桂歌丸 – Wikipedia

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桂 歌丸(かつら うたまる、1936年8月14日 – 2018年7月2日)は、日本の落語家。位階は従五位。勲等は旭日小綬章。本名∶椎名 巌(しいな いわお)。出囃子は『大漁節』。神奈川県横浜市出身。

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公益社団法人落語芸術協会五代目会長、横浜にぎわい座二代目館長などを歴任した。

概要

2007年11月、「インド・ニューデリー寄席」にて

神奈川県横浜市中区真金町(現:南区真金町)出身。定紋は『丸に横木瓜』。血液型はA型。横浜市立横浜商業高等学校定時制中退。

五代目古今亭今輔の門下となり、古今亭今児を名乗る。のちに四代目桂米丸の門下に移り、桂米坊を名乗った。当初は新作落語中心だったが、晩年は、廃れた演目の発掘や三遊亭圓朝作品など古典落語に重点を置いて活動していた。出囃子は『大漁節』。

社団法人である落語芸術協会に所属し、理事や副会長を歴任した。2004年に5代目会長に就任し、公益社団法人への移行後も引き続き会長を務めた。また、地元・横浜においては横浜にぎわい座の2代目館長や、横浜橋通商店街の名誉顧問も務めていた。

演芸番組『笑点』(日本テレビ)の放送開始から大喜利メンバーとして出演し、2006年(平成18年)5月21日から2016年(平成28年)5月22日まで同番組の5代目司会者を務め、同日付で終身名誉司会者に就任[1]。没後は永世名誉司会に名称が変更された[2]

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生涯

幼少時の生い立ち

常陸国筑波郡(現在の茨城県つくばみらい市)にルーツを持つ横浜市中区真金町の遊女屋の長男・椎名貞雄と、千葉県市原市瀬又の農家の娘・伊藤ふくの長男として生まれる[3]。3歳で父を結核で亡くし、ふくは遊郭を手伝っていた。

歌丸9歳の時戦況の悪化によりふくの実家がある市原へ疎開。5月の横浜大空襲で富士楼は消失したものの、終戦後8月中にバラックを建てすぐに再開にこぎつける。
疎開中、父方の祖母・タネとふくはしきたりの違いなどで関係が修復不可能になり、ふくは遊郭を出てしまう。
終戦直後、疎開先に母ふくが歌丸を引き取りに来たが2,3日後にはタネが歌丸を真金町に連れ帰った。タネが連れ帰る事を歌丸本人も嫌とは言わなかった(歌丸本人談)[3]。タネ(1879-1953)は三重県四日市市川原町で名産品万古焼の包装紙を扱う紙卸業「紙宗」の長女で、16歳で横須賀柏木田遊郭の若葉楼で働き始め(職種は不明)、30歳で結婚、大正時代には吉原遊廓で引手茶屋「東屋」を夫とともに営んでいたが、関東大震災を機に横浜真金町の永真遊郭で周旋屋を始め、昭和9年から女郎屋「富士楼」を経営、近隣の「ローマ」、「イロハ」の女将と合わせて「真金町の三婆」と呼ばれるほどの気性の女性だった[3]

千葉に疎開している最中に横浜の空襲が起き、それをただただ見つめていたという[4]。また歌丸は千葉疎開中は道端の草やサツマイモばかり食べていた為、その影響で終戦以降「私ゃね、サツマイモが食えねえんだよ」とサツマイモが食べられなくなってしまったことを語っていた[4]

この空襲で生家も焼失したが、戦後すぐにタネはバラックを建て「富士楼」の経営を再開。店も繁盛したため戦後の貧しい時代にあっても食料に困ることもなく、当時高価だったラジオも持っていた。このラジオでよく聴いていた落語に影響されたことが、落語家になるきっかけとなっている[4]。祖母に連れられてよく行った伊勢佐木町の大衆劇場『敷島座』で芝居の幕間で観た漫才にも夢中になって漫才師になることも考えたが「わがままな自分にとって二人で演芸をするのは無理かな」と思ったことも落語家を目指したきっかけの一つとなった[6][7]

小学校4年生の頃には、将来落語家になると既に決めており、自習の時間になると落語を演じていた。これが非常に好評で、時には他のクラスからも自習になったから落語をやってくれと要請があった程である。

落語家

『落語など』に掲載された在りし日の歌丸の肖像写真[9]

横浜市立吉田中学校在学[10]中に、遊郭内の永真診療所で行われた慰労会の席で、当時二つ目だった5代目春風亭柳昇の落語を聴いて、落語家になる決意を完全に固めた[12][注 1]

