Month: June 2021

ドゥドゥ・ヌグンブ – Wikipedia

ドゥドゥ・ヌグンブ(Doudou Ngumbu、1982年2月6日 – )は、フランスのプロボクサー。コンゴ民主共和国キンシャサ出身。 2007年3月10日、イゼール県エシロルでデビュー戦を行い、初回KO勝ちを収めデビュー戦を白星で飾った。 2008年12月13日、チェリャビンスクでセイフディン・バラホエフとWBCインターナショナルライトヘビー級王座決定戦を行い、7回2分37秒TKO勝ちを収め王座獲得に成功した。 2009年7月10日、ジェール県オーシュで自身の持つWBCインターナショナルライトヘビー級王座とチャールズ・チサンバの持つABUライトヘビー級王座を懸け対戦し、12回3-0(2者が120-107、120-108)の判定勝ちを収めWBCインターナショナル王座は初防衛、ABU王座獲得に成功した。 2009年10月31日、ケンプトン・パークのエンペラーズ・パレスでアイザック・チレンバと対戦し、12回0-3(113-118、113-115、112-117)の判定負けを喫しWBCインターナショナル王座は2度目、ABU王座初防衛に失敗し王座から陥落した。 2011年4月15日、ジェール県コンドンでモハメド・ベルカセムとABUライトヘビー級王座決定戦を行い、12回3-0(115-113、2者が116-112)の判定勝ちを収め2年ぶりの王座返り咲きに成功した。 2011年9月16日、ワルシャワのトルバルホールでWBCバルチックライトヘビー級シルバー王者でポーランドインターナショナルライトヘビー級シルバー王者のパヴェウ・グウァジェフスキと対戦し、10回1-2(96-94、2者が94-96)の判定負けを喫しWBCバルチックシルバー王座の獲得、ポーランドインターナショナル王座の獲得に失敗した。 2011年11月26日、ビャウィストクでアレクセイ・クジェムスキーとWBF世界ライトヘビー級王座決定戦を行い、12回3-0(2者が116-113、118-111)の判定勝ちを収め王座獲得に成功した。 2012年6月15日、ブーシュ=デュ=ローヌ県レ・ペンヌ=ミラボーでナジブ・モハメディと対戦し5回2分19秒TKO負けを喫し初防衛に失敗し王座から陥落した。 2013年3月16日、キエフのアイス・パレスでWBOインターコンチネンタルライトヘビー級王者ヴャチェスラフ・ウセルコフと対戦し、12回3-0(2者が115-113、116-113)の判定勝ちを収め王座獲得に成功した。 2013年7月5日、ヴァル=ド=マルヌ県ティエでイゴール・ミカルキンと対戦し、12回1-2(113-115、115-114、113-116)の判定負けを喫し初防衛に失敗、王座から陥落した。 2014年11月21日、シカゴのUICパビリオンでアンドルー・フォンファラと対戦し、10回0-3(2者が93-97、92-98)の判定負けを喫した[1]。 2015年11月14日、ブロヴァルィーのアイス・パレス“ターミナル”でWBOヨーロピアンライトヘビー級王者ウマル・サラモフと対戦し、12回0-3(111-117、2者が110-118)の判定負けを喫し王座獲得に失敗した。 2017年2月10日、オースト=フランデレン州ロースダールでWBCフランス語圏ライトヘビー級王者のビラル・ラグーンと対戦し、12回2-1(116-112, 115-113, 112-116)の判定勝ちを収め王座獲得に成功した[2]。 2017年12月2日、カンヌのラ・パレストレでIBO世界ライトヘビー級王者のイゴール・ミカルキンと対戦し、12回0-3(111-117、2者が112-116)の判定負けを喫し王座獲得に失敗した[3]。

