Month: January 2021

ウォーシップガンナー2 鋼鉄の咆哮 – Wikipedia

『ウォーシップガンナー2 鋼鉄の咆哮』(ウォーシップガンナー ツー くろがねのほうこう)は、コーエーから2006年に発売された第二次世界大戦期を題材にしたPS2用海戦アクションゲームで、鋼鉄の咆哮シリーズのPS2版第4作、Windows版も含めた発売順では第6作である。「WSG2」等と略される。ゲームシステムについてはシリーズ項目参照。 ストーリー[編集] 1939年3月、シベリア東部に存在する小国家ウィルキア王国で行われていた国防軍と近衛軍による総合大演習中に突如クーデターが勃発、反乱軍はウィルキア帝国を名乗って世界侵略を宣言する。国王と共に脱出したウィルキア海軍士官シュルツは、海軍大学時代の後輩クラウス・ヴェルナー、軍事顧問として派遣されていた日本海軍の鬼教官筑波貴繁(つくばたかしげ)、ドイツ共和国軍技術将校エルネスティーネ・ブラウンらと共に世界中の反帝国戦線を転戦し、帝国の野望の阻止と祖国奪還の為に闘う。 鋼鉄の咆哮シリーズではあるが、Windows版、PlayStation2版共々基本的なシステムは同じであったのに対し、本作だけはかなり独特なシステムとなっている。これは前作『鋼鉄の咆哮2 ウォーシップコマンダー』まではPlayStation2版はマイクロビジョンが主導で開発しており、これに加えWindows版の原作会社であるマイクロキャビンも開発協力で参加していた。しかし、今作は『亡国のイージス2035 〜ウォーシップガンナー〜』を開発していた「シェード」が手掛けており、マイクロキャビンはクレジット表記のみで関わっていないのが大きな要因と思われる。 『鋼鉄の咆哮2 ウォーシップガンナー』の正式な後継作である本作(ある任務中では「前作、「鋼鉄の咆哮2 ウォーシップガンナー」に〜」と紹介されている)は、PS2作品としては初めて潜水艦を設計・実戦投入することが可能となった(ただし、使用そのものが不可なステージも多い)。従来作品と比べてキャラクターも多数登場し、ストーリー性がかなり重視されているのが特徴。主人公の階級がストーリーの関係から少佐に固定されているため、功績を上げると功績勲章のランクが上がるようになっている(他のシリーズでは階級が上がる)。功績勲章の等級が上がるたびに後述する開発資金の割引が行われたり、新たな部品を開発できるようになる。 システム面では、前作ではなかった自動兵装が一部導入された(自動兵装が対象とするのはミサイル、魚雷、機雷、ロケット、敵航空機など)。またPS2完全オリジナルなので新たな超兵器も登場する。ミッションの進め方によって副官が選択され、ストーリーが分岐する(ウィルキアルート(ヴェルナー)、日本ルート(筑波)、ドイツルート(ブラウン))。装備部品の生産が今までのシリーズと違い、システムがWindows版鋼鉄の咆哮2-ウォーシップコマンダー-のような「特殊研究機関」のようになり、生産されるようになれば無限に生産できるようになった(所持数無限。ただし、一部は開発不可)。また生産を進めれば、なかなか手に入らなかったレアな部品が作れるので今までのようにステージで何回も拾わなくても、簡単に手に入る(しかしだいたいのレアな部品はステージで最低1つ手に入れなければならない)。設計システムや描画エンジンは亡国のイージス2035 〜ウォーシップガンナー〜から流用されている。航空機にはヘリコプター、VTOLが追加され、ヘリポートを搭載することでハリアーといった強力な航空機を運用することができる。特にアイテムコンテナを回収する能力を持つ「救助ヘリ」は重要な役割をになう(ただし、航空機の戦闘能力は前作より著しく弱体化されている)。 登場艦船は従来の駆逐艦・巡洋艦・空母・戦艦・航空戦艦に加え、『鋼鉄の咆哮3』から登場した潜水艦、さらにフリゲートが登場する。そして、従来の作品にあった日米英独の建造タイプを設定することがなくなり、開発すればどの国のタイプの部品も入手できるようになり、部品の組合せが非常に自由になった(例えば船体は日本型、前艦橋はアメリカ型、後艦橋はドイツ型という設計が容易にできる)。また、艦船の設計画面では艦旗も設定・変更できる。日米英独などの史実のもの(なおドイツ第三帝国旗もあるがハーケンクロイツは変更され、解説も架空のものとなっている)から主人公の属する架空の国家・ウィルキアの旗、国際信号旗、果ては鯉のぼりなどの意味不明のもの、「AFK」など意味不明ながらさまざまな特典がつくために妙に役立つものまで多種多様である。 前作ではWWIIモードが別にあったが今作ではなくなり、サバイバルモードに加え新たなモードが3つ追加された。 敵ユニットの攻撃システムにも大きな変更がある。従来の作品では7つ装備された兵装は、1種ごとに装填判定が行われていたが、今作では基数ごとに独立しているようで絶え間なく攻撃が続く。また前作までは7種類装備された兵装の内、5番から7番までは耐久力が半分を切らない限り使用できない、つまりボスの耐久力が減ると攻撃が強化されるというシステムであったが、今作では一部を除き最初から全兵装を使用してくる。 インフェルノ 与えられた課題をいかに早く達成するか競うモード ボスラッシュ

