Month: December 2019

椎名町駅 – Wikipedia

椎名町駅(しいなまちえき)は、東京都豊島区長崎一丁目にある、西武鉄道池袋線の駅である[1]。駅番号はSI02。同線の駅の中では一番海抜の低い場所に位置する。 練馬駅から分岐する豊島線の列車も利用可能である。 相対式ホーム2面2線を有する地上駅である。かつては島式ホーム1面2線の形態であったが、列車の長編成化に伴い昭和30年代に現在の構造に変更された[4]。2011年10月1日に橋上駅舎の供用を開始した。 ホーム有効長は10両編成分である。ホームの両側を踏切に挟まれた構造であるが、駅のすぐ東側の池袋9号踏切が山手通りの東側に40mほど移動した。移動する前のホームは8両編成がぎりぎり停車可能な長さであり、とくに下り列車の停止位置目標は踏切のほんの手前で、少し超えると先頭車の前頭部が踏切にはみ出してしまう状態であったが、前述の踏切移動により、延長工事が行われた。 のりば[編集] (出典:西武鉄道:駅構内図) 南口(2012年5月13日) 改札外側(2019年3月12日撮影) 改札内側(2019年3月12日撮影) 池袋行上り線ホーム(2019年3月12日撮影) 北口旧駅舎(2007年2月3日) 南口旧駅舎(2007年2月3日) 駅舎改築[編集] 山手通りの改良工事と併せて、2010年1月に駅舎の改良工事が着工され、2011年10月時点では工事が進行中である。駅舎の工事は国土交通省の鉄道駅総合改善事業として行われており、事業主体は第三セクターの東長崎駅・椎名町駅整備株式会社[5]となっている。 2010年度の鉄道事業設備投資計画 (PDF) によると、駅舎の橋上化を実施し、南北自由通路・エレベーター4基・エスカレーター6基および多機能トイレなどを設置し、バリアフリー化を図る計画となっている。あわせて、ホームの改善と屋根の改修、10両編成対応のためのホーム有効長延伸工事や、山手通り陸橋下への広場の整備などを行う。橋上駅舎と自由通路は2011年10月1日に供用を開始し、駅前歩行者広場などの整備は2012年度の完成を予定している。 発車メロディ[編集] 2013年3月16日から、アニメ『怪物くん』(1968年第1作)の主題歌「おれは怪物くんだ」を発車メロディに採用している[3]。これは、かつて当駅周辺にトキワ荘があり、そのトキワ荘ゆかりの漫画家である藤子不二雄Ⓐの作品『怪物くん』のアニメ主題歌を使用することで、トキワ荘が存在していた街をPRするために採用されたものである。 列車のホームへの接触事故[編集]

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ケイティ・メルア – Wikipedia

ケイティ・メルア(Katie Melua、1984年9月16日 – )は、グルジア出身のイギリスのシンガーソングライター。本名、ケテヴァン・メルア(ქეთევან მელუა)。 生い立ち[編集] 1984年グルジア(旧ソ連)生まれ。子供時代をグルジアとロシアのモスクワで過ごす。 内戦による混乱に怯えた幼少期を経て、9歳の時に家族と共に北アイルランドの北部の都市ベルファストに住み、13歳でロンドンに引っ越す。16歳になり、ロンドン郊外のブリット・スクール(BRIT School for the Performing Arts)に進学。在学中にプロデューサーのマイク・バットに見出される。 音楽活動[編集] 2004年デビューアルバム「コール・オフ・ザ・サーチ」を発表。その洗練美と透明感を標榜する歌声で人気が爆発し、全英アルバム・チャートで6週No.1に輝く。 その後、エリザベス2世女王列席の英国恒例チャリティ・イベント『Royal Variety Performance』に出演、女王から最大級の賛辞の言葉を受けた。続く2ndアルバムは欧州各国でゴールド、プラチナ・ディスクに認定。2006年英国人女性アーティストとして最多セールスを記録し、全世界での累計セールスは750万枚を超える。 彼女は『世界最深ライブ記録』というギネス記録をもっている(地底303m)[1]。 上記のブリット・スクール(BRIT

