荒波秀義 – Wikipedia

荒波 秀義(あらなみ ひでよし、1940年11月16日 – 2010年9月2日)は、1960年代に活躍した佐賀県東松浦郡鎮西町馬渡島(※現役当時、現・唐津市)出身の大相撲力士である。時津風部屋に所属していた。本名は牧山 通雄(まきやま みちお)。得意手は左四つ、吊り、突っ張りなど。最高位は西前頭4枚目(1965年3月場所)。現役時代の体格は184cm、106kg[1]。 同じ東松浦郡鎮西町出身で、小結まで昇進した松浦潟達也(本名・牧山強臣、錦島部屋→立田山部屋)とは、血縁関係にあった。カトリック 教徒でもあった[1]。 角界入りから廃業まで[編集] 1956年…時津風部屋に入門し、この年の1月場所で初土俵を踏む[1]。 1956年5月場所…本名でもある「牧山」の四股名で、序ノ口に付く。 1959年9月場所…幕下で8戦全勝したが、決定戦に敗れ、幕下優勝を逸する。 1961年9月場所…十両に昇進。 1962年3月場所…「牧山」から「荒波」へ改名。 1963年5月場所…新入幕を果たしたが、3勝12敗と大敗[1]。 1964年1月場所…再入幕。しかし、新入幕の時と同様に5勝10敗と大きく負け越し、1場所で十両に逆戻り。 1964年11月場所…3度目の入幕で8勝7敗と勝ち越し、幕内の座を守る[1]。12日目の海乃山との取組では、マゲを強く引っ張りながら、反則負けにされなかった。 1965年3月場所…自己最高位となる西前頭4枚目に進出するも、2勝13敗と惨敗。なお、横綱・大関陣からは1勝も挙げられなかった。 1966年7月場所…西十両13枚目に在ったが、初日から休場し、場所後に廃業を表明[1]。

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山元町 (横浜市) – Wikipedia

山元町(やまもとちょう)は神奈川県横浜市中区の町名[5]。現行行政地名は山元町1丁目から山元町5丁目(字丁目)で、住居表示は未実施[6]。面積は0.181km2[1]。 中区西部の、丘陵のふもとの谷戸と呼ばれる地形に位置し、横浜駅根岸道路に沿った南北に長い弧状の町域をもつ。北東は山手町、東は柏葉・西竹之丸・仲尾台、南は根岸台、西は簑沢・大芝台・大平町および南区唐沢に接する[5]。 古くは久良岐郡根岸村の一部で、1873年(明治6年)に、通り沿いの家屋が集まっていた地域に山元町が新設された。この時に、字丁目1~2丁目が設けられた。町名は「山の麓」を意味すると考えられる[7]。1889年(明治22年)に横浜市山元町となり、1927年(昭和2年)に横浜市中区の町名となる。1919年(大正8年)と1933年(昭和8年)に根岸町の一部を編入し、1933年の町名町境整理の際には字丁目1~5丁目に改められた[8]。 世帯数と人口[編集] 2021年(令和3年)7月31日現在(横浜市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[2]。 丁目 世帯数 人口 山元町1丁目 363世帯 632人 山元町2丁目 445世帯 774人 山元町3丁目 169世帯 293人 山元町4丁目 356世帯 680人

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川越市議会 – Wikipedia

川越市議会 種類 種類 構成 定数 36 院内勢力   政晴会(6)   川越政策フォーラム(3) 選挙 前回選挙 2019年4月21日 議事堂 埼玉県川越市元町1丁目3番地1 ウェブサイト 川越市議会 川越市議会(かわごえしぎかい)は、埼玉県川越市に設置されている地方議会である。 定数:36人 任期:2019年5月2日 –

