Month: October 2018

白木山駅 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “白木山駅” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2013年12月) 白木山駅(しらきやまえき)は、広島県広島市安佐北区白木町大字三田にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)芸備線の駅である。かつては、当駅のみ通過する普通列車が存在した。 広島方面に向かって左側に単式ホーム1面1線を有する地上駅(停留所)。カーブの途中にホームが設置されているため、列車は車体が傾いたまま停車する。駅舎はなく、ホーム上に簡便な待合所があり、自動券売機が設置されている。便所は男女共用の汲み取り式である。 広島駅管理の無人駅。JRの特定都区市内制度における「広島市内」の駅である。 駅正面は住宅が立ち並んでいる。その先には三篠川を渡ったところに主要地方道広島三次線が走り、県道沿いにスーパーやホームセンターがある。駅裏(ホームの反対)側は道を挟み田畑が広がっており長閑である。その先には駅名にもなっている白木山がそびえている。土日にはこの白木山を訪れるハイキング客で賑わう。 利用状況[編集] 以下の情報は、広島市統計書及び広島市勢要覧に基づいたデータである。 年度 1日平均乗車人員 年度毎総数 定期券総数 普通券総数

Continue reading

伊百七十六型潜水艦 – Wikipedia

伊百七十六型潜水艦(いひゃくななじゅうろくがたせんすいかん)は、大日本帝国海軍の潜水艦の艦級。海大VII型(かいだいなながた)、または新海大型とも呼ばれ、海大型潜水艦の最後の艦級である。同型艦10隻。事故沈没1隻、戦没9隻。 本艦級の潜水艦は1939年(昭和14年)度の④計画で10隻が建造され、1942年(昭和17年)から1943年(昭和18年)にかけて竣工した。計画番号S41。海大VI型とほぼ同寸法である。設計に当たっては運動性能と潜航時間の短縮に留意が払われたといわれる。魚雷発射管は艦尾発射管が廃止され、艦首にすべて集められた。発射管の数は6本で変わらない。魚雷は九五式魚雷(酸素魚雷)を搭載したが、搭載数は12本に減少した。機銃は25mm連装機銃1基を装備している。 太平洋戦争中、主にソロモン・ニューギニア・サイパン方面に進出し通商破壊(商船及びタンカー6隻撃沈)や輸送任務に従事したが、1隻が事故で失われ、残りも総て戦没した。 潜水隊の変遷[編集] 竣工した伊176は海大6型b2隻からなる第11潜水隊に編入され、3隻定数を満たした。伊177以降の竣工艦は訓練部隊である呉鎮守府呉潜水戦隊で訓練を行った。訓練を終えた伊177、伊178、伊180は1個潜水隊を編成し、佐世保鎮守府に配備されたため、佐鎮の固有番号を与えられて第22潜水隊となった。以降、訓練を終えた艦から第22潜水隊に順次編入されている。伊179は訓練を完了することなく事故により喪失したため、潜水隊に編入される機会はなかった。 第二十二潜水隊[編集] 呉鎮守府呉潜水戦隊で訓練中の伊177・伊178・伊180で編成された。太平洋戦争では主に南太平洋で哨戒・輸送任務に従事した。昭和19年8月10日に解隊された。 1943年(昭和18年)2月25日:伊177、伊178、伊180で編成[2]。第22潜水隊司令西野耕三中佐。呉潜水戦隊。 1943年(昭和18年)3月25日:第六艦隊第3潜水戦隊[2]。 1943年(昭和18年)6月17日:オーストラリア東方沖で伊178戦没。9月1日除籍。 1943年(昭和18年)8月10日:第一艦隊第11潜水戦隊より伊182を編入[2]。 1943年(昭和18年)8月22日:第一艦隊第11潜水戦隊より伊181を編入[2]。 1943年(昭和18年)9月3日:エスピリトゥサント島沖で伊182戦没。12月1日除籍。 1943年(昭和18年)9月15日:第六艦隊。 1943年(昭和18年)11月5日:第22潜水隊司令前島寿英大佐。 1943年(昭和18年)12月20日:第11潜水戦隊より伊185を編入。 1944年(昭和19年)1月16日:グィディアグ海峡で伊181戦没(前島司令戦死)[3]。4月30日除籍。 1944年(昭和19年)1月31日:第11潜水戦隊より伊184を編入。第22潜水隊司令栢原保親大佐。 1944年(昭和19年)4月27日:コディアック島南方沖で伊180戦没。7月10日除籍。 1944年(昭和19年)4月28日:第11潜水戦隊より伊183を編入。沖の島沖で伊183戦没[4]。8月10日除籍。