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ビリー・キルソン – Wikipedia

ウィリアム・アール・”ビリー”・キルソン(William Earl “Billy” Kilson、1962年8月2日 – )は、アメリカ合衆国のジャズ・ドラマー。「実力派ドラマー」と評されている[1]。 目次 1 経歴 2 ディスコグラフィ 2.1 サイドマンとしての参加 3 脚注 4 参考文献 キルソンは、ワシントンD.C.に生まれた。10歳でトランペットの演奏をはじめ、11歳でトロンボーン、次いで16歳でドラムスに転じた。1980年から1985年にかけてバークリー音楽大学に学び、1982年から1989年まで、アラン・ドーソン(英語版)の個人レッスンを受けた。その後、ウォルター・デイヴィス・ジュニアのヨーロッパ・ツアーに参加した。 これまでのおもな共演相手には、アーマッド・ジャマル(1989年)、ダイアン・リーヴス(1989年 –

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ルノー・ゾエ – Wikipedia

ゾエ( ZOE ) は、フランスの自動車製造会社、ルノーが生産するスーパーミニクラスの5ドアハッチバックタイプの電気自動車である。ゾエのリチウムイオンバッテリーパックは22 kWhの容量を持ち、ヨーロッパ域内での燃費基準であるNEDC(新欧州ドライビングサイクル)基準で210 km走行できるとしている[2]。2016年秋にマイナーチェンジしたゾエは、NEDC基準で400 km走行できるとしている[3] ルノーは以前にいくつかの異なるコンセプトカーでゾエの名前を使用している。最初は2005年に街乗り用のシティー・カー・コンセプトとして、次にルノーZ.E.の名前で2009年と2010年の2つの異なるバージョンの電気自動車のコンセプトカーとして公開されている。 2012年ジュネーヴ・モーターショーではライン生産直前のゾエが公開された[4]。 同年12月にフランス国内で顧客への納車が始まり[5]、2010年以降のフランス市場で販売された電気自動車ではトップとなる5,511台の累計販売台数を2013年12月までに記録した[6]。2013年の欧州市場の販売は8,792台[7]であり、フランス市場での販売がその内の62.7 %を占める[6][7]。世界市場では2014年1月時点で1万台の大台に乗せているが、その大部分は欧州市場での販売によるものである[8]。 コンセプトカー[編集] ゾエ・シティー・カー・コンセプト(2005年)[編集] ルノー・ゾエ・シティー・カー・コンセプト(またはZ17)は、2005年ジュネーヴ・モーターショーで、都市での使用に焦点を当てた3.45メートルの長い幌を持った3人乗りのオープンカー[9]として公開された[10]。この2005年モデルは、4年後の2009年に公開された電気自動車のモデルとは何の繋がりもない。 ゾエ・コンセプト(2009年)[編集] ゾエ・コンセプトは、2009年フランクフルトモーターショーで、ルノー・クリオ(日本名:ルノー・ルーテシア)と同クラスの電気自動車として、ルノーの未来像を見せる形で一般公開された[11]。(フロントに搭載されている)モーターと(シートの下に搭載された)リチウムイオン電池は96 PS(馬力)(71kW(キロワット)・95 bhp(英馬力))を出力する。約160 km(100マイル)に及ぶ航続距離と時速140 km(時速約90マイル)に達するスピードを持つと推定され、従来の電圧230

