小川治兵衛 – Wikipedia

七代小川 治兵衛(おがわ じへえ、万延元年4月5日〈1860年5月25日〉 – 昭和8年〈1933年〉12月2日)は、近代日本庭園の先駆者とされる作庭家、庭師。通称植治(屋号)。

中興の七代目小川治兵衞は源之助といい、山城国乙訓郡神足村(現在の京都府長岡京市)生まれ。明治10年(1877年)に宝暦年間より続く植木屋治兵衛である小川植治の養子になり、明治12年(1879年)に七代目小川治兵衛を襲名。

植治は、明治初期、京都東山・南禅寺界隈に新たに形成された別荘地において、東山の借景と琵琶湖疏水の引き込みを活かした近代的日本庭園群(南禅寺界隈疏水園池群)を手掛けたことで名高い。琵琶湖疏水は計画段階では工業動力としての水車に用いることが期待されていたものの、その後、工業動力としては水力発電が採用され、明治23年(1890年)に疏水が完成した時には水車用水としての用途はなくなっていたのである。明治27年、植治は並河靖之邸の七宝焼き工房に研磨用として引きこんだ疏水を庭園に引く。次いで山縣有朋の求めに応じて、庭園用を主目的として疏水を引きこんだ無鄰菴の作庭を行う。これを草分けとして、植治は自然の景観と躍動的な水の流れをくみこんだ自然主義的な近代日本庭園を数多く手がけて、それらを設計段階から資材調達、施工、維持管理まで総合的に引き受けていく[1][2]

植治の作庭には、平安神宮、円山公園、無鄰庵(山縣有朋別邸)、清風荘.(西園寺公望別邸)、対龍山荘(市田弥一郎邸)など国の名勝に指定されたものも多く、他に旧古河庭園、京都博物館前庭、野村碧雲荘、住友家(有芳園・茶臼山邸・鰻谷邸・住吉・東京市兵町邸)・三井家・岩崎家・細川家の各庭園など数多くの名庭を残す。そのほか、京都御苑と京都御所、修学院離宮、桂離宮、二条城、清水寺、南禅寺、妙心寺、法然院、青蓮院、仁和寺等の作庭および修景、大正元年御大典挙行のための京都御所御苑改造や桂離宮、修学院離宮、二条離宮庭園らの改造、大正三年と昭和二年の各大嘗祭悠紀・主基両殿柴垣や周囲築堤[3]も拝命し手がけた。

昭和8年(1933年)12月2日、74歳で没した。墓は仏光寺本廟の境内の西南隅、小川家一族の墓域内にある[4]

著名な作庭園[編集]

国の名勝[編集]

その他[編集]

植治の屋号は現在に至るまで代々「小川治兵衞」の名前を受け継いでいる。とくに写真にある7代目の作庭は有名であるが、しかし実際には、7代目作とされる庭も8代目、9代目により製作されたものもあり、混同されているまま現在に伝わる。当時は、京都御所、桂離宮、二条城や市内街路樹などの手入れも植治で行い、東京の岩崎邸の修景なども手掛けている。

関連文献[編集]

伝記[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]