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サッカーの審判補助システム – Wikipedia

この記事は、ほとんどが非ログインユーザー(ap221.ftth.ucom.ne.jpとmiyagi.ap.gmo-isp.jp)の可変IPによる編集です。 「サッカーの審判補助システム(サッカーのしんぱんほじょシステム)」は一般的な名称や正式な名称としての内容が定められている訳では無く、定義されていない用語であるために辞書の見出しとしては不適切だが、この項ではサッカーにおいて審判の補助をするためのテクノロジーとして導入されているビデオ・アシスタント・レフェリー(VAR)制度や、ゴール・ライン・テクノロジー(GLT)を扱う。 現在ルール導入されているのは が存在する。また、VARを補助するためのテクノロジーとして、ヴァーチャル・リアリティ技術を用いて映像にオフサイドラインを表示し、数cm単位でオフサイド・ポジションかどうかを判定するホークアイ社などのヴァーチャル・オフサイドライン・テクノロジーも使用されている[1]。 VARやカメラ式GLTは撮影・録画された映像を活用して、ゴールやファウルなどの判定を補助するシステムである。追加審判制度同様に競技規則の追加部分という扱いであり、使用するかどうかは各コンペティションの主催者の判断に任される。 GLTやVAR制度導入までの経緯[編集] 判定のトラブルが発生するたびに、ビデオ判定及び機械判定導入を訴える声が上がったが、国際サッカー連盟(FIFA)及び国際サッカー評議会(IFAB)は「サッカーの判定は人間がするもの」、「試合の流れを妨げる」などの理由で、ビデオ判定及び機械判定導入に長らく反対していた。フランスが国内リーグに独自に導入しようとした際にも、FIFAの反対によって中止された。2008年にFIFAの事務総長 Jerome Valckeは「テクノロジーを試合に持ち込むべきではないというのがIFABの大部分の明確な意見」と認めていた[2]。 ビデオ技術の発展と誤審との間の問題は、TV社会に伴い早くから取り沙汰されている。IFABは1970年の年次総会で「主審の判定に敵対的な影響をもたらす、あるいはもたらし得るスロー再生について、TV局側の自粛を要求する」声明を出している[3]。 サッカーでは審判の死角でのアンフェアなプレーやラフプレーが横行してきたこともあり、審判の死角などで裁定できなかったラフプレーなどの悪質な行為に対しては試合後に数試合の出場停止や罰金といった処分を科すことが多くなっていた。近年では放送用カメラの性能と台数が向上し、フィールド全体を細かく「監視」できる状況になっており、ドイツで開催された2006 FIFAワールドカップ決勝でのジネディーヌ・ジダンの頭突き事件や2010年南アフリカW杯決勝トーナメント1回戦、ドイツ対イングランド戦での同点ゴールを見逃した誤審に象徴されるように、審判が判定するより早くあるいは明瞭に観客や視聴者が把握してしまう事態がより顕在化していた。 ビデオ・アシスタント・レフェリー制度の歴史[編集] KNVBによる先駆けとIFABの許可 (2013~2016前半)[編集] オランダ・フットボール協会(KNVB)は2013-2014シーズンから判定制度向上を目指してArbitrage 2.0の名称で審判6人制、ゴールラインテクノロジーをエールディヴィジとKNVB bekerに部分導入すると共に、世界に先駆けてビデオ判定システムを試験(スタジアム外で、内部とは連絡を取らない形で審判が映像判定を行う仮想運用。後にオフライン・テストと名付けられた)。ビデオ審判(オランダ語で”Videoscheidsrechter”. 判定の最終決定権は主審にあり、ビデオ審判はあくまで助言をする立場なため、後にIFABによって”ビデオ・アシスタント・レフェリー”の呼称が用いられた)は試合中常に最低6つのカメラ映像を映すモニターの前で映像チェックを行い、「判定について平均11秒でほとんどのケースで試合の流れを妨げることも試合の流れに遅れることも無く主審に助言ができる」[4][5]とのデータと共にFIFAとIFABに導入を提案した。IFABは調査段階として実際の議論を先送りにしていたが[6]、2016年1月7日にIFABが翌シーズンからの公式戦でのテストを許可[7]したことで、KNVBは2016-2017シーズンのKNVB beker約25試合でのビデオ・アシスタントが主審に助言するリアルテスト実行の意思を発表。3年以内の正式導入を目指し、2016年1月28日のエールディヴィジ