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新川橋 (吉川市) – Wikipedia

新川橋(しんかわばし)は、埼玉県吉川市大字川藤と同市大字須賀の間を流れる中川に架かる、吉川市道1-979号線[1]の道路橋である。 中川の河口からおよそ32.0 kmの地点に架かる[2]橋長89.30メートル、幅員11メートルの2径間鋼鈑桁橋である[1]。橋桁は黄系統の塗色である。歩道は下流側のみに設置されている。橋の西詰は丁字路になっている。 中川により分断された吉川市の大字須賀や大字川藤や大字川野の一部(西部地域[3])にとって、市の中心地との唯一の交通手段となっている橋である。橋の東詰は東京都道・埼玉県道67号葛飾吉川松伏線が中川の左岸沿いを通り、新川橋交差点が設置されている。建設中の東埼玉道路へのアクセス道路として将来架け替えもしくは大幅な改修が検討されている[4]。 昔の大落古利根川(現在の中川、以下古利根川)は西に大きく逆「S」の字を描くように蛇行して流れていた。その流路は吉川市と越谷市の境界とほぼ一致する。いつから設けられていたかは定かではないが、川藤村には江戸後期までに「榎戸渡し(さんこう渡し)」が、須賀村には『新編武蔵風土記稿』より見出せる「せきの渡し(せき舟の渡し)」と称される農耕用の作場渡しの渡船場が置かれ[注釈 1]、川を隔てた増森村(現越谷市大字増森)と往来していた[6][7][8]。これらの渡船場は後述の河川改修により廃止された[6]。 内務省が1915年(大正4年)から1928年(昭和3年)にかけて庄内古川や古利根川の河川改修を行った際に、蛇行した古利根川の流れに南北に直線的な捷水路が開削されたことで、旭村や吉川町(現吉川市)の一部地区が右岸側に取り残されることとなった[9]。当初は増森村を分断するように新流路が計画されたが、当村民からの激しい反発に遭い、現行の流路に計画が修正されている[10]。そのため、河川改修工事の際に右岸側に飛び地化された地域との往来を可能にすることを目的として、本橋が初めて架橋された[6]。1946年(昭和21年)の航空写真[1]によると河川に構造物(橋梁)が設置されていることが判る。なお、古利根川から現在の中川と称されるようになったのは昭和20年頃からである[11]。旧流路は昭和後期まで淵として残されていたが、その後埋め立てられている。河跡は道路の線形や、土地利用などから明瞭に判別できる。また、本橋の下流側で中川に合流する新方川の合流点付近は、古利根川の旧河道を流用したものである。 現在の橋は吉越橋の開通と同時期の1990年(平成2年)に架けられたものである[12]。 現在の橋の諸元[編集] 道路区分:市道(吉川市道1-979号線) 橋長:89.3 m 支間割:44.1 m+44.1 m 形式:連続鋼箱桁 完成:1988年(昭和63年)[13] 開通:1990年(平成2年) 管理者:吉川市 車道:片側1車線 左岸側は住宅地であり、右岸側は市街化調整区域で農地が多く見られる[3]。右岸側で堤防の築造や河川区域の拡張などの河川改修工事の実施に伴い、右岸沿いを通る取付道路の改修が行われている。本橋の上流側は古利根川と庄内古川(中川)の合流点がある。本橋の下流側に新方川と中川の合流点があり、逆三角形ワーレントラス形式の水管橋がある[14]。また、本橋のおよそ1.5 km[2]下流には吉川橋が架けられている。 (上流) – 庄内古川・古利根川合流点

