Month: March 2020

マミヤ・オラヘラシュヴィリ – Wikipedia

マミヤ・ドミトリエヴィチ(ディミトリス・ゼ)・オラヘラシュヴィリ(ロシア語: Мамия Дмитриевич Орахелашвили、グルジア語: მამია დიმიტრის ძე ორახელაშვილი、1881年6月10日 – 1937年12月11日)は、グルジア人のボリシェヴィキ革命家・政治家。名はイヴァン (Иван)[1]、イヴァネ (ივანე)[4] とも。 前半生[編集] 1881年6月10日(ユリウス暦5月29日)、ロシア帝国クタイス県(ロシア語版)ショラパニ郡 (ru) の[1]貧しい貴族の家庭に生まれた[5]。地元の中等学校から[6]ハリコフ大学(ウクライナ語版)医学部へ進み、1902年からはサンクトペテルブルク軍事医学アカデミー(ロシア語版)に学んだ[1]。翌1903年からボリシェヴィキに入党し[6]、同年に学生運動に参加して逮捕[5]。ロシア第一革命の間も革命に参加したが、1906年にもアヴラバリ印刷 (ru) に関与して逮捕された[5]。パリやジュネーヴで過ごして帰国し、1908年に軍医アカデミーを卒業した[5]。その後はザカフカースで医師として、1914年から1917年までは軍医として働いていた[5]。 1917年からはウラジカフカス労兵ソビエト議長やボリシェヴィキ・ウラジカフカス委員会議長、カフカース地方委メンバーを務めたが、翌1918年から1920年5月まではグルジア民主共和国のメンシェヴィキによって拘束された[1]。解放後から翌1921年までグルジア共産党(英語版)中央委幹部会議長、ロシア共産党中央委カフカース局

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ワレリー・ブレ – Wikipedia

獲得メダル 男子 アイスホッケー  ロシア オリンピック 銀 1998 銅 2002 ワレリー・ウラジミロヴィチ・ブレ(ロシア語: Валерий Владимирович Буре, ラテン文字転写: Valerij Vladimirovich Bure, 1974年6月13日 – )は、ロシアの元アイスホッケー選手。ポジションは右ウィング。

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山本尚志 – Wikipedia

この項目では、工学者について説明しています。書家については「山本尚志 (書家)」をご覧ください。 山本 尚志(やまもと たかし、1934年 – )は、日本の工学者。専門は生産工学。東京大学生産技術研究所助教授、東洋大学教授、関東学院大学教授、相模工業大学教授などを経て、湘南工科大学名誉教授。 目次 1 略歴・人物 2 湘南工科大学事件 3 著作論文 4 出典・脚注 略歴・人物[編集] 1934年(昭和9年)、長野県松本市生まれ。長野県松本県ヶ丘高等学校[1]、東京大学工学部を経て、1958年(昭和33年)東京大学大学院修了。1961年(昭和36年)より東京大学生産技術研究所助手、助教授を経て、東洋大学理工学部教授、関東学院大学工学部教授、相模工業大学(現在の湘南工科大学)教授[2]を務めた。2000年(平成12年)定年退官[3]。湘南工科大学名誉教授。 湘南工科大学事件[編集] 山本が教授としての在任期間中の大半を占める1986年(昭和61年)から2007年(平成19年)まで、湘南工科大学では大学理事会(糸山英太郎理事長)と湘南工科大学教職員組合との間で「湘南工科大学事件」と呼ばれる法廷闘争が続いた[4]。

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樋口大喜 – Wikipedia

樋口大喜(ひぐち だいき、1991年9月10日-)は日本のディスクジョッキー。FM802所属。802 DINOSAUR、RADIO∞INFINITY などの番組の担当。小柄。 ひぐちだいき 樋口大喜 生誕 (1991-09-10) 1991年9月10日(30歳) 日本 兵庫県 国籍 日本 出身校 関西大学法学部 職業 ラジオパーソナリティ 活動期間 2014年 –

