Month: August 2020

第四高等学校 (旧制) – Wikipedia

第四高等学校(四高) 創立 1887年 所在地 金沢市 初代校長 柏田盛文 廃止 1950年 後身校 金沢大学 同窓会 四高同窓会 旧制第四高等学校(きゅうせいだいしこうとうがっこう)は、1887年(明治20年)4月金沢市に設立された官立旧制高等学校。略称は「四高(しこう)」。 1886年の帝国大学令により、北海道・沖縄県を除く全国を5区に分割しそれぞれに高等中学校を設置することが定められたが、このうち新潟・富山・石川・福井の北陸4県からなる「第4区」では、金沢に石川県専門学校(その前身は加賀藩の藩校明倫堂および維新後に設立された金沢中学校)を母体とする高等中学校が置かれることとなり、東京の旧制一高、京都の三高に次いで第四高等中学校の設立となった(開校に際し旧藩主前田家が7万8千円を寄附した)。さらに設立のさい金沢医学校を「四高医学部」として併合した。1894年の高等学校令により大学予科(修業年限3年。のち文科・理科よりなる高等科に改称)および医学部を設置したが、後者はのち金沢医学専門学校として分離した(その後金沢医科大学を経て、金沢大学医学部として再び併合された)。 大正末年のクラス編成は文甲2クラス、文乙1クラス、理甲3クラス、理乙1クラスとなっていた。 学生たちは、当時の流行りであった喫茶店で文学や哲学に関して活発な議論を行っていた。喫茶店は彼らにとって「街中の青春道場」であった。また学生寮の伝統として、消灯時間を過ぎてもロウソクを立てて勉学に励む、いわゆる「蝋勉」や、運動会を学生服で行うというものがあった。「南下軍」と称されるスポーツ・武道における他校との対抗戦は学校の威信をかけたものであり、中でも柔道と漕艇(ボート)は全国優勝するほどの強豪であった。作家で当時柔道部に所属していた井上靖は、高校三年の全てを道場に投入、あえて悔いるところはなかった、と記している。 四高の校風は『超然時習』『至誠自治』。時を得て学び何事にも動じない心を養い、自立して誠を尽くす精神である。 第二次世界大戦後の学制改革により1950年3月に閉学。閉学時は理科、文科にそれぞれ甲類と乙類を設置していた(ただし、第二次世界大戦中に1学年のみ、文科が1クラスしかない学年があった)。卒業生は約12,000人。新制金沢大学法文学部と理学部の前身となった。 シンボル[編集]

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東郷高塚古墳 – Wikipedia

東郷高塚古墳(とうごうたかつかこふん)は、福岡県宗像市日の里にある古墳。形状は前方後円墳。史跡指定はされていない。 宗像市南部、許斐山から延びる丘陵の先端部に築造された古墳である。1966年(昭和41年)に始まる日の里団地の造成で存在を知られるとともに開発を免れ[2]、1986-1988年(昭和61-63年)に確認調査が実施されている。 墳形は前方後円形で、前方部を北西の玄界灘の方角に向ける。墳丘長は64.4メートルを測り、宗像市域では最大規模になる[2][注 1]。後円部周囲には幅約12メートルの外堤が半円形に巡らされている[2](一周しないのは地形の制約か)。主体部の埋葬施設は粘土槨で、その上面には赤色顔料が塗られ、内部には割竹形木棺が収められている。木棺は墳丘主軸と平行方向に5.4メートルを測り、北部九州地方では最大級の規模になる[2]。この主体部は中世頃に盗掘に遭い副葬品のほとんどが失われているが[2]、調査ではヒスイ製勾玉、埴輪・土器、管玉、鉄矛片、鉄剣片が検出されている。 この東郷高塚古墳は、古墳時代前期の4世紀後半頃の築造と推定される。現在確認されているものでは宗像地方で最古級の前方後円墳とされ、沖ノ島祭祀(4世紀後半-9世紀末)が始まる時期の有力者、かつ以後の古代宗像の発展の礎を築いた首長の墓にあたるとして注目される[2]。宗像地方では東郷高塚古墳に続く前方後円墳の築造が4世紀のうちは見られないが、5世紀に入ると内陸部から海岸部に場所を移し、福津市津屋崎周辺(津屋崎古墳群(新原・奴山古墳群など))で築造されるようになる。 現在の古墳域は日の里12号公園内に位置し、他の円墳2基(東郷3号墳・5号墳)とともに保存されている。なお、ユネスコの世界遺産「「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群」において、2009年(平成21年)に同遺産がユネスコ世界遺産暫定一覧表に記載された際には本古墳も構成資産候補とされていたが[5]、その後の2017年(平成29年)の正式登録の際には構成資産から外されている。 古墳の規模は次の通り[2]。 墳丘長:64.4メートル 後円部 直径:38.9メートル 高さ:7.6メートル くびれ部 前方部 墳丘下では弥生時代の遺構が認められており、この一帯では弥生時代前期には既に人々の営みがあったとされるほか、後世の鎌倉時代には火葬場として利用されたことも判明している[6]。 埋葬施設における副葬品は多くが盗掘で散逸しているが、調査により次の遺物が出土している。 ヒスイ製丁字頭勾玉 1 珪質凝灰岩製管玉 4 鉄刀片