そして、NHKの出版部にいた遠縁の親戚を通じて誰に弟子入りしたらよいかを相談し「一番面倒見の良い人だから」という理由で5代目古今亭今輔を薦められ、中学3年だった1951年(昭和26年)に入門することになる[3]。ちなみに本人は「噺家になれさえすれば師匠は誰でも良かった」とのこと。

はじめに兄弟子で、後の師匠である米丸の初名だった「古今亭今児」を名乗る。その際今輔から言われたことは「歌舞伎を見ろ」。今輔によると歌舞伎を見ることは落語に活きるからだと言い、実際自ら演じる際はそのエピソードをマクラで語っている[17]

  • このためか、中村吉右衛門出演の歌舞伎をよく見に行に行っており、歌丸曰く「仕草や立振舞などを見て落語に活かすため」とのこと。ちなみに吉右衛門曰く、「歌丸師匠は歌舞伎を見るのにいい席に座っている」とし、「舞台から見ても歌丸だとすぐにわかる」らしい。ただし、両者に直接的な面識はまったくなかったとのことで、歌丸は、吉右衛門と『鬼平犯科帳』で共演していた三代目江戸家猫八に「吉右衛門のサインをもらってきてほしい」と頼んだとのことである。後に吉右衛門は、頭をなでながら「いろいろと照れ屋さん」と歌丸を評している[要出典]

今輔門下から兄弟子・4代目桂米丸門下へ移籍したのは、当時芸術協会で勃発した香盤(序列)問題や、今輔が新作派なのに対し高座で古典落語ばかり演じていたことに端を発している。この一件で今児は破門状態となり、一時、ポーラ化粧品本舗のセールスマンへ転職するが、三遊亭扇馬(のちの3代目橘ノ圓)の肝いりで落語界に復帰。しかし今輔が付けた条件により兄弟子・米丸門下となった(米丸も「浜っ子」である)。なお歌丸の著書によれば新師匠の米丸からは入門に際して寄席の初日と中日には必ず今輔宅に顔を出すことを言いつけられた。そのおかげで今輔とは破門以前と同様の関係を維持することができ、後述のように寄席などでの真打昇進興行や口上にも今輔は出演している。

  • 一部記事等では、1961年(昭和36年)に「今輔死去に伴い兄弟子米丸門下に移籍」との表記があるが、これは誤り。米丸門下に移籍したこと自体は1961年(昭和36年)のことだが、先述のように今輔一門からの事実上の破門状態になったことによるもので、今輔死去は1976年(昭和51年)である。実際に、1968年(昭和43年)に行われた『笑点』での歌丸の真打昇進披露口上では、今輔と米丸が揃って登場している

米丸の弟子になって「古今亭今児」から「桂米坊」に改名したが「額のあたりが広くなってきた」うえに「子供っぽい」と言われたことから1964年(昭和39年)1月、「桂歌丸」に再改名。どちらも米丸が考案して付いた名である(したがって歌丸は当代が初代)。歌丸本人は「歌丸」の由来を米丸に尋ねることはなかった。

口調の違いがあったことから米丸はほとんど稽古を付けず、歌丸(米坊)は専ら米丸のラジオ番組の構成などを手掛けていた。しかし、これで放送局関係等にコネクションができたほか、ネタ作りの鍛錬になり、古典の掘り起こしの際の一部改作や独自のくすぐりを入れたりするのに役に立ったという。

1978年(昭和53年)に起きた落語協会分裂騒動の際、新しくできた落語三遊協会に5代目三遊亭圓楽を通じて、参加を要請されたが、歌丸自身は上記の経緯で米丸一門に移籍したと説明し、参加を断っている。

自身の弟子の高座名は、歌丸の「」の文字を頭に付けることを原則としているが、一番下の弟子だった3代目桂枝太郎のみ、本人の希望により二つ目時代は「」の付いた名前が欲しいとしたため、「花丸」を名乗らせていたとしている。歌丸曰く「学校の時の成績がよっぽど悪かったため、名前だけでも丸が欲しかったのではないか(笑)」として、「花丸」になったとのこと。あとの4人は、預かり弟子でもある惣領弟子の歌春(歌丸門下になったと同時に「歌はち」に改名していた)を含め、すべて「某」の高座名である。