Continue reading

高桑守史 – Wikipedia

高桑 守史 人物情報 生誕 高桑 守1945年 日本 石川県松任市(現・白山市) 国籍 日本 出身校 早稲田大学第一文学部史学科東洋史専修卒業東京教育大学大学院文学研究科日本史学専攻修士課程修了 学問 研究分野 民俗学 研究機関 石川県白山自然保護センター山口大学国立歴史民俗博物館筑波大学大東文化大学 学位 文学博士 称号

Continue reading

杉田つる – Wikipedia

杉田 つる(すぎた つる、通称・鶴子、1882年(明治15年)12月6日 – 1957年(昭和32年)4月20日)は、兵庫県神戸市出身の小児科医、歌人。 第二次世界大戦後、国立東京第一病院二宮分院主任医を務めた[1]。歌壇では、1920年(大正9年)「朝の光」創刊に参加し、窪田空穂、宇都野研に師事したのち「勁草」(けいそう)同人となった。 杉田玄白の5世孫に当たるが、鶴子は生涯未婚であったため、彼女が玄白の血筋を引く最後の医師になった[2]。 杉田鶴子は、杉田玄白の4世孫で開業医だった杉田雄の一人娘として生まれた。1905年(明治38年)、大阪市の私立関西医学院に入学するが、翌年、彼女が14歳の時に父の雄が死去した。1908年(明治41年)に鶴子は医師の国家試験に合格したが、学校は同年廃校になる。その後、東京の私立日本医学校(現・日本医科大学)に転学し、1908年(明治41年)医術開業試験にも合格もした。東京帝国大学医科大学小児科教室(弘田長教授)の研究生となり、かたわら1911年(明治44年)2月に本郷新花町(本郷二丁目)の自宅で小児科医院を開業した。同年12月、日本女医会に入会し、1913年(大正2年)に『日本女医会雑誌』が創刊されると、その発行責任者となった[3]。東京女医学校(現・東京女子医科大学)の創設者である吉岡彌生とも関係があったようで、『愛と至誠に生きる 女医吉岡彌生の手紙』(酒井シヅ編、NTT出版、2005年)にも登場する。また、鶴子は女流歌人としても活動し、歌集も発行している。 戦争と戦後[編集] 太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)3月10日、東京大空襲により自身の医院と監督していた本郷三丁目の日本女医会事務所が焼失し、二宮に軍事保護院相模保育所を開設する。保育所は、終戦後も国立東京第一病院付属相模保育所(戦災孤児のための保育施設)として存続し、1946年(昭和21年)3月からは、同病院二宮分院となり、杉田鶴子はその主任医師として再出発した。国立小児病院二宮分院は、2002年(平成14年)3月1日に国立療養所神奈川病院と統合され、現在は、独立行政法人国立病院機構神奈川病院となっている[4]。鶴子は1957年(昭和32年)4月20日に逝去し、東京青山霊園に眠る。 内村鑑三が唱えた無教会派に所属した[5]。 『菩提樹: 歌集』相模書房、1940年 『杉田鶴子歌集』勁草社、1958年 石原兵永『杉田つる博士小伝』杉田追憶文集刊行会 新教出版社、1958年(序文は矢内原忠雄)

Continue reading

石田茂作 – Wikipedia

石田 茂作 人物情報 生誕 1894年11月10日愛知県碧海郡矢作町(現・岡崎市矢作町) 死没 (1977-08-10) 1977年8月10日(82歳没) 国籍 日本 出身校 東京高等師範学校(現・筑波大学)国語漢文科 学問 研究分野 考古学 研究機関 奈良国立博物館 主な受賞歴 中日文化賞(1957年)文化功労者(1974年) テンプレートを表示

