Month: July 2020

李敏 (1924年生) – Wikipedia

2010年、ロシアのメドヴェージェフ大統領と。前列左から王立平(第88旅団戦士)、李敏、メドヴェージェフ、李敏(同姓同名、毛沢東の娘)、劉愛琴(劉少奇の娘) 李 敏(リ・ミン、朝鮮語: 리민、1924年11月5日 – 2018年7月21日)は、中華人民共和国の女性政治家。朝鮮族。中国人民政治協商会議黒竜江省委員会副主席などを歴任した。黒竜江省長を務めた陳雷は夫。もとの名前は李 小鳳、李 明順。 1924年11月5日、黒竜江省蘿北県(現ジャムス市湯原県)梧桐河村に生まれた[1]。家族は朝鮮黄海道鳳山郡(現黄海北道銀波郡)の出身だった[1]。1931年、梧桐河村へ派遣されてきた崔石泉(崔庸健)が設立した松東模範小学校で学び、レーニン主義児童団に加入した[1]。同じく梧桐河村に暮らしていた李在徳によれば、崔石泉は中国共産党の方針に従って農村青年会や婦女子会などを組織し、党組織を作り上げて青年党員らに軍事教練を施した[2]。 1936年冬、12歳で父について東北抗日連軍(抗連)に参加した[1][3]。幼い李敏は初めのうち炊事班や被服廠、臨時医院などで非戦闘員として働いた[1][3]。1937年秋には中国共産主義青年団員、1939年1月には中国共産党員となり[1]、小銃や機関銃の射撃、乗馬の経験を積んで戦闘員として任務を実行できるようになっていった[3]。1937年から1938年頃にかけては日本軍との戦闘が激しく、李敏の父や兄はこの頃戦死しており、1938年夏の完達山(中国語版)地区における戦闘では、部隊が全滅して斥候任務についていた李敏や他の女性戦士だけが生き残ったということもあった[4]。 1940年秋、部隊のソビエト連邦領内への退避に従い、ハバロフスク近郊のヴャツコエに置かれた野営地で医療や無線技術を学んだ[1]。1942年8月に抗連部隊がソ連軍第88特別旅団に改編されると、通信大隊員や政治教員、大隊党支部副書記などを務め、3年連続で優秀な戦士として表彰を受け准尉まで昇進した[1]。 兄の友人だった陳雷と結婚したのは1943年のことである[3]。朝鮮人である李敏と中国人である陳雷の結婚には反対の声が大きく、陳雷が抗連内の少数派である趙尚志(中国語版)派に属するものと知られ[4]、地主階級出身で、自己批判を迫られ党を除名されていたからなおさらだった[3]。しかし、金正淑が同情して夫の金日成に話し、金日成が中国人幹部らを説得したため、李敏と陳雷の結婚は無事に許可された[3]。1943年の大晦日、二人は崔光、金玉順夫妻とともに結婚式を挙げた[3]。 1945年8月、ソ連軍の対日参戦の後、李敏と陳雷は第88旅団の第一陣として東北へ帰還することになった[1]。中華人民共和国の建国後、李敏と陳雷は黒竜江省の要職を歴任したが、文化大革命の時期には迫害を受けた[1]。陳雷は「反革命分子」「走資派」「特務」などのレッテルを貼られて7年間投獄され、李敏も「朝鮮特務」のレッテルを貼られて5年間投獄された[4]。李敏は「下獄していたこの期間がとても苦痛だった」と回想している[4]。名誉回復後、1987年から黒竜江省政協副主席を務め、1993年に引退した[1]。 1983年と1992年には陳雷とともに朝鮮民主主義人民共和国を訪れ、金日成に歓待された[4]。1992年4月の訪朝時には存命だった抗連、第88旅団の女性隊員とも再会しており、この時のことを後に回想して「男の同志は酒と煙草のせいで短命だったが女の隊員はほとんど生きていた」と笑っている[4]。金日成の死後の1994年7月と1998年9月にも訪朝し、金日成の子の金正日に歓待された[3]。2018年7月21日、ハルビン市で死去[1]。