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セロリ (曲) – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “セロリ” 曲 – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2011年12月) 「セロリ」は、日本のシンガーソングライター・山崎まさよしの楽曲である。1996年9月1日にシングルとして発売された。発売元はポリドール・レコード(現: ユニバーサルミュージック)。 本項では、日本の男性アイドルグループ・SMAPが1997年5月14日に発売したシングル(発売元はビクターエンタテインメント)及び表題曲を含めて記す。 山崎にとって通算3枚目(インディーズ含めると4枚目)のシングルとして発売された。次作の「One more time, One more chance」(1997年1月22日)と並んで山崎の初期の代表作として挙げられる。1997年5月21日リリースのアルバム『HOME』には別アレンジで収録された。リリース翌年の1997年にSMAPがカヴァーし、これがドラマ主題歌として採用されたことがきっかけで、広く知られるようになった。なお、本作を含め自作のシングル・アルバムにおいては歌詞カードの楽曲製作者表記を本名の「山崎将義」(読みはやまさき まさよし)に統一しているが、SMAP版の楽曲製作者表記は「山崎まさよし」になっている。 曲名である「セロリ」は恋人との違い(好き嫌いなど)を歌う上で使われているだけであり、それ自体に特に意味はない。また、歌詞としても重要なものとして使われておらず、好き嫌いの多い野菜の代表として使われているだけのようである。[要出典]

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国花 – Wikipedia

アイスランド チョウノスケソウ Dryas octopetala アイルランド シャムロック Shamrock 形状からの指定で特に種を定めない。具体例はカタバミ(左)、シロツメクサ(右)等。 アルバニア 赤と黒のケシRed and black poppy 赤と黒は国旗の配色に基づく。 国樹ヨーロッパナラ Quercus robur アンドラ クチベニスイセン Narcissus

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高越城 – Wikipedia

高越城(たかこしじょう)は備中国荏原荘、現在の岡山県井原市に存在した日本の城。戦国時代には備中伊勢氏の城で、北条早雲こと伊勢盛時の出生地である。井原市指定史跡[1]。 高越城から井原市(荏原荘)を望む、手前の山には出丸があった 旧山陽道を見下ろす標高172メートルの高越山山頂に築かれた山城で、山頂の主郭を中心に5つ程度の郭を配置し、南側の尾根にも出丸を備え、主郭背部には堀切を設けて防御設備として利用した階郭式の縄張りとなっている。この地は旧山陽道と南側の笠岡の港が合流する要地であった。 弘安4年(1281年)、弘安の役に際して、幕府軍の総大将として九州に出陣した宇都宮貞綱が築いたとされる。その後、備中国荏原郷を得た那須氏の城となる。室町時代になると備中国荏原郷や井原荘、笠岡村等を領した伊勢氏の持城となり、伊勢盛綱の四男である盛定が所領分割で荏原荘を得たため、その居城となった。 盛定は庶流ではあったが申次衆として、同じく申次衆で備中伊勢氏惣領であった兄の伊勢盛富とともに京都に在住しており、所領は嫡男に任せていた(嘉吉3年(1443年)5月12日「伊勢盛経寺領寄進状」[注釈 1])。この嫡男が後に北条早雲と称される伊勢新九郎盛時である。 盛時は後に京都伊勢氏の伊勢貞道(伊勢貞高?)の養子となり京都へと向かい、最終的には今川氏の後継者問題に絡んで伊豆国に所領を得て、北条五代の礎を築くことになった。 その後の高越城は引き続き備中伊勢氏によって維持されるが、伊勢貞勝の頃に毛利氏に臣従し、高越城は宍戸隆家の持城となった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏が防長移封となると、高越城も廃城となったと推測される。 備中伊勢氏[編集] 備中伊勢氏は不明な点が多いが、伊勢盛時=北条早雲説が定説になるに従い、研究が進んでいる当時の書状や軍忠状等における備中伊勢氏の人物を列挙する。 多くの人物名が列挙されているが、その多くは系譜上の位置づけは不明である。 注釈[編集] ^ 「法泉寺文書」(井原市西江原町法泉寺所蔵)『岡山県古文書集』第三輯、および『井原市史3 古代・中世・近世史料編』収録 ^ 「法泉寺文書」(井原市西江原町法泉寺所蔵)『岡山県古文書集』第三輯、および『井原市史3 古代・中世・近世史料編』収録 ^ 「法泉寺文書」(井原市西江原町法泉寺所蔵)『岡山県古文書集』第三輯、および『井原市史3

