Month: November 2019

穴水駅 – Wikipedia

穴水駅(あなみずえき)は、石川県鳳珠郡穴水町字大町にある、のと鉄道七尾線の駅で、同線の終着駅である。 穴水町の代表駅で、以前は七尾線から能登線が分かれる分岐駅でもあった[3]。 「まいもんの里駅」という愛称(副駅名)が設定されている(「まいもん」とは、能登弁で「おいしいもの」の意)。 かつては当駅から輪島(七尾線の一部)・蛸島(能登線)の二方面へ路線が分岐していたが、前者は2001年(平成13年)、後者は2005年(平成17年)にそれぞれ廃止され、当駅は七尾線の終着駅となった。なお、終着駅となった後も北へ400mほど線路が残されており、運転体験会などで使用されている[5][6]。 のと鉄道が能登線の営業を引き継いで開業した当初、後にのと鉄道七尾線となる路線は西日本旅客鉄道(JR西日本)が引き続き営業を行っており、当駅もJR西日本の管轄だった。そのため、のと鉄道の駅は「のと穴水駅」としてJR西日本のものとは分けられ、独自にログハウス調の駅舎も有していたが、七尾線の運営移管に伴い両者は統合され、駅名も「穴水駅」に戻った。その後、旧のと穴水駅の駅舎には、のと鉄道の本社が入居している(能登線廃止に伴い宇出津から移転)。旧コンコース部分にはテナントとして使用されなかった部分が残されており、跨線橋と合わせて冬期間に開設される牡蠣料理店「穴水駅ホーム あつあつ亭」として利用されている[8]。2015年3月には駅舎に隣接する場所に物産館「四季彩々」が開業[9]し、それにあわせて駅舎外観の塗装変更などのリニューアルが行われている。「四季彩々」では能登地方の土産物やのと鉄道オリジナルグッズの販売のほか、そば・うどん類の軽食店も併設されている。 車両基地・工場を有し、夜間滞泊も設定されている。この車両基地は七尾線の経営移管時に設けられたものである。 1932年(昭和7年)8月27日 – 鉄道省(国有鉄道)七尾線の能登中島駅 – 当駅間開通に伴い開業する(一般駅)。 1935年(昭和10年)7月30日 – 七尾線の当駅 – 輪島駅間が延伸し開業する。 1959年(昭和34年)6月15日 – 能登線の当駅

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十和田観光電鉄 – Wikipedia

十和田観光電鉄株式会社Towada-Kanko Electric Railway Co.,ltd. 十和田観光電鉄バス 種類 株式会社 略称 十鉄(とうてつ) 本社所在地 日本〒034-0011青森県十和田市稲生町17-3(旧 十和田市中央BT 内) 設立 2007年(平成19年)12月16日創業:1914年(大正3年)6月26日(旧法人として)[1] 業種 陸運業 法人番号 3420001012049 事業内容

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サンテール委員会 – Wikipedia

サンテール委員会(サンテールいいんかい、1995年1月23日 – 1999年3月15日)はルクセンブルク元首相のジャック・サンテールを委員長とする欧州委員会。 委員会は20人の委員で構成され、ユーロの導入を取り仕切ったが、不正の告発を受けて任期途中で史上初の委員会総辞職をした。プローディ委員会が正式に発足するまでマヌエル・マリンを委員長代行とし、サンテール委員会の一部の委員でなる暫定委員会が組織された。 1994年、ジャック・ドロールは欧州委員会委員長としての輝かしい業績を残し、任期を終えて退任した。ところがドロールの連邦主義的な姿勢は多くの加盟国政府にとって好ましくないものととらえられていた。このため、当時のベルギーの首相ジャン=リュック・デハーネが委員長候補に推薦されると、イギリス政府はデハーネの連邦主義的な思想に対して難色を示し、委員長候補の指名について拒否権を行使した。その後当時ルクセンブルクの首相を務めていたサンテールが、かつて欧州連合 (EU) の3つの柱構造を提唱していたことから、連邦主義的な色が薄いと見られており、サンテールは委員長候補に指名され、1994年7月15日に欧州議会の承認を受けた。このような背景があったことからサンテールは2番手候補と見られ、サンテールの地位を低下させることにつながった。このことについては欧州議会での承認の是非を問う投票の結果で、過半数をかろうじて上回る程度にとどまったことが示している。しかしサンテールはほかの委員の人事でこの不利な状況を乗り切った。前年に発効したマーストリヒト条約において委員長の人事権は強化されていたのである。1995年1月18日、欧州議会は新委員会について賛成416票、反対103票で承認し、1月23日に欧州連合理事会によって正式に任命された[1]。 サンテール委員会は2000年に調印されるニース条約の策定や、2004年の東欧への拡大、1997年のアムステルダム条約の調印を取り仕切った。 とりわけユーロ導入に向けた働きやイヴ=ティボー・ドュ・シルギーの作業に基づく緑書の発行が特筆される。また委員会はユーロ記号も定め、ユーロは1999年1月1日に導入された。サンテール委員会はドロールの重要な社会政策課題を引き継ぎ、失業問題といった分野で精力的に活動した。また共通農業政策の改革を提唱したが、欧州議会から委員会の運営に対して非難を受けて権威を失っていった[1]。 予算に関する論争[編集] 毎年のEUの予算は欧州会計監査院の報告を受けて欧州議会の承認を受ける必要があるが、かつて1984年に予算案が拒否されたということがある[2]。1998年末にかけて欧州議会の予算監督委員会は、1996年の EU 予算に関して、欧州委員会が不当な運営をしていたことについての質問に回答しなかったことを傲慢であると判断し、この予算執行の是認を拒否していた[3]。欧州委員会職員で内部告発をしたパウル・ヴァン・ビュイッテンネンは欧州議会に対して、広範にわたる不正とその隠蔽を訴える次のような告発文書を送付している。 “I found strong indications that . .

