Month: September 2020

バルトロメオ・ビアソレットー – Wikipedia

トリエステ市民植物園のビアソレットーの像 バルトロメオ・ビアソレットー(Bartolomeo Biasoletto、1793年4月24日 – 1859年1月17日)は、イタリアの薬剤師、植物学者である。 現在のクロアチア(当時はオーストリア=ハンガリー帝国)のボドニャンで生まれた。リエカやトリエステの薬局で働いた後、ウィーン大学で薬学を学び、1814年に卒業した。ヴェルスで1年間、薬剤師として働く間に植物学に興味を持ち、植物標本を作り始めた。1817年に、トリエステに戻り、自らの薬局を開いた。アドリア海沿岸やオーストリア各地の植物を調査していたドイツの植物学者、ダーフィット・ハインリヒ・ホッペと知り合い、協力して、新種植物の発見や科学論文を執筆し、植物学者としての評価を得た[1]。1823年にパドヴァ大学から学位を取得した。 その後も各国の植物学者とイストリアなどの植物調査を行った[2]。1833年に、ムツィオ・トマシーニとアドリア海沿岸地域(ヴェネツィア・ジュリア地域)の調査を行った[3].。1838年に博物学愛好家のザクセン王、フリードリヒ・アウグスト2世が指揮したイストリア、ダルマチア、モンテネグロの植物調査にトマシーニと参加し、1841年に報告書、”Viaggio di S.M. Federico Augusto re di Sassonia per l’Istria, Dalmazia e Montenegro“を執筆した。1828年にトリエステに植物標本館をつくり1831年まで館長を務めた。トリエステ市民植物園(Civico Orto

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徳永寿美子 – Wikipedia

徳永 寿美子(とくなが すみこ、1888年(明治21年)9月24日 - 1970年(昭和45年)2月5日)は、日本の児童文学作家。 山梨県甲府市出身[1]。本名はひさの[2]。1906年(明治39年)に東京府立第二高等女学校(現東京都立竹早高等学校)卒。夫の前田晁は山梨市の出身で小説家・翻訳家、『文章世界』編集者を務めた人物。 子に即興の話をせがまれたことから童話を書くようになる[3]。1921年(大正10年)には最初の作品集である『薔薇の踊子』を刊行し、以来母子の愛情を主要なテーマとした作品群を発表し、「お母さん童話」と呼ばれた[4]。「フランダースの犬」を始め、翻訳も数多く手がける[5]。和歌や絵画も手がける。 『薔薇の踊子 童話』アルス 1921 『赤い自働車 童話集』金星堂 1923 『はなのをもいでがたり』かながきひろめかい 1923 『日本の母 感激実話』東学社 1938 『カタカナ童話集』川島はるよ絵 金の星社

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ランドロームジャパン – Wikipedia

株式会社ランドロームジャパンは千葉県と茨城県を営業基盤とするスーパーマーケット「ランドロームフードマーケット」を運営する企業である[1]。本社は千葉県船橋市三咲5丁目9番7号。 概要 旧社名が「スーパームラコシ」だった[1]ため、年配者や改称以前からの利用者の中には「ムラコシ」と呼ぶ人もいる(店舗の看板や沿道の案内看板に「ムラコシ」や「Murakoshi」と併記されている)。 他社が不採算店として閉鎖した小型店を継承して多店化を進めて売り上げを伸ばした一方で、自社の小型店を他社に売却して撤退するなど店舗網の再編を進めた[2]。 沿革 (この節の出典[3]) 1968年 – 「ムラコシ青果店」として創業。 1975年 – 「株式会社スーパームラコシ」設立(資本金100万円)。 1983年 – CGCグループに加盟[2]。資本金1600万円に増資。 1989年 – 資本金3200万円に増資。 1990年 –

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江ノ島 Southern All Stars Golden Hits Medley

サザンオールスターズ > Z団 > サザンオールスターズのディスコグラフィ > 江ノ島 Southern All Stars Golden Hits Medley この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “江ノ島 Southern All Stars Golden Hits Medley” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii ·