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差動装置 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “差動装置” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2018年9月) 差動装置(さどうそうち)、もしくはディファレンシャルギアとは機械的機構の一種で、二つの部分の動きの差を検出、あるいは動力に差をつけ振り分ける装置。歯車を使った差動歯車やねじを使ったものなどがある。 差動歯車[編集] 自動車のデファレンシャルギア(カットモデル) デファレンシャルギア[注 1]あるいは略してデフギア、デフなどともいう。後述するリミテッド・スリップ・デフ (LSD) と比較する場合はオープンデフともいう。自動車などの車輪のついた乗り物に使われる動力伝達装置であり、差動装置の中で最も身近に使われているものである。 車がカーブを曲がる時、内側と外側の車輪に速度差(回転数の差)が生じるが、それを吸収しつつ動力源から同じトルクを振り分けて伝えることができる。つまり、1つのエンジン出力を2つの異なった回転速度に振り分けて伝えることができる。差動歯車は一般的に3輪以上の自動車で利用され、駆動する左右の車輪の軸の中央付近に設けられる。動力のない車輪や、対となる駆動輪が存在しない2輪車では必要ない。 差動歯車の装備[編集] 一般的な自動車では駆動輪(すなわち前輪駆動車の場合は前輪、後輪駆動車の場合は後輪、四輪駆動車の場合は前後両方)に一組の差動歯車を持つが、四輪駆動車の場合はさらに前輪と後輪の回転差を吸収するため、もう一つの差動歯車(センターデフ)を持つことがある。これはフルタイム四駆と呼ばれるもので、エンジン出力はまずセンターデフへ伝えられ、そこから前後のデフに配分されることになる。 パートタイム四駆などの二輪と四輪駆動を任意に切り替えることが可能な一部の車種では、駆動力取り出しのトランスファーのみの装備で、センターデフを備えていないものもある。これは、未舗装路ではタイヤと路面との摩擦力が小さいので、前輪と後輪の回転差が生じてもタイヤが路面と強制的なスリップを起こすのでデファレンシャルが要らないためである。しかし、舗装路などのスリップを起こしにくい状況では、スリップできない車輪より生み出されるトルク(循環トルク)が駆動機構に逆方向の入力を生じ、大きな負担となり機構にダメージが生じる(トルク循環現象)。これはフルタイム四駆のセンターデフを直結させた場合も同様である。また、駐車場などでハンドルを大きく切って小回りすると、逆入力されたトルクによりいずれかのタイヤでブレーキが入力される挙動を起こし車体全体が不快な振動に見舞われるタイトコーナーブレーキング現象を起こすことがある。