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川崎市交通局 – Wikipedia

川崎市交通局(かわさきしこうつうきょく、川崎市バス)は、川崎市の地方公営企業の一つ。公営交通として、現在は神奈川県川崎市全域でバス路線を運営する公営バス事業者である。 過去には路面電車の川崎市電、トロリーバスの川崎市営トロリーバスも運営していたが廃止され、現在ではバス事業専業である。また市営地下鉄である川崎縦貫高速鉄道も計画されたが、開業に至らず未成線となっている。 なお、同じ神奈川県内の公営バスである横浜市交通局のバスは「市営バス」と呼ばれることが多いのに対し、川崎市交通局のバスは「市バス」と称され、川崎市公式サイトでも「市バス」の名称で案内されている[1]。 市電・トロリーバス・市営地下鉄事業[編集] 川崎市電・川崎市営トロリーバス、川崎縦貫高速鉄道についての詳細は、各項目の記事を参照。 バス事業[編集] 南は川崎市川崎区の東扇島から北方向は多摩区稲田堤駅周辺まで、北西方向は麻生区の柿生駅付近まで、川崎市全域で路線バスを運行している。 なお川崎市外では、横浜市内の高田町バス停を終点とする2つの系統があり、同市港北区・都筑区に乗り入れる。さらに、横浜市青葉区のたまプラーザ駅にも乗り入れている。なお、横浜市営バスにおいても川崎駅西口(川崎市幸区)に乗り入れる路線がある。 またかつては高速バスも運行しており、川崎駅から東京湾アクアラインを経由して房総半島の木更津駅と袖ケ浦駅を結ぶ高速バスを、京浜急行バス・川崎鶴見臨港バス・小湊鐵道バス・日東交通・東京ベイサービスと共同運行していたが、川崎 – 袖ケ浦線は2002年に廃止、川崎 – 木更津線は2004年に撤退し、高速バス事業からは撤退している。 市バスのイメージキャラクター(ゆるキャラ)として、「かわさきノルフィン」が制定されている。詳細は同項目を参照。 川崎市バス停留所標識 川崎市バス停留所標識(照明付) 共用停留所標識(東急バス)。他社と共用のバス停には赤枠が記され、先頭に表記された事業者が設置している 高津区二子塚公園に保存される川崎市最後のトロリーバス車両。側窓には運行当時の写真も(2021年11月) 市電開業からバス専業へ[編集] 川崎市電・川崎市営トロリーバス・川崎縦貫高速鉄道の歴史については、各項目も参照されたい。また詳しい年表が、川崎市公式サイトの「年度別事業概要

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クリーブランド・ガーディアンズ – Wikipedia

クリーブランド・ガーディアンズ(英: Cleveland Guardians、略称: CLE)は、メジャーリーグベースボール(以下、MLB)アメリカンリーグ中地区所属のプロ野球チーム。本拠地はオハイオ州クリーブランドにあるプログレッシブ・フィールド。 現チーム名の由来となった「交通の守護神像(Guardians of Traffic)」 ア・リーグ創設時から存在する古参球団。 1900年にウェスタン・リーグから改称した際、グランドラピズ・ラスラーズがクリーブランドに移転し、これが現在のクリーブランド・ガーディアンズの起源である。 この年アメリカン・リーグはまだマイナー・リーグであったが、翌年にメジャー・リーグに昇格宣言をしてメジャー・リーグとなった初年度1901年はクリーブランド・ブルーバーズ、翌年の1902年にはクリーブランド・ブロンコスと名乗ったが、1902年にフィラデルフィア・アスレチックスからナポレオン・ラジョイを獲得し、彼が主軸打者として中心メンバーとなり、彼の通称であったナップから1903年からナップスと呼ばれ、ナップ・ラジョイが中心となって活躍したチームだった。この間にはかつてクリーブランド・スパイダーズにいたサイ・ヤングやシューレス・ジョー・ジャクソンも一時在籍した。そして彼がチームを離れたことで1915年にインディアンスと改名し、やがて1920年にトリス・スピーカーを中心とした打線でリーグ優勝してワールドシリーズも勝ち、1948年には火の玉投手ボブ・フェラーを擁してルー・ブードローが遊撃手兼監督でチームを支え、さらにジャッキー・ロビンソンに続いて2人目の黒人選手ラリー・ドビーを獲得して再びリーグ優勝してワールドシリーズでもブレーブスを下した。しかし、その後は長い低迷を続け、1954年のリーグ優勝を最後に1994年までワールドシリーズからは遠ざかった。そのため、1989年には映画『メジャーリーグ』のモデル球団になるなど、弱小チームの代名詞として知られた。 1990年代後半になるとマニー・ラミレス、ジム・トーミといったスター選手を擁し、1995年から1999年まで5年連続で地区優勝を果たすなど、黄金期を築いた。2000年以降、緊縮財政のため上記の主力選手が流失してしまい、厳しい戦いを強いられた。しかし、その主力選手と引き換えに得たグレイディ・サイズモア、トラビス・ハフナー、CC・サバシアといった有望新人を育て、2004年に地区3位、2005年に地区2位、2007年には地区1位と着実に力をつけている。 地元での人気はもちろんのこと、映画『メジャーリーグ』の大ヒットにより、メジャーでも知名度は高い。1995年6月12日から2001年4月4日まで、ホームゲームで455試合連続満員御礼という記録を作っている。これを記念して、455番がチームの永久欠番となった。なお、その後ボストン・レッドソックスが2003年から2013年にかけて、794試合連続満員御礼として記録を更新している。交流戦ではヤンキースとメッツのサブウェイ・シリーズのように、同じオハイオ州のシンシナティ・レッズとのカードが“バトル・オブ・オハイオ”と呼ばれ地元では人気を集めている。 本拠地であるプログレッシブ・フィールドは、2007年までジェイコブス・フィールドと呼ばれていたが、2008年に自動車保険会社のプログレッシブ社が、16年5800万ドルでネーミングライツを獲得したことでこの名前に変更した。クリーブランドの市街地にあり、タワーシティ・センターと呼ばれる電車やバスのターミナル(クリーブランド・ホプキンス国際空港からの電車もここに停まる)から徒歩圏内、途中にNBAクリーブランド・キャバリアーズの本拠地クイックン・ローンズ・アリーナがある。 「インディアンス」という球団名は、ネイティブ・アメリカン系では最初の選手とされるルイス・ソカレキス(スパイダーズに所属)を顕彰する意図で命名されたものだったが(詳細後述)[1]、ポリティカル・コレクトネスに配慮して2021年7月23日に2022年シーズンから「ガーディアンズ」に変更することが発表された[2]。ガーディアンズの由来は市内のホープメモリアル橋の傍に建ててある「交通の守護神像(ガーディアンズ・オブ・トラフィック Guardians of Traffic)」に由来する[3][4]。 球団の歴史[編集] 球団創設前[編集] 本拠地であるクリーブランドのプロ野球チームの歴史は、1860年代に創設された『フォレストシティ・ベース・ボール・クラブ』に遡る。このチームは後にセミプロ化し、1871年 に創設された全米プロ野球選手協会(ナショナル・アソシエーション)のプロリーグに「クリーブランド・フォレストシティーズ」として2年間参加した。その後ナショナルリーグには、1879年から1884年までクリーブランド・ブルースというチームが、また1889年から1899年までクリーブランド・スパイダーズというチームが所属して活動した。