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観音寺 (江南市) – Wikipedia

観音寺(仏徳山観音寺) 観音寺山門 所在地 愛知県江南市前野町西91 位置 北緯35度20分19.2秒 東経136度53分25.2秒 / 北緯35.338667度 東経136.890333度 / 35.338667; 136.890333座標: 北緯35度20分19.2秒 東経136度53分25.2秒 / 北緯35.338667度 東経136.890333度 / 35.338667;

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スポケーンバレー (ワシントン州の市) – Wikipedia

スポケーンバレー(Spokane Valley)は、アメリカ合衆国ワシントン州東端内陸部に位置する都市。州第2の都市スポケーンの東隣に位置し、同市の郊外都市となっている。人口は102,976人(2020年国勢調査)で、2010年国勢調査時の89,755人から14.7%増加しており[2]、州内第9位である。 スポケーンバレーは2003年3月31日に、スポケーン東郊の非法人地域が新規自治体として法人化、市制を施行して成立した[1]。市名はコロンビア川の支流であるスポケーン川が河谷を形成している、この一帯の地形・地域名である「スポケーンバレー」からつけられた(広域地名)。 グリーンエーカーズ地区の果樹園(1903年) 今日「スポケーンバレー」と呼ばれているこの河谷には、入植以前にはネイティブ・アメリカンのスポケーン族が住み着いていた。1854年、ハドソン湾会社所属の毛皮交易商アントワン・プラントがこの地のスポケーン河畔に入植し、家を建てて農場を営みつつ、スポケーン川の渡し船も運航していた。やがて、この渡し船の周辺に人が集まるようになっていった。しかし1858年、各地でインディアン戦争が激化する中、この地もスポケーン族をはじめとする近隣のネイティブ・アメリカン諸部族連合軍と、将軍ジョージ・ライト率いる入植者軍との間での激戦地となった(「スポケーン平原の戦い」と呼ばれ、ヤキマ戦争の一部と見られている)。その後もスポケーン族はこの地に引き続き住んではいたが、入植者たちの入植も進んでいった[3]。 年鑑降水量が17インチ(430mm)前後と乾燥帯に近い気候で、南に広がるパルース地帯ほど土壌が肥沃ではなく、岩がちで耕起にも苦労するスポケーンバレーの河谷は、当初は農耕に適した土地では無かった。しかし1895年から、ニューマン湖やヘイデン湖などの近隣の湖沼や、スポケーン川の水を用いた灌漑が行われ、また1900年に地元農民が掘った井戸によって大規模な帯水層(スポケーンバレー・ラスドラムプレーリー帯水層)が見つかると、その後は1920年代中盤に至るまで、一帯はリンゴの大産地へと変貌した[3]。 1920年代から周辺の豊富な木材資源を活かしたマッチ製造や製紙に加えて、セメントや砂利などの産業が興っていたものの、第二次世界大戦前のスポケーンバレー一帯はほぼ農村地帯であった。しかし第二次世界大戦の開戦後、1942年に、この地の安価な電力を利用したアルコア社のトレントウッド・アルミニウム圧延工場、および太平洋岸北西部の港湾に通ずる鉄道の便の良さを活かした海軍のべロックス供給基地が置かれると、この地の工業化が一気に進んだ。第二次世界大戦の終結後、1946年に創業したカイザー・アルミニウム社はトレントウッド圧延工場をリースし、後に買い取って同社の拠点工場とし、スポケーンバレーの地域経済を支える存在となっていった。また、1958年にべロックス供給基地が払い下げられると、その跡地は工業団地に転用された[3]。 