Month: December 2018

劉隠 – Wikipedia

劉 隠(りゅう いん、乾符元年(874年) – 乾化元年3月3日(911年4月4日))は、唐の節度使、後梁の南海王。本貫は汝南郡上蔡県。遠祖はアラブ系という説もある[1][2]。 賢士・名士を好み、唐末や後梁の混乱で中央から逃れてきた多くの人材を登用して[3]、十国南漢の基礎を作り上げた。 目次 1 生涯 2 宗室 2.1 父母 2.2 女子 2.3 兄弟 3 出典 乾符元年(874年)、劉知謙の嫡出の長男として生まれる。乾寧元年(894年)に父が死去したため、その後を継いで封州刺史となる[3]。

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名古屋市西図書館 – Wikipedia

名古屋市西図書館(なごやし にしとしょかん)は、愛知県名古屋市西区花の木にある名古屋市図書館の分館である。 2014年度の蔵書数は107,045冊、貸出数は422,607冊である。 図書を107,045冊(一般和書:77,262冊、児童書:29,741冊)、新聞を44紙、雑誌を281誌、視聴覚資料を3,501点(紙芝居:937組、CD:1,544枚、カセットテープ:164巻、ビデオテープ:680巻、ビデオディスク:144枚、CD・DVD-ROM:31枚)所蔵している。 嚆矢[編集] 1925年(大正14年)4月19日、東区武平町に実業家矢田績により創立された私立図書館である財団法人名古屋公衆図書館を嚆矢とする[WEB 1]。名古屋市鶴舞中央図書館は、当時の名古屋公衆図書館を「私立図書館としては大橋図書館・藤山図書館と並ぶ本邦屈指の規模」であったと表現している。 財団法人名古屋公衆図書館時代[編集] 1922年(大正11年)11月28日 – 矢田績により、財団法人名古屋公衆図書館設立許可申請書が、当時の鎌田榮吉文部大臣に提出される。翌月23日設立許可。 1923年(大正12年)1月20日 – 財団法人名古屋公衆図書館成立。 1923年(大正12年)11月 – 東区武平町5の3の200坪の土地に図書館建物を着工。 1924年(大正13年)6月3日 – 図書館建物完成。鈴木禎次設計、分離派様式による、地下1階地上3階建て鉄筋コンクリート造の建物であったという。総工事費は当時の金額で85,000円であった。

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フィール (アニメ制作会社) – Wikipedia

ファンメディア > フィール 有限会社フィール(英: feel. inc.)は、日本のアニメ制作会社。株式会社ファンメディアの子会社。 スタジオぴえろ(現:ぴえろ)の制作であった瀧ヶ崎誠が、上坂陽一郎らと共に2002年、東京都武蔵野市に設立した。翌年より名和宗則ら演出・作画部門を擁し、同年に制作された『D.C. 〜ダ・カーポ〜』よりグロス請けを開始した。 2005年、『ジンキ・エクステンド』で元請制作を開始。2015年、『枕男子』にてAssez Finaud Fabric.と共同制作という形で初のオリジナルアニメーションを制作。2017年、『月がきれい』にて、自社単独では初のオリジナルアニメーションを制作した。 2007年頃、東京都小金井市に本社を移転。2015年には、小金井市内に新たに建設されたビルに本社を移転した。同ビル内にはアニメーション制作を行うゼクシズと、フィール立ち上げメンバーでもある上坂が代表を務める仕上げ・撮影・編集をメインとするAssez Finaud Fabric.も移転しており、フィールと共に株式会社ファンメディアの100%子会社でもあるゼクシズ、Assez Finaud Fabric.とは共同制作や下請けなど、共同してアニメーション制作を行うことが多い。また、同社で制作デスクを務めた河口亮司が代表取締役社長を務めるフィリピンのグロス専門会社World Anime Networks有限会社とはパートナーシップを結んでおり、2018年以降、同社の元請制作作品に参加している[3][4]。 2013年10月より社内で定期的にクロッキー会を開催しており、外部アニメーターや制作を担当した作品の原作者なども参加している[5]。本社が移転した後も開催しており、移転後のクロッキー会にはゼクシスのアニメーターも参加している。 制作体制[編集] 社員数は40名で社内に演出・作画部、制作部、総務部がある[1]。

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桝川譲治 – Wikipedia

桝川 譲治(ますかわ じょうじ、1954年9月29日 – ) は日本の俳優、演出家。東京都出身。ジョーズカンパニーを主宰している。 最終学歴は日本体育大学荏原高等学校。3年生の時にNHKのヤング101の第四期生となりNHK総合テレビの音楽番組『ステージ101』に出演した。[注釈 1][1] 1980年にロックミュージカル『ヘアー』にて主演バーガー役を務める。その後は舞台と歌番組を中心に活動、7年間在籍した劇団四季では『キャッツ』のオリジナルキャストとして活躍[2]。『コーラスライン』などにも出演、30年ぶりに四季に復帰し『アラジン』等にも出演した。1995年には自身が主催するジョーズカンパニーを旗揚げした。現在も俳優の傍ら演出家としても活動している。 出演作品・舞台[編集] 『ヘアー』バーガー役(1980年 西武劇場&サンシャイン劇場) 『Mr.レディ Mr.マダム』ジャコブ役(1981年 サンシャイン劇場) 『キャッツ』 ラム・タム・タガー役、タンブルブルータス役(1983年 1984年 キャッツ・シアター) 『ジーザス・クライスト・スーパースター』鞭打ちソルジャー役(1984年 日生劇場 他全国公演)

