Month: December 2020

カベオラ – Wikipedia

カベオラ(英: caveola, pl. caveolae、ラテン語で「小さな洞窟」の意)とは、特殊なタイプの脂質ラフトであり、脊椎動物の多くの細胞種、特に内皮細胞、脂肪細胞、胚の脊索細胞の細胞膜に存在する小さな(50–100 nm)陥入である[1]。カベオラは1955年に山田英智によって発見された[2][3]。 カベオラはフラスコ型の形状であり、タンパク質のほか、コレステロールやスフィンゴ脂質などの脂質に富む。シグナル伝達など、いくつかの機能を持つ[4]。また、機械的刺激の検知と保護、エンドサイトーシス、発がん(英語版)、病原体となる細菌や特定のウイルスの取り込みに関与していると考えられている[5][6][7][8]。 カベオリン[編集] カベオラの形成と維持は、当初は主に21 kDaのタンパク質、カベオリン(英語版)によって行われていると考えられていた[9]。哺乳類の細胞には、Cav1、Cav2(英語版)、Cav3(英語版)という3つの相同なカベオリンが存在する。これらのタンパク質は、足場ドメインを含む細胞質側のN末端、長いヘアピン型の膜貫通ドメイン、細胞質側のC末端という共通したトポロジーを持つ。カベオリンは単量体として合成され、ゴルジ体へ輸送される。その後の分泌経路を介した輸送過程で、カベオリンは脂質ラフトと結合して14–16分子からなるオリゴマーを形成する。こうしたオリゴマー化したカベオリンがカベオラを形成する。カベオリンの存在は膜の形態に局所的な変化を引き起こす[10]。 Cavinは2000年代後半、カベオラの形成を制御する主要な構造的構成要素として発見された[11][12][13][14]。Cavinタンパク質ファミリーは、Cavin1(英語版)(PTRF)、Cavin2(英語版)(SDPR)、Cavin3(SRBC)、Cavin4(MURC)から構成される。Cavin1は多くの組織でカベオラ形成の主要な調節因子であることが示されており、カベオラを欠くがCav1は豊富に存在する細胞でカベオラを形成させるには、Cavin1の発現だけで十分である[11][15]。Cavin4はCav3と同様に筋特異的に発現する[12]。 カベオラエンドサイトーシス[編集] カベオラは、クラスリン非依存的、脂質ラフト依存的なエンドサイトーシスが行われる場所の1つである。カベオラエンドサイトーシス小胞の形成にはカベオリンのオリゴマー化が必要であり、オリゴマー化によってカベオリンに富む微小ドメインが細胞膜に形成される。コレステロール濃度の増加やカベオリンの足場ドメインの細胞膜への挿入によって、カベオラの陥入は拡大し、エンドサイトーシス小胞が形成される。その後の細胞膜からの小胞の切り離しは、出芽した小胞の付け根部分に局在するGTPアーゼであるダイナミン2(英語版)によって媒介される。放出されたカベオラ小胞は初期エンドソームまたはカベオソーム(caveosome)に融合する。カベオソームはpHが中性のエンドソーム区画で、初期エンドソームのマーカーは存在しないが、カベオラエンドサイトーシスによって取り込まれた分子が含まれている[10][16]。 このタイプのエンドサイトーシスは、例えば、内皮細胞でのアルブミンのトランスサイトーシス(英語版)や脂肪細胞でのインスリン受容体のインターナリゼーションに利用される[10]。 その他の役割[編集] カベオラは、骨格筋、内皮細胞、脊索細胞などさまざまな組織において、機械的ストレスから細胞を保護するために必要であることが示されている[17][18][19]。 カベオラは一部の病原体が細胞内に進入する際に利用され、病原体はリソソームでの分解を避けることができる。一部の細菌は典型的なカベオラではなく、細胞膜のカベオリンに富む領域のみを利用する。このエンドサイトーシス経路を利用する病原体には、SV40(英語版)やポリオーマウイルス(英語版)などのウイルスや、大腸菌Escherichia coliの一部の系統、緑膿菌Pseudomonas aeruginosa、ポルフィロモナス・ジンジバリスPorphyromonas gingivalisなどの細菌がある[16]。 カベオラは細胞のシグナル伝達にも関与している。カベオリンは足場ドメインを介していくつかのシグナル伝達分子(eNOSなど)と結合し、シグナル伝達を調節することができる。また、カベオラはチャネルの調節やカルシウムシグナルにも関与している[16]。