20世紀も後半になると、全米的な郊外化の波に加えて、カイザー社の存在もあって、「スポケーン郊外」であるこのスポケーンバレー一帯の人口は急増した。1960年には46,458人であったこの一帯の人口は、20年後の1980年にはそのほぼ倍、82,153人を数えた。1980年代に入ると法人化への機運が高まり、1984年には、スポケーンバレー商業局がその是非をまとめた。しかし、1990年、1994年、1997年と3度行われた住民投票では、いずれも法人化への反対が賛成を上回る結果となり、否決された。しかし2002年、スポケーンがこの一帯を編入合併するかもしれないという風説が流れると、4度目の住民投票が行われ、賛成が僅差で反対を上回った。これを受けて、翌2003年3月31日、オポチュニティ、ディッシュマン、ベラデール、グリーンエーカーズ、トレントウッドなどの国勢調査指定地域(CDP)を含む、一帯の非法人地域がスポケーンバレー市という新規自治体として法人化、市制を施行した[3]。当時、法人化時点での人口は州史上最大、全米でもコロラド州センテニアルに次ぐ史上2位の規模であった[1]。2020年の国勢調査では、史上初めて人口10万人を突破するものとなる、102,976人を数えた[2]。 スポケーンバレー市庁舎は北緯47度39分24秒 西経117度16分4秒 / 北緯47.65667度 西経117.26778度 / 47.65667; -117.26778に位置している。市はワシントン州東端内陸部、スポケーンの東に隣接し、同市ダウンタウンからは東へ約12km、アイダホ州との州境からは西へ約17kmである。 アメリカ合衆国国勢調査局によると、スポケーンバレー市は総面積98.44km2(38.01mi2)である。そのうち97.69km2(37.72mi2)が陸地で0.75km2(0.29mi2)が水域である。総面積の0.76%が水域となっている。スポケーンバレー市域内の代表的な水域としては、市の北を流れるスポケーン川のほか、ソルティーズ・クリーク、およびその水の流入先であるシェリー湖が挙げられる(シェリー湖から流出する河川は無い)。市域はコロンビア山脈の南端、スポケーン川が形成した「スポケーンバレー」と呼ばれる河谷に広がっており、市名もこの河谷に由来している。標高は市庁舎の位置で608mである。 イーグル・ピークから東のスポケーンバレーを望む スポケーン・スポケーンバレー両市を含むスポケーンバレー一帯の気候は、乾燥して日中は温暖だが夜はやや冷え込む夏と、雨や雪が多く、シアトルやポートランドなどの沿岸部と比べると寒さが厳しいものの、高緯度の割には温暖な冬に特徴付けられる。ケッペンの気候区分では、スポケーンバレーは計算上は地中海性気候(Csb)に属するが、最寒月である12月の月平均気温は氷点下2.6℃[4]で、ワシントン州東部やアイダホ州北西部に分布する高地地中海性気候(Dsb)との境界線にかなり近い。気候についての詳細は、スポケーン#地理・気候も参照のこと。 スポケーンバレーはワシントン州法35A条で定められた「非憲章都市」であり、シティー・マネージャー制を採っている。この制度の下、市議会は市の立法機関としての役割に専念し、その採択した政策を行政のプロとして実行に移すシティー・マネージャーを任命・雇用する[5]。シティー・マネージャーは市の行政実務部門、および立法府サポート部門の長として、市政府組織の日常業務、および市議会が市民に対する責務を果たせるようなサポートに責任を負う[6]。市議会の議事録をはじめとする様々な記録の作成・保管に責任を負う市書記官[7]や、市議会や市職員に対し法律関連のサポートを行う市法務官[8]も、シティー・マネージャーが任命する。