妻・冨士子

桂歌丸の妻。通称、冨士子夫人。1932年生まれで歌丸より4歳年上。蒔絵師の末娘で、歌丸と同じく横浜真金町の出身であり生家の近くに在住していた。このため、師匠の今輔から勧められた女性を断って、顔見知りだった冨士子と結婚し下積み時代の歌丸を支え続けたと後に語っている。1989年(平成元年)に歌丸が座布団10枚の賞品として獲得した「クィーンエリザベスIIの夕べ」にて“美女とクルージング”をすることになったが、その「美女」として冨士子が登場している。但し、この時は後ろ姿のみで顔は出していなかった。その後も番組内で姿を現すことはなかったため、笑点では「謎のヴェールに包まれた人物」とされていた。2007年(平成19年)11月23日に行われた歌丸の旭日小綬章と金婚式を祝う会では、公の場に夫婦揃って登場した[31]

高座や大喜利で、しばしば「恐妻」「鬼嫁」としてネタにされ、歌丸以外では楽太郎(6代目円楽)が罵倒ネタの1つとして用いることもあった。なお、歌丸は冨士子を知らない視聴者のために「冨士子ってのは、あたくしの妻なんです」と頻繁に解説していた。

歌丸最後の出演となった2016年5月22日の笑点の生放送に観客として客席におり、その模様が歌丸勇退特集の地上波日本テレビ系列及びBS日テレの笑点関連番組で放送された。

歌丸死後の笑点追悼特番では、冨士子をはじめとした遺族が収録を観覧した。

桂歌丸死亡事件

笑点の50周年スペシャルで語られたエピソードで、2001年のある日、笑点の制作スタッフに日本テレビの報道部から電話が入り「歌丸師匠がお亡くなりになったという情報が入ったが本当か?」という問い合わせがあった。スタッフは大慌てで歌丸の自宅に電話したところ電話口に妻の冨士子が出て「主人なら落語の地方公演に出かけている」と答え実際に歌丸は公演を行っていたため誤報であることが判明した[32]

なお、本件以前から歌丸の死亡ネタは笑点内では罵倒ネタとして知られており、逝去まで笑点内では6代目円楽(楽太郎)を筆頭にメンバーが死亡ネタを頻繁に使用していた。

笑点メンバー

前身番組の『金曜夜席』第1回から出演。『笑点』に改題後、当時の司会の立川談志とメンバーの対立により1969年(昭和44年)3月30日をもって5代目圓楽らと共に一旦降板したが、同年11月9日に司会が前田武彦に交代すると同時に復帰した。2006年(平成18年)5月21日より勇退した5代目圓楽に代わり、笑点の5代目司会者に就任した[注 2]

紋付の色は黄緑で、司会就任当初もそのままだったが、2007年(平成19年)9月9日放送分から深緑に変わった。末期の『もう笑点』出演時は様々な色の紋付を着用していた。

『笑点』が始まった頃は司会が立川談志であり、真打が談志と5代目圓楽だけだったことから、引け目もあって歌丸の雰囲気は陰気だった。これは談志がブラックユーモアを多くしろと言ったことも影響した。当時歌丸が談志の言い付けで行ったブラックユーモアを理解したのはマスコミ関係者などであり、一般には受けなかった。そうしたことから、歌丸は自分が1年でも持てば良い方だろうと思っていたという。これにより、先述通り1969年4月に番組の路線を巡って歌丸を含めて談志に異を唱えたメンバー全員が降板する事態に発展した。前田武彦とは、歌丸曰く「畑が違う」ため番組内でのやり取りがちぐはぐになりがちだったといい、三波伸介が司会になったころからやり取りがスムーズになり、番組の色や歌丸の雰囲気も変わったとのこと。

番組中でも人気を博したのが、三遊亭小圓遊との掛け合いであり、小圓遊が歌丸を「ハゲ!」と罵倒すれば、歌丸は「お化け!」とやり返し、徐々にエスカレートするものだった。実際は小圓遊との不仲は番組を盛り上げるための番組内での演出であり、番組を離れての二人は1歳年上の歌丸から小圓遊が古典落語の稽古を付けてもらうなどしており、歌丸によれば「アイツとは打ち合わせをしなくても、アドリブでポンポン出てくるんです」と阿吽の仲だったことを伺わせる発言をしている。歌丸曰く「本業の落語より稼がせてもらった」と語るほどと小圓遊と仕事をする機会も非常に多かったが、地方公演に行った際に駅のホームで2人が一緒に立っているのを目撃した視聴者から「仲悪いはずなのに」と言われたことで、表立っては一緒にいるときは離れて行動するようになったと語っている[35]

歌丸曰く、小圓遊との掛け合いはものすごく受けたが、その時「あたしは落語を怠けている」と痛感し、落語をちゃんとやることにしたという。歌丸は「笑点」を務める中で「マンネリ」との批判を受けることがあったが、これに対して「マンネリってことは、長く続いているということだからね。それに、批判するってのは、それだけ見てるってこと、あるいは気にしてくれているってことでしょ」とむしろ喜んでいた。司会者としては「舞台に並んだら全員同格。上も下もない」という意識をメンバーに徹底させており、林家たい平や春風亭昇太がメンバーに入った時もはっきりとそのことを伝えていた。