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やりすぎ都市伝説 – Wikipedia

テーマ 舞台 都市伝説ファイル 放送日 秘密結社フリーメイソンの全貌 イギリス ① フリーメイソン総本部 グランドロッジ② 座ると死ぬイス③ 魔女が潜む洞窟④ 世界最大のパワースポット レイライン⑤ キーワード「石」 2009年3月28日 歴史を覆す陰謀に関する都市伝説 アメリカ ① フリーメイソンが作った国アメリカ② リンカーンとケネディの奇妙な一致③

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ドラゴン・キングダム – Wikipedia

『ドラゴン・キングダム』(原題:The Forbidden Kingdom)は、2008年公開のアメリカ映画。ジャッキー・チェン、ジェット・リー初共演の武侠カンフー映画である。中国語題は『功夫之王』。 西遊記に登場する孫悟空や如意棒、更に八仙や白髪魔女傳のキャラクターをモチーフとしている作品。 ジャッキー・チェンとジェット・リーが共演するという案は、15年前からあったが、実現しなかった。記者発表会でジェット・リーが「この15年はとても長かった」と感慨深げに語ったことがある。中国では、双J計画(二人の英語名の頭文字、Jackie ChanとJet Liを取った)として大々的なプロモーションが組まれた。 ストーリー[編集] 現代のボストン。カンフー映画の海賊版を探しにきた中華街の質屋で高校生のジェイソン・トリピティカス(マイケル・アンガラノ)は光っている棒に目をとめる。それは夢の中でモンキー・キング(孫悟空)が使っていた金の棒だった。店主のホップ(ジャッキー・チェン)によると彼の一族が代々引き継いで持ち主を待っているという。 帰り道にクラスメートの不良たちにつかまったジェイソンはヘナチョコぶりを見破られて質屋強盗の手引きをさせられる。店内を物色する少年たちはホップを撃ち、ジェイソンは倒れたホップからあの棒を託されたが、ギャングから逃げるうちにビルの屋上から墜落。 意識を取り戻すと自分が古代中国に似た異世界キングダム(Forbidden Kingdom/禁忌王国)にいることを知る。驚く間もなくジェイド将軍の軍団に捕まりそうになるが通りがかったルー・ヤン(ジャッキー・チェンの二役)に助けられた。 悪党を倒し孫悟空を救う使命を知ったジェイソンは、将軍を敵と狙うゴールデン・スパロー(リウ・イーフェイ)、白衣の道士であるサイレント・モンク(ジェット・リー)と出会う。モンクも孫悟空を救うために旅をする強者だった。 最強の2人を師としたジェイソンは対決に向けて特訓を始めるが、そこで未熟な若者は訓練でボコボコにされる映画の定石を自分の身体で知ることになる。 日本公開時のパンフレットには、劇場公開では吹替版が製作されず、公開されていないにも関わらずジャッキー・チェンのフィックス声優である石丸博也と、ジェット・リーを数多く担当している池田秀一の数ページに渡る対談が掲載されている。特にジェットはハリウッド進出後、池田が担当した作品のほうが少なくなっていたが、後に製作されるDVD版吹替は、この2人の起用となり、また本作以降、池田は正式にジェットのフィックスとなった。 日本語吹替版の演出家である市来満は、フリーの音響監督であったが、無類のカンフー映画好きであり、この映画の吹替版製作の際は自ら名乗りを挙げてこの作品の演出を担当した[2]。 スタッフ[編集] 監督 – ロブ・ミンコフ