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トニー・メオラ – Wikipedia

トニー・メオラ(Antonio Michael “Tony “ Meola; 1969年2月21日 – )は、1990年、1994年、1998年のワールドカップアメリカ代表にも選ばれたことがあり、1996年から2006年まで、米国のトップリーグであるメジャーリーグサッカーでプレーし数々の栄誉を勝ち得たサッカー選手である。彼はいま、慈善試合のためのチーム、グローバル・ユナイテッドFCでプレーしている[2]。 少年期とサッカーキャリア[編集] メオラは、ニュージャージー州ベレヴィル(英語版)で生まれ、同州のカーニーで育ち、カーニー高校に在籍している時にサッカーを始めた。[3]彼の愛する父、ヴィンセンゾはアメリカに移住してくるまではイタリア2部リーグのアヴェッリーノでサッカーをしており、トニーは父からサッカーを教わった。トニーは同州選抜チームに、1985年にゴールキーパーとして、翌年にはフォワードとして選出されている。高校時代の実績として、41試合の無失点試合、42得点を挙げている。 1999年、スターレッジャー(英語版)紙の「1980年代のニュージャージー州内高校トップテン選手」として掲載した。[4]メオラはサッカーでの優秀さのみならず、ライバル高校との対抗戦に3種の競技をこなしている。彼は同校のバスケットボールのキャプテンとしても活躍し、その上、1987年の同州選抜野球チームにも名を連ねた。ニューヨーク・ヤンキースがドラフト指名をし、後にファームチームでプレーすることになった。 大学時代[編集] メオラはバージニア大学にサッカーと野球のスポーツ特待生で入学した。バージニアにいる間に、彼はブルース・アリーナのもとでプレーし、同時にカバリアーズでプレーし、国際試合にも出場するようになっていた。1987年10月、FIFAワールドユースのゴールマウスを守っていた。[1] 彼は1年時、2年時ともに全米選抜の栄誉を受けた。加えて、1年時の1988年にヘルマントロフィー(英語版)を受賞し、2年時である翌年にはMAC賞(英語版)を受賞した。1989年12月15日、彼はバージニア大学を去ることを決め、アメリカ代表チームとしてのキャリアを追い求める決断をした。 また、彼は野球の試合でも、ライバル大学と戦っている。 イングランド[編集] メオラは、1990年ワールドカップの前にして、サッカー連盟(USSF)と契約を交わし、大会の後にはローン移籍でイングランドのブライトン&ホーヴ・アルビオンにサインし、11試合に出場したが、リーグ戦ではたった2試合の出場に終わった。彼の最初の出場は負傷したペリー・ディッグウィード(英語版)に代わってであったが、すぐさまその試合のMVPとなった。[5]1990年9月14日、アメリカに戻る前にワトフォードへ移籍した。ワトフォードでの出場を得られないまま過ごしたため、規定により労働ビザの更新が降りず、[6]メオラはアメリカに戻ることになった。[7] アメリカへの出戻り[編集] 1991年、アメリカプロサッカーリーグ(英語版)のフォートローダーデール・ストライカーズ(英語版)でプレーした。ゴールを守るのは、アーニー・モーサー(英語版)との競り合いだった。[8]1994年12月14日、ナショナルプロサッカーリーグ(英語版)のバッファロー・ブリザード(英語版)と1994-1995年シーズンのインドアサッカーの契約を結んだ。彼はチームのスタメンであったが、1995年1月31日、彼はオフブロードウェーのTony and

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トゥイーティーのフライング・アドベンチャー 80日間世界一周大冒険 – Wikipedia

トゥイーティーのフライング・アドベンチャー 80日間世界一周大冒険(Tweety’s High-Flying Adventure)は、アメリカ合衆国で2000年9月12日に発売されたルーニー・テューンズのアニメーションOVA作品[1]。主演はトゥイーティー、カール・トレゲ、チャールズ・ヴィッサー、ジェームズ・T・ウォーカー、キョン・ウォン・リムの4人が監督を務めた。アニメーション製作は、韓国のアニメ製作会社ココ・エンタープライズが担当している。 キャラクター トゥイーティー 声 – ジョー・アラスカイ / こおろぎさとみ(日本語吹き替え版) 本作の主人公。 シルベスター・キャット 声 – ジョー・アラスカイ / 江原正士 (日本語吹き替え版) トゥイーティーを食う黒猫。