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自見英子 – Wikipedia

自見 英子(じみ はなこ、1976年2月15日 ‐ )は、日本の政治家、医師、医学者。学位は医学士(東海大学医学部・2004年)。自由民主党所属の参議院議員(1期)。元厚生労働大臣政務官。本名は橋本 英子(はしもと はなこ)[1]。 父は元衆議院議員、参議院議員、郵政大臣、金融担当大臣などを歴任した、医師、医学者の自見庄三郎である。 長崎県佐世保市生まれ、福岡県北九州市育ち[2][3]。1988年3月、福岡県北九州市立霧丘小学校、1991年3月、明治学園中学校、1994年、ブルックライン高等学校(アメリカ合衆国マサチューセッツ州ブルックライン)、1998年8月、筑波大学第三学群(現・社会・国際学群)国際関係学類、2004年3月、東海大学医学部卒業。 卒業後、東海大学医学部付属病院初期研修医[3]。2006年、池上総合病院内科後期研修医[3]、2007年、東京大学医学部小児科入局・同附属病院小児科勤務[3]、2008年、青梅市立総合病院小児科[3]、2009年、虎の門病院小児科~現在(非常勤)[3]。 2010年から、父・自見庄三郎の議員秘書を2013年7月まで務める[4]。 2013年、NPO法人日本子育てアドバイザー協会理事[3]。2014年12月24日、第24回参議院議員通常選挙の日本医師会傘下の政治団体である日本医師連盟の組織内候補として擁立され[5]、2015年、自民党参議院比例区(全国区)支部長、日本医師会男女共同参画委員会委員、日本医師連盟参与、日本小児科医連盟参与、東海大学医学部医学科客員准教授となる[3]。 2016年7月10日の第24回参議院議員通常選挙で比例区から立候補し初当選した[6][7]。 2019年9月13日、 第4次安倍第2次改造内閣で厚生労働大臣政務官に就任[8]。 2020年1月、「新型コロナウイルスに関連した感染症対策に関する厚生労働省対策推進本部」本部長代理に就任。 2020年2月、新型コロナウイルス感染症の集団感染が起きたダイヤモンド・プリンセス号の現地対策本部でにおいて、厚生労働副大臣の橋本岳と2名で現場オペレーションを行った[9][10][11][12][13][14][15]。 同年10月29日、派閥総会で自見は志帥会への入会が了承された[16]。 主な役職[編集] 2015年

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一畑電車1000系電車 – Wikipedia

一畑電車1000系電車(いちばたでんしゃ1000けいでんしゃ)は、一畑電車が2014年(平成26年)に導入した通勤型電車である。 老朽化した3000系置き換えのため、東急1000系を譲り受けたものである。 東急テクノシステムで中間車を先頭車に改造のうえ2014年(平成26年)に2本、2015年(平成27年)に1本が導入された[1]。 一畑電車では5000系以来16年ぶりの新車両であり、「オールステンレス車体」「ワンハンドルマスコン」「シングルアームパンタグラフ」「VVVFインバータ制御」など、同社初の新機軸が数多く盛り込まれている。 車体[編集] 車体はビード補強付き軽量ステンレス製である。前面は中間車からの改造車であるため、種車の東急1000系の前面とは全く異なる形状となっており、左右対称の窓配置と中央部の貫通扉を模したデザインが特徴である。また、1003編成はライト類が角形から丸型に変更されたほか、前照灯はLEDに変更されている。非貫通型のため、連結運転時の通り抜けはできない。 スカートはスノープロウが付いた大きなものとなり、2編成の連結運行を考慮し、密着連結器と電気連結器を装備している。 行先表示器は前面・側面ともにLED式のものを搭載している。 入線時は各編成ともラッピングがされていない状態だったが、運行開始にあたり、1001編成と1002編成は投票で選ばれたデハニ50形をイメージしたオレンジに白帯のカラーのラッピングが、1003編成は外装に島根県のキャラクター「しまねっこ」を配した、「ご縁電車しまねっこ号Ⅱ」のラッピングが施された[2]。 中央を除く側扉には半自動ドアボタンが設置されており、始発駅ならびに途中駅での長時間停車時にはこの側扉の半自動扱いを行う。 車内[編集] 全編成とも車内は基本的に東急時代と同様であるが、ワンマン運転とバリアフリーに対応して整理券発行機・運賃箱・車椅子スペース・ドアチャイム・液晶ディスプレイが新たに装備されている。 走行機器[編集] 基本的に東急時代と同様であるが、台車は東急9000系の廃車発生品に交換されており、同時に元デハ1450形は電装解除されてクハ1100形となっている。主電動機は種車と同じTKM-88形を搭載しているが、1M1Tの構成に変更されたため起動加速度は2.34km/h/sに低下している。 ラッピング前の試運転 ご縁電車しまねっこ号Ⅱ 整理券発行機と半自動ドアボタン 第3編成と第2編成ライト形状が違う 1001編成と1002編成は2015年2月8日から運用を開始した。北松江線・大社線の全区間で、主に普通列車の運用に就いている。 なお、より多くの乗客に利用してもらうため、試験的に2015年2月26日から3月27日までの間、2100系に代わり特急「スーパーライナー」に充当された。その後、2016年にも再びスーパーライナーの運用に就いている。