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フレデリック・コイエット – Wikipedia

フレデリック・コイエット(スウェーデン語: Fredrik Coyet、オランダ語: Frederick Coyett、1615年頃 – 1687年10月17日)は、スウェーデンの貴族。出島のオランダ商館長を2度(1度目:1647年11月3日- 翌年11月9日。2度目は1652年11月4日 – 翌年11月10日)[1]、最後のオランダ領台湾行政長官を務めた。日本を訪れた最も初期のスウェーデン人の一人である[2]。 出島オランダ商館長[編集] 1643年にオランダ東インド会社の職員としてバタヴィアに到着し、同地で勤務した。日本へは商館長に任命され初めて赴任した。長崎に到着すると、恒例の江戸参府のため、1647年11月19日に長崎を出発した。12月に江戸に到着したが、ブレスケンス号の乗員の釈放に対して、いまだに感謝を表明する大使が派遣されていないこと、1647年来航のポルトガル使節にバタヴィア寄航を許したことを理由に将軍徳川家光への拝謁は許されず、また献上品も受け取りを拒否された[3]。 その後1649年に台湾次席を務め、同年11月20日にスウェーデンのクリスティーナ女王より爵位を与えられた。1652年に再び出島の商館長となった。江戸幕府が要求した謝礼使節は1649年に派遣されていたため、コイエットは1653年2月12日、無事に将軍徳川家綱に拝謁することができた。この2回目の出島商館長を務めていた際に、明の遺臣・鄭成功の台湾攻撃の可能性を報告しているが、バタヴィアの総督府は無視していた。 台湾行政長官[編集] コイエットはオランダ東インド会社の最後の台湾行政長官として知られている。1656年6月30日の着任後、台湾から上がる収益は急拡大し、コイエットの評価は高まった。この間、コイエットは鄭成功の危険性を引き続き訴え動向にはまだ注意が必要と繰り返し報告するが、やはりゼーランディア城の防備の強化は却下された。この為、コイエットはバタヴィアの許可なしに、城の強化を行なった。 1660年になると、会社も台湾の危機を認識し始めた。1660年7月16日、ヤン・ファン・デル・ラーンを司令官とする12隻からなる救援艦隊がバタヴィアを出航し、9月には台湾に到着した。しかし、この艦隊は台湾に問題が無いようならば、マカオのポルトガル軍を攻撃するように命令されていた。防御戦に勝利しても新たに得られるものは無いが、マカオを攻略すれば莫大な利益を得ることができる。この為、当初よりファン・デル・ラーンは台湾の危機を軽視しており、コイエットと意見が対立し、1661年2月には4隻を残してバタヴィアに戻ってしまった。ファン・デル・ラーンはコイエットは長官としては不適と訴えたため、会社はヘルマン・クレンクを新長官に任命した。 1661年4月30日、ついに鄭成功は戎克船300隻、兵士25000名の兵力でゼーランディア城の近海に来襲した。これに対するオランダ側の守備兵力は1140名に過ぎなかった。翌日から陸海で激戦が繰り広げられた。4隻しか残っていなかったオランダ船は、最大の船が爆沈、残り3隻は脱出した。陸上ではオランダ軍は良く耐え、鄭成功は5月末から積極的な攻撃を中止して包囲戦に移った。 6月24日、ゼーランディア城から脱出した船がバタヴィアに到着し、戦闘が開始されたことが報告された。7月5日、ヤコブ・カーウを司令官とする9隻の艦隊がバタヴィアから出撃したが、カーウには戦闘経験がなかった。7月30日、「新長官」のクレンクが到着したが、戦闘中であることを知ると、台湾には上陸せず長崎に逃げてしまった。8月12日、カーウ率いる救援艦隊が到着するが、悪天候で上陸出来ず、ようやく9月8~10日にかけて補給品と兵士を揚陸させることに成功した。9月16日、オランダ艦隊が鄭成功の艦隊に攻撃を仕掛けるが失敗した。 鄭成功の台湾攻撃を知った清は救援を申し出た。ここで、11月26日にカーウが清の救援軍を輸送するという名目で艦隊を率いて脱出し、そのままバタヴィアへ逃亡してしまった。これでオランダ軍の士気は低下したが、鄭成功は城の内部事情は把握していなかった。しかし、脱走兵が城内の様子を伝えたこともあり、鄭成功は包囲戦から積極攻撃に作戦を変更、1662年2月10日、9ヶ月間にわたる篭城の末にコイエットは降伏した[4]。コイエットは必要な物資を与えられてバタヴィアへと送り返された。 コイエットはフランソワ・カロンの義理の兄であり、それまではカロンの引き立てがあった。しかし、カロンはすでに帰国しておりその庇護はなかった。またスウェーデン人のコイエットを積極的にかばうオランダ人もいなかった。このため、一旦は「死刑」の求刑を受け、3年の幽閉後にバンダ諸島のアイ島へ永久追放となった。その後、スウェーデン政府の働きかけもあり、9年後の1674年に恩赦で釈放された。このときの条件は、一旦オランダに戻ったならば二度と出国してはならないというものだった。これは、義弟のカロンが1667年にライバルのフランス東インド会社の長官となっていたことが影響したと思われる。結局故国のスウェーデンに戻ることは無く、オランダで死去した。

