Month: February 2020

民主友愛太陽国民連合 – Wikipedia

民主友愛太陽国民連合(みんしゅゆうあいたいようこくみんれんごう)は、日本にかつて存在した国会における院内会派である。 1997年、新進党の解散により国会議員が100名以上所属する政党は自民党のみとなった。一方、野党第一党となった民主党は衆議院でわずか50を超える議席に過ぎなかった。 翌1998年1月、新進党解党により結成された国民の声、新党友愛の各党は結成と同時に、民主党、太陽党、フロム・ファイブ、民主改革連合の野党共闘を目指す勢力と院内会派「民主友愛太陽国民連合」を結成した。会派名はそれぞれの政党の一部を取り入れたものであった。略称は「民友連」で、その後民政党結党に伴い、正式な会派名として変更された。参議院では結成当初から「民友連」の名称を使用していた。代表には左藤恵が就任した。 しかし、第18回参議院議員通常選挙を臨むには統一会派ではやはり限界があり、統一新党の結成を目指す動きが活発になった。そのため細川護煕が新党準備委員会議長に就任して各党と折衝を行った。 結成過程において、民主党内の旧社会党出身議員の存在を嫌う一部保守系議員が新党に参加せず、自民党へ入党する事態が発生したが、「新党名は民主党、民主党以外の各党が解散して民主党に合流する」方式で統一新党を結成することが決定した。 1998年3月、自民党・新井将敬の死去に伴い実施された衆議院東京4区の補欠選挙では、前回の総選挙で新進党公認で立候補し落選した松原仁を民友連統一の無所属候補として擁立したが、東京都選出の参議院議員から鞍替え立候補した森田健作に敗れた。 4月27日、新・民主党が結成され、旧民主党代表の菅直人が代表に就任した。 1998年1月5日:民主党・新党友愛・国民の声・太陽党・フロムファイブ・民主改革連合の各党代表が会談。同月12日から始まる通常国会に向けて出来るだけ早い時期に衆議院における統一会派を結成することで合意する。 1998年1月7日:統一会派結成に合意した野党6党の党代表と幹事長が会談。会派結成の正式決定(統一会派結成宣言)と「当面する政策課題についての合意」とりまとめと、会派名称を「民主友愛太陽国民連合」とすることを決定する。 1998年1月8日:野党6党、統一会派「民主友愛太陽国民連合」(略称:「民友連」)の会派結成届を衆議院事務局に提出する。参議院でも「民友連」の会派結成届を参議院事務局に提出。また幹事長と政策責任者会議座長、国対委員長会議座長は3グループ(1.民主党、2.友愛と民改連、3.国民・太陽・フロムファイブ)から二カ月ごとに輪番で出すことを決定。衆議院民友連は97名、参議院民友連は41名。 1998年1月9日:衆議院の民友連に、日本新党出身で無所属(元新進党)の伊藤達也が参加、会派議席数は98名に。 1998年1月13日:無所属(元新進党)の木幡弘道が衆議院民友連に参加、会派議席数は99名に。 1998年1月23日:国民の声、太陽党及びフロムファイブが合併して「民政党」を結成する。 1998年2月15日:民主党を除籍された井上一成の会派離脱届を衆議院事務局に提出、会派議席数は98名に。 1998年3月9日:政権戦略会議議長の細川護熙が「新党の党名は民主党とし、民主党を存続政党として残す」提案を民友連を構成する各党に示す。 1998年3月12日:民友連を構成する民主・民政・友愛・民改連の代表、民主党以外の各党が解散して民主党に合流する形での新党結成に合意。 1998年4月13日:民友連、会派名を衆議院は「民主党」、参議院は「民主党・新緑風会」に変更。民政党衆議院議員の小坂憲次が民主党への不参加を表明。 1998年4月21日:民政党の伊藤達也が、民主党への不参加を表明。 1998年4月23日:民政党衆議院議員の左藤恵・粟屋敏信が民主党への不参加を表明。 参考文献[編集]

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木下忠司 – Wikipedia

画像提供依頼:顔写真の画像提供をお願いします。(2021年1月) 木下 忠司 生誕 1916年4月9日 出身地 日本・静岡県浜松市 死没 (2018-04-30) 2018年4月30日(102歳没) 学歴 武蔵野音楽学校 ジャンル 映画音楽 職業 作曲家 活動期間 1946年 – 2018年