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点群 (データ形式) – Wikipedia

この項目では、コンピュータデータについて説明しています。数学の移動操作については「点群」をご覧ください。 点群(てんぐん)やポイントクラウド(英: point cloud)とはコンピュータで扱う点の集合のこと。多くの場合、空間は3次元であり、直交座標 (x, y, z) で表現されることが多い。 点群はレーザーによる3次元スキャナーでも作成できる。3次元スキャナーは物体表面を自動的に計測し、多数の点の3次元座標を点群としてデータファイルに出力する。レーザの物体による反射を用いるため、データは原則として物体表面の位置・形状を表し、物体内部の状況は表現しない。 点群の応用分野には、部品の3次元CADモデル作成、計測による品質管理、可視化処理、アニメーション、レンダリング、マスカスタマイゼーションなどがある。 点群はそのままレンダリングすることも可能であるが、そのデータ形式のままでは各種の3次元処理には適さないことが多い。そこでデータを面形式に変換し、ポリゴン、不整三角網のメッシュ、非一様有理Bスプライン (NURBS)曲面、CADモデルなどとして扱うことが多い。変換手法には、ドロネー三角形分割、アルファシェイプ法など、存在する点の位置から面を生成する手法と、点群を3次元距離場(英: volumetric distance field)に変換し、陰的表面(英: implicit surface)に変換する手法がある。 点群の応用分野に、工業的な検査がある。製造された部品の点群データと設計上のCADモデルとの差を比較し検査する。両者の差異は視覚的に色彩の差として表示することができる。サイズや公差も点群から計測ができる。 点群から得られた立体データは医用画像処理などにも用いられる。点群を利用することでデータの削減が可能である。 地理情報システム(GIS)においては、点群をもとにして地面の数値標高モデル(DEM)を作成することができる。

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ディエゴ・ライネス (イエズス会総長) – Wikipedia

ディエゴ・ライネス ディエゴ・ライネス(西:Diego Laínez, 1512年 – 1565年1月19日)は、16世紀スペイン出身のカトリック司祭・神学者・聖職者。イエズス会創立者の1人で第2代総長でもある。 現在のスペインに当たるカスティーリャ・アルマサンで生まれ、1528年から1533年までアルカラ大学で神学・哲学を学ぶ。1533年にパリ大学でイグナチオ・デ・ロヨラと知り合い同志となり、翌1534年8月15日にモンマルトルの丘に登り、ロヨラを始めフランシスコ・ザビエル、ピエール・ファーヴル、シモン・ロドリゲス、ニコラス・ボバディリャ、アルフォンソ・サルメロンと共に7人で誓願を立てた。これがイエズス会誕生の瞬間だった[1][2][3]。 1535年、病気療養のため一旦故郷へ戻ったロヨラと別れ、他の5人と共にパリに残り勉強を続け、1536年11月に修士号を取得してパリを出発、1537年1月に到着したヴェネツィアでロヨラと再会した。3月に再度ロヨラを除きローマへ旅立ったメンバーの1人に加わり、ローマ教皇パウルス3世に謁見、ヴェネツィアへ戻り6月24日に司祭に叙階された。誓願を叶えるべく同志共々エルサレム巡礼を図ったが情勢の悪化で果たせず、ロヨラ・ファーヴルと共に再びローマへ行き、1538年に教皇からの任命でファーヴルと共にローマ・ラ・サピエンツァ大学で聖書と神学を講義することになった[4]。 他にも1539年に教皇の命令でファーヴルと共に派遣されたパルマで霊操により人々を惹きつけ、1546年と1551年に教皇の要請を受けたロヨラの命令で、トリエント公会議にサルメロンと共に出席(ファーヴルも出席予定だったが1546年に急死)、雄弁さと博識で注目を集めた。また、イエズス会士教育でロヨラに助言、神学生たちのために幾つかの大学町に寄宿舎を設けた[1][2][5]。 1556年に初代総長ロヨラが死去した時、ライネスが2年後の1558年に第2代総長に選出された。2年間の空白はスペイン王フェリペ2世と教皇パウルス4世の対立があったため総会を召集出来なかったからだが、ロヨラが後継者をはっきりと定めていなかったことにも原因があり、一時ロヨラから総長代理に任命されたヘロニモ・ナダール(英語版)が浮上、ロヨラやライネスの同志で創立者の1人でもあるボバディリャが権限の委譲を要求したり、会憲を批判する陳情書を教皇へ送ったりして混乱を助長させた。前者の問題はナダールがライネスを支持したため、後者は教皇から裁量を委ねられたアントニオ・ギスリエーリ枢機卿(後の教皇ピウス5世)がボバディリャを説得・要求を断念させたため解消、こうした難題を経てようやく召集された総会でライネスが総長に選出された[1][2][6]。 総長としての活動は会憲の検討と承認、諸国の会議出席が挙げられる。教皇ピウス4世の命令でローマを離れ、1561年にフランスのカトリーヌ・ド・メディシスがプロテスタントのカルヴァン派とカトリックの和解を図り召集したポワシー会談(英語版)、翌1562年にトリエント公会議に出席した。フランスではポワシー会談でカトリックの正統性を強く主張して会談は決裂、ガリカニスム主義者がイエズス会の進出を妨害するなど苦難続きだったが、ナダールを右腕として会憲の内容を説明して普及に努めた。また、スペイン人会士フランシスコ・ボルハがポルトガル王家の信任を得ると、国王セバスティアン1世の助言者にカマラ神父を派遣、1561年にスペインの異端審問所に迫害され窮地に陥ったボルハへピウス4世のローマ召喚命令を伝え、彼がポルトガルからローマへ亡命すると総長代理を任せた[1][7]。 1565年1月19日、ローマで死去。7月2日に開かれた総会でボルハが第3代総長に選出された[1][2][8]。 ^ a b c d e キリスト教人名辞典、P1745。 ^