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内村直也 – Wikipedia

この項目では、劇作家について説明しています。柔道家については「内村直也 (柔道)」をご覧ください。 内村 直也(うちむら なおや、1909年8月15日 – 1989年7月27日)は、劇作家。本名:菅原実(すがわら みのる)。実業家・劇作家の菅原卓は兄である。妻の富子は安川敬一郎の孫[1]。 東京生まれ。1932年、慶應義塾大学経済学部卒[2]。岸田國士に師事し、雑誌『劇作』同人となり、1935年に処女作「秋水嶺」を発表、築地座で上演された。戦後の作品として『雑木林』(1948年)、「遠い凱歌」(1956年)などがある。NHKの連続ラジオ劇「えり子とともに」(1948年 – 1951年)の脚本ならびに劇中歌「雪の降るまちを」の作詞で広く知られている。また、日本の民間放送で初のテレビドラマとなった「私は約束を守った」(日本テレビ、1953年)や、「追跡」(NHK、1955年)をはじめ、初期のテレビドラマでも多く作品を発表した。そのほか西洋戯曲の翻訳、編纂、放送劇方法論、話し言葉論、少女小説など多方面に活躍し、国際演劇協会日本センター長を務めるなど戦後新劇界の重鎮だった。歌手・高美アリサの名付け親でもある。 秋の記録 戯曲集(能楽書林、1949年) 跫音 ラヂオ・ドラマ集(世界文学社、1949年) えり子とともに 1-6(宝文館、1950年 – 1951年) えり子の風(実業之日本社、1951年)

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フルスト原遺跡 – Wikipedia

フルスト原遺跡(フルストばるいせき)は、沖縄県石垣市大浜にある遺跡。1978年(昭和53年)3月3日に国の史跡に指定されている[1]。 フルスト原遺跡は、石垣島南部の大浜地区に位置する。宮良湾を望む標高約25m、丘陵東側の高さ約20mの丘陵上にあり、史跡としての指定面積は、12.3ha。周囲に珊瑚性石灰岩(琉球石灰岩)を野積みした石壁を巡らし、敷地内には15基の郭状の石塁遺構、古墓、御嶽跡などが確認されている[2][3]。敷地からは、中国製陶磁器や八重山焼の破片が出土している[1]。 石塁遺構は、城(グスク)の特徴を備えているとも考えられるが[1]、生活用品が多数出土する一方、武器が見当たらないことなどから、近年の研究では屋敷囲いの石垣としての性格が強いと考えられている[3]。 古くからオヤケアカハチの居城跡であると言い伝えられてきた[4]。オヤケアカハチは、15世紀に八重山列島に割拠した豪族のひとりで、大浜を本拠としたが、1500年にオヤケアカハチの乱を起こして琉球王国の尚真王に討伐され、以後、八重山列島は琉球王国の支配下に入った。 フルスト原遺跡をオヤケアカハチの居城とする史料はないが、オヤケアカハチが住んだとされる大浜地区には他に城跡が発見されておらず、琉球王国の歴史書である『球陽』においてオヤケアカハチが「嶮岨を負い、大海に面して」陣を構えたとする描写がフルスト原遺跡に当てはまることから、その可能性は充分にあると考えられている[1]。ただし、近年の発掘で遺跡の存続年代は14世紀から16世紀後半とみられており、この遺跡はオヤケアカハチが活動した15世紀後半以前から存在していたことが分かっている[5]。 フルスト原遺跡の石塁遺構は、第二次世界大戦中に隣接する海軍石垣島南飛行場(通称平得飛行場。後の石垣空港)の爆弾痕を埋めるために持ち出されたり、畑に利用されたりする等されていたが、発掘調査で石積みの基礎部分が確認され、1992年からの保存修理事業によって、15基中7基の石積みが復元された[6]。また、2016年度から、崖下にインフォメーション広場、駐車場、芝生広場を備えた広場の整備が行われている[7][8][9]。 石垣空港は、2013年に新石垣空港の開港に伴い供用廃止され、跡地の再開発が計画されている。空港跡地のうち、この遺跡の南側に隣接する旧空港北東部は「歴史・文化ゾーン」とされ、博物館や石垣市伝統工芸館の移転等が予定されており、フルスト原遺跡と一体的に整備することが計画されている[10]。 アクセス[編集] 遺跡北側の幹線道路(市道タナドー線)から直接車で入ることが可能。ただし、進入路が舗装されていないので、見学の際には注意が必要である[3][2]。 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