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ネートチカ・ネズワーノワ – Wikipedia

『ネートチカ・ネズワーノワ』(ロシア語: Неточка Незванова)は、フョードル・ドストエフスキーの中編小説で、1849年に『祖国雑記』1月号、2月号、5月号に発表された。ドストエフスキーは同年4月23日にペトラシェフスキー事件に連座して逮捕されたため、5月号には、作者ドストエフスキーの名前を出すことは許されず、この作品も未完に終わった。シベリア流刑前の最後の作品となる。 この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2017年3月) ドストエフスキーはすでに1846年12月の時点で、兄ミハイルに宛てた手紙の中で、『ネートチカ・ネズワーノワ』について次のように書いている。「僕は一心不乱に書いています。なんだかわが国の文学界全体、雑誌や評論家連中を相手どって訴訟でも起こしたような気がしてなりません。そこで『祖(国)雑記』に掲載される三部にわかれた僕の長篇小説でこの一年間も文壇の首位を確保して僕に悪意をいだいている連中の鼻をあかしてやるつもりです。」(1846年12月17日付の手紙[1])この1846年は、ドストエフスキーが文壇にデビューした年であり、1月に『貧しき人びと』、そして2月に『分身』、10月に『プロハルチン氏』が発表されている。しかし、『貧しき人びと』以降の2つの作品については本人の期待と意気込みに反して、あまり評判が良くなかった。そこでなんとかして自分の名声取り戻したいと必死になっている様子がこの文面からも伺える。結局雑誌掲載までは、それから約2年余りを要したことになるが、不運なことにドストエフスキーは政治的事件(ペトラシェフスキー事件)に連座したため、途中で筆を折ることを余儀なくされてしまう。逮捕後の1849年6月20日に弟アンドレイに監獄から宛てた手紙において、『祖国雑記』5月号に掲載された『ネートチカ・ネズワーノワ』の第3篇について、「僕のいない留守に、僕の知らないうちに掲載されてしまったので、僕はその校正刷りさえも見ていないような始末なのだ。僕は心配でならないのだよ。いったいどんな形で掲載したのかそれにあの長篇を妙に歪めたりはしなかったかと思ってね! だからぜひその号を送ってくれないか。」(前掲書)と頼んでいる。しかし、この5月号に掲載されたものには作者ドストエフスキーの名前は検閲局により削除されていたのである。ドストエフスキーは、シベリア流刑後も結局この作品を書き継いで完成させることはなかったが、1860年に『著作集』が出版されるに際し、雑誌に発表された原稿に手を加え、現在のような中編作品としての体裁が整えられた。 「ネートチカ・ネズワーノワ」という名前は、日本語訳をすれば「名無しのなし子」と言ったような意味合いで、母親がつけた愛称である。本名は「アンナ」で作品中では「アンネッタ」とも呼ばれている。ネートチカの父親は彼女が2歳の時に亡くなり、母親はその後イェフィーモフという風変わりな音楽家と再婚する。ネートチカのこの継父に対する幼少期の痛ましいともいえる愛慕の情は、それに続く侯爵令嬢カーチャへの甘いうっとりとするような愛慕の情との対比を際だたせる役割を果たしている。そうした両極端ともいえる境涯を経てネートチカは、さらにカーチャの義姉に当たるアレクサンドラ・ミハイロヴナの家に引き取られ、そこで経済的・社会的には恵まれた家庭に見えるアレクサンドラ家の痛ましいともいえる夫婦の暗闘に触れることになる。激しく悩みながらも彼女はそれを受け止め、できればそのもつれた糸を解きほぐそうもがく。アレクサンドラ・ミハイロヴナを前にしてその夫ピョートル・アレクサンドロヴィッチとネートチカの間で繰り広げられるきわどい追及劇においても、すでにネートチカは堂々と渡り合えるほどに成長を遂げていたのである。