父二峰村 – Wikipedia
父二峰村(ふじみねむら)は、1959年(昭和34年)まで愛媛県の上浮穴郡にあった村であり、現在の上浮穴郡久万高原町の西北部一帯の地域である。
現在の久万高原町の西北部一帯。四国山地の中に位置する。土佐街道(概ね現在の国道33号)から西方の山を隔てた地域一帯。
- 村名の由来
- 「父二峰村」という地名は、明治の町村制実施時に、旧村の父野川、二名、露峰の各一文字を取ってつけられた合成地名。3地区は合併成立後、「大字」となり、さらに村の合併により「久万町」となっても存続した。
藩政時代
- 藩政の時代は大洲藩の領域だった。
- 明治4年の廃藩置県後大洲県のときもあった。
http://www.pref.ehime.jp/shokai/oitachi.html
明治以降
- 1889年(明治22年)4月1日 – 露峰村(つゆみねむら)、二名村(にみょうむら)、父野川村(ちちのかわむら)の3村の合併により父二峰村が成立。
- 1959年(昭和34年)12月15日 – 久万町、川瀬村、美川村の一部との合併により久万町となり、父二峰村は自治体としての歴史を閉じた。
父二峰村の系譜 (町村制実施以前の村) 昭和の合併 露峰 ━━┓ 二名 ━━╋━ 父二峰村 ━━━┓ (昭和34年3月31日合併) 父野川 ━━┛ ┣━━ 久万町 ┃ 久万町 ━━━━━┫ 川瀬村 ━━━━━┫ 美川村 ━━━━━┛ の一部(七鳥五番耕地)
露峰(つゆみね)、二名(にみょう)、父野川(ちちのかわ)の3つの大字があった。いずれも明治の村制発足前からの旧村である。1910年(明治43年)の人口が2,673人とある。
※大洲-久万街道・・・未だ道路の開けていない頃の人馬の通る街道である。各地の碑文ではおよそ1,200年前頃か、弘法大師が四国巡錫の砌にこの道を通ったとされている。
大洲の十夜ヶ橋の下で夜明かしをして、内子から小田川沿いにー大瀬(おおせー突合(つきあわせー田度(たどー臼杵(うすきー二名(にみょうの各村を経て久万の44番大宝寺へ向かったとある。各地には其の時の大師にまつわる謂われがある。
例えば二名から久万へ超える鶸田峠がある。連日の雨続きだったのがこの峠でやっと晴れたとか。「日和だ」がなまって「ひわだ」になったとか。
大師の通った道を歩くと決めたお遍路さんはこの道筋を歩いている。
おそらく最も古くからの遍路道であろう事は疑う余地もない。
※役場は二名にあった。二名にはかつては小学校(明治40年に父二峰尋常高等小学校の分校として開校した)もあった。
- 小学校
- 父二峰小学校 → 久万高原町立父二峰小学校を参照。
- 中学校
- 父二峰中学校 → 久万町立父二峰中学校を参照。
- 役場
大字二名におかれていた。
歴代村長[編集]
- 初代 – 大野 直栄(明治23年1月13日 – 明治32年12月31日)
- 第2代 – 白石 格(明治32年5月3日 – 明治34年3月5日)
- 第3代 – 宮脇 順(明治34年4月12日 – 大正7年1月25日)
- 第4代 – 長尾 二男(大正7年3月25日 – 大正11年3月24日)
- 第5代 – 佐伯 研治(大正13年1月24日 – 昭和3年1月23日)
- 第6代 – 大野 助直(昭和3年4月18日 – 昭和8年7月24日)
- 第7代 – 高岡 新栄(昭和10年5月10日 – 昭和20年10月8日)
- 第8代 – 大野 貞一郎(昭和20年1月18日 – 昭和22年1月11月8日)
- 第9代 – 竹井 薫(昭和22年4月6日 – 昭和26年4月4日)
- 第10代 – 横田 重一(昭和26年5月2日 – 34年3月30日)
- 以降 久万町に合併
米麦、とうもろこし、小豆、粟、ソバなどを産し、養蚕、畜産なども営まれた。
伊予鉄南予バス久万営業所 – 富重
1941年頃には三共自動車が当時の小田町村・突合(つきあわせ)が始発で-田度-二名-久万町間に午前・午後の二便を運行していた。
合併により伊予鉄バスとなったのちも昭和30年代まで運行されていた。
関連項目[編集]
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