マチャイアス(英: Machias、)は、アメリカ合衆国メイン州東部のワシントン郡に属する町であり、同郡の郡庁所在地である[4]。メイン州のダウンイーストと呼ばれるカナダとの国境と大西洋に近い位置にある。2010年の国勢調査では人口2,221 人であり、メイン州の郡庁所在地としては人口最少である[5]。町内にはメイン大学マチャイアス校と、町が所有する小さな公営空港であるマチャイアス・バレー空港がある。「マチャイアス」という言葉はパサマクォディ族インディアンの言葉で「悪い小さな滝」と訳すことができ、マチャイアス川のことを指している。アメリカ独立戦争の時に最初の海戦が起きた場所として知られている。 イングランド人が最初にマチャイアスのある地域に入って来たのは、1633年にリチャード・バインズが、現在マチャイアスポートのある場所に、プリマス・カンパニーのために交易基地を設立したときだった[6]。 マチャイアスへの襲撃、1633年[編集] 最初の拠点ができた時代はフランスとイングランドの間で激しい領土争いが起きていたときだった。フランス領アカディアの指揮官シャルル・ド・ラ・ツールが、ノバスコシアのポートロイヤルにあった首都から降って来て、守備隊6人のうち2人を殺し、他の者達をその商品と共に連れ去った[7]。その後の120年間、イングランドからもフランスからもこの地点を領土にしようという永続的な動きが無かった。 1704年、ベンジャミン・チャーチ少佐がここで、イギリス海峡のジャージー出身のジョン・ブレトゥーンと妻子、およびM・ラトルとその妻さらに3人の子供たちを発見して捕まえた。1734年、当時のマサチューセッツ湾直轄植民地総督のジョナサン・ベルチャーがこの地を訪れた。 1762年、干ばつのために干し草が不足し、スカボローのイザイア・フォスター、アイザック・ララヒー達が草を探してこの地を訪れ、湿地帯で大量の草を発見した。翌年大勢の人々がここに入植し、この場所の長所に親しむようになった。80人居た開拓者のうち少なくとも54人がスカボローの出身だった。彼らは植民地議会に開拓のためにこの近辺の払下げを請願し、それが1770年に認められた。1763年に住民となった者達の中に、サミュエル・スコットとシルバナス・スコット、T・D・リビーとG・リビー、S・ストーンとJ・ストーン、W・B・ララビーとJ・ララビー、D・ヒルとJ・ヒル、ダニエル・フォッグ、J・フォスターがおり、その大半はウェストフォールに入植した。またマンソン、フォスター、レビー、スコットたちはイーストフォールズに入った。1765年、モリス・オブライエンとその息子達が製材所2か所を建設した[6]。 1768年、スティーブン・ジョーンズが入植してきた。その息子は長い間、ワシントン郡の一般訴訟裁判所判事と検認判事を務めていた。1770年、他にも多くの者が入植し、イースト川とウェスト川沿いに幾つかの工場が、さらにミドル川沿いに1つの工場が建設された。 アメリカ独立戦争[編集] マチャイアスの海戦、1775年[編集] アメリカ独立戦争で最初の海戦はマチャイアスの海戦だった。作家ジェイムズ・フェニモア・クーパーはその著書『アメリカ合衆国海軍の歴史』の中で、この海戦のことを「海上のレキシントン」と呼んだ[8]。1775年6月、マチャイアスの町民がイギリスから宿舎用木材を要求されたのを断り、その後にマチャイアス港でマチャイアスの海戦が起きた。ジェレマイア・オブライエン大尉[9]とベンジャミン・フォスター大尉の指揮で開拓者達がイギリスの武装スクーナーHMSマーガレッタを捕獲した。 バーナム酒場、1911年 1776年のマチャイアス湾海図。マチャイアスの町は地図の上端。(現在のメイン州東部海岸あるマチャイアス湾。マチャイアス港はマチャイアス川が湾に注ぐ河口にある。マチャイアス港の上流(北)の支流西(左)にマチャイアス、東にイーストマチャイアスの町がある。