シェイハ・ムクター・モハメド・フセイン – Wikipedia

シェイハ・ムクター・モハメド・フセイン (ソマリ語: Sheekh Mukhtaar Maxamed Xuseen, アラビア語: الشيخ محمد حسين مختار‎, 英語: Sheikh Mukhtar Mohamed Hussein ‎; 1912年 – 2012年6月12日) はソマリアの政治家。国民議会の議長に加えて、一時期ソマリア大統領代理も務めた[1]

出生[編集]

1912年頃、バイドア近郊の村で生まれた。バイドアから12キロメートル離れたアショ・ガーボ村で生まれたという説[2]、あるいはバイドア近郊のエドイ・ベレイで生まれたという説[3]がある。出身氏族はラハンウェインのハダメ支族[2]。エチオピアのハラールで教育を受ける[4]。成人後、フドゥールやバイドアなどに店を構える。1940年代[4]にハダメ支族[3]の族長となる。

政治活動[編集]

1941年、政党ソマリ青年クラブで上部ジュバ地方の責任者となる[4]。ソマリ青年クラブは後にソマリ青年同盟(SYL)に改称[2]。1952年、地元議員になった[2]

ソマリア独立前の1956年、ムクターは上部ジュバ地方のカーディーとなる[2]。さらに同年、独立事前暫定議会の議員となり、アブドゥラヒ・イッサ・モハムド暫定首相から法務副長官に任命される[2]。1960年のソマリア独立後も同職を継続した[2]

1966年3月8日、前任者のアフメド・シェイハ・モハメド・アブシエ[3]に代わって、ソマリア国民議会の議長に選出された[2]。ムクターの話すソマリ語は、かなり訛の強いマーイ方言だったため、議会ではアラビア語を使用した[3]

クーデターによる失脚[編集]

1969年、シェルマルケ大統領に同行してソマリア北部を訪問。訪問期間中の10月15日にシェルマルケ大統領が暗殺された[2]結果、ムクターは大統領代理となり、大統領選挙が行われる10月21日まで努めることになった[2]

ところがその10月21日、ソマリア軍少将のモハメド・シアド・バーレがクーデターを起こし、首都モガディシュを制圧する。ムクターは軍に拘束され、議会は解散させられた。その後18ヶ月間、自宅に軟禁され[2]、その後も1980年代まで生活の制限を受ける状況が続いた[4]

1980年代後半、ムクターは解放される[4]。1989年に反バーレ派の協定に署名[3]。その後、ジュバ川とシェベリ川の間の地域を中心に、いくつかの争いの調停を行う[3]。1991年6月5日~11日に開催されたジブチ会議に参加した[3][4]

2008年以降はケニアの首都ナイロビに住んだ[2]

2012年6月12日に老衰で死去。遺体は15日にナイロビからモガディシュに移され、アフマド大統領らが参列の元、トリブンカ国立墓地に埋葬された[2]

参考文献[編集]