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岡本春美 – Wikipedia

この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “岡本春美” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年7月) 岡本 春美(おかもと はるみ、1998年2月7日[1][2] – )は日本の陸上競技選手(中距離走・長距離走)である。ヤマダホールディングス陸上競技部に所属。愛称は「はるたん」。父はブラジル系日本人、母はブラジル人である[3]。 3人姉妹の末っ子。 経歴・人物[編集] 学生時代[編集] 群馬県太田市出身。太田市立南中学校では空手部に所属しており、2014年時点では空手2段であった[1]。2012年の中学3年の時、群馬県中学駅伝大会にメンバーとして参加。2012年10月20日の太田市中体連駅伝大会では第5区を10’34で走り区間6位であった。同年11月10日第47回群馬県中学校総合体育大会女子駅伝競走大会では第5区(2.75km)を11’00で走り区間29位であった。 2013年4月、陸上部の監督から勧誘される形で常磐高等学校に入学[1]。同期には米谷結希(ユニバーサル・エンターテイメント→愛知電機)等がいる。高校1年生の時、全国高校女子駅伝で第4区3kmを任され区間賞(区間記録に11秒と迫る)を獲得した[1][4]。2014年の高校2年時には、インターハイ女子3000mで第3位。秋には第3回静岡県長距離強化記録会3000mで東日本高校新記録となる 9’00”91

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内与力 – Wikipedia

内与力(うちよりき[注釈 1])は、江戸幕府の役職の1つ。 江戸の町奉行に仕える家臣で、奉行所ではなく町奉行個人に所属する与力である。町奉行所は、役人である与力・同心が実質的に世襲で職を務めており、仕事に熟達した彼らが万端お膳立てをするため、新任の町奉行であっても問題なく業務を行なえた。 しかし、役人たちは奉行所という「役所」の居付きの者であって、制度上の部下ではあるものの町奉行個人に附属しているわけではないため、奉行が業務から外れた仕事をさせようとしても「そのような前例は無い」として拒否された。 そこで、町奉行の秘書官とも言うべき者の存在が必要とされ、設置されたのが内与力であった[1][2][3][4]。 町奉行は、元から自身に仕えている家来や、ことに馴れた者を臨時に雇い入れるなどして、与力の地位に就けた。 側用人・留守居・使番・小姓・祐筆といった役を兼務した公用人が3人、訴状掛の目安方(めやすかた、めやすがた)が2人の計5人(両町奉行所で10人)が内与力であった[1][2]。 ただし、内与力は町奉行所に務める50騎(南北で25騎ずつ)のうち、各2騎ずつ(計4騎)として勘定されており、両奉行所で計46騎が奉行所付きの与力ということになる[4][5][6]。 なお、奉行が職を辞する時は、内与力もそれに伴って奉行所から退くことになる[1][3]。 内与力は町奉行の陪臣の立場であるが、奉行所の他の与力と同様に知行を貰っていた。町奉行所の与力は、上総と下総に1万石の地を知行地として割り当てられており、これは与力個々人ではなく南北奉行所の与力全員の知行所で、ここから与力それぞれに現米が支給された[5]。この知行地は「大縄(おおなわ)」と呼ばれており[注釈 2]、この1万石のうち、与力4騎分(南北で2騎分ずつ)として800石が割かれ[注釈 3][3]、公用人6人に600石、目安方4人に200石を給した[2][6]。 内与力の設置は公然の習慣となっていた。しかし、奉行個人の家臣に扶持を与えるのは不法として、内与力が廃止されたことがあった。寛政のころの南町奉行・坂部広高と、天保年間の同じく南町奉行鳥居耀蔵がそうであり、その時は北町奉行所でも同じく内与力は廃止された。しかし、彼らが職を辞した後は、内与力は再設置され、そのまま幕末まで内与力の制は存続した[7]。 注釈[編集] ^ または、「ないよりき」。 ^ 町奉行所の与力だけでなく、留守居・大番・書院番・先手組の与力や、西丸御留守居・御宝蔵番・御鉄砲玉薬の同心なども、大縄での知行が与えられていた。 ^ 町奉行所与力1騎に給されるのは200石。