大喜利では4代目三遊亭小圓遊の急逝後、6代目円楽(楽太郎)との罵倒合戦が定番だった[39]。6代目円楽との罵倒合戦については、新人時代にネタに悩んでいた楽太郎に対し、「(ネタは)俺のことでいいから」と提案したことに由来しており、小圓遊との罵倒合戦同様、番組上の演出だった。実際には仲が良く、歌丸と楽太郎の二人会などで共演することも多く、当時楽太郎がレギュラー出演していた『暴れん坊将軍VII』にゲスト出演したこともある。6代目円楽は円楽一門会所属の為、本来であれば寄席での興行が難しい[注 3]6代目圓楽の襲名披露を定席興行で実現させたのも、歌丸の尽力によるものだった。5代目圓楽の死後、歌丸との縁で「円楽一門会」は落語芸術協会への合流も模索したが、芸協側の反対多数により合流を断念している[注 4](その後、円楽のみが単身で客員での加入が認められた[40])。

病との闘い

一方、その体質から病気にかかることも多く、1985年(昭和60年)4月7日・4月14日、2008年(平成20年)6月29日・7月6日(腰部脊柱管狭窄症の手術・療養のため)、2010年(平成22年)3月7日・3月14日(肺炎に伴う入院)、2014年(平成26年)5月11日 – 6月1日(肋骨骨折)、2015年(平成27年)1月25日・2月1日(インフルエンザによる休養)、同年7月12日 – 9月6日(手術後の体調不良)[注 5]分の出演を見送っている。

1973年(昭和48年)に脱腸と2001年(平成13年)に急性腹膜炎と2度開腹手術を受けているが、いずれも番組を休むことはなかった。1973年(昭和48年)の手術直後の神奈川県伊勢原市での公開録画には、体調が優れない中で看護師同行の上で収録をこなした(この伊勢原での公録の模様を放送した『笑点』は40.5%の歴代最高視聴率をマーク)。2001年(平成13年)2月11日放送では手術直後の収録で、積み上げた座布団への昇降が困難だということで、歌丸は座布団の後ろに座ってその前に座布団を積み上げるという方式を取って臨んでいる。2006年に腰部脊柱管狭窄症の手術を行った際は収録がない時期であり、2012年に腰部脊柱管狭窄症の再手術の際も、収録のない時期に行った。

その後、2009年(平成21年)には肺気腫に伴う感染増悪で入院。50年以上に亘る喫煙の結果慢性閉塞性肺疾患と診断される[41]。このときも笑点の収録のない間の入院で済んだため番組を休演することはなかった。しかし2010年(平成22年)には、今度は軽い肺炎を起こし入院。当初愛知県みよし市での地方収録の前日には退院の見通しであったが、大事を取って延期されることになった(同年3月2日に行われた6代目円楽襲名披露パーティーは、一時退院の上で会見に臨んだ)ため、同年3月7日、3月14日放送分の『笑点』は、それぞれ木久扇と好楽が代理司会をする形で休演。同日放送分の『笑点Jr.』も木久扇が代理でナビゲーターをする形で休んだ。

2014年(平成26年)3月29日、慢性閉塞性肺疾患の悪化で入院。5月1日に高座復帰したが、帯状疱疹で再入院し、5月22日に退院。5月31日、復帰後初となる『笑点』の収録を行った。6月23日の紀伊國屋ホールでの公演には車椅子で楽屋入りし、合間に酸素吸入器を付けるなど万全な体調ではなかったが、無事に高座をこなした。この様子は6月25日にテレビ朝日『ワイド!スクランブル』のコーナー「情熱人」で放映された。同コーナー内での映画監督の井筒和幸との対談では、今回の病気で引退を考えていたものの、妻の冨士子から「あなたが落語辞めたら張り合いがなくなる」と説得されて、現役続行を決めたことも語った。

2015年6月1日、背部褥瘡(はいぶじょくそう)の手術のため入院。同月9日に退院していたが、その後、体調不良となり、入院・休養することになる[42]。『笑点』の収録などの仕事も休む。22日、病名が腸閉塞だったことがわかる[43]。同年7月11日、退院[44]。8月8日の『笑点』収録で仕事に復帰。高座にも同月11日からの東京・国立演芸場中席で復帰した[45]。入院生活により脚の筋肉が落ち正座をするのが大変苦しいとして、見台を使用したものの、当日の“トリ”として登場し約1時間の高座を務めた[46]。8月23日、日本テレビ系『24時間テレビ38 愛は地球を救う』内の「チャリティー笑点」に司会として登場。腸閉塞からの仕事復帰後では初めての生番組出演となった[47]。9月13日、『笑点』復帰の回が放送される[48]