もしこの作品が書き継がれていたら、カーチャとネートチカの再会後のドラマがどのようなものになったのか、非常に興味がそそられるところであるが、それは読者の想像に委ねるしかない。 あらすじ[編集] ネートチカ・ネズワーノワは、2歳の時に父が亡くなり、その後母が再婚したのはイェフィーモフという音楽家だった。このイェフィーモフは、ネートチカの母親が遺産として受け取った千ルーブリの金を当て込んで彼女と結婚したのであったが、結局その金もまたたくうちに使い果たして、家族は貧乏にあえいでいた。しかし、イェフィーモフはこつこつ働くどころか自分は音楽の天才だと称して自尊心ばかりが強く、オーケストラの楽士たちともすぐにトラブルを起こして、ろくな仕事にもつかず結局妻の細腕にすがりついているというありさまだった。イェフィーモフはもともとある地主のオーケストラのクラリネット奏者だったが、ある時からイタリア人の指揮者と仲良くなり、しばらく親しくしていたが、突然その指揮者が亡くなり、彼にバイオリンを遺してくれた。そのうえ彼はその指揮者からバイオリンを教わったらしく、いつの間にかバイオリンの腕前は驚くほどのものになっていたのである。やがて、彼は自分の力を世間に示すにはサンクトペテルブルクに出るしかないと思い、やっとのことでサンクトペテルブルクに出て、そこでバイオリニストのBという男と知り合う。Bはまじめで、ひたむきに自分の目標に向かって進んでいくタイプであったが、イェフィーモフの方はすでに若さを失い、目標すらも見失ってしまっているのであった。ただ、自分は音楽の天才であるというむなしい幻想、自己満足に溺れているに過ぎなかった。やがてイェフィーモフは飲酒に耽るようになり、バイオリンもしばらく手にすることもなく、次第に落ちぶれていった。そのうえBとも喧嘩して、彼に紹介されて入ったオーケストラも追い出されてしまったのである。ちょうど結婚して2年半の頃で、ネートチカは4歳半だった。それから長い間イェフィーモフは、職にもつかず妻に頼って細々と暮らしをしていた。 ネートチカの物心がついたのは10歳の頃であった。ネートチカは家では母に怒鳴られ、虐げられている継父のことが可哀想な受難者のように思え、いつしか継父のことを愛おしく思うようになっていた。彼女は自分の家の悲劇をすべて母のせいだとすら考えたのである。継父を喜ばせるためならなんだって彼女はするつもりだった。ある時Sというバイオリニストの演奏会の切符を手に入れるため、母親の給料の25ルーブリから15ルーブリをくすねて継父に渡そうとしたことすらあった。結局それは失敗したのだが、継父はBのとりなしもあって音楽好きの公爵から演奏会の招待状を受け取りその演奏会へ行くことができた。しかし、その演奏会へ行ったことによって結局継父イェフィーモフは破局へと導かれていったのであった。継父が演奏会から帰ってきたその夜に母は亡くなった。イェフィーモフは妻の霊前でバイオリンを弾くと、彼女を置いたまま娘とともに家をあとにした。しかし、娘は途中で母のところに戻ろうとするが、イェフィーモフはそのまま戻って来なかった。彼は天才Sの演奏を聴いて自分の身の程を思い知らされ、永遠に息の根を止められてしまったのである。母の死によって、もはや己を縛るものは何もなくなった彼は自由となり、自分で自分を裁こうとしたのであった。 ネートチカは、継父の後ろ姿を追いかけながら、失神して倒れた。気がついた時には柔らかいベッドの上であった。ネートチカが倒れたのは音楽好きの公爵邸の前で、貧乏楽士イェフィーモフの娘であることを知った公爵はその偶然の不思議さに心を打たれ、その娘を自分の子供達と一緒に育てようと考えたのである。継父イェフィーモフは結局あの直後に発狂し、病院に送られ2日後に亡くなったことをネートチカは知らされた。しばらくしてネートチカは元気を取り戻し、モスクワからやってきた公爵の娘カーチャと生活を共にすることになる。ネートチカは、初めて会った瞬間からカーチャのうっとりするような美しさに心を奪われてしまった。