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ガーンダーリー – Wikipedia

目隠しをしたガーンダーリーと盲目の夫ドリタラーシュトラ。 ガーンダーリー(梵: गांधारी, Gāndhārī[1])は、インド神話の女性である。叙事詩『マハーバーラタ』によると、ガンダーラ国の王スバラの娘で[2][3][4]、シャクニの姉[5]。クル族の盲目の王ドリタラーシュトラと結婚し、ドゥルヨーダナをはじめとするカウラヴァと呼ばれる100人の王子と、1人の王女ドゥフシャラーを生んだ[4][6]。 結婚[編集] 『マハーバーラタ』によると、ガーンダーリーは非常に美しい女性として知られていたが、それだけでなくシヴァ神から100人の息子を得るという願いを叶えてもらっていた。そこでビーシュマはスバラ王に使者を送り、ドリタラーシュトラとの結婚を申し入れた。スバラ王はドリタラーシュトラが盲目であったため躊躇したが、家柄の良さや名声などを考慮し、娘の結婚を承諾した。ガーンダーリは夫となる男が盲目であると聞き、夫に従順であろうとする一途な思いから、幾重にも折り重ねた布で両眼を覆った[7]。 出産[編集] ガーンダーリーとドリタラーシュトラの間には100人の王子が生まれたが、その誕生については奇怪な伝説が語られている(異常誕生譚)。結婚後ガーンダーリーは懐妊したが、それから2年もの間、子供は生まれなかった。そのうえガーンダーリーが大変に苦労した末に生まれてきたのは鉄のように固い肉の塊であった。この2年の間にクンティーはパーンドゥに優れた子供を生んでいたため、ガーンダーリーは悲観して肉塊を捨てようとしたが、ヴィヤーサ仙がやって来てガーンダーリーを止めた。ヴィヤーサ仙はガーンダーリーにギー(乳製品の一種)を満たした101個の瓶を用意させ、次に冷水を肉塊に注ぐよう言った。そこで冷水を注ぐと肉塊は親指の間接ほどの大きさの101個の塊に分かれ、それを用意した瓶に1つ1つ入れて保管した。すると肉塊は瓶の中で成長し、中から100人の王子と1人の王女ドゥフシャラーが生まれたという[8]。 この100人の王子たちは後にクル・クシェートラの大戦争でパーンダヴァ5兄弟と戦い、全員戦死した。 戦後[編集] 戦争後、パーンダヴァの長兄ユディシュティラがクル国の王として即位し、ガーンダーリーとドリタラーシュトラは15年の間パーンダヴァとともに平穏に暮らした[9]。その間、ドリタラーシュトラは自身の罪を償うために、食事は半日おきか1日おきに食べ、鹿皮の衣をまとい、クシャ(吉祥草)を敷いた上に座してマントラを唱え、夜は地面の上で眠っていた。ガーンダーリーもドリタラーシュトラに倣って同じことをしていた。しかしそのことを知らず、今なお怒りが消えないビーマは、2人にカウラヴァの死を思い出させる発言をした。その言葉を聞いたドリタラーシュトラとガーンダーリーは深く悲しみ、森に入って苦行することを決めた[10]。森へ赴いた際は、クンティーが眼を覆ったガーンダーリーのために手を引いて歩き、さらにガーンダーリーはドリタラーシュトラに肩を貸して歩いた。クンティーはまた彼らとともに森に入り、2人の世話をした[11]。 森での生活が1か月を過ぎた頃、ヴィヤーサ仙がやって来て、ドリタラーシュトラにどんな願いでも叶えてやろうと言った。ドリタラーシュトラは戦争で死んだ息子たちがどうなったのかを知りたいと言った。またガーンダーリーは戦争から16年が経った今も夫が息子たちの死を悲しみ続けているので、息子たちに一目会わせてほしいと言い、クンティーはカルナに会わせてほしいと言った。そこでヴィヤーサ仙は日没後、ガンジス川に入ってマントラを唱えた。するとカウラヴァとパーンダヴァのすべての戦死者が現れ、彼らの願いは成就された[4][12]。 その後、3人は2年にわたって森で厳しい苦行を続けたが、大火災が発生した際に自ら炎に焼かれて死に[13]、ガーンダーリーの魂はドリタラーシュトラの魂とともにクベーラ神の世界に昇った[4][14]。 ^ “Gandhari, Gāndhārī, Gandhārī, Gāndhāri, Gamdhari: 24