2016年4月30日、同年5月に『笑点』が放送開始50周年を迎えることを機に、5月22日の放送を以て司会者を勇退することを発表し[49][50]、番組初の終身名誉司会に就任することとなった[49]

笑点勇退後

2016年5月25日、文化庁が歌丸の文部科学大臣表彰を発表。31日に文部科学省内で表彰式が行われ、馳浩文部科学大臣から表彰状が贈られた[51]

2016年7月26日、新橋演舞場で開催された「桂歌丸芸歴65周年記念落語会」に出席したが、翌27日、腸閉塞治療のため再入院したことを明らかにした[52]。8月5日に退院。8月11日、国立演芸場で行われた8月中席公演「桂歌丸噺家生活六十五周年記念公演」の初日に出演。高座に復帰した[53]

2016年8月27日の『24時間テレビ 「愛は地球を救う」39』では、オープニングで開会宣言を担当。笑点のオープニング風に、開会宣言を行った。この年のチャリティーマラソンが笑点メンバーの林家たい平だったことに伴い、たい平以外の笑点メンバーによるマラソン応援団の団長を務めた。なお、たい平がゴールした際には会場に居合わせなかったものの、自宅で『24時間テレビ』を観ながらたい平を常に見守っていたことが明かされている。

2016年12月14日、定期検診で軽度の肺炎と診断され、入院[54]。21日に退院し[55]、22日に群馬県みどり市のながめ余興場で行われた「桂歌丸芸歴65周年 冬の特選大落語会」で高座に復帰したが[56]、ドクターストップを振り切っての退院だったことを明らかにしている[57]

2017年1月1日、新宿末廣亭正月初席初日に出演したが、翌2日に肺炎で入院した[58]。18日に退院[59]。22日、神奈川県平塚市で行われた「新春落語会」で高座復帰した[60]

2017年3月18日放送(12日収録)の『古舘伊知郎ショー』(テレビ朝日)の番組内で、引退を検討していることを明らかにした[61]

2017年4月16日、肺炎のため入院。これに伴い国立演芸場の「4月中席」は、16日から20日まで休演[62]。26日に予定されていた「桂歌丸 高座65周年記念落語会」(なかのZEROホール)は公演中止となった[63]。今回の肺炎は、酸素の過剰吸引に誘発された稀なケースであったとされている[64]。5月13日に退院[65]。6月3日の春風亭小朝との二人会で復帰の予定だったが、前日になって体調不良のため休演することが決まった[66]。「左肺炎慢性呼吸不全の急性憎悪」と診断され、再入院[67]。14日に退院。この日出演予定だった落語会「特選 匠の噺会」では、開演前の舞台に立ってあいさつを行った[68]

2018年4月19日、国立演芸場にて行われた芸協定席興行で「小間物屋政談」を口演。これが生前最後の高座となった。その後、同月24日に肺炎が重篤化し横浜市内の病院へ入院[69]。6月15日の芸協定期総会で、副会長として補佐してきた三遊亭小遊三が歌丸の長期療養中に伴い、副会長在職のまま会長代行に就任した[70]。最後のテレビ出演は2018年7月1日放送(同年4月7日収録)の「もう笑点」であった[71][72]

死去

同年7月2日11時43分、慢性閉塞性肺疾患のため、横浜市内の病院で死去[73][74]。81歳没。

翌3日、歌丸が生前所属していた落語芸術協会を代表して、三遊亭小遊三会長代行・副会長、春風亭昇太理事、歌丸の弟弟子だった桂米助(ヨネスケ)理事、惣領弟子であった桂歌春理事が揃って会見し、歌丸の想い出と死去に至るまでの経緯を語った。それによれば、歌丸は入院後まもなく一時危篤状態に陥りながらも持ち直したこと、6月30日までは会話が出来ていて、6月26日に病床の歌丸を見舞った小遊三に対し芸協の今後について熱弁をふるったこと、7月1日には言葉が出なくなり、家族と歌春ら弟子に最期を看取られて息を引き取ったことなどが明かされている[75][76]