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カルメン・モントン – Wikipedia

この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はモントン、第二姓(母方の姓)はヒメネスです。(Template:スペイン語圏の姓名) スペインの政治家 カルメン・モントン Carmen Montón 生年月日 (1976-03-09) 1976年3月9日(46歳) 出生地 バレンシア県ブルハソット(英語版) 出身校 バレンシア大学 所属政党 スペイン社会労働党(PSOE) ブルハソット自治体議会議員 在任期間 1999年7月4日 – 2004年5月14日 スペイン下院議員

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卑弥呼の庄 – Wikipedia

卑弥呼の庄(2011年)。左下がバイキングレストラン、中央が棚田、右上が倉橋ため池。溜池すぐ傍の公園は、卑弥呼の庄とは無関係 「大和さくらい」に売却される前の敷地。2008年5月撮影 地図 大和さくらい 卑弥呼の庄(やまとさくらい ひみこのさと)は、かつて奈良県桜井市倉橋にあった農業公園型テーマパーク。2010年(平成22年)3月に農業再生法人「大和さくらい」によって開設されたが、営業不振により僅か7か月後に閉鎖された。同年10月より債権者が設立した株式会社倉橋が運営者となり、くらはし農村公園 卑弥呼の庄(くらはしのうりんこうえん ひみこのさと)として再オープンするも、2012年(平成24年)5月30日に閉鎖された。桜井市との土地売買を巡るトラブルが問題視され、支払い能力のない事業者と安易な取引を行った市政が批判された[1][2][3]。 桜井市の倉橋ため池西畔の桜井市所有の面積3万1430平方メートルの遊休地が用地となった。この土地は山に挟まれた農業に不適な土地であったが、1994年(平成6年)に当時の長谷川明市長が大型公園用地として4億円以上を投じて先行取得したものの計画が頓挫し[4]、その後簡易保養施設を誘致しようとしたがこれも失敗に終わり[4]、以後は桜井市土地開発公社が保有する塩漬けの遊休地となっていた[3][4]。 倉橋ため池の南側には「倉橋ため池ふれあい公園」という市営公園が2005年に整備されており、溜池を眺められる浮見堂や親水設備、芝生広場などがある[5]。倉橋溜池を支える倉橋防災ダム近くには、崇峻天皇が葬られているとされる赤坂天王山古墳がある。 当初の計画[編集] 桜井市の目的は、この10年以上塩漬けになっている土地を民間に売却し、地域活性と農業復興に役立つ事業を実施させることであった[1]。桜井市の呼びかけに対して、愛媛県西条市の農業型テーマパークを数多く手掛けるファームの久門渡(ファームの創設者であり当時の社長)が応じ、久門渡が桜井市に現地法人として農業再生法人「大和さくらい」を設立し、久門自身が代表に就任した(ファームの社長は兼任する)。当初は、事業主体が株式会社ファーム、運営主体が「大和さくらい」という形態であり、「大和さくらい」が農業経営改善安定化計画及び農林業等活性化基盤施設設置事業計画を桜井市に提出した[3]。桜井市は経営には関与しない方針であった。 当初の構想では倉橋ため池を臨むおよそ4ヘクタールの土地を取得し、2ヘクタールを棚田として活用し、残りの土地にレストランを中心に、農産物を直売する市場や、和菓子などを製造する食品製造施設、大規模駐車場を設ける予定であった。