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クサヤモロ – Wikipedia

クサヤモロ(学名:Decapterus macarellus)はアジ科に属する海水魚である。地方名として、日本の伊豆諸島でのアオムロ、和歌山でのアオサギなどがある[1]。 群れているクサヤモロ。 最大で全長46cmに達したという記録がある[2]。細長く、頭部の側からみると円形に見える紡錘形の体型をしている[3]。小離鰭と呼ばれる、背鰭と臀鰭の後ろに分離した小さな鰭をもつ[4]。本種は背鰭に9本の棘と31から36本の軟条をもち、臀鰭(尻びれ)に7本の棘と27から30本の軟条を持つ[3]。 クサヤモロの鰭は光沢のある黒色から緑青色で、腹部は白色、背部は濃青色である[1][3]。鰓蓋の縁には小さな黒い斑があり[5]、側線上には斑は無い[6]。体側面には1本の青い線が入る[7]。本種の尾びれは赤味がかった色[6]、あるいは黄色から緑色と形容される[5]。 クサヤモロはほぼ全世界の海に生息している。西大西洋においてはカナダのノバスコシア沖やバミューダ諸島、南はリオデジャネイロ沖まで生息域を伸ばすが[8]、メキシコ湾ではあまりみられない[9]。東大西洋ではセントヘレナ島、アセンション島、カーボベルデなどの近海でみられる[10]。そのほかギニア湾や,[10]アゾレス諸島、マデイラ諸島からも記録がある[11]。インド洋では紅海やアデン湾、南アフリカやマスカリン諸島、セーシェル、スリランカの近海などで見つかっている[12]。東太平洋ではアラスカ州のレビジャヒヘド島(英語版)や、カリフォルニア湾、エクアドル沿岸などで発見されている[13]。西太平洋においては台湾やフィリピン、インドネシア、日本の伊豆諸島や南西諸島、小笠原諸島などに生息する[14]。 FAO(国際連合食糧農業機関)によれば本種の生息域は大西洋の北西部・北東部・中西部・中東部・南西部・南東部と、地中海、黒海、インド洋の東部・西部、太平洋の北西部・中西部・中東部・南西部である[3]。 クサヤモロは普通亜熱帯域に生息し、最も深くて水深400mでみられる[3]。澄んだ水を好み、しばしば島嶼の周辺でみられる[15]。本種は表層で発見されることが多いが、漁獲されるのは大抵水深40mから200mほどからである[16]。 クサヤモロは肉食魚で動物プランクトンや甲殻類、イカ、小魚などを捕食する[1][16]。体長20cmから30cmほどの小型個体は群れを作って生活する。産卵期は夏期と推定されているが、詳細は未だ不明である[1]。 人間との関係[編集] クサヤモロは漁業においても、釣りにおいても重要な種である[3]。本種は食用となるが、シガテラ毒を持つことがあることも知られている[17]。釣りの主対象となることもあるが、主にロウニンアジなどの大型魚類を釣る際の餌として狙われ、そのために用いられることが多い[3][18][19]。 日本の伊豆諸島では、小型個体を中心に定置網や棒受け網などによって漁獲され、特産品のくさやに加工される。本種をはじめとしたムロアジ類はマアジ類より脂肪が少ない理想的なくさやの原料であるが、特に本種はアジ類中最も美味であるとされる。くさや干物の他、刺身や塩焼きにも向く[1][14]。 ^ a b c d e “クサヤモロ”. 東京都島しょ農林水産総合センター.