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長谷寺 (由利本荘市) – Wikipedia

「赤田の大仏」として知られる十一面観音立像 長谷寺(ちょうこくじ)は、秋田県由利本荘市赤田にある曹洞宗の寺院である。当寺に安置されている高さ約9m、木製金箔押しの長谷十一面観音立像は通称赤田大仏と呼ばれ、[1]奈良県桜井市の長谷寺(はせでら)、神奈川県鎌倉市の長谷寺(はせでら)と並び日本三大長谷観音[2]の一つと言われている。秋田三十三箇所観音霊場第8番札所。 正法山長谷寺は、1775年(安永4年)、亀田藩の僧是山泰覚により創建された寺院である。1784年(天明4年)には、鎌倉長谷寺の本尊と同木から彫り出されたという小仏を胎内仏として十一面観音立像の製作が始まり、2年後に完成した。1888年(明治21年)に堂塔伽藍のすべてが火事により焼失したが、4年後に観音像が再建、さらに9年後には本堂が再建された。 年表[編集] 1775年(安永4年):是山泰覚和尚により滝沢山不動庵開山 1778年(安永7年):丈六阿弥陀如来建立 1784年(天明4年):十一面観音立像製作開始 1786年(天明6年):十一面観音立像完成 1792年(寛政4年):正法山長谷寺創立 1794年(寛政6年):大仏堂完成 1795年(寛政7年):亀田藩祈願所となる(寺領50石) 1810年(文化7年)6月:秋田藩主佐竹義和は、名僧の名が高かった補陀寺の徳善、長谷寺の是山泰覚、天徳寺の義産を空素沼に呼び、雨乞いの祈りをさせたところ、霊験あらたかであった[3]。 1811年(文化8年)是山泰覚和尚入滅 1888年(明治21年):堂塔伽藍総て焼失 1892年(明治25年):観音像再建 1893年(明治26年):大仏堂再建 1901年(明治34年):本堂再建 1952年(昭和27年)6月20日:「赤田の大仏」は秋田魁新報社主催の第一回秋田県観光三十景(有効投票約百九十五万票)では第18位(四万千五百六十七票)に選出された。 1986年(昭和61年):十一面観音が本荘市有形文化財に指定 8月21日

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ぎふサテ! – Wikipedia

テレビ番組・中継内での各種情報(終了した番組・中継を含みます)は、DVDやBlu-rayなどでの販売や公式なネット配信、または信頼できる紙媒体またはウェブ媒体が紹介するまで、出典として用いないで下さい。検証可能性に基づき除去される場合があります。 『ぎふサテ!』は、2019年10月7日からぎふチャンで平日の夕方に放送されている報道番組である。 この節には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。 出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2021年7月) 独自研究が含まれているおそれがあります。(2021年7月) 2014年1月6日から約5年9か月にわたり放送された前身番組『Station!』から放送時間帯を繰り上げ、テレビ東京制作の報道番組『ゆうがたサテライト』を内包の上、スタートした(岐阜放送がテレビ東京制作の夕方ニュース番組をネットするのは、『NEWS 5 PLUS』以来となる)。 2020年10月5日からは2部制を廃止。ゆうがたサテライトは単独番組としての放送に変更された。ぎふサテ!は旧来の第2部の時間帯を変更しての放送となった。2021年3月29日からは18時代に繰り下げられた。 2021年3月26日までは、経済情報や、岐阜県の旬な話題などもも発信する報道・情報番組であったが、2021年3月29日からは岐阜県内を中心とした最新ニュースを発信する報道番組となり、岐阜県の旬な話題などを発信する情報番組は2021年4月10日から放送開始された『フォーカスぎふ』[注 2]に引き継がれた。 2020年10月2日までの2部制においては、第1部を担当するアナウンサーは、原則として、ラジオ『きょうもラジオは!? 2時6時』内の『岐阜新聞ニュース』(14:55 – 15:00)や、同日夜の『NEWSぎふチャン』も兼務していた(※前者は極稀に別のアナウンサーが担当する場合もあった)。 現在[編集] 過去[編集] 放送時間[編集] 2020年10月2日までは2部制。この表では上段は第1部、下段は第2部を示す。 期間