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天上智喜 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “天上智喜” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年5月) 天上智喜 The Grace(てんじょうちき・ザ・グレース、韓: 천상지희 더 그레이스、英: CSJH The Grace、TENJOCHIKI)は、2005年に結成した韓国の4人組女性ダンスボーカルグループ。SMエンターテインメント所属。日本では同年にrhythm zoneからデビュー。公式に解散は発表はしていないが、2009年以降完全活動休止状態である。 「女性版・東方神起」として発足し、主に韓国と日本を拠点に活動した。グループ名「天上智喜」は、「天上の智恵と喜び」という意味で[1]、メンバー4人の芸名である天舞、上美、智声、喜悦の頭文字を並べた造語である。英語圏での呼称は、優雅という意味の「The

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ブリオベッカ浦安 – Wikipedia

ブリオベッカ浦安(ブリオベッカうらやす、Briobecca Urayasu)は、千葉県浦安市を本拠地とする社会人サッカークラブである。 1989年に創設した、千葉県浦安市の地域総合型クラブである。クラブ名は「ブリューナク」(ケルト神話に登場する槍)と「べか船」(浦安近くで海苔の採取に使われた1人乗りの船)を組み合わせた造語。浦安の地に根ざし、尚且つ活力ある強いチームを象徴するネーミングが命名された[1]。 マスコットは舞田べか彦(通称:べか彦)。2016年にデザインを発表。2017年第19回日本フットボールリーグ1stステージ第5節にて、ファンにお披露目された[2]。 2019年より、都並敏史がTOPチームの監督に就任している。 スタジアム[編集] 2015年以降、関東リーグ所属時は人工芝の浦安市運動公園陸上競技場(2020年より命名権を導入し「ブリオベッカ浦安競技場」と改称)を使用。 年度 柏の葉 その他 2016 11 東総2フクアリ1秋フロ1 2017 11 フクアリ1オリスタ1秋フロ1東総1 年度 浦安市陸/B浦安競 2018 9

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町田市立南第二小学校 – Wikipedia

この項目では、町田市立南第二小学校について説明しています。他の南第二小学校については「大阪狭山市立南第二小学校」をご覧ください。 町田市立南第二小学校(まちだしりつ みなみだいにしょうがっこう)は、東京都町田市成瀬七丁目にある公立小学校である。略称は「南二小」(みなみにしょう)。 中庭にある楓の木が本校の名物となっている[1]。 1873年(明治 6年) 6月 – 「成高学舎」として創立、仮校舎を東雲寺に置く 1880年(明治13年) 3月 – 「成瀬学校」と改称 1890年(明治23年) 2月 – 開校式 1908年(明治41年) 4月 –