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Fancy Frontier 開拓動漫祭 – Wikipedia

Fancy Frontier 開拓動漫祭 原語表記 開拓動漫祭 略称 FF○○ 主催 開拓動漫事業有限公司(杜葳廣告股份有限公司) 創設年 2002年 年内開催回数 2回 参加サークル数 約1,200[1] 会場 会場不定(台北市) ウェブサイト 公式サイト 会場の花博公園爭豔館

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井染四郎 – Wikipedia

いぞめ しろう井染 四郎 本名 齋藤 四郎 (さいとう しろう) 別名義 伊染 四郎 生年月日 (1907-03-08) 1907年3月8日 没年月日 (1943-06-23) 1943年6月23日(36歳没) 出生地 日本 東京府東京市日本橋区久松町(現在の東京都中央区日本橋久松町)

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Kangta – Wikipedia

カンタ(Kangta、강타、1979年10月10日 – )は韓国のシンガーソングライター、音楽プロデューサー、俳優。本名は安七炫(アン・チリョン、안칠현)。H.O.T.の解散後はソロ活動を行っている。。 1996年、アイドルグループH.O.T.のメンバーとしてデビュー。 2001年、H.O.T.解散。ソロデビューアルバム『Polaris』が大ヒットした。 2003年、初めてのソロ・コンサートを行った。シン・ヘソン(シンファ)、イ・ジフンとSを結成、アルバム『Fr.in.Cl』をリリース。 2005年、中国に進出。中国ドラマ『魔術奇緣』で台湾の女優林心如、台湾の俳優蘇有朋と共演した。 2006年、台湾のアイドルグループF4のメンバーVannessとKangta & Vannessを結成、ミニアルバム『Scandal』をリリース。 2010年、中国語曲のデジタル・シングル『愛、頻率』をリリース。 2013年、韓国ドラマ『その冬、風が吹く』のOSTを製作。 2014年、Sのミニアルバム『Autumn Breeze』をリリース。 ソロ・アルバム[編集] 『Polaris』(2001年) 『Pine Tree』(2002年) 『Persona』(2005年) 『Eternity』(2008年)

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川井重勇 – Wikipedia

日本の政治家 川井 重勇 かわい しげお 生年月日 (1947-11-23) 1947年11月23日 出生地 日本 東京都中野区 没年月日 (2021-04-30) 2021年4月30日(73歳没) 死没地 日本 東京都 出身校 武蔵工業大学工学部土木工学科卒業 所属政党

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