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マチャイアス (メイン州) – Wikipedia

マチャイアス(英: Machias、)は、アメリカ合衆国メイン州東部のワシントン郡に属する町であり、同郡の郡庁所在地である[4]。メイン州のダウンイーストと呼ばれるカナダとの国境と大西洋に近い位置にある。2010年の国勢調査では人口2,221 人であり、メイン州の郡庁所在地としては人口最少である[5]。町内にはメイン大学マチャイアス校と、町が所有する小さな公営空港であるマチャイアス・バレー空港がある。「マチャイアス」という言葉はパサマクォディ族インディアンの言葉で「悪い小さな滝」と訳すことができ、マチャイアス川のことを指している。アメリカ独立戦争の時に最初の海戦が起きた場所として知られている。 イングランド人が最初にマチャイアスのある地域に入って来たのは、1633年にリチャード・バインズが、現在マチャイアスポートのある場所に、プリマス・カンパニーのために交易基地を設立したときだった[6]。 マチャイアスへの襲撃、1633年[編集] 最初の拠点ができた時代はフランスとイングランドの間で激しい領土争いが起きていたときだった。フランス領アカディアの指揮官シャルル・ド・ラ・ツールが、ノバスコシアのポートロイヤルにあった首都から降って来て、守備隊6人のうち2人を殺し、他の者達をその商品と共に連れ去った[7]。その後の120年間、イングランドからもフランスからもこの地点を領土にしようという永続的な動きが無かった。 1704年、ベンジャミン・チャーチ少佐がここで、イギリス海峡のジャージー出身のジョン・ブレトゥーンと妻子、およびM・ラトルとその妻さらに3人の子供たちを発見して捕まえた。1734年、当時のマサチューセッツ湾直轄植民地総督のジョナサン・ベルチャーがこの地を訪れた。 1762年、干ばつのために干し草が不足し、スカボローのイザイア・フォスター、アイザック・ララヒー達が草を探してこの地を訪れ、湿地帯で大量の草を発見した。翌年大勢の人々がここに入植し、この場所の長所に親しむようになった。80人居た開拓者のうち少なくとも54人がスカボローの出身だった。彼らは植民地議会に開拓のためにこの近辺の払下げを請願し、それが1770年に認められた。1763年に住民となった者達の中に、サミュエル・スコットとシルバナス・スコット、T・D・リビーとG・リビー、S・ストーンとJ・ストーン、W・B・ララビーとJ・ララビー、D・ヒルとJ・ヒル、ダニエル・フォッグ、J・フォスターがおり、その大半はウェストフォールに入植した。またマンソン、フォスター、レビー、スコットたちはイーストフォールズに入った。1765年、モリス・オブライエンとその息子達が製材所2か所を建設した[6]。 1768年、スティーブン・ジョーンズが入植してきた。その息子は長い間、ワシントン郡の一般訴訟裁判所判事と検認判事を務めていた。1770年、他にも多くの者が入植し、イースト川とウェスト川沿いに幾つかの工場が、さらにミドル川沿いに1つの工場が建設された。 アメリカ独立戦争[編集] マチャイアスの海戦、1775年[編集] アメリカ独立戦争で最初の海戦はマチャイアスの海戦だった。作家ジェイムズ・フェニモア・クーパーはその著書『アメリカ合衆国海軍の歴史』の中で、この海戦のことを「海上のレキシントン」と呼んだ[8]。1775年6月、マチャイアスの町民がイギリスから宿舎用木材を要求されたのを断り、その後にマチャイアス港でマチャイアスの海戦が起きた。ジェレマイア・オブライエン大尉[9]とベンジャミン・フォスター大尉の指揮で開拓者達がイギリスの武装スクーナーHMSマーガレッタを捕獲した。 バーナム酒場、1911年 1776年のマチャイアス湾海図。マチャイアスの町は地図の上端。(現在のメイン州東部海岸あるマチャイアス湾。マチャイアス港はマチャイアス川が湾に注ぐ河口にある。マチャイアス港の上流(北)の支流西(左)にマチャイアス、東にイーストマチャイアスの町がある。ホームズ湾はマチャイアス湾北東の大きな部分であり、マチャイアス川河口の東にある) レキシントンとコンコードの戦いでそれらの町の人々が陸上での戦いを始めたように、マチャイアスの多くの人々は海上での独立の戦いを始めることになった。ボストンのイカボッド・ジョーンズ船長が休暇を得て、小さな船に食料を積んでマチャイアスに派遣した。それは木と材木を積んで戻って来るという条件が付されていた。そのスループ船をムーア大尉の指揮するイギリス武装スクーナーマーガレッタが護衛しており、5月9日にマチャイアスに到着して、4月におきたレキシントンでの流血沙汰に関する最初の情報をもたらした。この町の目立つ場所に町民が自由の柱を建て、その感情を知らしめた日から幾らも経っていないときだった。ムーア大尉はその柱の意味を知り、町を砲撃するという威嚇の下にその柱の除去を命じた。ジョーンズの影響力もあり、ムーアはその威嚇の実行を一日伸ばしに伸ばしており、その間に住民は事態を検討するために集会を数回開いていた。しかしその度に結論は柱を除去しないということになった。最後の集会が月曜日に開かれることになり、その前の日曜日に集会所での礼拝が終わるときにムーア大尉を捕獲する作戦が立てられた。しかしムーアは川の上流から武装した者達が渡って来るのを窓から見て、危険を察知し、開いた窓から飛び出し、自艦に逃げた。武装した開拓者の集団が川岸に達したとき、開拓地に向けてマーガレッタから数発の砲弾が放たれ、川を下って行った。 翌朝早く、ベンジャミン・フォスター、ジェレマイア・オブライエンおよびその熱烈な支持者である兄弟5人、さらにその他の者達が桟橋に集合し、ジョーンズの木材輸送用スループを捕獲した。このとき大声で呼んで町の男たちを船に呼び上げた。マーガレッタを捕獲する作戦が明かされ、臆病な者は岸で待っていることを認められ、大胆な者達でもマスケット銃を携えている者は数人に過ぎなかったが、他の者は熊手や斧を取り、川を下り、イギリスのスクーナーの攻撃に向かった。別の一隊が小さな沿岸用ボートで後を追った。彼らは湾の中でスクーナーを発見し、乗り移るために並走した。イギリス艦からは大砲、マスケット銃さらに手りゅう弾で攻撃があり、それによって数人が殺された。両艦は離れたが、6人兄弟の1人であるジョン・オブライエンのみが敵艦に乗り移っていた。数人のイギリス兵が直ぐに彼に発砲したが、どれも当たらなかった。続いて銃剣での攻撃を仕掛けてきたが、それが届く前にジョンは海に飛び込み、自分たちのスループに向かって泳いでいた。ジョンは濡れただけで特に外傷もなく船にたどり着いた。マチャイアス住民が持っていた唯一の大砲は防塁用のものであり、これをレールの上に載せて発砲したところ、破壊的な効果があった。マスケット銃による攻撃も効果があり、マーガレッタの上甲板が払われた。指揮官のムーアの他数人が倒され、両艦が再度接舷されると、指揮を執っていた士官が怯えて甲板下に逃げ、即座に乗組員が降伏した。 その後の6月26日、マサチューセッツ議会がこの事件の英雄たちに感謝の意を表する決議を行った。マーガレッタはアメリカ人に捕まった最初のイギリス艦になった。フォスターとジェレマイア・オブライエンは間もなく私掠船に雇われ、かなりの成功を収めた。 マチャイアスの町にはバーナム酒場があり、マチャイアスの海戦の記念品を収める博物館となり、国定歴史史跡に指定されている。アメリカ独立戦争の記念として指定されている21軒の家屋の1つである。 第二次マチャイアスの海戦、1777年[編集] マチャイアスの町は直ぐに攻撃的となり、ニューブランズウィックやノバスコシアの愛国者を支援するための遠征が計画された。ノバスコシアの総督はこの危険な町を潰す必要があると考え、1777年、その目的でジョージ・コリアー海軍代将に4隻の艦船を指揮させ、80名の海兵を派遣した。この船隊は8月初旬に湾に到着し、海沿いの工場1つ、家屋2戸、納屋2軒、警備小屋1軒を燃やした後、下流で略奪を行い、マチャイアス滝から半マイル