また、6代目三遊亭円楽はマスコミ向けのコメントの中で入院後の4月と5月、死去の12日前にあたる2018年6月20日に病室を見舞った事を明かした。4月に見舞った際には眼が合うだけで会話できなかったが、最後に見舞った6月20日には笑って色々な話をした事や、復帰に向けた喋りのリハビリの様子を見せてくれ、回復していると思った矢先の訃報だったため、言葉にならないとその心境を記した[77]。円楽が最後に病室を見舞った際には、笑点の番組関係者も同行してその様子をビデオ撮影していた為、2018年7月12日に日本テレビ系列で生放送された追悼特別番組や同年8月の『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』で『歌丸生前最後の映像』として放送された。

法名は「眞藝院釋歌丸」(しんげいいんしゃくかがん)。1964年から親しまれてきた芸名「歌丸」に、長年にわたって事に摯に向き合い続けたことと、横浜市内の金町で生まれ育ったことから『藝』と『眞』の文字が入った[78]

同月9日に通夜、翌10日に家族葬が営まれその日のうちに横浜市内の斎場で荼毘に付された[79]

同月11日に港北区の妙蓮寺で芸協・椎名家合同の告別式が行われ、師匠の桂米丸、落語協会会長の柳亭市馬、林家木久扇が弔辞、友人を代表して中村吉右衛門が挨拶、落語芸術協会を代表して三遊亭小遊三が謝辞を述べた[80][81][82][83][84]。また、葬儀の模様はインターネットでも同時生配信された。

2018年7月22日より、先述通り笑点での肩書が『終身名誉司会』から『永世名誉司会』に変更された。

日本政府は歿日付で従五位に叙した[85]

その他のエピソード

  • 女の化粧風景を描写した「化粧術」の珍芸を持つ[注 6]。「もともとあたしは横浜・真金町の遊郭育ち。女性のお化粧は見慣れているんですよ」と自負を持っていた。また、バニーガール姿、花魁姿など、女装を『笑点』で幾度も公開している。中でも2000年12月には座布団10枚の褒美として、女装姿を集めた写真集が製作されたことがある。
  • 横浜出身で、不意に横浜言葉が混じるとまずい、という懸念から、古典落語独特の江戸ことばを使うような噺には近づかなかった。
  • 国外での公演も行う。過去にはカナダ・トロント、2006年(平成18年)3月10日にはパリで公演を開催、フランス語の字幕付きで『尻餅』を演じた。11月2日にはニューヨークで海外公演を開催し、同じく日本語(英語の字幕付き)で『尻餅』を披露。2007年(平成19年)5月にはメキシコ公演も行う。
  • 30代から晩年に至るまで容姿がほとんど変わっていない。30代前半頃には、既に現在の頭髪に近い状態になっていた。なお、30代で死去した自身の父はもっと薄かったと述懐している[89]
  • 多趣味で知られ、足腰が弱る前は釣りに特に熱中していた。夏は大物狙いで渓流へ、冬はワカサギを求め相模湖へ通うのを恒例としていた。他には歌舞伎(前述)・映画鑑賞(特に東映時代劇)、古物店巡り、化石やジッポー・腕時計の収集、写真撮影、読書(特に横溝正史や高木彬光の作品)を好む[91]
  • 2010年(平成22年)5月に横浜にぎわい座の2代目館長の就任を要請されていることが明らかになり、同年7月に就任した(初代館長である玉置宏が同年2月に死去し館長が不在だった)。
  • 長年『笑点』に出演し、茶の間に広く顔の知れた高齢者であることも相まって、2010年(平成22年)6月、総務省から「地デジ化応援隊」メンバーに起用された。
  • 2004年2月に落語芸術協会の会長に就任。これをもじって「怪鳥」(あるいは「怪しい鳥」)と自他共にネタにすることが多々見られた。もとは、『笑点』回答者時代に当時の司会・5代目圓楽よりネタにされたことに起因する[92]。以前は、『笑点』のオープニングでも、ハゲタカ風の怪しい鳥に乗った歌丸のアニメーションが放送された時期があった。
  • 19歳の頃から喫煙を始め、1日に50本ものたばこを吸うヘビースモーカーだった。67歳の頃に受けた人間ドックにおいて、医師から「禁煙しないと取り返しのつかないことになる」と言われたが、その後6年間喫煙を続けた。2009年に慢性閉塞性肺疾患と診断され、自身と同じ目に遭う人をなくすため、2010年に厚生労働省が設置した「慢性閉塞性肺疾患(COPD)の予防・早期発見に関する検討会」の患者代表委員を務めた[93][94]
  • 1985年8月12日、当時の他の笑点メンバーである三遊亭圓楽 (5代目)、三遊亭楽太郎(現・6代目三遊亭圓楽)、林家木久蔵(初代、現・林家木久扇)、三遊亭小遊三、林家こん平、古今亭朝次(現・7代目桂才賀)、山田隆夫と共に翌日の阿波踊りに参加するべく徳島入りするために当初予約した徳島行きの航空機が大幅に遅延した上に徳島空港が悪天候のため予約便が条件付き運行となった。そこで1つ後の日本航空123便に搭乗して [注 7]神戸から船に移動する案が浮上したが[注 8]、こん平が「いいじゃないかい、決まった便でゆったり行こうよ、きっと徳島空港に着陸できるよ」と提案したために結局元の徳島便に搭乗し、その墜落事故から逃れることができた。徳島空港到着後、宿泊先のホテルへタクシーで移動中に同墜落事故を知ったという[95]
  • 生前、崎陽軒の「炒飯弁当」を好んで食べていたとされるが、歌丸が「炒飯弁当」と言っていたのは、実際には「横浜チャーハン」である[96]。2019年7月2日の三吉演芸場での「桂歌丸一周忌追善公演」に合わせて、「横浜ウォーカー×崎陽軒コラボ 桂歌丸さんの愛した炒飯弁当」が、公演会場と崎陽軒直営店舗3か所で販売された[97]
  • 自身が大師匠格でありながら、落語への研究熱心で真摯な態度は変わらず、先輩である上方の桂米朝宅へ「稽古をつけていただけませんか」と電話したことがあった。米朝の息子である桂米團治_(5代目)が「父も高齢ですので」と丁重にお断りしたエピソードが残っている[98]
  • 2005年には声優としてアニメ落語天女おゆいに桂歌丸本人役として出演した。その際には「正直二度とやりたくないです」と述べたが[99]、2012年にも伏 鉄砲娘の捕物帳において滝沢馬琴役を演じている[100]。いずれにおいても、一人で自由に喋る落語と違い、アニメーションに合わせて喋ることの難しさを語っている。
  • 2018年8月に1日限定で『笑点』の司会に復帰することが計画されていたが、その1ヶ月前に歌丸自身が死去したことにより実現しなかった[101]