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ニュークレープ – Wikipedia

ニュークレープは、浅井企画に所属する日本のお笑いトリオ。2008年4月結成。 メンバー[編集] ナターシャ(本名:中田 喜之(なかた よしゆき)、1986年11月7日 – )(35歳) 大阪府大阪市出身。立ち位置は中央。 血液型AB型。身長175cm、体重55kg。 大阪市立工芸高等学校プロダクトデザイン科出身。宝塚造形芸術大学中退。妹がいる。 芸名はリーダーが決めた。なおトリオ結成前に、久野恵介(握り拳)と「ラムネ時代」というコンビを組んでいた。 趣味は漫画・アニメ・音楽・映画・芸術鑑賞。特技はイラスト[1]。 2019年11月、同年4月に駅のホームから線路に人が転落し、電車が向かってくる中で線路に降りて人命救助を行った功績により東京都練馬区から区民表彰を受けた[2]。 中日ドラゴンズに所属していたプロ野球選手の木下雄介とは従弟に当たる[3]。 リーダー(本名:田辺 洋(たなべ ひろし)、1985年10月25日 – )(36歳) 広島県広島市出身。立ち位置は向かって左。

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クヴェモ・アジャラ – Wikipedia

クヴェモ・アジャラ ქვემო აჟარა 村 アブハジア自治共和国政府の本庁舎(2007年) クヴェモ・アジャラ クヴェモ・アジャラの位置 ジョージアの地図を表示 クヴェモ・アジャラ クヴェモ・アジャラ (アブハジア) アブハジアの地図を表示 座標: 北緯43度06分26.0秒 東経41度44分09.7秒 / 北緯43.107222度 東経41.736028度 / 43.107222;