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スタンリー・ウィッティンガム – Wikipedia

マイケル・スタンリー・ウィッティンガム(Michael Stanley Whittingham、1941年12月22日 – )は、イギリス、アメリカ合衆国の化学者。 現在、ニューヨーク州立大学ビンガムトン校の材料研究所(Institute for Materials Research)と材料科学および工学プログラムの両方で長を務めている。また、ビンガムトンにある米国エネルギー省エネルギーフロンティア研究(EFRC)センターである北東エネルギー化学貯蔵センター(NECCES)のセンター長も務めている。2019年に吉野彰、ジョン・グッドイナフとともにノーベル化学賞を受賞した[1][2]。 今日携帯電話から電気自動車まで広く使われているリチウムイオン電池の開発の歴史において重要な人物である。1970年代に初めてインターカレーション電極を発見し、1970年代後半には充電式電池のインターカレーション反応の概念を完全に記述した。高出力密度、高可逆性リチウム電池におけるインターカレーション化学の使用の概念に関する原特許を持っている。1977年に最初の充電式リチウムイオン電池を発明し、特許を取得し、Exxonへ譲渡している。彼のリチウム電池に関する研究はその後起こる発展の基礎を築いた。それゆえ、充電式リチウム電池の創始者(Founding Father)と呼ばれている[3]。 教育・経歴[編集] 1941年12月22日にイングランドのノッティンガムに生まれる[4][5]。1951年から1960年までリンカンシャーのStamford Schoolで教育を受け、オックスフォード大学New Collegeに進み化学を学んだ。オックスフォード大学でBA (1964)、MA (1967)、DPhil (1968)を取得した[6]。卒業後にスタンフォード大学のポスドクとなった[7]。その後Exxon Research &