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ウィットビー – Wikipedia

ウィットビー(Whitby)は、イングランドのノース・ヨークシャー北海に面するにある港町。ノース・ヨーク・ムーアズ国立公園の一部でもある。7世紀から歴史的な港、灯台とビーチから、イギリス有数のリゾート町として知られる。1768年ジェームズ・クックは、この港で建造されたエンデバー号に乗り込み、初の太平洋航海に乗り出した。 2011年の国勢調査での人口は13,213人で、2001年の13,594人から減少傾向にある。 ウィットビーの町は657年、修道院の建立とともに誕生した。 イギリスの海軍士官にして海洋探検家であり海図製作者であったジェームズ・クック が大型帆船エンデバー号で出航した港町として知られている。クックの彫刻はエスク川の西側に立っている。18-19世紀前半、木造船または鯨油採取の基地であった。 18世紀に温泉町して人気ができたウィットビーは、1839年にはウィットビー=ピッカリング、その後まもなくヨーク間に鉄道が開通し、海浜リゾートとして発展していった。 文学の接続[編集] ウィットビーは、19世紀を舞台にした文学作品の重要な舞台にもなっている。ブラム・ストーカーはウィットビーに住んでいた1897年に「ドラキュラ」を著した。 映画にもなった A・S・バイアットの「抱擁」(Possession: A Romance)ブッカー賞を受賞小説では、不議の関係の19世紀詩人の男女がウィットビーを中心に旅をし、ウィットビー名産のジェット・ブローチを買う。この小説はブローチが19世紀と20世紀末を結ぶ鍵となる推理小説めいた物語である。 観光地など[編集] ウィットビー修道院の日没の空 スポーツ[編集] 1880年に創立され,ノーザンプレミアリーグ・プレミアディヴィジョン所属のウィトビー・タウンFCというフットボールクラブがあり、シーサイダズ(The Seasiders)の愛称で親しまれる。 姉妹都市[編集] ^ PIE