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セリエAダイジェスト – Wikipedia

セリエAダイジェストは、1994年から1996年、1998年から2003年までフジテレビで放送され、2020年11月よりフジテレビNEXTで放送されている、イタリアのプロサッカーリーグ・セリエAを扱ったテレビ番組。 「カズ」こと三浦知良がイタリアのセリエAに所属するジェノアCFCに移籍したことを契機に1994年フジテレビがセリエAの地上波放映権を獲得した[注釈 1]ことから始めた番組である。番組の初代プロデューサーだった村社淳(現・フジクリエイティブコーポレーション取締役)によれば、単に硬派なハイライト番組を作っても面白くないことから、当時のフジテレビの社風も相まって、遊び心を詰め込んだ実験的な演出を多く取り入れたという。 番組のオープニングにはサッカーのプレー映像を用いなかったのもその一つで、イタリアの歴史的建造物などをバックにジュゼッペ・ヴェルディ作曲の「アイーダ『凱旋行進曲』」が流れ[注釈 2]、「世界最強リーグ セリエAダイジェスト」というタイトルコールの後、スタジオに移ってダルファーの「Mickey Mouth」に乗せて番組が開始した。 村社は出演者にもこだわり、J-WAVE創設時からのスターナビゲーターでテレビに出ないポリシーを持っていたジョン・カビラを口説き落としてMCに抜擢。さらに深夜番組にもかかわらずフジテレビの看板女性アナウンサーだった中井美穂をアシスタントに起用。加えて、イタリア人のコメンテーターとして『NHK外国語会話 イタリア語会話』(NHK教育テレビ)に出演していたエッセイストのパンツェッタ・ジローラモを起用した。試合ダイジェストで情報量をなるべく盛り込むべく「ものすごく早口で、たくさんの情報を伝えられるアナウンサーが必要」と考えて、競馬実況で早口の実況に定評のあった青嶋達也をナレーションに起用したのも村社のこだわりの一つで、このことが青島の独特のナレーションを生んだ。また、番組名を「セリエアーダイジェスト」とイタリア語読みさせたのも村社のこだわりの一つだったという。 番組開始当初はスタジオと試合ダイジェストを繰り返し、ダイジェストの後でスタジオで司会やパネラーが感想を述べるという形をとっていたが、後期ではスタジオを持たず、パネラーもリプレイに合わせて声だけの出演するという形になった。代わりにロケでのショートコーナーを息抜きのように入れていた。特別に長いダイジェストを流す時があり、その際はジョン・カビラが実況を担当した。 カズが1年でセリエAを去ったことを契機に1995-96シーズン終了時に番組は一旦終了。しかし1998-99シーズンに中田英寿がペルージャに移籍したことを契機に番組が復活。翌シーズンには名波浩がヴェネツィアFCに移籍したため、番組は存続した。 しかし日本でも開催された2002 FIFAワールドカップをきっかけとして視聴者の関心がセリエA以外にも広がったことを受け、イギリスのプレミアリーグも数試合だが扱うようになった(このためセリエAのスコアレス・ドローの試合ダイジェストはわずか数秒で終わることも多かった)。こうした流れを受けて、2003年にヨーロッパサッカー全般を扱う番組『FOOTBALL CX』に発展的解消となる形で番組は終焉を迎えた。 2020年11月、フジテレビが運営するCS放送チャンネル「フジテレビNEXT」でのセリエA放映権を獲得。これに併せて17年ぶりに番組が復活となった[8]。 番組エンディングテーマはTony D.の「VINCI CHAMPIONE」、オープニングの「凱旋行進曲」テーマ曲の「Mickey Mouth」と合わせたこの3曲はフジテレビのサッカー番組において重要な位置を占める曲と言える。 ジョカトーレ

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大使会議 – Wikipedia

大使会議に参加する4カ国(青)とオブザーバーの米国(赤)。なお、国境線は1921年以降のもの。 同盟および連合国の大使会議(フランス語: La Conférence des ambassadeurs des principales puissances alliées et associées、英語: The Conference of Ambassadors of the Principal Allied

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シャーリヴァーハナ – Wikipedia

シャーリヴァーハナ(शालिवाहन Śālivāhana)は、インドの伝説的な王。プラティシュターナ(今のマハーラーシュトラ州パイタン(英語版))を都としてマールワー地方を治めたと伝えられる。 名称の由来[編集] シャーリヴァーハナは、シャーラヴァーハナまたはサータヴァーハナとも呼ばれる。サータヴァーハナが古い形である[1]。実在のサータヴァーハナ朝の名に由来しているのは確かだが、伝説ではひとりの王の名前として出現する。 シャーリヴァーハナはプラークリット文学の擁護者とされる。1600年ごろのラクシュミーナータ・バッタは、シャーリヴァーハナをプラークリットの最初の詩人とする[2]。実際にプラークリット(マーハーラーシュトリー)で書かれた最初の文学作品である詩集『ガーハー・サッタサイー』(七百頌集)はサータヴァーハナ朝のハーラ王によって編纂されたと伝えられ、冒頭の詩にもそのことが記されている。ハーラという王はプラーナ文献にサータヴァーハナ朝の王として見え、碑文にも確認されるために実在の人物だったようである[1]。しかし、現存の『ガーハー・サッタサイー』はもっと新しい時代の内容(曜日や時刻の表記のしかた、ガネーシャなどに対する礼拝など)を含んでいる[3]。 『ブリハットカター』の作者であるグナーディヤについても、サータヴァーハナ王の大臣であったグナーディヤによってパイシャーチーで書かれたという伝説をカシミール系の伝本が伝える[4][5]。 シャーリヴァーハナはしばしば同様に伝説化した王であるヴィクラマーディティヤのライバルとして扱われる。シヴァダーサの『サーリヴァーハナカター』はヴィクラマーディティヤとシャーリヴァーハナのライバル関係を記す[6]。ジャイナ教の伝説では、あるバラモンの未亡人がナーガと交わってシャーリヴァーハナを生んだが、彼が将来王になることを占星術師がヴィクラマーディティヤに告げたため、ヴィクラマーディティヤは彼を攻撃した。シャーリヴァーハナは粘土の兵隊に命を吹きこんで戦って勝ったとする[7]。 インドのシャカ紀元は13世紀以降に「シャーリヴァーハナ・シャカ」と呼ばれ、シャーリヴァーハナと結びつけられた。しかしそれより100年以上古いヴィクラマ紀元がヴィクラマーディティヤと結びつけられているため、ヴィクラマーディティヤとシャーリヴァーハナを同時代の人物とする説と矛盾し、伝説は混乱している[8]。 ^ a b Ollet (2017) pp.55-56 ^ Ollet (2017) p.54 ^ Sircar