後ほど、農産物加工のために、建物を追加で建設する計画もあった[6]。周辺農家とは古代米や雑穀などの栽培契約で作付け補償を行い、新しい付加価値農業を展開していくプランで[4]、2ヘクタールの棚田では古代米の栽培を行い、3年目で30ヘクタール、5年目で50ヘクタールまで拡大し、周辺農家の協力で全国に販売を拡大する計画だった[6]。これらの事業は、特定農山村法に基づく奈良県の許認可事業であり[7]、地区の農業振興や遊休農地の有効活用、観光の振興、雇用の創出が期待された。来場者は年間70万人を想定した[4](資料によっては50万人とも)。桜井市は「大和さくらい」へ、2億円で土地を売却する契約を結んだ。 ファームの離脱[編集] 資金として「大和さくらい」は6億円を金融機関から借り入れる予定だったが、予定した借り入れは出来なかった[6]。2009年8月、久門はファームの社長を解任される[6][注釈 1]。それに合わせてファームは本計画からの離脱を図り土地売買の連帯保証からの脱退を迫るが[6]、当時の谷奥昭弘市長はそれをあっさり認めてしまう[1][3]。これによって、本事業は「大和さくらい」による単独事業となってしまうが、市は特に対策を講じず、その後の推移を見守ることになった[8]。 施主は「大和さくらい」、設計はキタイ設計(滋賀県安土町)、施工は西上建設(堺市)、土地の造成は御所興産(御所市)が担当し、農林業等活性化基盤施設として2009年11月に着工された[9]。中心となるレストランは、木造平屋約1100平方メートル(室内500席、テラス300席)の大規模なもので[10]、バイキングレストラン「山の辺」と命名された。このレストランでは、古代米や大和野菜を使った料理を振舞うとされていた[11]。古代のチーズ「蘇」(そ)の実演販売や、売店、体験型ブース(万華鏡教室やバター作りなど)があった[11]。魚介類は、三重県熊野市から直送した[4]。うさぎ・やぎ・ひつじ・仔牛が飼育されるふれあいコーナーも設けられた他[11]、「卑弥呼トレイン」と呼ばれるミニ電車や、アーチェリー場、スワンボートなどもあった。入園は無料であり、施設内の販売収入で賄うモデルであったが、週末には園内で使用できる金券と引き換えに駐車料金を課金する時期もあった。バイキングレストランのテラス席からは、園内の棚田(計画の2ヘクタールから縮小され約1.3ヘクタール)を見下ろすことができた。 オープン後[編集] 2010年3月20日にオープン[11]。しかし予想された来場者数より実績数が大幅に下回る事態となり資金計画が頓挫した[3]。1日平均の来場者は1700人を予定していたが、来場者は予想の1/3以下の500人程度に留まった[1]。レストランは、古代米や大和野菜を使った料理を振舞うとされていたが、実際は洋食中心のメニューであった[12]。業績低迷を受けてレストランは地元の食材をつかった田舎料理も取り扱うように改善を行った[12]。また花火大会や地元出身演歌歌手の西本真詞を招聘してのイベントを開催した[12][13]。また夏場は営業時間を延長して20時30分までの営業とした[12]。またバスツアー会社に営業を行い、バスツアーに施設を組み込んでもらい、昼食を兼ねた休憩場所として施設を利用してもらうよう働きかけた[12]。時には北海道フェアを開催するなど、設立趣旨と乖離した運営を行った[12]。 土地代金滞納[編集] 桜井市と「大和さくらい」の土地の売買契約は、土地購入代金2億円を数年かけて5分割で支払う異常な契約であった[注釈