Continue reading

悪役令嬢に転生したはずがマリー・アントワネットでした – Wikipedia

『悪役令嬢に転生したはずがマリー・アントワネットでした』(あくやくれいじょうにてんせいしたはずがマリーアントワネットでした)は、小出よしとによる漫画。『月刊コミックフラッパー』(KADOKAWA)にて、2020年9月号から2022年3月号まで連載された[2]。現代日本から転生した主人公が、異世界ではなくマリー・アントワネットに転生していたことを知り、「処刑される運命を回避」しようとするストーリーを描く[1][3]。 あらすじ[編集] 21世紀の日本で暮らしていた主人公は、27歳の誕生日に棚の上から落ちてきたエッフェル塔のオブジェの先端が胸に刺さってしまう。目が覚めると11歳の金髪の美少女に転生しており、有力貴族と思わしき暮らしぶりに何処ぞの乙女ゲームの悪役令嬢に転生してしまったのかと思いつつ、優しい母や姉等に囲まれた生活に人生の勝利を確信する。しかし転生したのは架空の乙女ゲームではなく、実在した悲劇のフランス王妃マリー・アントワネットであったことを知る。 登場人物[編集] マリー・アントワネット 本作の主人公。ドイツ語形ではマリア・アントニア。前世は現代日本に生きる27歳で、誕生日当日に同じく11歳の誕生日を迎えていた[4]マリー・アントワネットに転生した。実家オーストリアの宮殿では知らず知らずのうちにドイツ語を話しており、アントニアと呼ばれていたため自身がマリー・アントワネットに転生してしまったと気付いたのはフランス王太子との縁談が決まってからであった。 オタクっぽい節がありネット用語等を度々連発したり、周囲の人物をスラングで形容することがある。現代日本の価値観が抜けていないため宮廷での価値観や文化とは相違のある軽率な行動も見られるものの、それが意識せず史実を塗り替えたことがある。 前世では世界史は赤点であったが、それでもマリー・アントワネットのことは知っていた。独身であったため親に誕生日を祝うことより結婚を急かされ辟易しており、純粋に誕生日を祝ってくれたマリー・アントワネットの母マリア・テレジアには即座に心を許した。実姉マリア・カロリーナは転生して初めて接した相手であるため懐いている。結婚相手であるルイ・オーギュストとは「二人が死を分かつまで冷え切った関係のままなのは絶対無理」として仲の改善に努めた。 フランス[編集] ルイ・オーギュスト マリー・アントワネットの1つ歳上の結婚相手。 初対面の時から目が死んでおり、マリー・アントワネットが距離を縮めようと話しかけても淡白な反応しか示さないため「陰キャ王子」と称される。しかし本心では長年戦争をしてきた敵国から来たにもかかわらず軽率な行動の目立つマリー・アントワネットを心配しており、狩猟会で暴れ馬から救った際は声を荒らげてその軽率さを咎めた。そのことがきっかけで夫婦仲は改善され、結婚以来7年間夫婦生活がなかった史実は変わり、赤面した顔や笑顔を見せるようになる。本人も積極的にマリー・アントワネットに関わるようになり、マリー・アントワネットも「陰キャ王子」から「ルイ君」へ呼び方を改めた。しかし臆病な一面があり、王座を狙うルイ・フィリップにマリー・アントワネットの暗殺を仄めかすような脅しをかけられ、万が一の際安全のためマリー・アントワネットを祖国に送り還せるよう「本物の夫婦」には至っていない。 ルイ15世 フランス国王でルイ・オーギュストの祖父。マリー・アントワネットを可愛がるが、度々王太子夫妻の初夜について言及したり愛人を置いていることから本人からは「エロじじい」呼ばわりされている。 デュ・バリー夫人 ルイ15世の公妾である妖艶な美女。元娼婦という出自等からルイ15世の娘三姉妹から忌避されており、国庫のお金で宝石を買い漁っていることからマリー・アントワネットにも敵視されヴェルサイユでマリー・アントワネットから無視をされる。しかし本人は誤って銃を発砲してしまい死罪となった夫妻の恩赦のためルイ15世に跪く心優しい性格であり、それを知ったマリー・アントワネットが優しい平民を虐める悪役令嬢という構図となっていることに気付き、王女三姉妹を押し退け和解する。そのことで史実よりも早く対立は終わり、共にお茶をしながら談笑する仲となった。 書誌情報[編集]