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ファン・グラーフの絵 – Wikipedia

『ファン・グラーフの絵』(ファン・グラーフのえ、原題:英: Van Graf’s Painting)は、アメリカ合衆国の小説家J・トッド・キングリア(英語版)[注 1][1]による小説。 1997年に短編集『ラヴクラフトの世界』に収録された。 東雅夫は「チェンバースの『黄の印』のパスティッシュというべき不気味な物語」と解説する[1]。 あらすじ[編集] 美学生のデニスのもとに、実家の母からプレゼントが郵送されてきた。それは2フィート平方の大きさの絵で、水のほとりの静謐な村が描かれている。その絵を見たとたん、デニスは試験勉強に集中できなくなる。デニスは授業をさぼり、図書館で絵と画家について調べる。この絵を描いた画家は、青騎士派に連なるファン・グラーフという人物である[注 2]。絵のタイトルは「王国」といい、彼はこの絵ともう1枚の絵を完成させてすぐに首を吊って死んだという。 デニスは、同室のロウガンに、絵に描かれた女が何をしていると思うか問いかける。ロウガンは「魚を買っているようだな」と返答するも、デニスは「夫を毒殺するつもりなんだ」と言う。ロウガンが驚き、なぜ知っているのか質問しても、デニスはなぜ自分がそう答えたのか理解できずにいた。 デニスは絵の中の人物たちの苦しみを幻視するようになる。デニスは彼らの名前や人生に理解を深め、食事をおろそかにするほど絵にのめりこむ。ロウガンが戻ってきたとき、デニスは剃刀で手首を切り裂いて死んでおり、「絵を見てはいけない。破壊してくれ。見たらあの男が現れる」「ママには言わないでくれ」「黄衣の王の使者がここにいるんだ」と書き残されていた。 魚を買う女[編集] ドミニクは、夫アマドゥールからの暴力に苦しみ、ついには殺意を固める。魚料理に毒を盛ったドミニクは、刺激味を隠すための野菜を買うために市場に出かける。だが彼女が帰宅した時、2人のわが子が毒に苦しんでいた。アマドゥールは、子供たちの死体と、毒のもられた魚の残りと、片隅にうずくまっている妻を見て、ドミニクに詰め寄り拳をふりあげる。 茶色の包みを持って自転車に乗っている若者[編集] マルセルは、美女マルティーヌと恋に落ちる。マルセルはなぜ自分のようなあたりまえの男に恋をしたのかわからなかったが、喜びのために問いかける気にもならなかった。マルセルは、交際を始めて一ヶ月になるのを記念して、彼女にあげるために粘土で踊り子の像を作る。マルセルがマルティーヌの家に行くと、ブロンドのハンサムの男がいた。誰かと問いかけるマルセルに、マルティーヌは「ゲームは終わりよ」と言う。アンドレと喧嘩したマルティーヌは、彼を嫉妬させるために、マルセルを利用したのである。2人は粘土像を取り上げ、マルセルを嘲笑する。マルセルは数日間悲痛に暮れた後に、春の雪解けで増水した川へと向かい、橋の上から砕けた粘土像を落とすと、後を追って身を投げる。 ベンチに座る老人[編集] ジャン=ピエールは己の悲哀に満ちた人生を回想する。今見つめているローヌ河のはるか先、マルセイユでマリーアにプロポーズをしたこと。最初の子供はわずか数週間で命を終えた。娘は11歳のときに落馬した。49年つれそったマリーアも息を引き取った。家族も友人も、みな彼よりも先に死に、たったひとりきりとなった。 主な登場人物・用語[編集] デニス

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葉養正明 – Wikipedia

葉養 正明(はよう まさあき、1949年4月11日[1] – )は、日本の教育行政学者、国立教育政策研究所名誉所員(2013年~)、東京学芸大学名誉教授、文教大学教育学部心理教育課程教授。 専門は、教育制度論、地域教育計画論、教育経営論。自治体の総合教育計画、小中学校配置計画づくりに携わる。[2] 千葉県生まれ。千葉県立安房高等学校卒業、1972年東京教育大学教育学部卒、1974年同大学院修士課程修了、博士課程単位取得退学後、1977年同助手、筑波大学助手、1981年東京学芸大学講師、1983年助教授、1999年教授。2008年国立教育政策研究所教育政策・評価研究部部長、2013年埼玉学園大学教授、2014年文教大学教授、大学院研究科長。 『地域教育計画』建帛社 1988 『小学校通学区域制度の研究 区割の構造と計画』多賀出版 1998 『米国の「学校の自律性」の研究』多賀出版 2001 『よみがえれ公立学校 地域の核としての新しい学校づくり』紫峰図書 2006 『人口減少社会の公立小中学校の設計 東日本大震災からの教育復興の技術』協同出版 2011

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上星川 – Wikipedia

上星川(かみほしかわ)は、横浜市保土ケ谷区の地名。現行行政地名は上星川一丁目から上星川三丁目。住居表示が実施されている[5]。 保土ケ谷区の北部に位置し、北東側は神奈川区羽沢南(羽沢町の一部が分離し住居表示施行)に接する。南東から北西に相模鉄道と国道16号が並行し、町の南部に上星川駅が設けられている。南西から北東に貨物専用の東海道貨物線が走り、上星川駅北側で相鉄線と交差するが、貨物線に駅は設けられていない。相鉄線の北側・貨物線の東側となる一角が一丁目、相鉄線の北側・貨物線の西側が二丁目、相鉄線の南側が三丁目となっている。町の南を帷子川が流れる。 面積[編集] 面積は以下の通りである[1]。 丁目 面積(km2) 上星川一丁目 0.089 上星川二丁目 0.313 上星川三丁目 0.098 計 0.500 地価[編集] 住宅地の地価は、2014年(平成26年)1月1日の公示地価によれば、上星川2-36-5の地点で17万1000円/m2となっている。[6] 沿革[編集] 古くは都筑郡上星川村で、1889年(明治22年)4月1日に川島村と合併し西谷村大字上星川となった[7]。1927年(昭和2年)4月1日に横浜市に編入、横浜市上星川町となる。同年10月1日に区制施行により保土ケ谷区に編入される。2001年10月22日に住居表示が実施され、上星川町を廃止し上星川一丁目・上星川二丁目・上星川三丁目が新設された[8]。 なお、星川の地名の由来については「星川 (横浜市)#沿革」を参照のこと。

