伊号第六十潜水艦 – Wikipedia
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伊号第六十潜水艦(いごうだいろくじゅうせんすいかん)は大日本帝国海軍の潜水艦。海大3b型(伊156型)の4番艦。
建造[編集]
1923年(大正12年)の大正12年度艦艇補充計画により佐世保工廠で1927年10月10日に起工。1929年4月24日に進水し、潜望鏡等の搭載を行って12月24日に竣工した。佐世保鎮守府に編入のうえ、伊63と共に第28潜水隊を編成した。
伊63との衝突[編集]
伊60は、1937年前期の演習に参加するため、2月2日豊後水道沖の配備地点に向かうため航進中、僚艦伊63が自艦の配備地点にいるのに気付かず、しかも伊63は艦首灯と艦尾灯をつけていたのにも関わらず、小型船2隻の灯火と誤認し、200メートルに近付くまで前方の船が潜水艦であることに気付かなかった。そして、伊63の右舷補機室に直角に衝突した。伊63は瞬時に沈没し、艦橋にいた艦長を除く先任将校以下81名が殉職した。事故の直接の原因は伊63が、配備地点を間違えたことにあった。
1937年支那事変(日中戦争)が勃発したため、第28潜水隊は中国に派遣された。中国は旧式巡洋艦を持ってはいたが、真の目的はそうではなかった。ほとんどの艦種が派遣されていたため、潜水艦も一応参加させなければ、士気に影響すると思われたからである。
1938年6月1日、艦型名を伊五十三型に改正[2]。
そして、ついに太平洋戦争(大東亜戦争)が始まったため伊60は、初期作戦であるマレーシア半島上陸作戦を支援した後、1942年フィリピンのミンダナオ島にある、ダバオに到着した。1月から始まる予定のインド洋通商破壊戦に参加するためであった。燃料補給後、1月9日に出撃した。
最期[編集]
1月16日未明、スンダ海峡南口に到着。この時の通信を最期に消息不明。
連合軍側記録によると、翌17日、アメリカの輸送艦マウント・ヴァーノン (USS Mount Vernon, AP-22)を護衛中のイギリス海軍の駆逐艦ジュピター(J級駆逐艦)のソナーにより発見され、ジュピターの爆雷攻撃を受けて潜航不能となり、浮上して12センチ砲でジュピターと壮絶な砲撃戦を交えるがついに沈没した。この戦闘では伊60もジュピターに命中弾を与えており、ジュピターでは3名が戦死している[3]。第28潜水隊司令加藤行雄大佐、艦長長谷川晙少佐以下83名が戦死し、3名が連合国側に救助されたものの、うち1名は負傷により戦死した。沈没地点は
南緯06度19分 東経104度49分 / 南緯6.317度 東経104.817度のクラカタウ島北北西40km地点付近で、水深は920mあるとされる。
3月15日除籍
歴代艦長[編集]
※『艦長たちの軍艦史』427-428頁による。
艤装員長[編集]
- 道野清 少佐:1929年6月1日[4] – 1929年8月1日[5]
艦長[編集]
- 道野清 少佐:1929年8月1日[5] – 1929年11月5日[6]
- 林清亮 少佐:1929年11月5日[6] – 1930年12月1日
- 島本久五郎 少佐:1930年12月1日 – 1931年12月1日
- 貴島盛次 少佐:1931年12月1日 – 1933年11月15日[7]
- (兼)舟木重利 中佐:1933年11月15日[7] – 1934年2月21日[8]
- (兼)遠藤敬勇 少佐:1934年2月21日[8] – 1934年3月2日[9]
- 貴島盛次 少佐:1934年3月2日[9] – 1934年5月10日[10]
- 後藤汎 少佐:1934年5月10日[10] – 1936年11月2日[11]
- (兼)岡本義助 少佐:1936年11月2日 – 1936年12月1日
- 大谷清教 少佐:1936年12月1日 – 1938年12月15日[12]
- 中川肇 少佐:1938年12月15日 – 1939年3月10日[13]
- 山田隆 中佐:1939年3月10日 – 1939年12月1日[14]
- 小池伊逸 少佐:1939年12月1日 – 1940年3月20日[15]
- 花房博志 少佐:1940年3月20日 – 1941年7月1日[16]
- 河野昌通 少佐:1941年7月1日 – 1941年10月31日[17]
- 長谷川晙 少佐:1941年10月31日 – 1942年1月17日戦死
参考文献[編集]
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第一法規出版、1995年。
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