略歴

主な演目

出演

テレビ

演芸番組

死去時点の出演番組
過去の出演番組
  • 金曜夜席(1965年3月12日 – 1966年4月22日、日本テレビ) – レギュラー
  • 笑点(1966年5月15日 – 2016年5月22日、日本テレビ) – レギュラー、司会者[125]
  • 爆笑パニック!体当たり60分(1975年10月5日 – 12月28日、テレビ東京)
  • BS笑点(2003年10月12日 – 2007年2月17日、BS日テレ) – ナビゲーター
  • 笑点Jr.(2007年4月22日 – 2011年3月13日、日テレプラス) – ナビゲーター
  • 東京スカイ座 一朝一席(2010年7月4日 – 2014年3月30日、TOKYO MX) – ナビゲーター
  • 笑点デラックス(2012年10月1日 – 2016年9月26日、BS日テレ)
  • 笑点 特大号(2013年4月3日 – 2016年6月15日、BS日テレ) – レギュラー出演降板後も不定期の出演あり。

テレビドラマ

ドキュメンタリー

映画

声優

ラジオ

CM

肺に罹患し、退院して日の浅い歌丸が「肺気腫に伴う感染憎悪」に関する啓発キャラクターとして起用された。2010年2月には、ディスカバーCOPD研究会のメンバーにもなった。この研究会の会見の直前に肺炎にかかり入院することとなり、研究会の会見を欠席。『笑点』も休演することになってしまった。復帰後、「COPD啓発大使」となった(同広報大使は和田アキ子)。