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住友財閥 – Wikipedia

住友財閥   創業家: 住友家 標章: 住友井桁マーク 住友財閥(すみともざいばつ)は、日本の三大財閥の一つ。世界で最も古い歴史を持つ財閥とされている。 始祖・家祖・業祖の3人がいる財閥のルーツ[編集] 世界財閥家系のなかでも最も古い歴史を持つ住友家だが、住友家の先祖は平家一門といわれ、桓武天皇の曾孫・高望王の二十二代目に備中守忠重が現れ、「住友姓」を称し、室町将軍に仕えたとされている。いわば、この武家である住友忠重が「始祖」ということになるのだが、住友家には、家祖と業祖と2つの創業者が存在する。 家祖といわれるのは、忠重から数えて八世にあたる住友政友(現在の福井県坂井市丸岡町出身)で、この人が武士から僧侶となり、そののち還俗して京都で書籍と薬を商う「富士屋」を開き、商家・住友家を興した。 業祖といわれるのは、政友の姉婿にあたる蘇我理右衛門で、この人は南蛮吹きといわれる銅精練の技術を開発し、天正十八年(1590年)京都に銅吹所を設けた。のちにこの銅吹所が住友家の家業となったので理右衛門を業祖と崇めた。政友には一男一女があり、一男・政以は父の商売「富士屋」を継ぎ、一女は政友の姉婿にあたる理右衛門の長男・理兵衛友以を養子に迎え、ここで「家祖」と「業祖」が結合する。しかも理右衛門の妻は政友の姉であるという密接な関係だったが、この代でさらに両家の血が結合したことから、住友二代目は友以が継いだ。 以後、住友家は代々「泉屋」の商号で銅銀商を営むことになる。なお、現在の三井住友銀行事務センター(大阪市中央区島之内1丁目)は「住友銅吹き所跡」に建てられている。 江戸時代[編集] 住友二代目友以は先見の明があり、商売を大きくするには京都では狭すぎると寛永元年に、商業の中心になりつつあった大坂へ出張所を出し、寛永7年には本式に大坂淡路町一丁目に移った。ちょうど江戸時代に入るころで、銅は当時一大輸出品であり、住友の銅精錬業は大いに栄えた。これが住友財閥の起源である。そして銅貿易に関与するようになり、その関係から糸、反物、砂糖、薬種等の輸入品を大坂・京都方面で売り捌くなど商業にも手をのばした。そして得た利益で両替商を開業するようになった。 住友二代目のあとを継いだ友以の五男・友信は住友吉左衛門と名乗り、秋田の阿仁銅山、備中の吉岡銅山などの経営に乗り出し幕府御用の銅山師となって日本一の銅鉱業者へと発展させる。一方で友以の末子の友貞は前述のお両替商を大坂と江戸で開始している。これが寛文2年(1662年)のころで住友家は江戸時代前期において鉱業と金融業を握るコンツェルンを確立し、慶応初期には住友は、日本の四大資産家の1つにあげられていた。ちなみに三井家が江戸に進出し「越後屋呉服店」を開いたのは延宝元年(1673年)で住友家より10年遅れてのことである。 幕府御用達となった友信以来、住友家当主は代々吉左衛門を名乗ることになるが、なんといっても住友財閥の大躍進の基となったのは、二代目吉左衛門友芳が元禄4年(1691年)に開発した愛媛県の別子銅山によってである。この別子銅山は昭和48年(1973年)に閉山されるまで、282年間にわたり銅を産出し続け、総産出量は銅地金として75万トンにおよび、住友のドル箱となった。その功績を称えた住友家では、この友芳を「中興の祖」としている。 明治時代[編集] 友以・友信・友芳の三代を通じて江戸期の住友家は興隆期を迎えるが、やがて明治維新を迎えるとき、一大危機に遭遇する。幕府のすべての決定と特権を廃止した新政府の法令によって、土地所有権と有用鉱物の採掘権は切り離された。慶応4年1月の薩摩藩による大坂鰻谷の銅蔵閉鎖、同年2月の土佐藩による別子銅山の差し押さえの異常事態となり住友は鉱山および銅蔵にたいする統制力を失った。銅山は幕府の財産であったために、銅蔵の莫大な銅備蓄は差し押さえられた。その対応を一歩誤れば、住友の経営は行き詰まることが必至であった。住友家の番頭広瀬宰平がその難局を乗り切り、住友の大阪本店における経営の実権は老分鷹原源兵衛、支配人今沢卯兵衛から広瀬の手に移り、広瀬は翌年の明治2年1月、「諸事更新」の方針を打ち出した。 広瀬のこうした企業者活動の基調には、ひとつは家業経営の再建や、その近代化を意図するところがあったが、それと同時に、国益志向性の強い経営理念がみられた。広瀬は別子銅山の関連事業を中心として経営の多角化を進めた。神戸における銅売捌出張所(明治4年)大阪富島町での並合業(倉庫業と金融業との兼営)の開始(明治6年〜7年の頃)、別子銅山の飯米確保のため大阪島屋新田・恩貴島新田の経営(明治11年)、京都・滋賀での製糸工場の設立(明治13年・20年)大阪製銅の設立(明治14年)、関西貿易社の創設(同年)、大阪商船の設立(明治17年)、神戸での再製茶業の開始(明治21年)、福岡県の庄司炭坑・忠隈炭坑の買収(明治26年・27年)などが相次いで実施された。こうした多角事的事業経営を支えたのは、いうまでもなく別子銅山の経営であった。 住友家法[編集]