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後桜町天皇 – Wikipedia

後桜町天皇(ごさくらまちてんのう、1740年9月23日〈元文5年8月3日〉- 1813年12月24日〈文化10年閏11月2日〉)は、日本の第117代天皇(在位: 1762年9月15日〈宝暦12年7月27日〉- 1771年1月9日〈明和7年11月24日〉)。諱は智子(としこ)[注釈 1]、幼名は以茶宮(いさのみや)・緋宮(あけのみや)。 第115代桜町天皇の第二皇女。母は関白左大臣二条吉忠の娘で女御の二条舎子(青綺門院)。同母姉に早世した盛子内親王、異母弟に第116代桃園天皇。2021年(令和3年)現在、皇室史における最後の女性天皇である。 皇女・皇姉時代[編集] 元文5年(1740年)、桜町天皇と、その正妻女御舎子(のちの青綺門院)の間の嫡出腹の皇女として生まれた。舎子には皇子がなく、典侍定子(姉小路実武の娘)が生んだ皇子・八穂宮(のち茶地宮、遐仁親王、桃園天皇)が、舎子の「実子」として迎えられ、その御所で育てられた。 延享4年(1747年)、父桜町天皇の譲りを受けて異母弟の遐仁親王(桃園天皇)が即位。寛延3年(1750年)3月、11歳となった緋宮に内親王宣下があり「智子」と名付けられたが、翌月に父桜町上皇が崩御した。これにより、母の舎子は10歳の幼い天皇を「実母」として後見する立場となった。同年10月、幕府より青綺門院舎子に1000石の御料増地があり、あわせて智子内親王に300石の御料進献があった。成人前の皇女へ所領が進献されることは稀であり、朝廷は智子内親王を比丘尼御所に入寺させることは考えていなかったようである[1]。 天皇時代[編集] 宝暦12年(1762年)、異母弟桃園天皇の遺詔を受けて践祚。だが、実際には桃園天皇の皇子英仁親王(のちの後桃園天皇)が5歳の幼さであったこと、桃園天皇治世末期に生じた宝暦事件では、天皇が幼い頃から自分に付き従っていた側近たちを擁護して側近の追放を要請した摂関家との対立関係に陥ったことから、英仁親王が即位した場合に同じ事態が繰り返されることが憂慮された。このため、五摂家の当主ら[注釈 2]が秘かに宮中で会議を開き、英仁親王の将来における皇位継承を前提に、中継ぎとしての新天皇を擁立することを決定し、天皇の異母姉である智子内親王が英仁親王と血縁が近く、政治的にも中立であるということで、桃園天皇の遺詔があったということにして即位を要請したのである。 この決定は、皇位継承のような重大事は事前に江戸幕府に諮るとした禁中並公家諸法度の規定にも拘らず、「非常事態」を理由に幕府に対しても事後報告の形で進められた。また、明正天皇以来119年ぶりの女帝誕生となった。 即位および大嘗祭は男帝同様に挙行された。女帝の礼服(即位用の正装)と束帯(通常の正装・男帝の黄櫨染に相当)は明正天皇の例に従って白の無地を用いた[注釈 3]。礼服はほぼ男子の礼服に準じた形式で(纐纈裳が加わる)、束帯は裳唐衣五衣のいわゆる十二単であった。明正天皇の時にはまだ復興していなかった大嘗祭・新嘗祭の装束としては、御斎服・帛御服があるが、前者は男子同様の仕立てで髪型が大垂髪であることだけが異なり、後者は白平絹の裳唐衣五衣である。普段は大腰袴姿であった[2]。 代初めの小朝拝にも出御、在位中は正月の諸礼などの対面儀礼にも出御することが多かった。しかし例年の節会の出御は少なく、新嘗祭の出御は譲位直前の1度だけであった。また庭上に降りる四方拝も、御座は設けるものの出御に及ばない例であった。基本的には男帝と同じ儀礼をこなしながらも、種々の便宜上出御を見合わせることも多かったようである[3]。なお、譲位後は色物の装束を着用しており、その控え裂が國學院大學に所蔵されている。 太上天皇として[編集] 在位9年の後、明和7年11月(西暦1771年1月)、甥である後桃園天皇に譲位して太上天皇となった。 しかし安永8年(1779年)、皇子を残さぬまま後桃園天皇は崩御した。後桜町上皇は廷臣の長老で前関白の近衛内前と相談し、伏見宮家より養子を迎えようとした[注釈 5]が、結局現関白九条尚実の推す典仁親王六男、9歳の祐宮(師仁、兼仁、光格天皇)に決まった。

