伊号第百五十八潜水艦 – Wikipedia
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伊号第百五十八潜水艦(いごうだいひゃくごじゅうはちせんすいかん)は、日本海軍の潜水艦。伊百五十三型潜水艦(海大III型a)の4番艦。竣工時の艦名は伊号第五十八潜水艦(初代)。
- 1924年(大正13年)12月3日 – 横須賀海軍工廠で起工。
- 1925年(大正14年)10月3日 – 進水
- 1928年(昭和3年)3月15日 – 竣工。
- 1929年(昭和4年)4月1日 – 伊56と共に第19潜水隊を編成[2]。
- 1932年(昭和7年)6月1日 – 同年12月まで予備艦となる[2]。
- 1933年(昭和8年)11月1日 – 1936年12月まで予備艦となる[2]。
- 1936年(昭和11年)7月23日 – 寺島水道に仮泊中、強烈な台風により座礁。31日に離礁して呉工廠で修理を実施し、その間、同年12月まで予備艦となる[2]。
- 1938年(昭和13年)6月1日 – 艦型名を伊五十三型に改正[3]。
- 1941年(昭和16年)12月1日 – 第4潜水戦隊第19潜水隊に属し、中国海南島の三亜を出航。マレー作戦に参戦[4]。
- 1942年(昭和17年)1月3日0145 – 南緯05度00分 東経112度00分 / 南緯5.000度 東経112.000度のバウェアン島北西沖合で、スラバヤから中東へ航行中の蘭貨物船ラングキアーズ(Langkoeas、7,395トン)[6]を雷撃。魚雷1本が機関室に命中したラングキアーズへ砲撃を行い、これを撃沈[7]。
- 1月5日 – 国籍不明の潜水艦を雷撃するも、魚雷は相手の横をかすめて通り過ぎた。
- 1月9日 – 南緯04度30分 東経111度47分 / 南緯4.500度 東経111.783度のバウェアン島西方沖合で、蘭客船キャムフィティズ(Camphuijs、2,274トン)を砲雷撃により撃沈[7]。
- 2月7日 – カムラン湾を出航し、ジャワ南方海面で活動[4]。
- 2月22日 – チラチャップとパダンの間の海域で蘭貨客船ピジナッカー・ホンヂック(Pijnacker Hordijk、2,982トン)を砲雷撃により撃沈[7]。
- 2月25日
- 1015 – スンダ海峡南口で蘭貨物船ボエロ(Boeroe、7,135トン)[8]を発見し、砲撃。しかし、蘭駆逐艦とタンカー2隻の輸送船団が近くにいるのを発見し、潜航。
- 1130 – 魚雷2本を発射し、ボエロを撃沈[7]。
- 2月28日 – スンダ海峡南口から16km地点付近で、英タンカーブリテッシュ・ヂャッジ(British Judge、6,735トン)を撃破[7]。
- 3月8日 – セレベス島スターリング湾に到着[4]。
- 3月10日 – 第5潜水戦隊第19潜水隊に編入[4]。
- 3月20日 – 呉入港[4]。
- 5月20日 – 伊号第百五十八潜水艦に改名。
- 5月26日 – ミッドウェー海戦に参加[4]。
- 6月30日 – 呉に入港[4]。
- 7月10日 – 第5潜水戦隊が解隊し、第19潜水隊が呉鎮守府部隊に編入。以後、練習艦となる[4]。
- 1943年(昭和18年)3月16日 – 水上艦艇用補足電探験艦となる[2]。
- 1945年(昭和20年)4月20日 – 第6艦隊第34潜水隊に編入[4]。
- 6月5日~7日 – 油津基地に回航。回天輸送任務に従事。
- 6月29日 – 大神基地へ回天輸送作戦に従事。
- 8月15日 – 第15潜水隊に編入され終戦を迎える[4]。
- 1946年(昭和21年)4月1日 – 五島列島沖で米軍により爆破処分[9]。
撃沈総数4隻、撃沈トン数19,786トン。撃破総数1隻、撃破トン数6,735トン。
歴代艦長[編集]
※『艦長たちの軍艦史』424-425頁及び『官報』による。
艤装員長[編集]
- 関本織之助 少佐:1927年4月1日[10] – 1927年9月1日[11]
艦長[編集]
- 関本織之助 少佐:1927年9月1日[11] – 1929年11月1日
- 秋山勝三 少佐:1929年11月1日 – 1930年11月15日
- (兼)伊藤尉太郎 少佐:1930年11月15日 – 1930年12月1日[12]
- 福沢常吉 少佐:1930年12月1日 – 1931年11月14日
- 中島千尋 少佐:1931年11月14日 – 1932年12月1日
- 今里博 少佐:1932年12月1日 – 1932年12月27日
- 林清亮 少佐:1932年12月27日[13] – 1933年1月21日[14]
- 宮崎武治 少佐:1933年1月21日 – 1934年10月22日
- (兼)玉木留次郎 少佐:1934年10月22日 – 1935年5月10日
- (兼)奥島章三郎 少佐:1935年5月10日[15] – 1935年7月3日[16]
- 山田隆 少佐:1935年7月3日 – 1936年12月1日
- 浜野元一 少佐:1936年12月1日 – 1937年10月5日[17]
- 宮崎武治 中佐:1937年10月5日[17] – 1938年12月15日[18]
- (兼)楢原省吾 中佐:1938年12月15日 – 1939年2月20日
- 楢原省吾 中佐:1939年2月20日 – 1940年10月30日
- 中川肇 少佐:1940年10月30日 – 1941年10月31日[19]
- 北野惣七 少佐:1941年10月31日 –
- 大塚范 少佐:1942年7月25日 –
- 橋本以行 少佐:1943年3月16日 –
- 竹内義正 少佐:1943年7月25日 –
- 荒井淳 大尉:1944年1月20日 –
- 増沢清司 大尉:1944年4月30日 –
- 郷康夫 大尉:1944年10月14日 –
- 館山武裕 大尉:1945年2月5日 –
関連項目[編集]
参考文献[編集]
- 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集19巻』潜水艦伊号、光人社、1997年。
- 勝目純也『日本海軍の潜水艦 – その系譜と戦歴全記録』大日本絵画、2010年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
- 高村暢児『物語日本史』第10巻「日清日露戦争・太平洋戦争」、学習研究社、1967年。
外部リンク[編集]
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