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チェーザレ・ネグリ – Wikipedia

チェーザレ・ネグリ(1604年以前) チェーザレ・ネグリ(Cesare Negri、1535年または1536年 – 1604年以降)は、イタリア・ミラノ出身のダンサー、舞踊教師、舞踊理論家である。1554年頃からミラノで舞踊を指導し、40名を超える弟子たちがヨーロッパ各国の宮廷で舞踊教師となった[1][2]。ネグリは舞踊についての著述をまとめた最古の理論家として知られ、その著書は20世紀後半になってから英訳本が出版されている[1]。 ミラノの生まれ[1]。ネグリが生まれた頃のミラノは、ヨーロッパでの舞踊先進地であり、舞踊はエンターテイメントの頂点にあった[2]。実演家として、宮廷での催事やマスカラーデに出演していた[1]。ネグリは「ほら吹き」 (il Trombone) というあだ名で知られ、1554年頃からミラノで舞踊を指導し、多くの弟子を育成した[1][2]。ネグリの弟子たちはヨーロッパ各国の宮廷で舞踊教師となり、その数は40名を超えるという[1][2]。 彼は宮廷のために、大勢の出演者による寓意的なマスカラーデや幕間の劇を振り付けた[注釈 1][1][2]。1564年6月25日、ネグリは25台の2輪馬車を使用して人間の疑惑、欲望、恐怖などを象徴する大規模なマスカラーデの演出を手がけている[2]。 ネグリはその生涯中にヨーロッパ各地を旅した。レパントの海戦(1571年)では、カトリック教国の連合艦隊指揮官ドン・フアン・デ・アウストリアの乗艦のデッキでカトリック教国連合艦隊の艦長たちを前に踊った[2]。後にミラノでも、ドン・フアン・デ・アウストリアのために再度踊りを披露した[2]。アンリ3世がポーランドから王位請求のためにフランスへ旅だったときは、クレモナでネグリとその弟子による踊りを鑑賞した[2]。マジェンタでもアンリ3世はネグリたちの踊りを鑑賞した[2]。結局ネグリは、アンリ3世の旅にアルプスまでつき従っていった[2]。 ネグリから教えを受けた弟子たちは、ヨーロッパ各国に旅だって行った[1][2]。弟子たちはパルマ、ボローニャ、ケルンなどで王侯貴族に仕え、新たな舞踊を広めた[1][2]。ネグリとその教えを受けた弟子たちが広めた舞踊は、中世に流行した重厚で単調なバス・ダンス (Basse-Danse)[注釈 2]衰退の要因となった[2][3]。 晩年のネグリは、1602年に自叙伝『愛のグラチエ』 (Le Grazie d’Amore) を執筆し、この本はミラノで出版された[注釈

