国鉄123系電車 – Wikipedia

123系電車(123けいでんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)および東日本旅客鉄道(JR東日本)・東海旅客鉄道(JR東海)・西日本旅客鉄道(JR西日本)の3社が導入した直流近郊形電車である。1986年から1988年にかけて投入された。

1986年11月1日ダイヤ改正で鉄道手荷物・郵便輸送が廃止されたことに伴い、余剰になった荷物電車などを改造し、利用者の少ない電化ローカル線向けに改造して導入したのが本形式である。いずれも両側に運転台が装備された単行電車を種車としており、国鉄の新性能単行電車では初となる旅客輸送用車両となった。

形式はクモハ123形のみが存在する。国鉄により11両、JR東海により2両の合計13両が改造され、クモニ143形から改造された0番台、クモユニ147形から改造された40番台、クモヤ145形から改造された600番台の区分に大別される[1]

種車や改造手法の違いから外観や扉位置が異っているが[2]、車内の座席は全てロングシートで統一されている。

車両概説[編集]

0番台[編集]

クモハ123-1[編集]

クモハ123-1
(2008年5月5日、塩尻駅)

中央本線の塩嶺トンネル完成に伴い支線化した辰野 – 塩尻間(中央本線辰野支線)の輸送力適正化を目的として、1986年(昭和61年)に国鉄長野工場(現・長野総合車両センター)でクモニ143-1から改造された車両である[3]。松本運転所(現・松本車両センター)に配置され、同年11月のダイヤ改正に合わせて使用開始された。当時長野地区の普通列車に使用していた「エコー電車」に因み、「ミニエコー」と名付けられた[2]

走行関係の機器は種車のものを流用しており、主電動機はMT57で、直並列制御を行う(後述の2 – 6も同様)。将来のワンマン運転を考慮し、側面両端部に幅1,000 mmの片開扉を設けた。側面窓は幅674 mmのユニット窓となっており、一部の窓は種車のものをそのまま流用している。

ワンマン運転の設備は1990年に設置された。改造当初は冷房装置が搭載されていなかったが、1995年に集約分散式冷房装置(AU712形2基)が搭載された。

改造当初は白地(クリーム10号)に緑帯(緑14号)の塗装であったが、その後ローズピンクと白色のツートーンカラーに変更されている。

クモハ123-2 – 4[編集]

クモハ123-4(登場時)
(1987年3月31日、広島駅)

可部線向けとして、国鉄分割民営化直前の1987年にクモニ143-2・3・6から3両が改造された[2]。クモハ123-1や40番台と同様両端2か所に片開扉を配置しているが、側面窓の形状は上部3分の1が室内側に倒れる大形窓となった[4]。座席はキハ54形などで採用されたバケットタイプとなっている。また、前面に排障器(スカート)が装着されている。塗装は地色が白3号で、車体下部に青20号の帯が2本入っている。改造時に第2パンタグラフを撤去し集中式冷房装置(AU75G)を取り付け、MGを70kVAのものに変更している。[4]。このMGは485系などの食堂車の廃車発生品を再利用した。ジャンパ連結器は105系に合わせたものに交換された。パンタグラフはPS16、定員114(座席48)名。前面は種車のままの非貫通構造であったが、1993年度に貫通扉が設置された[4]

1993年に下関運転所(現・下関総合車両所運用検修センター)に転属。宇部線・小野田線用となった。

クモハ123-5・6[編集]

クモハ123-5(阪和線時代)
(1987年8月、鳳駅)
クモハ123-6(扉移設改造後)
(2006年10月10日/長門本山駅)

1987年に阪和線羽衣支線向けとしてクモニ143-7・8から改造された[2]。201系と類似した2段式側窓となっており、改造当初から前面に貫通扉が設置されている[5]。定員は122(座席49)名。2か所に両開扉を設けたが、種車の荷物用扉の位置を踏襲したため、変則的な位置にあった[5]。改造時に第1パンタグラフを撤去し、改造当初から集中式冷房装置(AU75系列)を搭載している。

ラッシュ時は103系の制御車クハ103-194を併結した3両編成という特異な運用をするため、ジャンパ連結器は103系に合わせたものに交換され、クハに冷房電源の三相交流を供給するためのジャンパ連結器も設けられた。日中は単行または2両で運行された[5]。1989年にワンマン運転設備を追設している。塗装は阪和線の103系に合わせた青22号だが、運転台部分は黒く塗られていた[5]

1995年にクモハ84形を置き換えるために岡山電車区に転属し、宇野線の茶屋町 – 宇野間で使用された。塗装は地色はそのままだが運転台部分の黒い部分がなくなり、カモメが描かれた。その後、宇野線のワンマン化時に105系と混用されることになり、運賃の車内収受に対応していない本形式は105系用のジャンパ連結器を追設し、福塩線・山陽本線岡山 – 福山間・赤穂線で105系2両と併結の4両編成で使用され、宇野線は105系に置き換えられた。

2002年には宇部線・小野田線用として下関地域鉄道部(現:下関総合車両所運用検修センター)に転属し、2003年にクモハ42形を置き換えた。その際に塗装は2 – 4と同様のものに変更された。2002年度に扉位置を移設する改造を受けたため、外観が大きく変わっている。ただし、車内のつり革の配置は変わっておらず、元々ドアが設置されていたところにあたるつり革はやや高い位置に設置されているので、つり革を見れば移設前のドアの位置がわかる。また運賃の車内収受に対応するため整理券発行機・運賃箱・デジタル式運賃表が取り付けられた。