Continue reading

ジョアン・カルロス・ダ・シウヴァ・ベント – Wikipedia

この名前は、ポルトガル語圏の人名慣習に従っています。第一姓(母方の姓)はダ・シウヴァ、第二姓(父方の姓)はベントです。 ジョアン・カルロス 名前 本名 ジョアン・カルロス・ダ・シウヴァ・ベントJoão Carlos da Silva Bento 愛称 ジョアン・カルロス・カヴァロ ラテン文字 João Carlos 基本情報 国籍 ブラジル 生年月日 (1967-06-19) 1967年6月19日(54歳)

Continue reading

ボスニアマツ – Wikipedia

ボスニアマツ(Pinus heldreichii)は、バルカン半島やイタリア南部の山地に自生するマツである[2]。英語では、Bosnian pineやHeldreich’s pine[3]という。 高さ25-35m、幹の直径が2mになる常緑樹である。 複維管束亜属に分類され、いわゆる二葉松である。葉は長さ4.5-10cm、幅1.5-2mmで、強固な葉鞘を持っている。松かさは5-9cmの長さで、薄く壊れやすい鱗片からなる。未熟な時は濃青色から紫色で、受粉から16-18か月で成熟すると茶色になる。種子は長さ6-7mmで、2-2.5cmの羽を持ち、風により拡散する。 ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、クロアチア、ブルガリア南部、アルバニア、北マケドニア、セルビア、ギリシア北部、そしてイタリア南部(ポッリーノ国立公園のシンボルとなっている)の標高1500-2000mの山地で見ることができる。これらの地域では、森林限界に達している。 当初、1863年にスイスの植物学者ヘルマン・キリストがテオドール・フォン・ヘルドライヒを記念して、オリンポス山から集めた標本にPinus heldreichiiという学名を付けた。翌年、少し前に公表されたキリストの論文に気が付かず、オーストリアの植物学者F. Antoineがコトル湾の上のOrjen山で採集した標本にP. leucodermisと命名した。この2つの標本にはわずかな形態上の違いがあり、異なる分類とする植物学者もいるが、同じ分類とする見方が支持されている。この差異は、7月に採集されたキリストの標本が未熟な個体で乾燥後に縮んだことが大きく影響していると考えられている。 栽培と利用[編集] 成長は早くはないが、幅広い場所で安定して育成でき、非常に整った形の円錐形の樹冠を作るため、公園や大きな庭で人気のある鑑賞樹である。また、非常に装飾性に富んだ紫色の松かさをつけることも特筆すべき特徴である。栽培品種のSmidtii[4]とCompact Gem[5]は、王立園芸協会のガーデン・メリット賞を受賞した[6]。少なくとも-45℃までの低温や強風にも耐えることができる。多くの栽培品種は、Pinus leucodermisまたはPinus heldreichii var. leucodermisの名前で栽培されている。 ボスニアマツは極限環境にも適応することができ、新しい生態系の開拓者となることができる。二酸化硫黄、フッ化水素、二酸化窒素、オゾンの汚染に耐性を持ち、風、氷、雪にもかなり強い。これらの能力により、非常に乾燥した、また高高度の地域の森林再生に適している。イタリア南部では、マツ属の他の種と比べて害虫に強いことから、植林が進められている[7]。 ギリシア北部のある個体は、2016年に1075歳であることが分かった[8]。