ホームズ湾はマチャイアス湾北東の大きな部分であり、マチャイアス川河口の東にある) レキシントンとコンコードの戦いでそれらの町の人々が陸上での戦いを始めたように、マチャイアスの多くの人々は海上での独立の戦いを始めることになった。ボストンのイカボッド・ジョーンズ船長が休暇を得て、小さな船に食料を積んでマチャイアスに派遣した。それは木と材木を積んで戻って来るという条件が付されていた。そのスループ船をムーア大尉の指揮するイギリス武装スクーナーマーガレッタが護衛しており、5月9日にマチャイアスに到着して、4月におきたレキシントンでの流血沙汰に関する最初の情報をもたらした。この町の目立つ場所に町民が自由の柱を建て、その感情を知らしめた日から幾らも経っていないときだった。ムーア大尉はその柱の意味を知り、町を砲撃するという威嚇の下にその柱の除去を命じた。ジョーンズの影響力もあり、ムーアはその威嚇の実行を一日伸ばしに伸ばしており、その間に住民は事態を検討するために集会を数回開いていた。しかしその度に結論は柱を除去しないということになった。最後の集会が月曜日に開かれることになり、その前の日曜日に集会所での礼拝が終わるときにムーア大尉を捕獲する作戦が立てられた。しかしムーアは川の上流から武装した者達が渡って来るのを窓から見て、危険を察知し、開いた窓から飛び出し、自艦に逃げた。武装した開拓者の集団が川岸に達したとき、開拓地に向けてマーガレッタから数発の砲弾が放たれ、川を下って行った。 翌朝早く、ベンジャミン・フォスター、ジェレマイア・オブライエンおよびその熱烈な支持者である兄弟5人、さらにその他の者達が桟橋に集合し、ジョーンズの木材輸送用スループを捕獲した。このとき大声で呼んで町の男たちを船に呼び上げた。マーガレッタを捕獲する作戦が明かされ、臆病な者は岸で待っていることを認められ、大胆な者達でもマスケット銃を携えている者は数人に過ぎなかったが、他の者は熊手や斧を取り、川を下り、イギリスのスクーナーの攻撃に向かった。別の一隊が小さな沿岸用ボートで後を追った。彼らは湾の中でスクーナーを発見し、乗り移るために並走した。イギリス艦からは大砲、マスケット銃さらに手りゅう弾で攻撃があり、それによって数人が殺された。両艦は離れたが、6人兄弟の1人であるジョン・オブライエンのみが敵艦に乗り移っていた。数人のイギリス兵が直ぐに彼に発砲したが、どれも当たらなかった。続いて銃剣での攻撃を仕掛けてきたが、それが届く前にジョンは海に飛び込み、自分たちのスループに向かって泳いでいた。ジョンは濡れただけで特に外傷もなく船にたどり着いた。マチャイアス住民が持っていた唯一の大砲は防塁用のものであり、これをレールの上に載せて発砲したところ、破壊的な効果があった。マスケット銃による攻撃も効果があり、マーガレッタの上甲板が払われた。指揮官のムーアの他数人が倒され、両艦が再度接舷されると、指揮を執っていた士官が怯えて甲板下に逃げ、即座に乗組員が降伏した。 その後の6月26日、マサチューセッツ議会がこの事件の英雄たちに感謝の意を表する決議を行った。マーガレッタはアメリカ人に捕まった最初のイギリス艦になった。フォスターとジェレマイア・オブライエンは間もなく私掠船に雇われ、かなりの成功を収めた。 マチャイアスの町にはバーナム酒場があり、マチャイアスの海戦の記念品を収める博物館となり、国定歴史史跡に指定されている。アメリカ独立戦争の記念として指定されている21軒の家屋の1つである。 第二次マチャイアスの海戦、1777年[編集] マチャイアスの町は直ぐに攻撃的となり、ニューブランズウィックやノバスコシアの愛国者を支援するための遠征が計画された。ノバスコシアの総督はこの危険な町を潰す必要があると考え、1777年、その目的でジョージ・コリアー海軍代将に4隻の艦船を指揮させ、80名の海兵を派遣した。この船隊は8月初旬に湾に到着し、海沿いの工場1つ、家屋2戸、納屋2軒、警備小屋1軒を燃やした後、下流で略奪を行い、マチャイアス滝から半マイル
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