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クリスチーナ・アメージャン – Wikipedia

クリスティーナ・L・アメージャン(Christina L. Ahmadjian、1959年3月1日 – )は、アメリカ出身の商学者。専門は組織社会学。一橋大学大学院経営管理研究科教授。Ph.D.(カリフォルニア大学バークレー校)。三菱重工業取締役、住友電気工業取締役、日本取引所グループ取締役、アサヒグループホールディングス取締役、NEC取締役等も歴任。 ボストン育ち。父はアルメニア系アメリカ人植物学者、母はスウェーデン系アメリカ人の元レイセオンプログラマー。ハーバード大学で東アジア研究(中国)と北京語を専攻して卒業[1]。使用言語は英語、日本語、中国語。 半年間の台湾留学後[2]、エズラ・ヴォーゲル教授の勧めで大学から奨学金を受け来日。大阪市十三の英語学校教員を経て、東向日駅で知り合った三菱電機京都製作所のイギリス人女性秘書に誘われ、1982年、長岡京市の三菱電機京都製作所に契約社員として入社する[3]。入社後は通常の女性社員と同じ制服を着せられ、灰皿洗いやお茶出しの担当となる。アメリカからの来客があると、上司がクリスはハーヴァード出身だなどと自慢し、相手客の失笑を誘っていたという。また勤務先だった京都市では「ガイジン」などと言われ苦痛を感じたという。 三菱電機にいてもキャリアにプラスにならないと考えて2年で退社。スタンフォード大学経営大学院を修了しMBAを取得。1987年ベイン・アンド・カンパニーに入社するが、退社し、教授の勧めで、ジェームズ・リンカーン教授のいたカリフォルニア大学バークレー校ハース・ビジネススクール博士課程で経営学博士の学位を取得。また25歳で結婚した日本人男性(のちに離婚)との間にできた長女を、博士課程在学中に出産[4]。1995年コロンビア大学コロンビア・ビジネス・スクール助教授に就任した。 その後国際交流基金日米センター安倍フェローシップ・プログラム奨学金で東京大学客員研究員として再来日。東京は外国人であることを理由として奇異の目で見られることもなく住みやすいと感じていたところ、一橋大学でMBAプログラムが開設されることを知り、竹内弘高一橋大学教授と面会。2001年から一橋大学助教授、2004年から教授として教鞭を執る[5]。2013年には商学部の学生に留学等を行わせる渋沢スカラープログラムを立ち上げプログラムディレクターに就任[6]。また三菱重工業取締役、日本取引所グループ取締役なども務める。 社会的活動[編集] Handbook on International Corporate Governance (共著), Corporate governance in Japan

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トゥモローゲート – Wikipedia

トゥモローゲート株式会社TOMORROWGATE Inc. 種類 株式会社 市場情報 非上場 本社所在地 日本〒542-0086大阪府大阪市中央区西心斎橋1丁目6-32 アニーズビル2階 設立 2010年4月 業種 広告制作 事業内容 採用ブランディング事業 ブリッジメディア事業 就活イベント事業 セミナー・講演会・講習会等催事の企画・立案・実施 上記に付帯するその他の事業 代表者

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アヌラーダプラ・マハーヴィハーラ – Wikipedia

アヌラーダプラ・マハーヴィハーラ (巴: Anuradhapura Mahāvihāra、大寺(だいじ)) は、かつて、数世紀にわたってスリランカ仏教における上座部仏教の中心地であった僧院。デーワーナンピヤ・ティッサ王 (en、紀元前247–207年) が当時首都であったアヌラーダプラ(Anuradhapura)に開かせたのが始まりである。その法系を嗣ぐ宗派を「大寺派」(だいじは)と呼び、5世紀頃の仏音 (ぶっとん、ブッダゴーサ) などの僧侶たちによって確立されながら、現在の上座部仏教の直接の起源となっている。 他派との抗争[編集] 4世紀に、スリランカ上座部のアヌラーダプラ僧院(大寺)とアバヤギリ僧院 (en)(無畏山寺) の間で宗派間の争いがあり、それによってアヌラーダプラ僧院は破壊されたと『マハーワンサ』では述べられている[1]。アバヤギリの僧侶たちは、アヌラーダプラ僧院を討つようにマハーセーナ王 (en) を煽ったが、結果的には彼らもスリランカから追放されたとされる。 史実的には、その後12世紀に入り、当時の王であったパラッカマバーフ1世によって、大寺派が正統と認められ、他の二派が弾圧されたことで、スリランカの仏教は再び大寺派に統一されることになった[2]。 中国僧による記録[編集] 『マハーワンサ』の物語る伝統的な上座部の歴史記述は、5世紀初頭 (399年〜414年にかけて) インドとスリランカを訪れた中国の仏教僧、法顕の報告と相違する。『仏国記』(法顕が406年頃にスリランカで書き始めた詳細な旅行記)

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