はじめのうちカーチャはネートチカに戸惑っていたが、やがてネートチカの思いを受け止め、2人はお互いを好きになっていった。しかし、2人のあまりの親密ぶりを心配した公爵は、やがて2人を遠ざけることにした。カーチャは再びモスクワの公爵家へ移され、2人は別れることになったのである。 ネートチカは、その後公爵夫人の先夫との間に生まれた娘アレクサンドラ・ミハイロヴナの家に引き取られることになる。アレクサンドラ・ミハイロヴナは財産もあり立派な官等のピョートル・アレクサンドロヴィッチという男と結婚していたが、その生活はどこか修道女のような沈んだものであった。彼女と夫の関係もなにかぎくしゃくしたものが感じられた。ネートチカは、この家の養女となりここで8年間過ごすことになる。アレクサンドラ・ミハイロヴナは、やがて夫との間に2人の子を儲けるが、彼女は自分の子供とネートチカを差別したりすることはまったくなく、娘として存分に愛してくれたのである。ネートチカは、その家でしっかりとした教育を授けられるが、やがて彼女はこの家の図書室から密かに本を持ち出して本の世界にどっぷりと浸かり、空想と幻想の世界に思い切り羽ばたいていった。しかし、偶然本の間に挟まれた手紙、それはアレクサンドラ・ミハイロヴナに宛てたある男性からの手紙だったが、それを読んだことでこの夫婦の間のただならぬ秘密を知ることになる。その手紙は、アレクサンドラ・ミハイロヴナへ向けた最後の別れの手紙だった。アレクサンドラ・ミハイロヴナはすでに結婚していたが、ある男と道ならぬ恋に陥り、それがたちまちのうちに世間の噂となり、アレクサンドラ・ミハイロヴナに向けて激しい非難が浴びせられた。しかし夫はそれを知った上で男に手を引かせ、アレクサンドラ・ミハイロヴナの名誉を守ろうとしたらしい。文面からその男がアレクサンドラ・ミハイロヴナの窮地を救うために自ら身を引くことが書かれていた。ネートチカはこの重大な秘密を知って激しく動揺した。そして運悪く図書室でまたその手紙を読んでいるところをピョートル・アレクサンドロヴィッチに見つかってしまい、彼はネートチカからその手紙を引ったくって一瞬手紙に目を通した。ネートチカは必死で彼にしがみついて、何とか手紙を取り戻した。 しかし手紙をめぐる2人の争いはアレクサンドラ・ミハイロヴナのいる場所に引きずり出された。アレクサンドラ・ミハイロヴナの前でピョートル・アレクサンドロヴィッチはネートチカに手紙について詰め寄る。ネートチカは手紙のことが自分にも、さらには夫にも知られることになればアレクサンドラ・ミハイロヴナは破滅してしまうに違いないと必死で手紙のことを隠そうとする。それに対してピョートル・アレクサンドロヴィッチは手紙のことを執拗に追及してくる。しかし、途中からピョートル・アレクサンドロヴィッチがこの手紙をネートチカの恋人からものと勘違いしているらしいことに気づく。そこで、ネートチカは夫に合わせるように、手紙は自分の恋人からの恋文であると嘘の自白をする。その結果なんとか秘密が暴かれることは避けられたのであるが、そこでの激しいやりとりによってもはや3人の関係は修復できないものとなっていた。ネートチカは、その直後ピョートル・アレクサンドロヴィッチのところへ行き手紙を渡し、それがネートチカへの恋文ではなくアレクサンドラ・ミハイロヴナ宛ての手紙であることを伝える。夫の虚栄心と嫉妬に狂ったエゴイズムによりアレクサンドラ・ミハイロヴナがどれほど苦しんでいたか、それを夫に分からせるとともに自分はすっかりそれを見抜いていることを伝えるために。 登場人物[編集] ネートチカ・ネズワーノワ 物語の主人公でアンナが本名、アンネッタとも呼ばれる。 イェゴール・ペトローヴィッチ・イェフィーモフ ネートチカ・ネズワーノワの継父。貧乏楽士。 ネートチカ・ネズワーノワの母 名前不詳 音楽好きの地主

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