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長谷川芳之助 – Wikipedia

長谷川 芳之助(はせがわ よしのすけ、1856年1月22日(安政2年12月15日[1][2][3][4])- 1912年(大正元年)8月12日[3][5][6])は、明治期の鉱山学者、実業家、政治家。衆議院議員、工学博士。 肥前国松浦郡唐津城下[2](佐賀県東松浦郡唐津町[7]を経て現唐津市[6])で、唐津藩士・長谷川久徴の長男として生まれた[2][4][6]。長谷川家は代々同藩数学師範を務め[4]、父は剣術にも優れていた[2]。8歳で藩校に入り漢学を修めた[2]。また父から数学を[4]、佐藤与造から蘭学を学ぶ[4]。父の大坂在勤に従い[2]、1868年(明治元年)長崎通詞何礼之から英学を学び[2][4][8]、大阪開成所(のち大阪英語学校)で英語を教えた[2][5][8]。1872年(明治5年)唐津藩貢進生として大学南校に入学し[2][6][7][8]、開成学校に改組され化学を学んだ[2][3][5][8]。1875年(明治8年)7月、米国留学を命ぜられ、コロンビア大学で採鉱冶金学を学んだ[2][3][4][5][6][7][8]。学位を受け[8]、日本への帰途、ドイツのフライブルク大学で製鉄業を修めて[3][6]、1880年(明治13年)8月に帰国した[2][6]。 三菱会社に入社し[2][3][5][6][7][8]、吉岡鉱山長、本社副支配人兼尾去沢鉱山長などを務め[3]、鉱山・炭鉱の開発、採掘、経営に参画した[2][5][7][8]。1896年(明治29年)に退社して帰郷し[6]、肥前牟田部炭鉱、筑前藤棚炭鉱、赤堀炭鉱の経営を行った[5]。また、日本の製鉄業創始を主張し、製鉄事業調査委員、製鉄所創立委員、製鉄所事業調査委員を務め、製鐵所(官営八幡製鐵所)の創設に貢献した[3][4][5][6][7][8]。 1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(鳥取県郡部、無所属)で当選し[4][8][9]、衆議院議員に1期在任した[5][7]。なお、鳥取県からの出馬の経緯は不明である[8]。国家主義を唱え、日露戦争前には対露同志会などに加わり、対外硬を主張した[6][8]。 ^ 衆議院『衆議院議員名簿』〈第十七回帝国議会衆議院公報第1号附録〉、1902年、20頁。 ^ a b c d e f g h i j

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セルゲイ・デュダコフ – Wikipedia

セルゲイ・デュダコフSergei Viktorovich Dudakov 2014年ISUジュニアグランプリファイナルのデュダコフ(左はエフゲニア・メドベージェワ) 選手情報 生年月日 (1970-01-13) 1970年1月13日(52歳) 代表国 ロシア 出生地 ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、モスクワ 元コーチ ヴィクトール・クドリャフツェフ ■テンプレート ■選手一覧 ■ポータル ■プロジェクト セルゲイ・ヴィクトロヴィチ・デュダコフ(ロシア語:

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ジョアン・セーザル・モンテイロ – Wikipedia

ジョアン・セーザル・モンテイロ・サントス(João César Monteiro Santos、1939年2月2日 フィゲイラダフォス – 2003年2月3日 リスボン)は、ポルトガルの映画監督、俳優、映画批評家である。パウロ・ローシャとならぶ「ノヴォ・シネマ」の中心人物である。 来歴・人物[編集] 1939年2月2日、ポルトガル・コインブラ県のフィゲイラダフォスで生まれる。地方の中産階級家庭に生まれ、反牧師、反ファシスト的に育てられた。15歳のとき、彼の学業をつづけるために一家でリスボンに移住した。1963年にカルースト・グルベンキアン財団から助成を受けて渡英、ロンドン・フィルム・スクールに留学する。1965年に帰国、資金の問題によって完成までに5年の歳月を要したデビュー短篇『Quem Espera por Sapatos de Defunto Morre Descalço』(1970年)の準備を始めている。そのわずかの間に、ポルトガルの詩人に関するドキュメンタリー短篇『ソフィア・デ・メロ・ブレイナー・アンデルセン Sophia de Mello

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田中健 (競馬) – Wikipedia

この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “田中健” 競馬 – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2013年4月) 田中健 基本情報 国籍 日本 出身地 広島県 生年月日 (1988-03-16) 1988年3月16日(34歳) 身長 163.2cm

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