Continue reading

マルパッセダム – Wikipedia

マルパッセダム(Malpasset Dam)は、フランス、プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏、ヴァール県を流れるレイラン川に造られたダム。フレジュスの北7kmの地点にあった。1959年に決壊したことで知られる。 高さ66.5m、堤頂長222m、貯水容量5,000万m3の水道・灌漑用水の取水を目的としたアーチ式コンクリートダム。アンドレ・コワン(英語版)の設計[1]。1952年に建設開始し、1954年に完成。遮水壁の厚さは底部で7m、頂部で1.5mで、当時としてはもっとも薄いアーチ式ダムだった[2]。 決壊事故[編集] 1959年12月2日の夜、堤体が完成してから初めて大雨により満水状態になって16時間後の21時13分、左岸の基礎地盤が下流側へ移動して崩壊、ダムが決壊した。高さ40m、時速70kmに達した流水は下流の2つの村(マルパッセとボゾン)を飲み込み、フレジュスを経て海へ到達。死者421名(500名以上の説あり)という大災害となった。被害総額は6800万ドルに上った。 衝撃を受けた設計者のコワンは、失意のうちに翌1960年に死去した。 決壊の原因と教訓[編集] アーチ式ダムは、ダムをアーチ状に上流側へたわませることで、水圧を袖部へ受け流し、両岸の岩盤に伝えて構造が維持するものである(詳細は、アーチ式ダムの項を参照)。しかしながら、マルパッセダムでは岩盤の強度を過大評価した(評価手法が十分に確立されていなかった)ために、急激な水量増加に耐え切れず岩盤が崩壊、次いで堤体も崩壊に至ったものである。数々の論争ののち、決壊の原因とされたのは、ダムの左側が接していた岩盤で、粘土で満たされた薄い地層が潤滑剤となって基礎をわずかに動かし、これがダムに亀裂を発生させた、というものだった[2]。 ダムの決壊後、岩盤工学やダムの設計に必要な構造力学が飛躍的に進歩、そのきっかけとなった事件として現在も引き合いに出されることが多い。フランスは、マルパッセダムを工学的な教訓として残すべく、現地を崩壊当時のまま保存している。 この事故を受け、建設中であった黒部ダムの設計変更がなされた。資金調達していた世界銀行がアーチ式ダムの建設工法に危惧を抱き、ダムの堤高を引き下げるよう勧告を行った。関西電力の地質実験により、ダムの堤高を引き下げることはなかったが、岩盤が予想外に悪かったこともあり、設計を変更して両翼に重力式のウィングダムを設けた[3]。この他、東京電力により計画されていた奈川渡ダムは、この事故を受けて堤高を当初案の175メートルから155メートルに変更している。 ギャラリー[編集] ダム本体跡(1988年に下流から撮影) ダム本体跡(2014年撮影)。右岸側。 ダム本体跡(2007年撮影) ダム本体跡(2007年撮影) ダム本体跡(2009年撮影) ^ 産業懇談会ホームページ(ダムの事故) ^ a

Continue reading

北九州市立大学 – Wikipedia

北九州市立大学(きたきゅうしゅうしりつだいがく、英語: The University of Kitakyushu)は、福岡県北九州市小倉南区北方4丁目2番1号に本部を置く日本の公立大学である。1950年に設置された。大学の略称は北九大(きたきゅうだい)。 大学全体[編集] 1946年(昭和21年)7月に創立された小倉外事専門学校が前身である。前校名は北九州大学であったが、2005年(平成17年)4月1日、地方独立行政法人化し、新たに公立大学法人北九州市立大学となる。2016年(平成28年)に創立70周年を迎えた[1] 。 本学は現在、外国語学部・経済学部・文学部・法学部・地域創生学群・国際環境工学部の5学部1学群を有している。 学部生・大学院生6,704名、教員数263名が在籍する。県庁所在地ではない市が設置する公立大学としては最も規模の大きな総合大学である。(2017年(平成29年)5月1日現在) [2] キャンパスは文系4学部1学群・7大学院研究科が北方キャンパス(北九州市小倉南区北方)、理系1学部・1大学院研究科がひびきのキャンパス(北九州市若松区ひびきの)に位置する。マネジメント研究科は、サテライトキャンパスをJR小倉駅併設のアミュプラザ小倉内にも有する。 理事長 – 津田純嗣、副理事長・学長 – 松尾太加志である[3] 。 校歌[編集] 作詞は遠丸立・貞松瑩子。作曲は山浦茂人による[4]。

Continue reading
Exit mobile version