新関良三 – Wikipedia
新関 良三(『アサヒグラフ』1949年2月23日号) 新関 良三(にいぜき りょうぞう、1889年8月4日 – 1979年4月27日)は、ドイツ文学者、演劇研究者。1943年恩賜賞受賞。1963年日本学士院会員。1967年文化功労者。文学博士。学習院教授、埼玉大学学長。河北町名誉町民。 山形県西村山郡谷内村横町(現・河北町谷内)生まれ。旧姓・平泉。谷地尋常高等小学校から西村山郡立西村山中学校(現・山形県立寒河江高等学校)に入学後、山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)に転じる。東京高等商業学校(現・一橋大学)に進んだ後、山形市の伯母新関せいの養子となる。第一高等学校文科を経て、東京帝国大学文科大学独文科卒。 シラー研究から始まり、ギリシャ悲劇を始めとする比較演劇研究者として多くの業績を残した。1943年『ギリシャ・ローマ演劇史』で、第四高等学校教授、学習院教授を務め、戦後は埼玉大学学長、共立女子大学教授を務めた。息子はソ連大使を務めた外交官の新関欽哉。学習院時代の三島由紀夫の担任教師でもあった。1958年『ギリシャ・ローマ演劇史』で日本芸術院賞受賞[1]。1963年日本学士院会員。1967年文化功労者。 学習院で教わった三島由紀夫は、「一にもシラー、二にもシラーの、シラー教の教祖、父ツァマ(とっつぁま)こと新関良三先生」と述懐している[2]。 父ツァマこと新関良三先生も、全身これドイツ語といふべき先生で、あるとき、 「Zwischen’、これは即ち英語のアモンクである。アモンクである」 と例の通り重厚な調子で言はれるのが、一瞬何のことかわからなかつたが、やがてそれは英語の among をドイツ語読みしたものだとわかつた。正に Deutschland über alles である[注釈 1]。
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