伊号第三十五潜水艦 – Wikipedia

伊号第三十五潜水艦(いごうだいさんじゅうごせんすいかん、旧字体:伊號第三十五潜水艦)は、大日本帝国海軍の伊十五型潜水艦(巡潜乙型)の16番艦。

当初は伊号第四十五潜水艦と命名されていたが、1941年(昭和16年)11月1日に伊号第三十五潜水艦と改名されている[4]

1939年(昭和14年)の第四次海軍軍備補充計画(④計画)により1940年(昭和15年)9月2日に三菱重工業神戸造船所で起工。1941年(昭和16年)9月24日に進水。1942年(昭和17年)8月31日に竣工。竣工と同時に呉鎮守府所属となり、伊34、特設潜水母艦満珠丸(大阪商船、7,266トン)と共に訓練部隊である呉鎮守府呉潜水戦隊を編成する。

11月15日、第五艦隊直卒となる。

28日、伊35は呉を出港し、12月1日に大湊に到着。輸送物資を搭載し、2日に出港。8日にキスカに到着して輸送物資を降ろした後出港し、アムチトカ島南方20km地点付近に到達して哨戒を行う。14日、哨戒区域を離れ、20日に幌筵に到着。25日、輸送物資を載せて幌筵を出港し、31日にキスカに到着して輸送物資を降ろした後出港し、アダック島北東沖に進出して哨戒を行う。1943年(昭和18年)1月7日、アッツ北東沖で発見した米巡洋艦の攻撃に向かったが、発見することはなかった。10日、キスカ南方沖に移動。17日、キスカに到着。

18日、伊35はキスカを出港し、キスカとアムチトカ島の南方沖の哨戒を行った。23日、幌筵からキスカへ輸送物資を輸送中の軽巡洋艦木曾、駆逐艦若葉の2隻が浮上航走中の「敵の潜水艦」を発見したため、反転し幌筵島に帰投。その後、「敵の潜水艦」を発見した海域で伊35が哨戒を行っていることが判明している。30日、アムチトカ島近海に進出して哨戒。2月14日、キスカに到着して北海守備隊の職員を乗せて出港。アッツに到着して便乗者を降ろした後出港し、横須賀に戻った。

3月27日、伊35は横須賀を出港し、4月1日に幌筵に到着。4トンの補給物資と弾薬、第51根拠地隊の一部を乗せて出港。同日、第六艦隊第1潜水戦隊第15潜水隊に編入。

8日にキスカに到着して輸送物資と便乗者を降ろした後出港し、13日に幌筵に到着。16日、弾薬と補給物資、陸軍兵士若干を乗せて幌筵を出港。20日にキスカに到着して輸送物資と便乗者を降ろした後出港し、24日に幌筵に到着。27日、輸送物資を乗せて幌筵を出港し、5月1日にキスカに到着。輸送物資を降ろした後出港。11日、アッツ島の戦いによりアッツ近海に移動。15日、アッツ島ホルツ湾で揚陸中の米攻撃兵員輸送艦J・フランクリン・ベル英語版(USS J. Franklin Bell, APA-16)を発見。その近くには米戦艦ペンシルベニア(USS Pennsylvania, BB-38)がいた。伊35は軽巡洋艦と判断した目標へ向け魚雷6本を発射。1140、魚雷4本がJ・フランクリン・ベルの両舷外とペンシルベニアの後方を通過した。駆逐艦2隻によりソナー探知された伊35は合計58発もの爆雷を投下されて損傷するも、退避することに成功した。19日、幌筵に到着。27日、幌筵を出港し、6月2日1700に呉に到着。17日に呉を出港して神戸に移動し修理を受ける。

最後の出撃[編集]

9月中旬、修理を完了して呉に戻った伊35は呉を出港し、18日にトラックに到着。10月11日、トラックを出港してウェーク島へ向かった。23日、ハワイ近海に進出。11月13日、エスピリトゥサント島北西沖に進出。19日、米軍のギルバート諸島来襲により、伊19、伊39、伊169、伊175と共に甲潜水部隊を編成し、タラワ近海に進出。20日、タラワ南西70浬地点付近で、米護衛空母サンガモン(USS Sangamon, CVE-26)、スワニー(USS Suwannee, CVE-27)、シェナンゴ(USS Chenango, CVE-28)とその護衛の駆逐艦からなる米第53.6任務部隊を発見と報告。22日夜に以下の通信を打電したのを最後に消息不明。

本艦の被害状況を調査した結果、航行不能帰還できず。本艦明朝を期し、敵艦隊に突入せんとす。各艦の健闘を祈る。イ三五号 潜水艦長

アメリカ側記録によると、23日1400、米戦艦テネシー(USS Tennessee, BB-43)を旗艦とする米第53.4任務部隊を護衛中の米駆逐艦ミード英語版(USS Meade, DD-602)が潜水艦の推進器音を聴取。米駆逐艦フレイジャー英語版(USS Frazier, DD-607)と共に爆雷攻撃を5回行った。ミードの爆雷攻撃の後、潜水艦が浮上してきた。ミードとフレイジャーは主砲と40mm機銃による射撃を開始。1751、フレイジャーは潜水艦の左舷司令塔後方に体当たりを行い、潜水艦の耐圧隔壁を破壊したが、フレイジャーも艦首が大破した。1754、潜水艦は艦尾から沈没。ミードとフレイジャーは生存者の救助のためボートを降ろし、ミードが3名を救助したが、4人目の生存者は救助しようと近づくボートに向けて拳銃を発砲したためやむなく射殺された。救助した捕虜を尋問したところ、潜水艦は伊35であると話した。艦長の山本秀男少佐以下乗員92名戦死。沈没地点はタラワ環礁のベシオ島西方沖、北緯01度22分 東経172度47分 / 北緯1.367度 東経172.783度 / 1.367; 172.783

1944年(昭和19年)1月10日、ギルバート諸島方面で亡失と認定され、4月10日に除籍された。

沈没時の主な乗員[編集]

  • 潜水艦長 – 山本秀男 中佐
  • 機関長 – 浜田金治 中佐
  • 水雷長 – 阿部恒司 少佐
  • 航海長 – 小針佳男 大尉
  • 砲術長 – 釜谷守保 大尉

全95名 (沈没時91名死亡、1名射殺、3名救助。)

※階級は、戦死確認後の最終階級。

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』410頁による。

艤装員長[編集]

  1. 山本秀男 少佐:1942年5月23日 –

艦長[編集]

  1. 山本秀男 少佐:1942年8月31日 – 1943年11月22日戦死

参考文献[編集]

関連項目[編集]