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在宅障害者の保障を考える会 – Wikipedia

在宅障害者の保障を考える会(ざいたくしょうがいしゃのほしょうをかんがえるかい)とは、脳性マヒ者などの重度障害者(主に重度の身体障害者)が、施設や家族の元を離れて地域での自立生活をするために行政に対して、要求をするための当事者団体(障害者団体)である。略称は在障会(ざいしょうかい)。機関誌は『在障会ニュース』。 福祉施設や家族の元を離れて、障害者が地域で自立して生活することを目指す運動が1970年代に始まった。70年代に入ると重度障害者は福祉施設から退所して、地域で自立生活を始めるケースが多く見られた。例えば脳性マヒ者の新田勲や三井絹子は東京都府中市の府中療育センターから退所して、都営住宅で生活を始めている。しかしながら当時は十分な福祉政策が日本にはなかったため、重度障害者の地域での生活は協力者(ボランティア)に頼むことが多かった。ちなみにボランティアの中には全共闘などの学生運動をしていた者も少なからずいたという。 このような状況を改める為、障害者側は様々な社会運動を通して、行政側に福祉政策の創設を訴えていく。その社会運動体として1973年に東京都で「在宅障害者の保障を考える会」が先述の新田、三井らによって東京都内で結成される。この流れに呼応する形で、東京都を中心として、全国各地で社会運動体として、各地の在障会ないしそれに類する団体が立ち上げられていく。詳しくは後述。組織的には各団体がゆるやかに繋がりを持っている形である。 在障会は東京都民生局に「二四時間の日常的世話の介護料,介護者が生活出来るような医療費を含んだ介護料」を要求した。その要求に応える形で都側は「重度脳性麻痺者介護人派遣事業」という制度を1974年に作っている。しかしこの制度は当初は月4回の時間数及び月額7000円の介護料を介護者に渡すのが上限としていたため、障害者側からは「不足している」という声が多かった。そのため、更なる要請、要求を在障会は都などの行政側に繰り返した。こうして、少しずつ時間数や介護料の拡充が図られていった。 「重度脳性麻痺者介護人派遣事業」では、介護を受ける側の障害者が自ら推薦、依頼した介護ヘルパーに対して、行政側から発給された「介護券」を手渡す。介護ヘルパーは介護券を行政の窓口に持ち込むことで、介護料を得ることができるという仕組みである。行政側から直接、介護者に対して介護料を渡すのではなく、そこに介護を受ける障害者が介護券を渡すという形で介在することは「公的制度のなかで人間の『関係』を保障するという,行政から見ればきわめて非合理的で実現困難な,しかし障害者側から見れば自己の自由を最大限に担保する仕組み」[1]であるという。 後に「重度脳性麻痺者介護人派遣事業」は脳性マヒ者以外の障害者も使用できるように改善され、1987年に「重度脳性麻痺者等介護人派遣事業」として対象の拡大がなされた。この制度の受け皿となるべく、各地で介護派遣事業を行う事業所が増えていった。また障害者自身が事業所の運営に参画するケースも多々あり、アメリカで始まった自立生活運動に範をとった団体(自立生活センター,CIL)が日本でも立ち上げられ始めた。この動きは2003年の支援費制度に繋がっていった。各地で立ち上げられた地域で活動する在障会も介護派遣事業を行う事業所の事実上の前身となるケースも多かった。事業所はNPO法人などの法人格を取得していく。 在障会の運動は1976年に全国青い芝の会の会員らが中心となり大阪府で立ち上げられた「全国障害者解放運動連絡会議」(略称:全障連)の中でも続いた。全障連に参加した在障会のメンバーらは全障連の中で、重度障害者に対する広範な公的介護保障の要求を行政側に求める為の団体の創設を求めた。この動きが1984年には「全国公的介護保障要求者組合」につながっている。 関係する主な人物・団体[編集] 新田勲(にった いさお) – 1940年~2013年。東京都北区の北区在宅障害者の保障を考える会の会長、全国公的介護保障要求者組合の初代委員長を務める。1972年の府中療育センター闘争の中心人物。三井の兄。 三井絹子(みつい きぬこ) – 1945年~。1975年、かたつむりの会を発足させた。国立市のNPO法人ワンステップかたつむり国立代表を務める。1972年の府中療育センター闘争の中心人物。新田の妹。NHKの「戦後史証言プロジェクト日本人は何をめざしてきたのか」2015年度「未来への選択 第6回 障害者福祉~共に暮らせる社会を求めて~私は人形じゃない」に出演。2020年5月28日、参議院国土交通委員会の参考人として出席[2]。 猪野千代子(いの ちよこ) –