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三田洞駅 – Wikipedia

三田洞駅(みたほらえき[1])は、かつて岐阜県岐阜市にあった、名古屋鉄道高富線の駅。 法華寺(三田洞弘法)の最寄り駅であり、賑わったという。 1913年、高富線が長良軽便鉄道の路線として開業したのに合わせて開設された。開業時の駅名は土橋駅(どばしえき)であったが、翌年には三田洞駅に改称したことが発表されている。このとき、それまで三田洞駅と称していた隣の駅は上岩崎駅に改称した旨も同時に発表されている(上岩崎駅は1938年に廃止)。開業当初は駅員が配置されていたが、戦後間もなく無人駅となっている[2]。 モータリゼーションが進展する中、高富線は路線や車両の改良が進まず、輸送力が貧弱であったために1960年に路線バスに転換され廃止[3]、当駅も廃駅となった。 島式1面2線の乗り場が設けられ、交換設備も存在した。通常、高富線は当駅で列車交換を行っていた[9]。 名古屋鉄道 高富線 戸羽川駅 – 三田洞駅 – 粟野駅 1938年までは隣の戸羽川駅との間に上岩崎駅(かみいわさきえき)が存在した[10]。 ^ 『名古屋鉄道百年史』884頁では「みたぼら」。 ^ 『岐阜のチンチン電車 岐阜市内線と美濃町・揖斐・谷汲線の85年』郷土出版社、1997年、142頁。 ISBN 4-87670-097-4。 ^

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クリストッフェル記号 – Wikipedia

リーマン幾何学において、クリストッフェル記号(クリストッフェルきごう、英: Christoffel symbols)またはクリストッフェルの三添字記号(クリストッフェルのさんそえじきごう、英: Christoffel three index symbols)とは、測地線の微分方程式を表すにあたってブルーノ・クリストッフェル (1829–1900) によって導入された記号を言う[1]。 クリストッフェル記号には第一種記号 [jk,a]{displaystyle left[j;k,aright]} と第二種記号 {ijk}{displaystyle left{{{i} atop {j;k}}right}} の二種類がある[2]が、基本的には第二種記号のことを意味する。 リーマン幾何学においては、n 次元多様体と呼ばれる空間上にある曲線

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福王寺 (広島市) – Wikipedia

福王寺(ふくおうじ)は、広島県広島市安佐北区可部町綾ケ谷にある、真言宗御室派の寺院である。 寺伝によれば、811年ないし828年、空海(弘法大師)の開基という。寺の縁起によれば、空海が山中に不思議な樹木を見つけ、その枝と根を残したまま不動明王の像を彫った折に、池の中から金色の亀が現れたことから、この寺を金亀山福王寺と名付けたとされる。 可部荘は大治2年(1127年)、高野山(開祖は空海)に寄進されている。また、1977年に焼損した不動明王像(立木仏)は平安時代後期から鎌倉時代の作と見なされることから、実際の創建は平安時代後期である可能性が高い[1]。 寺は安芸武田氏の武田氏信によって復興、後には毛利氏の庇護を得て最盛期は2000石程の寺領を持つ大寺院となったが、その後の広島藩主福島正則の頃に衰退。浅野氏の頃に現在見られるような寺院へと復活を遂げた。江戸時代中期の1779年(安永8年)には火災に見舞われ、この時に金堂等を焼失している。 山門(仁王門) 中央の通路を挟んで左右に一対の金剛力士像を安置する。安土桃山時代、毛利氏の保護下にあった頃の建築で、福王寺に現存する最古の建築物。 金堂(本堂) 1977年9月、落雷による火災が発生し。旧金堂を焼失。現在の金堂は1982年に再建された。寺に代々伝わる空海作とされる不動明王像は、この時の火災で炎上し、修復された後に新しい不動明王像の胎内仏として安置されている。 阿弥陀堂  1851年の再建で、阿弥陀如来像を安置。また回廊を左右に配し、金堂、客殿へと繋がっている。 熊野三社 1707年に再建。権現造りで、銅板を使って屋根が葺かれている。左右には稲荷堂、金比羅堂がある。 武田氏信の供養塔 安芸武田氏の当主で佐東銀山城の初代城主でもある、安芸守護武田氏信の功績を称えて建てられた。 燈明杉 市指定天然記念物で江戸時代の地誌『芸藩通志』にも記載されている。元は5本の杉が立っていたが、現在は4本となっている。 金亀池 空海が金色の亀を見つけたとされる池。現在でも亀がいるが、ニホンイシガメという一般的な日本在来種の亀である。 霊水 福王寺境内に湧く水は霊水として珍重されている。

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