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中村有里 – Wikipedia

「中村ゆり」あるいは「中村由利」とは異なります。 本名が同じタレントについては「椿彩奈」をご覧ください。 この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “中村有里” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年6月) この記事の出典や参考文献は、一次資料や記事主題の関係者による情報源に頼っています。信頼できる第三者情報源とされる出典の追加が求められています。出典検索?: “中村有里” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年6月)

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ヤッさん – Wikipedia

『ヤッさん』は、原宏一による日本の小説のシリーズ。 2016年7月22日、『ヤッさん〜築地発!おいしい事件簿〜』のタイトルでテレビ東京系でテレビドラマ化された[1]。 シリーズ一覧[編集] # タイトル 初出 書誌情報 収録作 1 ヤッさん 『小説推理』2009年2月号 – 2009年7月号 2009年11月1日発行、双葉社、ISBN 978-4-575-23675-02012年10月11日、双葉文庫、ISBN 978-4-575-51528-2 ホームレスのグルメ帳 ラブミー蕎麦 籠城レストラン 築地の乱

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量子ポイントコンタクト – Wikipedia

量子ポイントコンタクト(りょうしポイントコンタクト、QPC)とは大きな導体の間に挟まれた狭いくびれで、幅が電子波長(nm から μm )と同程度であるものを言う。 量子ポイントコンタクトはオランダのグループ(Van Wees他)ならびにイギリスのグループ(Wharam他)によって独立に実現された(1988年)。 目次 1 作製法 2 特性 3 応用 4 関連項目 5 参考文献 量子ポイントコンタクトを作製する方法は様々である。 ブレークジャンクション法を例にとると、導体を千切れる寸前まで引き伸ばせば破断点にポイントコンタクトが形成される。 それと比較すると、GaAs/AlGaAsヘテロ構造などで実現される二次元電子ガス(2DEG)を利用する方法はより構造制御が容易である。