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杉井ギサブロー – Wikipedia

杉井 ギサブロー(すぎい ギサブロー、本名・杉井儀三郎(すぎい ぎさぶろう)、1940年8月20日 – )は、日本のアニメ監督、日本画家。日本映画監督協会会員。日本アニメーター・演出協会(JAniCA)会員。代表作に『タッチ』、『銀河鉄道の夜』『あらしのよるに』など。タツノコプロ出身のアニメーターの杉井興治は実弟。 静岡県沼津市出身。沼津市に小学校5年生の途中まで在住。1945年7月の沼津大空襲にも遭遇している[1]。小学校時代は漫画を愛する「マンガ少年」であった[2]。沼津時代の末期に見たディズニーの『バンビ』に強い印象を受け、アニメーションを「一生の仕事にしよう」と決意する[3]。同年、東京に転居し、原宿に住む[4]。当時の日本ではアニメーション業界に就職する具体的な方法がわからなかったため、漫画家を目指そうと、中学3年生の時にうしおそうじの元に赴き、押しかけのような形で弟子入りした[5]。うしおに弟子入りしようとした理由は、うしおの漫画では建築物が非常に正確に描かれていることが好きだったからと記している。中学卒業後も高等学校へは進学せず、アルバイトをしながら画塾やうしおの自宅に通っていた[5]。 1958年、新聞に掲載されていた東映動画(現・東映アニメーション)の求人広告を親類に教えられたことをきっかけに、入社試験に応募[6]。書類選考・面接・実技試験(杉井によると、実技試験は受験者約50 – 60人中合格者は10数人)を経て17歳で東映動画に入社[6]。養成期間の後、東映動画の長編第1作である『白蛇伝』の動画スタッフとして、大塚康生の班に配属される[7]。大塚康生によると、『白蛇伝』の制作体制は、森康二と大工原章の2名が原画で、その下に動画と原画の中間の「セカンド」として大塚ら6人が、動画担当を従えた「班」を構成していた[8]。杉井は大塚から絵を動かす意味を叩き込まれたが、その仕事ぶりに接して大塚のような原画家にはなれないと痛感したという[9]。杉井は「まぎれもなく一つの挫折だった」と記している。一方、大塚の側は著書で当時の杉井について「たいへんな凝り性」と評し、何度も納得がいくまで描き直す仕事ぶりが(目標枚数が会社から指示されていた状況では)「理想主義としかいいようがありませんでした」と記しつつ、後に演出家となって「アニメーターとして名演技を描く機会を失ってしまったのは残念です」と結んでいる[10]。 その後も杉井は東映動画の長編作品(『少年猿飛佐助』『西遊記』『安寿と厨子王丸』『アラビアンナイト・シンドバッドの冒険』)にアニメーターとして参加したが、これらの作品のいずれにも興味を抱くことができなかった[11]。加えて、当時東映動画で盛んになった労働組合運動に馴染むことができず、1961年に東映動画を退社する[11]。当時東映動画に在籍していたりんたろうは、2009年のインタビューで、東映動画スタッフの白川大作から「大学卒の東映本社採用でなければ演出部に入れない」と言われ、自分や杉井は東映動画による「臨時採用」だったと証言している[12]。 東映動画退社後は3ヶ月ほど仕事もしなかったが、東映動画時代の知人である月岡貞夫から、手塚治虫が動画スタジオを作ることを紹介されて虫プロダクションに入社する[13]。りんたろうは前出のインタビューで、東映動画の労働組合が団体交渉の条件として会社側から「ブラックリスト」とされた社員への懐柔を求められ、その中で杉井が「最初に虫プロに行ったのかな」と述べている[14]。虫プロの第一作となった短編『ある街角の物語』に参加し、続けて日本最初の本格的テレビアニメとなった『鉄腕アトム』にもスタッフとして加わる。この作品で手塚が導入したリミテッドアニメ(コマ数を減らしたり、止め絵を使用する)のスタイルに大きなショックを受けたと後年述べている[15]。虫プロでは演出も手がけるようになり、『鉄腕アトム』の演出の中心メンバーとなった。 1967年に出崎統、奥田誠治、吉川惣司らと虫プロから独立して、アートフレッシュを設立。『悟空の大冒険』『どろろ』など虫プロ作品の総監督を中心として活動した。 1969年に虫プロの音響スタッフだった田代敦巳、明田川進らと共にグループ・タックを設立。この頃、『ルパン三世』の最初のアニメ化企画を東京ムービーに持ち込み、パイロットフィルムの原画を担当している[16](詳細は後述)。 1974年に劇場アニメ『ジャックと豆の木』を監督し、テレビアニメ『まんが日本昔ばなし』の立ち上げに携わったのを最後に放浪の旅に出る。平家物語をアニメ化するためのプレゼンテーションをしたことが放浪のきっかけになったという[17]。これについて杉井は、大きなきっかけがあったわけではなく、「成り行きまかせにアニメを生業としていいのか」という思いが湧きあがったためと後年記している[18]。日本各地を転々とし、「鬼の子」をモチーフとした絵を1枚500円で売って生計を立てていた[19][20]。放浪中は基本的にアニメからは離れていたが、ごくたまにグループ・タックの前田庸生と連絡を取り、東京に残してきた家族の生活費のため、アルバイト的に『まんが日本昔ばなし』の絵コンテを切っていた[21]。そのときには、旅先から絵コンテを送付した(「杉井ギサブロー」名義の他、「漉田実」「杉田実」といった名義を使用)[22]。 1982年の『孫悟空シルクロードをとぶ!!』を経て[23]、1983年のあだち充原作のスペシャルアニメ『ナイン』で本格的に復帰を果たす。『ナイン』については、放浪中の旅先でたまたまあだちの漫画に接して関心を持っていたところに、広告代理店の知人から『ナイン』のアニメ化について意見を求められ、「それなら僕に監督をやらせてほしい」と申し出たという[24]。完成後にはいったん旅に戻ったが、『ナイン』の続編が決まったため、復帰することとなった[24]。 続けて1985年から総監督を担当したあだち充原作のテレビシリーズ『タッチ』は大ヒットとなり、日本アニメ大賞アトム賞を受賞。 2006年から京都精華大学マンガ学部アニメーション学科の専任教員に就任した。 2012年7月28日に杉井を取り上げたドキュメンタリー映画『アニメ師・杉井ギサブロー』(石岡正人監督)が公開された。 『ルパン三世』と杉井ギサブロー[編集]

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