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フアン・ホセ・アレバロ – Wikipedia

アレバロ大統領(1945年) フアン・ホセ・アレバロ・ベルメホ(Juan José Arévalo Bermejo、1904年9月10日 – 1990年10月8日)はグアテマラの教育家・政治家で、1945年から1951年までグアテマラの大統領をつとめた。アレバロはグアテマラ初の民主的な選挙で選ばれた大統領だった。 アレバロはサンタ・ローサ県タシスコ(英語版)で生まれた。タシスコおよび首都グアテマラシティで教育を受け、1922年に師範学校を卒業して教員の職を得た[1][2]。アレバロは教育者として活動するかたわら、雑誌『アルバ』の創刊・編集者としても活動した。 アレバロは1925年に教育改革の書物を出版した[1][2]。ラサロ・チャコン・ゴンサレス(英語版)大統領時代の1927年に政府の奨学金を与えられてアルゼンチンに渡り、1934年に国立ラプラタ大学(英語版)の哲学および教育学の博士の学位を取得した[3][4][2]。 ホルヘ・ウビコが大統領になると教育相をつとめたが[1][2]、1937年に再びアルゼンチンに渡り、国立トゥクマン大学(英語版)で教えた[2]。 大統領[編集] 1944年6月にウビコの独裁政権が倒されると、国家刷新党(PRN)および人民解放戦線(FPL)の2つの党はアレバロを大統領候補に指名した[1]。同年9月にアレバロは帰国した[4][2]。12月の選挙で大勝し、翌年3月15日に大統領に就任した[1][2]。この選挙はしばしば「グアテマラ史上初の公正で民主的な選挙」と呼ばれる[3][5][2]。 哲学としてアレバロは「精神的社会主義」(Socialismo Espiritual)を標榜した[2]。アレバロは労働組合の設立を支援し、反植民地的・改革的政策を行ったが、これは外国企業、とくにユナイテッド・フルーツ・カンパニーとアメリカ合衆国の反対に遇った[1][5]。アレバロは大土地所有者の持つ耕作されていない土地を徴用したが[1]、この政策は次のアルベンス大統領の時代にも継続された[5]。また関税によって国産品を守った[1]。社会保障機関を設立して労働環境の改善につとめ、識字率の向上などの教育改革にもつとめた[1]。外交に関しては中米機構(ODECA)の設立のために努力した[1]。 アレバロが大統領のあいだ、軍によるクーデターの試みは24回発生した[4]。しかしクーデターは失敗し、1951年3月15日、ふたたび選挙で選ばれたハコボ・アルベンスに平和的に政権を渡した[1][4]。アルベンス政権下でアレバロは大使としてヨーロッパやラテンアメリカ諸国に赴任した[2]。 軍事政権下[編集] 1954年のCIAのクーデターでアルベンス政権が倒されたとき(PBSUCCESS作戦を参照)、アレバロはチリにあった。その後グアテマラに帰国せず、ウルグアイを経て1958年にベネズエラで大学教授の職についた[2]。 ミゲル・イディゴラス・フエンテス大統領の時代、1963年3月30日の新聞の報道によると、アレバロはグアテマラに帰国したと伝えられた。しかしその翌日、大統領選挙でアレバロが大統領に返り咲くことを恐れた防衛相のエンリケ・ペラルタ・アスルディアの率いる軍のクーデターが起こされた[6][7]。選挙は中止され、アレバロはふたたびメキシコに亡命した[2]。アレバロは1970年代まで帰国しなかった[1]。 1985年の選挙によって久しぶりに軍人でないビニシオ・セレソが大統領に選ばれると、アレバロはセレソに面会し、グアテマラ革命の第2章が始まると述べた[2]。 1990年にグアテマラシティで没し[1]、故郷のタシスコに埋葬された。彼はグアテマラで唯一国葬された大統領であった[2]。

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福島県立浪江高等学校 – Wikipedia

福島県立浪江高等学校 過去の名称 福島県浪江実科高等女学校福島県浪江高等女学校福島県立浪江高等女学校福島県立浪江女子高等学校 国公私立の別 公立学校 設置者  福島県 設立年月日 1927年 共学・別学 男女共学 課程 全日制課程 単位制・学年制 学年制 設置学科 普通科 学期 3学期制 高校コード

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