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第4回帝国議会 – Wikipedia

第4回帝国議会(だい4かい ていこくぎかい)は、1892年(明治25年)11月29日に開会された大日本帝国の帝国議会(通常会)。会期終了は翌1893年(明治26年)2月28日。 経緯・概要[編集] 第1次松方内閣の首相松方正義は、第3回帝国議会閉会直後、後継に伊藤博文を推薦して辞意を表明した[1][2]。 しかし伊藤は簡単に引き受けようとはしなかった[2]。彼は、第2回衆議院議員総選挙に先立って明治天皇に奏上し、自分に政党を組織させてほしい、大成会を基盤として速やかに天皇主権の政党をつくり、自由民権運動の流れを汲む民党勢力と対抗する以外に内閣を支援する方法はないと切言したが、周囲からは妨害され、説得されて政党を率いる彼の願いは押さえ込まれた[2]。その一方で衆院選挙では流血をともなう選挙干渉がなされ、事後を解決すべき松方内閣も閣内不統一などの不安定材料をかかえて長続きしなかったので、彼は憤懣にたえない状態だったのである[2]。松方より後任に推薦されはしたが、伊藤は松方の真意を疑っていた[1]。そこで6月29日、三田の松方邸で元老会議が開かれ、そこで今後の基本方針が決定されることとなった[1]。伊藤は「黒幕勢揃」すなわち元勲総出でなければこの難局は切り抜けられないし、そうでなければ引き受けないと主張した[1][2]。 「明治政府末路の一戦」を訴える伊藤に対し、内心伊藤の風下に立ちたくない山縣有朋も最終的には応じ、井上馨、黒田清隆、大山巌とともに伊藤を含めた5元勲が新内閣に加わり、衆議院に影響力のある陸奥宗光、後藤象二郎、河野敏鎌も入閣した[2][3]。組閣は難航し、3週間もの迷走期間をともなったが、8月8日、ようやく第2次伊藤内閣が始動した[4]。 開会[編集] 第4回帝国議会の開会は11月29日に予定されていたが、その前々日の11月27日、伊藤首相は自身の乗った人力車が小松宮妃の馬車と接触する事故にあい、投げ出された伊藤は顔面を強打して重傷を負った[3]。前歯・犬歯が折れ、口の中を切り、脳しんとうの後遺症も負った伊藤は執務不能となった[3]。しばらくの間、井上内相が首相臨時代理となり、伊藤の回復まで黒田・山縣と3人で議会対策にあたることとなった[3][注釈 1]。 第4回帝国議会の衆議院議長は自由党の星亨であった[2]。政府は衆議院に歳出8,375万円の予算案を提出した[3]。星は政府の出した予算案に大なたをふるい、予算委員会は政府案の884万円を削減し、新規軍艦建造費は全額削除された[2][3]。 1893年に入って関係閣僚会議が開かれ、削減に応じる代わりに衆議院にも譲歩させるという、第1回帝国議会で採用されたような妥協案に固まりかけていたが、山縣は1つ譲歩すれば際限がなくなると反対した[3]。政府は、議会が甲鉄艦の予算を認めれば地租軽減に応じてもよいという考えだったが、議会の狙いは倒閣にあったので軍艦製造費復活の見込みはなかった[3]。そこで政府は交渉をあきらめ、貴族院に地租修正案を否決させ、衆議院とは対決姿勢で向き合うこととした[3]。伊藤と井上は書面で連絡をとりあい、衆議院との対決路線で一致することを約し、閣議での了承を得た[3]。 和衷協同の詔勅[編集] 「政府の智嚢(知恵袋)」と称された井上毅は、「治乱の機は、まさに今日にあり」として「非常の悪機会こそ非常の好機会」であると述べ、「今、何もしなければ将来どんな善後策を施しても無益」であるとの見解を示して、決定的瞬間が訪れたら詔勅を発して一挙に事態を打開すべきと献策した[5]。これは第三議会以来、井上毅が温めていた秘策であった[5]。政府が瀬戸際の状態に追い込まれた決定的瞬間こそ、非常の悪機会すなわち非常の好機会であった[5]。それが、1893年2月10日に出された「和衷協同の詔勅(和協の詔勅)」であった[5][注釈 2]。正式名称は「在廷ノ臣僚及帝国議会ノ各員ニ告ク詔勅」であり、政府にとっては奥の手であった[2]。具体的には、軍艦建造費として宮廷費の節約分と文武官の俸給の1割を出すので、議会も政府に協力せよとの天皇命令であった[2]。 この詔勅は絶大な効果を発揮して予算は成立し、こののち、民党第一党の自由党は「詔勅遵奉」の姿勢を示して政府に接近した[2]。また、自由党の主張の中身もまた民力休養論的なものから「対外硬」的内容へと変化していった[2]。国民協会も「詔勅遵奉」に同意した。改進党は、政府と行政整理を協議する委員会を設置することを条件に遵奉を決定、13日に改進党の提案が成立して河野広中・尾崎行雄・島田三郎・柴四朗ら9名が委員に選任された。そして、15日に星衆議院議長と蜂須賀茂韶貴族院議長が揃って明治天皇に対して「詔勅遵奉」を報答した。 予算については、再査定や費用科目の変更などを行った後、削減額を267万円(うち六十七条対象分は198万円)、新艦建造費は21万円だけ減らすこと、文武官俸禄献納額を148万円とすることで合意に達し、22日に修正された予算案が衆議院を通過、4日後には貴族院も通過した。 注釈[編集] ^ 図らずも、「元勲総出」がここで役に立った[3]。なお、暗殺された内閣総理大臣は何人かいるが交通事故で大きなケガをしたのは伊藤博文だけである[3]。 ^

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