ボイス・オブ・アメリカ – Wikipedia

ボイス・オブ・アメリカ(英語: Voice of America, 略称:VOA)は、アメリカ合衆国政府が運営する国営放送。40を超える言語でニュースを提供している。VOA は国営放送として米国放送理事会(USAGM)を通じて連邦資金が提供されている[2]

日本語での呼称は「アメリカの声」である。本項では、原則として VOA (「ボイス・オブ・アメリカ」) という呼称を用いる。

初期(1942年 – 1947年)[編集]

1941年6月13日、フランクリン・ルーズベルト大統領は情報戦に対応するため戦争情報局 (OWI) を設立。ヨーロッパ及び西アフリカを占領した当時のドイツと日本軍の南太平洋を占領した当時の日本に向けニュースを発信するため、7月14日に海外情報局 (FIS) を設立した。

1942年2月24日に放送を開始。送信機はCBS及びNBCによって使用された短波送信機からVOAラジオを送信した。このラジオ局は1947年2月17日に当時のソビエト連邦(現:ロシア)へラジオ放送の送信を始めた。

冷戦時代(1948年 – 1992年)[編集]

冷戦の間、VOAは対外宣伝のための機関である合衆国情報庁(U.S. Information Agency[3])の下で運営された。1980年代に、VOAはテレビジョンサービス、同じくキューバ、ラジオ・マルティ (Radio Marti) 及びテレビ・マルティ (TV Marti) へ特別な地域プログラムも加わった。

VOA憲章は1960年に起草され、1976年7月12日にジェラルド・フォード大統領によって調印された (公法94-350)。VOA憲章は三つの指針からなる[4]

VOA憲章

・安定して信頼できうる典拠の確かな情報源として、VOAは、正確で客観的かつ包括的なニュースを提供する

・特定の米社会を代弁するのではなく、VOAは、米国を代表してバランスよく包括的にアメリカの重要な思想や制度を伝える

・米国の政策を正確に効率的に伝え、アメリカの政策に対して責任ある議論や意見も提供する

情報通信技術の時代(1992年 – 現在)[編集]

1999年に再編により合衆国情報庁が廃止され、合衆国政府(国務省)の直轄による運営となった。また2000年よりインターネット上で英語放送を開始した。

2004年2月14日、アル・フーラの放送を開始。アルジャジーラに対抗した衛星放送(「フッラ」は「自由なるもの」の意)であった。ただし、アラブ諸国の民衆からは全く支持されず、失敗に終わっている。

7月6日、4年間報道局長を務めたアンドレ・デネスネラ局長の更迭を含む機構改革が発表され、多くの VOA局員が報道の自由と独立性が脅かされていることに対し議会に嘆願書を提出した[5][6]

2014年7月1日午前9時(JST)をもって、極東アジア向けの英語放送は廃止された。

トランプ政権とVOA[編集]

2020年4月10日、ホワイトハウスはニューズレターで、VOAが中国のプロパガンダを宣伝するためにアメリカ国民の税金を使っていることを告発した[7][8]
VOA局長アマンダ・ベネットは、この告発にたいし,「ホワイトハウスの主張は全く根拠ないもの」であり,VOAは「中国による偽情報を徹底取材し、英語と中国語で放送している。VOAは政府管理のメディアではなく独立したメディアだ」との声明をだした[9]
ナショナル・プレスクラブやジャーナリズム・インスティテュートもVOAに同調し、NPCジャーナリズム研究所のアンジェラ・キーン会長は、「大統領およびホワイトハウス当局者によるVOAへの攻撃は、VOAの使命を損なうだけでなく、公的資金による報道機関を政治的干渉から守るファイアウォールを突き崩すものである」との批判を行い[10]
多くのメディアもこの告発を「報道の自由の危機」なるものとして批判した[11][12]
しかしながら,トランプ大統領の領副首席補佐官ダン・スカヴィーノも、VOAが「中国武漢の封鎖解除を祝う」としたツイートに対し,ホワイトハウスの告発と同様の批判的姿勢を示した[13]

この告発を受けて,VOAやラジオ・フリー・アジア(RFA),ラジオ・フリー・ヨーロッパ(RFE)などの外国向け放送を統括する米国放送理事会(USAGM)の最高経営責任者にマイケル・パックが就任し[14]
VOAのアマンダ・ベネット局長とサンディ・スガワラ副局長が16日に,USAGM系メディアの局長らとUSAGMの監査委員会を解散させを17日に辞任することとなった[15][16]
また,ラジオ・フリー・アジアの編集長は解雇された[17]

8月31日、VOAの記者グループは「トランプが指名した役員によって国内外のVOAのジャーナリストが危機的な状態に陥っている」との抗議文を発表した[18]
ナショナルプレスクラブとジャーナリズムインスティテュートによれば,「新CEOのパックがVOAのジャーナリストのビザ更新の許可を出さず、世界中にいる数十人の記者の任務だけではなく、生命の安全すらも脅かして」いるようで,VOA記者たちの期限切れビザを更新するよう要請している[19]

VOAのプログラム[編集]

IBB放送活動、VOA以外[編集]