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じゃぽにか – Wikipedia

この記事の主題はウィキペディアにおける人物の特筆性の基準を満たしていないおそれがあります。基準に適合することを証明するために、記事の主題についての信頼できる二次資料を求めています。なお、適合することが証明できない場合には、記事は統合されるか、リダイレクトに置き換えられるか、さもなくば削除される可能性があります。出典検索?: “じゃぽにか” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2018年4月) この項目では、日本のアート集団について説明しています。その他の用法については「ジャポニカ」をご覧ください。 じゃぽにか(じゃぽにか)は、2002年、東京で結成されたアート集団。構成要員はアルシン、ダイスケ、サー君、ゴロー、杉様、ともちゃんの6人。 2002年、美術予備校で知り合ったアルシン、ダイスケ、サー君、ゴロー、杉様、ともちゃん(有賀慎吾、鈴木大輔、坂上卓男、村山悟郎、杉田陽平、永畑智大)等によって結成[1][出典無効]。 「悪ふざけやパロディ、そして軽薄なシミュラークルを撒き散らかすアート集団」を自称し、SNSと展示空間を横断する活動をつくりだしている[2]。「炎上アート集団」「悪ノリアート集団」などと評される[1][3]。 主な活動としては、「第17回 岡本太郎現代芸術賞」(2014年、川崎市岡本太郎美術館)特別賞を授賞した「悪ノリSNS『芸術は炎上だ!』」のほか、主な個展に「じゃぽにかぱみゅぱみゅのじゃぽにかぱみゅぱみゅーじあむ」(2013年、art center ongoing)、「じゃぽにかの誰でもデュシャン☆」(2014年、ギャラリーバルコ)、「じゃぽにか最後の個展「普通のトモダチに戻りたい」」(2015年、art center ongoing)、「じゃぽにか国真理教 〜TAVサティアン

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SPORTS STADIUM – Wikipedia

SPORTS STADIUM↓スポーツスタジアム晴↓スポーツスタジアム☆魂 ジャンル スポーツ情報番組 演出 松井優 出演者 望月杏夏ほか ナレーター 榊原忠美 製作 プロデューサー 吉永隆 制作 中京テレビ 放送 音声形式 ステレオ放送 放送国・地域 日本

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パークス・アンド・レクリエーション – Wikipedia

『パークス・アンド・レクリエーション』(Parks and Recreation)はNBCテレビジョン・ネットワークで放送されたアメリカ合衆国のコメディ番組である。主人公はエイミー・ポーラーが演じる架空のインディアナ州ポウニー市の公園緑地課の中流役人のレズリー・ノープである。グレッグ・ダニエルズとマイケル・シュアーが製作を務め、2009年4月9日に放送開始され、2015年に最終シーズンが放送された[1][2][3]。撮影にはシングルカメラで、ドキュメンタリーの撮影隊が出演者を撮影しているような撮影方法のモキュメンタリー技法が採用されている。主演と助演としてラシダ・ジョーンズ、アジズ・アンサリ、ニック・オファーマン、オーブリー・プラザ、ポール・シュナイダー、クリス・プラット、アダム・スコット、ロブ・ロウ、ジム・オヘイアー、レッタと最終シーズンから主演キャストになったビリー・エイチナーが出演している。 脚本家たちは番組のためカリフォルニア州の政治を調べ、都市計画者と選挙事務所の人と話し合っている。ポーラー演じるレズリー・ホープはシーズン1の視聴者の『彼女はアホでイカれているように見える』という意見から大幅にキャラクター設定が変更されている。脚本家はポウニー市政府の閉鎖を世界金融危機から例えているといったように現実に起こった事柄を取り入れている。ゲスト出演する出演者もいて、彼らはよく複数のエピソードで登場する。 『パークス・アンド・レクリエーション』は第1シーズンで様々な評価を受けた。番組の設定とテンポを再構成した後、第2シーズンはより好評な評価を受けた。『パークス・アンド・レクリエーション』はプライムタイム・エミー賞のコメディ部門で5回のノミネーション、ゴールデングローブ賞ではポーラーが演技部門で1度受賞し、番組自体はゴールデングローブ賞 作品賞 (ミュージカル・コメディ部門)で1度ノミネーションされるといった、いくつかの賞で受賞やノミネートを受けている。『タイム誌』の2012年度末号で、『パークス・アンド・レクリエーション』は一番のテレビ番組であると評された[4]。2013年、番組は4年連続ノミネートされていたTCAアワードのコメディ部門で初めて受賞された。『パークス・アンド・レクリエーション』は徐々にNBCの木曜日のゴールデンタイム枠の『Comedy Night Done Right』の番組となった。 シーズン1[編集] 『パークス・アンド・レクリエーション』は架空のインディアナ州ポウニーにある公園緑地課の副課長 レズリー・ホープ (演:エイミー・ポーラー) の活躍を取り上げている。看護師 アン・パーキンス (演:ラシダ・ジョーンズ) は彼女の家の隣にある建設中止になった市が保有する現場の穴を、同棲中の恋人 アンディ・ドゥワイヤー (演:クリス・プラット)

