八月十八日の政変 – Wikipedia
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “八月十八日の政変” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2012年12月) 八月十八日の政変(はちがつじゅうはちにちのせいへん)とは、江戸時代末期の1863年9月30日(文久3年8月18日)に発生した政変。 孝明天皇・中川宮朝彦親王・会津藩・薩摩藩など幕府への攘夷委任(交渉による通商条約の破棄、鎖港)を支持する勢力が、攘夷親征(過激派主導の攘夷戦争)を企てる三条実美ら急進的な尊攘派公家と背後の長州藩を朝廷から排除したカウンタークーデター。堺町御門の変(さかいまちごもんのへん)、文久の政変(ぶんきゅうのせいへん)などとも呼ばれる。 安政5年(1858年)、江戸幕府は大老井伊直弼の下で安政五カ国条約の無勅許調印に踏み切り、西洋諸国との通商を開始した。長く幕政運営から排除されていた親藩・外様雄藩は、日本を取り巻く国際環境の激変期にあって、病弱な13代将軍徳川家定の継嗣に自派の候補(一橋慶喜)を推して体制改革を実行し、国政への参画を果たそうとしていた。 だが井伊をはじめとする譜代大名・幕臣が支持する新将軍(徳川家茂)が決まると、処分を受けることとなった一橋派は井伊政権の条約調印が勅許を得ていない点を突いて批判した。無勅許調印に激しい反感を抱いた朝廷がこれに結びつこうとする動きが現れたことから、井伊はそれら関係者に対して強権的に処分を行った(安政の大獄)。そして安政7年(1860年)3月に、井伊がその反動で殺害され(桜田門外の変)、幕府の威信も低下していく。 こうして通商の断絶、鎖国への復帰を求め、あるいは外国を排撃しようとする攘夷がその後の文久期政局の重大テーマとなっていく。文久2年(1862年)、幕府は攘夷を希求する孝明天皇・朝廷との関係修復を求め、皇妹和宮を将軍家茂の正室に迎えることと引き換えに、将来の攘夷実行を約束した。裏を返せば、無勅許調印のままながらも当面の開国・通商関係の持続に天皇の了解を取り付けたのだが、天皇の願望は即時の攘夷(即今攘夷)だったことが伝わってから、これを求める声が盛んとなり、幕府の姿勢は因循姑息と非難された。 この間、一橋派の諸大名(前当主)らが復権を果たして幕政に参与するようになった。尊王攘夷論者として知られ中心的な存在だった水戸藩の徳川斉昭はすでに亡かったが、越前(福井)藩の松平春嶽や薩摩(鹿児島)藩の島津斉彬(その弟で実質的継承者の島津久光)、土佐(高知)藩の山内容堂らは開国派ながらもかつて井伊政権への対抗上無勅許条約調印を攻撃して輿望を担った経緯もあり、攘夷論の盛り上がりには苦慮した。 幕府は即今攘夷を奉承せざるを得なくなったが、将軍や幕府首脳は次の手として文久3年(1863年)に入ると上洛して工作を行い、ともかく攘夷を実現する具体的方策と指揮については天皇から一任を取り付けた。そして攘夷実行の期限として布告した5月10日、幕府は条約締結国に対して横浜の鎖港を通告した。つまり幕府は穏便な方法による攘夷、相手国との交渉による条約撤回・鎖国復帰の方針を取ったのであり、外国艦船への攻撃は禁止された(ただし外国からの攻撃に対して反撃することは認めた)。 しかし、長州(萩)藩はこのとき外国艦船を砲撃して武力による攘夷を実行していた。長州は幕府の方針と鋭く対立することとなり、やがて外国の報復攻撃を受け、他藩の味方も得られなかったことから孤立感を深める。こうして長州は、朝議の主導権を握る急進派公家衆と連携しながら、天皇の委任に基づく幕府の攘夷実行指揮を解消し、天皇自らが指揮する武力による攘夷(攘夷親征)へ転換する道に突き進んでいく。 攘夷を希求しつつも過激な攘夷戦争を恐れ、あくまでも幕府を信任して幕府による攘夷実現を求める孝明天皇は、長州や急進派公家のこうした動きに耐えきれず、これを排除するために島津久光の出馬をひたすら待ち望んでいた。 文久政局の動向[編集] 長州と薩摩の公武周旋[編集]
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