VOAは専門的な聴取者に向けた幾つかのプログラムを放送している:

各言語版及びプログラム[編集]

ボイス・オブ・アメリカは、英語を母語としない人々に向け、平易な語彙と文法を用いた上で、通常の3分の2の速さでアナウンサーが語るスペシャル・イングリッシュという英語放送がある。これを含め、現在50前後の言語で放送されている。短波放送で受信可能であり、インターネットでは、ボイス・オブ・アメリカの公式サイトでのインターネットラジオをはじめ、ポッドキャストやYouTubeなどでビデオ放送などがいずれも無料でダウンロードすることができる。また、日本では有線放送でも放送されている。

ボイス・オブ・アメリカは、かつては戦時情報局やアメリカ合衆国広報文化交流局(USIA)の元で運営された。USIAのテレビ部門が後にBroadcasting Board of Governors(BBG)に受け継がれ、現在のボイス・オブ・アメリカはBBGの管理下に置かれ、放送内容もBBGの監修を受けている。なお、BBGは、「海外の聴取者に正確・客観・公正的な、アメリカと世界のニュース及びにその関連情報を放送し、以て放送地域の民主化を促進・強化させる」ことを職責としている[20]

番組内容は米国の国益に基づいて決定され、広告収入を財源とする民間放送局と違って、制作資金もアメリカ合衆国議会から出資されるので、米国の外交政策上の優先順位の変化によって、特定地域に関する番組の制作資金が減らされたり増やされたりする。制作資金は、視聴者が自由で公正なニュースにアクセス出来るかどうか、現状の番組にどれだけ有効性があるか、米国の戦略的利益になるか、といった観点から決定される[21]

2010年1月現在、放送されている主な言語は以下の通り。共通しているのは“民主化を要する”国・地域向けが多いこと。

ニュースにおいては、アメリカ国内のみならず、国外の話題を含め、24時間体制で最新のニュースを提供している。アメリカの歴史や文化、音楽などの特集番組も定期的に放送される。

日米メディア史を研究している早稲田大学の有馬哲夫はVOAについて、第二次大戦中や米ソ冷戦中に敵国へ向けて、米国の大義と価値観を広める為の対外宣伝工作機関だったと指摘している[22]。エディンバラ大学のロバート・コールは、VOAは最も長期間続いている最も優れた米国のプロパガンダ機関だと評価した[23]

日本語放送[編集]

ボイス・オブ・アメリカの歴史は上述の通り、日本語放送とドイツ語放送に端を発している。折りしも放送開始前年の1941年に太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発しており、当時の大日本帝国へのプロパガンダを行う意図を持った開局だった[24]

日系アメリカ人二世の局員、フランク・正三・馬場が、日本語放送において指導的役割を担った。馬場は自らのアナウンスで戦況を詳細に伝えたり、空襲を予告するなどの放送を行った(馬場の項に詳述)。

1944年12月25日からは、サイパン島のKSAIからの中波放送が開始された。当時日本では戦時防空体制のため、中波ラジオ放送を全国同一周波数で実施しており、KSAIの電波も同じ周波数で送信された[25]。日本側は翌26日からジャミングを送信し、妨害につとめた[26]

太平洋戦争の終結後、日本語放送は一旦廃止された。

戦後、1951年に短波および中波(当時アメリカ統治下にあった沖縄・奥間ビーチからの中継)によって再開され、アメリカの国内情勢や話題などを放送したほか、在京民放局への番組提供を行った。

アメリカ東部時間の夜(日本時間の早朝)に1番組しか放送されなかったこともあってリスナーが非常に少なかったうえ、世界中から充分に情報を取り入れるに至った日本に、わざわざアメリカから放送を送る必要性は乏しいと判断され[27]、1970年2月28日をもって廃止された。

1972年(昭和47年)の沖縄返還に伴い、沖縄県の中継局も日本から移転したが、その際の費用も沖縄返還協定(西山事件)により、日本国政府が負担している[28]

沖縄のVOA通信施設[編集]

沖縄にあったVOA奥間送信所

1951年 (昭和26年)、中華人民共和国の誕生や朝鮮戦争の勃発と極東アジア情勢の変動の中で、米軍は対共産圏への情報戦略・宣伝工作を目的としたVOA通信所を建設するため、占領下にある沖縄県国頭村の米軍保養施設奥間レスト・センターの南側の土地564千㎡を強制接収した。ほかにも恩納村の万座毛[29]や北谷村に関連施設を設置し、1953年の開局から1977年5月15日まで、朝鮮半島や中国全土とベトナムに向け中波1波と短波7~9波の放送を続けた[30][31]。VOAの琉球本部は嘉手納基地内に、また恩納村は受信所、国頭村奥間は発信所だった。

VOA施設のフィリピンへの移転撤去にともない、1977年に恩納村の574千㎡、北谷町の55千㎡のVOA関連施設の土地がすべて返還され、翌年の1978年には奥間VOAの土地564千㎡の返還が完了した。奥間VOA中継局 (Voice of America Okinawa Relay Station) の返還跡地は土地改良事業が実施された後、リゾートホテル(JALプライベートリゾート オクマ)や農地宅地として利用されている[32]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]