著書

関連書籍

CD・DVD

CD

  • 桂 歌丸1「質屋庫」「菊江の仏壇」 – 「朝日名人会」ライヴシリーズ2(2000.4.19発売、ソニーミュージック)
  • 桂 歌丸2「左甚五郎-竹の水仙」 – 「朝日名人会」ライヴシリーズ6(2001.5.23発売、ソニーミュージック)
  • 桂 歌丸3「牡丹灯籠―栗橋宿」 – 「朝日名人会」ライヴシリーズ12(2002.7.24発売、ソニーミュージック)
  • 桂 歌丸4「双蝶々雪の子別れ」 – 「朝日名人会」ライヴシリーズ18(2003.3.19発売、ソニーミュージック)
  • 桂 歌丸5「髪結新三」上下 – 「朝日名人会」ライヴシリーズ25(2004.6.23発売、ソニーミュージック)
  • 桂 歌丸6「小烏丸」「辻八卦」 – 「朝日名人会」ライヴシリーズ30(2005.5.18発売、ソニーミュージック)
  • 桂 歌丸7「藁人形」「井戸の茶碗」 – 「朝日名人会」ライヴシリーズ51(2008.7.23発売、ソニーミュージック)
  • 桂 歌丸8「火焔太鼓」「紙入れ」 – 「朝日名人会」ライヴシリーズ55(2008.12.24発売、ソニーミュージック)
  • 桂 歌丸9「真景累ヶ淵 豊志賀の死」 – 「朝日名人会」ライヴシリーズ59(2010.4.7発売、ソニーミュージック)
  • 桂 歌丸10「中村仲蔵」 – 「朝日名人会」ライヴシリーズ68(2011.4.20発売、ソニーミュージック)
  • 桂 歌丸11「鰍沢」「城木屋」 – 「朝日名人会」ライヴシリーズ71(2011.7.27発売、ソニーミュージック)
  • 高座60周年記念 特撰 桂歌丸(2011.7.27発売、ソニーミュージック)
  • 桂 歌丸12「紺屋高尾」「トーク:歌丸ばなし1」 – 「朝日名人会」ライヴシリーズ95(2014.6.25発売、ソニーミュージック)
  • 桂 歌丸13 「小間物屋政談」「トーク:歌丸ばなし2」 – 「朝日名人会」ライヴシリーズ96(2014.6.25発売、ソニーミュージック)
  • NHK新落語名人選 桂歌丸(2005.12.7発売、ユニバーサルミュージック)
  • 真景累ヶ淵
    • 真景累ヶ淵 CD5枚組(2006.2.22発売、テイチクエンタテインメント)
    • 真景累ヶ淵 深見新五郎(2006.2.22発売、テイチクエンタテインメント)
    • 真景累ヶ淵 勘蔵の死(2006.2.22発売、テイチクエンタテインメント)
    • 景累累ヶ淵 お累の自害(2006.2.22発売、テイチクエンタテインメント)
    • 真景累ヶ淵 湯灌場から聖天山(2006.2.22発売、テイチクエンタテインメント)
    • 真景累ヶ淵 お熊の懺悔(2006.2.22発売、テイチクエンタテインメント)

CD・DVD

  • 牡丹燈篭
    • 牡丹燈篭 お露と新三郎(2006.9.27発売、テイチクエンタテインメント)
    • 牡丹燈篭 お札はがし(2006.10.25発売、テイチクエンタテインメント)
    • 牡丹燈篭 関口屋のゆすり(2006.12.20発売、テイチクエンタテインメント)
    • 牡丹燈篭 完全セット(2006.12.20発売、テイチクエンタテインメント)
  • 乳房榎(2008.10.22発売、テイチクエンタテインメント)
  • 江島屋怪談(2009.10.21発売、テイチクエンタテインメント)
  • 歌舞伎座DVD BOOK 歌舞伎座さよなら公演16か月全記録〈第6巻〉 (2011.4月、小学館)ISBN 9784094803969 ※インタビュー「私と歌舞伎座」に登場。

一門弟子

歌春より前に二人ほど弟子をとっていたが、見習いの時点でやめさせている。また、枝太郎より後にも弟子入り志願が来ていたが、高齢だったため断念している。

脚注

注釈

  1. ^ このことを落語界に入った後に本人に伝えると、柳昇は「こんなに下手なヤツもいるんだから、オレにもできると思ったんでしょ」と言い、にやりと笑ったという。
  2. ^ なお、大喜利の司会は圓楽が入院した2005年(平成17年)10月23日放送分より代理として担当しており、当初は林家たい平を除いた当時のメンバーによるローテーションを経て、同年11月27日放送分より歌丸に固定された。
  3. ^ 「円楽一門会」(かつての「円楽党」)は落語協会から離脱した際に、東京の寄席(鈴本演芸場・新宿末廣亭・浅草演芸ホール・池袋演芸場)から事実上追放されているため。経緯は落語協会分裂騒動を参照。
  4. ^ ちなみに、2246回(2010年12月19日放送)分で円楽がいつものように歌丸を罵倒した際には「…まぁ、芸協無理だろうな。」と返し、座布団を没収している。しかしながら実際は、歌丸は円楽一門会の合流には賛成していた。
  5. ^ 8月23日のチャリティー笑点には出演。
  6. ^ 2006年1月の『大笑点』では城島茂に伝授していた。
  7. ^ 同便ではイベントに同行する予定の数名の広告代理店社員が搭乗した。
  8. ^ 当時は瀬戸大橋・明石海峡大橋・神戸空港は未開業。
  9. ^ 歌丸はこの演目を演じる落語家は、三遊亭圓朝以来だとしている[117]

出典

関連項目

外部リンク


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