明石元長 – Wikipedia

明石 元長(あかし もとなが、1906年(明治39年)9月19日[1] – 1949年(昭和24年)7月2日[1])は、日本の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。

東京府で陸軍将校・明石元二郎の長男として生まれる[2][3]。1918年(大正7年)父が台湾総督に就任すると、家族の中でただ一人台湾に渡ったが[2]、1919年(大正8年)10月、父が病のため死去し、同年11月29日、男爵を襲爵[4]、小学校卒業まで台湾に留まった[5]。明石家に資産がなく遺族の今後のため下村宏総督府総務長官ら有志が「明石財団」を設立した[6]。また、当時の台湾総督府専売局長・賀来佐賀太郎が元長の教育を援助し、賀来の子息たちとともに学習院で学んだ[7]。1931年(昭和6年)東北帝国大学法文学部を卒業した[8]

大学卒業後、三井信託 (株)に入社[8]。その後、外務省嘱託、満州国金廠鉱業 (株) 取締役などを務めた[8]。また、台湾留学生などの援助団体「東亜修好会」を設立した[9]。1939年(昭和14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され[10][11]、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任[8]。内閣委員、外国為替管理委員会委員などを歴任[8]

終戦後、第23回衆議院議員総選挙(福岡県第1区、無所属)、第24回総選挙(福岡県第1区、民主党)に出馬したがいずれも落選した[12][13][14]。1949年、中国共産党の攻勢で苦境に立った台湾の国民党を支援するため、元陸軍中将・根本博らの台湾密航計画を進め、九州を拠点に資金の調達などに奔走し、同年6月26日に根本らを延岡から送り出し帰京したが、過労のため急死した[15]

  • 妻 明石和子(内藤頼輔二女)[1]
  • 長男 明石元紹(日産プリンス東京販売取締役)
  1. ^ a b c 『平成新修旧華族家系大成 上巻』13頁。
  2. ^ a b 『今上天皇つくらざる尊厳』31頁。
  3. ^ 『人事興信録 第14版 上』ア67頁。
  4. ^ 『官報』第2198号、大正8年12月1日。
  5. ^ 『この命、義に捧ぐ』95頁。
  6. ^ 『今上天皇つくらざる尊厳』31-32頁。
  7. ^ 『今上天皇つくらざる尊厳』32頁。
  8. ^ a b c d e 『議会制度百年史 – 貴族院・参議院議員名鑑』62頁。
  9. ^ 『この命、義に捧ぐ』96頁。
  10. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、49頁。
  11. ^ 『官報』第3758号、昭和14年7月17日。
  12. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第23回』533頁。
  13. ^ 『国政選挙総覧:1947-2016』350頁。
  14. ^ 『今上天皇つくらざる尊厳』35-36頁。
  15. ^ 『この命、義に捧ぐ』95-102頁。

参考文献[編集]

  • 人事興信所編『人事興信録 第14版 上』、1943年。
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第23回』衆議院事務局、1948年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 – 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』上巻、霞会館、1996年。
  • 門田隆将『この命、義に捧ぐ:台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』集英社、2010年。
  • 明石元紹『今上天皇つくらざる尊厳:級友が綴る明仁親王』講談社、2013年。
  • 『国政選挙総覧:1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。