもまたがり、約36万人を数える。 「グランドストランド」と呼ばれる長大な砂浜やゴルフ場、美味しいシーフードレストラン、アウトレットショッピングに恵まれていることから、年間1400万人を越える観光客を集めている。特にウェストバージニア州からの旅行者に人気があり、「56番目の郡」「ウェストバージニア州の最南端」などと呼ばれたりもしている。また、高校・大学のスプリングブレイク(春休み)期間の行き先としてつとに有名であり、特にその時期は全米からの学生で賑わう。 マートルビーチは北緯33度42分15秒、西経78度52分32秒に位置し、日本の福岡市(福岡県)とほぼ同緯度にある。 アメリカ合衆国統計局によると、同市は総面積43.5 km2 (16.8 mi2) である。このうち43.5 km2 (16.8 mi2) が陸地で0.1 km2 (0.04 mi2) が水地域である。総面積の0.12%が水地域となっている。 人口構成[編集] 2000年現在の国勢調査[1]で、マートルビーチ市の人口は22,759人、世帯数10,413で、5,414家族が暮らしている。人口密度は523.7/km² (1,356.3/mi²)

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デイ・セチェン – Wikipedia

デイ・セチェン(Dei sečen, モンゴル語: Дэй Сэцэн, 中国語: 特薛禅, 生没年不詳)は、12世紀末のコンギラト部ボスクル氏族長。『元史』などの漢文史料では特薛禅/徳薛禅、『集史』などのペルシア語史料ではデイ・ノヤン(Deī Nūyān)と記される。娘のボルテがテムジン(チンギス・カン)に嫁いだのを始めとして、デイ・セチェンの子孫は多くの皇后を輩出する有力姻族として知られた。 名前の「デイ」は漢語の「大」がモンゴル語した形であり、「セチェン」は「賢人、賢者」を意味するモンゴル語であるため、直訳すると「大賢者」という意味になる。『元史』にはボスクル(孛思忽児)氏に属することが記されているが、この氏族名はコンギラト部に属する有力氏族の中には見当たらず、コンギラト本族から分岐した別派であると見られる[1]。 『元朝秘史』ではテムジンのために母方の身内(コンギラト部オルクヌウト氏)から娘をもらってこようと旅に出たイェスゲイ・テムジン父子が偶然デイ・セチェンと出会ったことが記されている。そこでデイ・セチェンはテムジンを「眼に光あり、面に光ある」有望な子供であると見て取り、その場で自身の娘ボルテを娶せることを決めたという。 一方、『集史』では『元朝秘史』とは異なり、テムジンがボルテを娶る事を求めたがデイ・セチェンは渋り、その息子アルチ・ノヤンの口添えによってようやく娶ることができたと記録している。『元朝秘史』は物語的要素が強いこと、当時のテムジン率いるモンゴル部はまだ弱小勢力であることなどから、『集史』の記述の方がより正しいと考えられている[2]。 デイ・セチェンの死後、族長の座は息子のアルチ・ノヤンが継いだが、アルチ・ノヤンは娘の多くをチンギス・カン家に嫁がせ、有力姻族としての立場を確立した。『元朝秘史』ではデイ・セチェンが「コンギラトは后妃を輩出することで権勢を保つ一族である」と語る一節があるが、岡田英弘はこのような記述があるのは『元朝秘史』がコンギラト勢力の絶頂期にあったイェスン・テムル即位時のクリルタイの際に編纂されたためである、という説を出している[3]。 『元史』巻118列伝5にはデイ・セチェン及び彼の子孫についての伝記が立てられている。 コンギラト部デイ・セチェン家[編集] ^ 村上1970,84-85頁 ^ 宇野1999,33-34頁 ^

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