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テイン・セイン – Wikipedia

テイン・セイン(ビルマ語: သိန်းစိန်、Thein Sein、ALA-LC翻字法: Sinʻ” Cinʻ、IPA: /t̪éʲn sèʲN/、1944年4月20日[要出典] – )は、ミャンマーの政治家、同国大統領(軍事政権後初代・国家元首通算第10代)、連邦団結発展党党首を歴任した。軍事政権内での序列は4位であった[1]。同国首相などを歴任。 就任時の階級は中将、後に政党結党前に軍籍を離れる[2]。民族的には華人であり、中国語名は登盛(簡体字:登盛)。 三角軍区司令 2003年 – 国家平和発展委員会副秘書長 2004年 – 国家平和発展委員会第一秘書長 2007年5月 – 中旬より、病気療養中のソー・ウィンの首相代行

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ジム・カー – Wikipedia

ジム・カーJim Kerr シンプル・マインズ – ドイツ・ニュルブルク公演(2017年4月) 基本情報 出生名 James Kerr 生誕 (1959-07-09) 1959年7月9日(62歳) 出身地 スコットランド グラスゴー ジャンル ロックポストパンクニュー・ウェイヴオルタナティヴ・ロック 職業 ミュージシャン、ヴォーカリスト、シンガーソングライター 担当楽器

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佐藤完實 – Wikipedia

佐藤 完實(1868年 – ?)は、日本の柔術家。幼名を敬一郎と称し、後に完實と改めた。武名は信智、号は尚武軒。 大東流合気柔術の武田惣角、神道六合流の野口清(野口潜龍軒)の高弟であった。 1868年10月(明治元年)、宮城県登米郡石森驛に生まれる。父は仙台藩士大番組で北辰一刀流の達人であった佐藤敬之進完忠である。幼少より父に就いて剣術を学んだ[1]。1884年(明治17年)に仙台市に出て修学の傍ら喜多流の鈴木監治の柔術を学び初目録を得た。 1888年4月(明治21年)に宮城県立音楽講習会に入り、1892年(明治25年)音楽科教員検定試に合格した[1]。 1896年9月(明治29年)、宮城県税務官に任命された。功績が多く1905年4月(明治38年)に抜擢され大蔵省仙台塩務局に専任された[1]。 この間に大東流合気柔術の武田惣角に就いて七年修行して秘伝奥義の目録を得た[1]。 1904年4月(明治37年)に帝国尚武会の正会員となり試験を受けて神道六合流目録免許を取得し帝国尚武会宮城県支部長に任命された[1]。 1904年(明治37年)秋季試合で三段となり、1905年12月(明治38年)に四段に昇進する[1]。後に柔術六段となった[2]。 野口清からは出藍の奇才といわれた[2]。また帝国尚武会支部長中技術に於いては第一位で宮城県屈指の武術家と評された[1]。 女子護身術[編集] 神道六合流と大東流合気柔術から婦人用の女子護身術(神道一天流)を編み出した。 1917年『女子錬胆法及護身術』で解説された女子護身術では、基本防御五本、初段防御七本、中段防御八本、上段防御十本からなる。一つの形に対して複数の想定が含まれているものがあり実際の本数は多かった。 1918年『大日本武道練修教範』の体系では、手解8本、基本形5本、初段形7本、中段形8本、上段形10本の計38本からなる。 手解 第一教~第八教 基本形 五本 打下、手首押、抱締、首締、俵返 初段形  七本

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