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トーマス・ハードウィック (博物学者) – Wikipedia

トーマス・ハードウィック(Thomas Hardwicke 1756年 [1]– 1835年3月3日[2][3])はイギリス軍人、博物学者である。1777年から1823年の間、インドに滞在し、多くの博物学的標本を集めた。ヨーロッパでは知られていなかった、多くの新種動物の博物画を現地の画家に、描かせた。イギリスに帰国後、動物学者のジョン・エドワード・グレイと『インド動物図鑑』(”Illustrations of Indian Zoology” :1830–35)を出版した。 1778年11月にイギリス東インド会社のベンガル連隊に砲兵将校として加わり、1781年から1785年の間、アイル・クート司令官のもとで南インドでのいろいろな戦闘に参加した。1789年に負傷し、バンガロールの職員として働いた後、1793年にベンガルの砲兵隊の副官、補給係将校を務めた。1823年に退役しイギリスに帰国した[1][2][3]。 インドでの軍務の間にインド亜大陸各地を旅し、動物学の標本を集めた。現地の画家に描かせた膨大な数の博物画のコレクションを作り上げた。これらの絵は死んだ標本を描かせたものが大半であったが、生きている動物を描いたものも多かった。インドを去る時、個人としてはもっとも多い動物画のコレクション所有していた。 ハードウィックが雇ったインド人の画家たちについては知られていないが、技術・技法の訓練が行われ、水彩の博物学的な図版となっている。この4500点からなる博物画のコレクションは1835年に大英博物館に寄贈され、後に一部がロンドン自然史博物館に移された[1]。 インドの自然史に関する熱心な活動は王立協会会長のジョセフ・バンクスらの同時代の博物学者らに知られるところとなり、1813年に王立協会のフェローに選ばれた。動物学者、ジョン・エドワード・グレイの『インド動物図鑑』はハードウィックの資金で出版され、202点の手彩色の図版が使われたが、解説文の完成の前にハードウィックは没した[1]。 1804年にロンドン・リンネ協会のフェロー、1813年に王立協会のフェローに選ばれた他、ベンガル・アジア協会の副会長、ダブリン王立協会の名誉会員に選ばれた[1]。 オオジシギ(Gallinago hardwickii)、アカハラコノハドリ (Chloropsis hardwickii)などの鳥類や、インドトゲオアガマ(Uromastyx hardwickii)などの学名にハードウィックの名前が命名されている。 『インド動物図鑑』の図版[編集]

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