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ルジャンドル多項式 – Wikipedia

ルジャンドル多項式(ルジャンドルたこうしき、英: Legendre polynomial)とは、ルジャンドルの微分方程式を満たすルジャンドル関数のうち次数が非負整数のものを言う。直交多項式の一種である。 解析学においてルジャンドルの微分方程式 ddx[(1−x2)ddxf(x)]+λ(λ+1)f(x)=0{displaystyle {mathrm {d} over mathrm {d} x}left[(1-x^{2}){mathrm {d} over mathrm {d} x}f(x)right]+lambda (lambda +1)f(x)=0} (λ は任意の複素数とする)は標準的な冪級数法を用いて解けることが知られており、その解は一般にルジャンドル関数と呼ばれる(何れもアドリアン=マリ・ルジャンドルに名を因む)。この方程式は

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パーフェクトイド空間 – Wikipedia

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2013年7月) 数学のパーフェクトイド空間(パーフェクトイドくうかん、英: perfectoid space)とは、p 進数体に代表される混標数(英語版)の体の上での数論幾何学の研究に用いられる、アディック空間(英語版)の一種である。 パーフェクトイド体とは、階数(高さともいう)1の非離散付値から誘導された位相を持つ完備な位相体 K であって、K°/p 上のフロベニウス自己準同型 Φ が全射であるもののことである。ここで K° は冪有界元全体のなす環である。 パーフェクトイド空間は混標数の状況を等標数の状況と比較するために用いられる。またこのことを目的として創始された。この比較を数学的に行うための技術的な道具立てが傾同値と概純定理である。ペーター・ショルツェによって2012年に創始された[1]。 任意のパーフェクトイド体 K に対して、チルト[定訳なし](tilt)と呼ばれる有限な標数 p のパーフェクトイド体 K♭

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ヘンリー・タフトン (第11代サネット伯爵) – Wikipedia

第11代サネット伯爵ヘンリー・タフトン(英語: Henry Tufton, 11th Earl of Thanet、1775年1月2日 – 1849年6月12日)は、イギリスの貴族、政治家。 第9代サネット伯爵サックヴィル・タフトンとメアリー・サックヴィル(Mary Sackville、1746年4月1日 – 1778年9月30日、ジョン・フィリップ・サックヴィル(英語版)の娘)の四男として、1775年1月2日に生まれた[1]。1786年[2] にウェストミンスター・スクールで教育を受けた後、アンジェの軍事学校に入学、1790年には第26歩兵連隊(英語版)の士官になり、1793年に大尉に昇進[1]、以降1826年まで半給の軍人として過ごした[2]。 1796年イギリス総選挙でホイッグ党の一員としてロチェスター選挙区(英語版)から出馬、186票で2位当選を果たした[3]。議会で演説した記録はなかったが、投票の記録はあり、1800年以降は常に野党の一員として投票した[2]。1802年イギリス総選挙では再選を目指さず[2]、同年にアミアンの和約が締結されると「熱烈なボナパルティストとジャコバン派」としてフランスに渡ったが[4]、1813年に一時ヴェルダンで抑留されたという[1]。 1825年に長兄サックヴィルが死去すると、その遺産の一部を継承し、翌年の総選挙で兄チャールズの支持を受けてアップルビー選挙区(英語版)で当選した[4]。2度目の議員就任の後も議会で演説した記録はなかったが、たびたび野党の一員として投票したためウェリントン=ピール内閣(英語版)には敵視された[4]。1832年4月20日に兄チャールズが死去すると、サネット伯爵の爵位とウェストモーランド州長官(英語版)の官職を継承した[4]。1841年から1846年までケント統監(英語版)を務めた[1]。 1849年6月12日に生涯未婚のまま死去、爵位は全て断絶した[1]。遺言状に基づき、庶子リチャードがケントにある6万エーカーの領地のうち4万エーカーを継承した[4]。 生涯未婚だったが[1]、ジュリー・デュリユー(Julie Durieux)との間で庶子リチャード(1813年 –

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