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尋甸府 – Wikipedia

尋甸府(じんてんふ)は、中国にかつて存在した府。明代から清代にかけて、現在の雲南省尋甸回族イ族自治県一帯に設置された。 1256年(憲宗6年)、モンゴル帝国により溢浦に万戸が置かれた。1276年(至元13年)、元により溢浦に仁徳府が置かれた。仁徳府は雲南等処行中書省に属し、為美・帰厚の2県を管轄した[1]。 1383年(洪武16年)、明により仁徳府は尋甸軍民府と改められた。1476年(成化12年)、尋甸軍民府は尋甸府と改められた[2]。安氏が土司として知府を世襲していたが、1478年(成化14年)に改土帰流により流官の統治するところとなった[3]。 1669年(康熙8年)、清により尋甸府は尋甸州に降格し、曲靖府に属した[4]。 1913年、中華民国により尋甸州は廃止され、尋甸県と改められた。 ^ 『元史』地理志四 ^ 『明史』地理志七 ^ 『明史』土司伝五 ^ 『清史稿』地理志二十一 表 話 編 歴 明朝の行政区分   直隷

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復員輸送艦 – Wikipedia

復員輸送艦となった元敷設艦「若鷹」(1947年)。兵装が撤去され、識別用の日章旗と艦名のローマ字表記が書かれている。 復員輸送艦(ふくいんゆそうかん)は、太平洋戦争終結後、海外に残された日本人を本土に帰還させるために使用された艦船のこと。復員輸送船とも言われる。正確には第二復員省の特別輸送艦/特別輸送船に指定された艦船を指すが、一般には復員輸送艦(船)または単に復員船と言われている。 大戦終結後にはアジア各地や太平洋の島々に約600万人以上[1]の軍人、軍属、一般人が残されており、それらの人々の日本への帰還は急務の問題だった。任務には客船が当たるのが一番良いのだが、当時の日本商船隊は戦時中の徴用や、それに伴う任務中の撃沈・沈没でほぼ壊滅状態であったので、大日本帝国海軍に所属していた艦艇のうち航行可能なものに加え、アメリカ海軍から供与されたリバティ船、LST各100隻も動員された。旧海軍艦艇に関しては兵装を撤去したうえ、上甲板の空いた場所に仮設の居住区やトイレを設けて使用された。例えば丙型海防艦では便乗者443人収容、復員艦中最大の艦船である空母「葛城」の場合は格納庫を改造して1回に約5,000人が収容された[2]。 復員輸送は1945年(昭和20年)10月から始められ、翌1946年(昭和21年)春から8月がピークとなった。その後は艦船数を徐々に減らし1947年(昭和22年)夏ごろまで続けられた。任務中に座礁などの事故で喪失した艦は、第20号輸送艦、第116号輸送艦、海防艦「国後」、駆逐艦「神風」、雑役船「光済」がある。 任務を終了した艦船のうち軍艦の多くは解体された。航行可能な駆逐艦以下の小艦艇は仮設設備を撤去のうえ特別保管艦となり、呉港などに係留保管、後に連合国に引き渡されている。少数ながら「宗谷」など戦後も国内で使用された例もある。 復員輸送艦船一覧[編集] 復員輸送艦となった「夏月」(1945年)。2番砲塔が撤去され、側面にローマ字表記が書かれてある。 復員輸送に使用された艦船[3](*は戦後完成の艦船) 航空母艦 : 鳳翔、葛城 巡洋艦 : 八雲、鹿島、酒匂[4] 潜水母艦 : 長鯨 敷設艦 : 若鷹、箕面 駆逐艦 海防艦 占守型 : 占守、国後

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