このグループはドアの半自動機能を持っていなかったが、近年になってドアボタンを設置する改造が行われた。

40番台(5040番台・5140番台)[編集]

クモハ123-42
(1989年5月5日、甲斐上野駅)

身延線の富士 – 西富士宮間と鰍沢口 – 甲府間の区間輸送(愛称「富士ポニー」[6])用として、国鉄時代の1987年1月に40番台5両(41 – 45)が投入された[6]。改造種車は飯田線で使用されていた郵便荷物合造車のクモユニ147形である[7][8]

運転台直後に片開扉を設けた2扉車で、外観・車内ともクモハ123-1に準じているが、側面窓がやや大きくなり、戸袋窓が廃止された。またドア下部の張り出しが前位側(集電装置と逆側)にあった。改造当初はクモハ123-45と珍しい並びの車両番号も存在した[6]

1989年に集約分散式冷房装置(DC-DCコンバータ電源によるインバータ式のC-AU711D形2基)を搭載して5040番台(5041 – 5045)に改番された[8]。翌1990年(平成2年)のワンマン化改造に際しては5045のみ前面に貫通扉が設置され、5145に再改番された[8]

600番台[編集]

クモハ123-601・602
(2006年2月11日、身延駅)

JR東海により、1988年3月に牽引車のクモヤ145-601・602から改造された。同時期登場の愛知環状鉄道100形に類似した両端部と中央部に扉を設けた3扉構造となっており、種車の前面にあった貫通扉は2両連結した時に幌で貫通路が構成できるように改造された。

改造当初は非冷房であったが、1988年12月に集約分散式冷房装置(C-AU711A形2基)が搭載された。冷房電源は既存の電動発電機 (MG) からの供給とされたため、改番はされていない[8]。1990年にワンマン運転設備が設置された。

各社の概況[編集]

JR東日本[編集]

JR東日本には、クモハ123-1の1両が継承された。終日辰野 – 塩尻間で運行され、朝晩には松本車両センターの入出庫を兼ねて辰野 – 松本間にも1往復運行された。同車の検査時や多客期には長野総合車両センター所属の115系が代走した。

2012年12月15日・16日には、塩尻→辰野→岡谷→みどり湖→塩尻とその逆回りで運行された臨時列車(名称はそれぞれ「ぐるっと善知鳥・塩嶺号」「ぐるっと塩嶺・善知鳥号」)が運転され、通常入線のないみどり湖経由の運転が実施された。2013年3月9日にも同じ経路で「ありがとう123系 ぐるっと善知鳥号」「ありがとう123系 ぐるっと塩嶺号」として運転された。3月の運行は乗車整理券制で地元の乗客を対象にしての設定となり、JR東日本長野支社などのホームページでは公開されず、塩尻市・辰野町でのみ情報が発信された。

2013年3月16日ダイヤ改正でE127系に代替されることになり[9]、最終運行日となった同年3月15日は、最終列車の発車に合わせ、小野駅でセレモニーが実施された。また、同日は混雑対応のため車掌乗務が行われ、通常表示されない塩尻行のサボも表示された。定期運行最終列車となった塩尻始発の下り松本行では塩尻駅の電光掲示板で「123ミニエコー・ラストラン」と表示された。同車は松本到着後定期運用が終了し、23時3分に松本を発車して長野総合車両センターへ回送された。その後、同年4月15日付けで除籍され[10]、JR東日本の123系は消滅した。

JR東海[編集]

クモハ123-5041
(2003年5月28日、源道寺駅)

JR東海には、40番台の5両が継承された。1988年3月には600番台2両(601・602)が投入されており、身延線用として静岡車両区(旧・静岡運転所)に7両が在籍していた。

当初は白地(クリーム10号)に赤帯(赤2号)と前面に富士山と身延の頭文字「M」を図案化した模様の塗装であった[6]が、のちにJR東海に承継された119系やキハ40系と同じく白地にオレンジと緑の帯の塗装に変更された。40・600番台とも2001年に前面に電気連結器が装備され、主電動機はMT46形からMT54形に換装された。

2006年9月に5041、2007年1月に5044・5145が廃車された[11]。同年3月18日のダイヤ改正で313系に置き換えられて全車運用離脱し、同年5月に601・5043、6月に602・5042が廃車され全車消滅した[12]

JR西日本[編集]

クモハ123-4(黄色単色塗装)

JR西日本には、クモハ123-2 – 6の5両が継承された。可部線に投入された2 – 4は、1991年に宇部線・小野田線へ転用された[4]。阪和線羽衣支線の5・6は1995年には宇野線へ転用され、2001年に宇野線から福塩線へ転用されたが、2002年には宇部線・小野田線用として貸し出され、2003年に同線へ転属した[8]

2013年からキハ120形気動車とほぼ同一構造のトイレが設置され、2014年に全車両の取り付けが完了した。2010年にクモハ123-4を皮切りに濃黄色一色への塗装変更が開始され[13]、以降2015年8月のクモハ123-6を最後に全車塗装変更が完了した。この際、運賃表が液晶画面に換装されている。

主な運用は小野田線や宇部線(閑散時のみ)での単独運用だが、ラッシュ時は105系に併結されて宇部線や宇部線の山陽本線直通列車宇部 – 下関間などで運用されている。

  1. ^ 柴田東吾「141・143系とクモハ123形」『鉄道ピクトリアル』2012年4月号、p.16。
  2. ^ a b c d 柴田東吾「141・143系とクモハ123形」『鉄道ピクトリアル』2012年4月号、p.17。
  3. ^ 『鉄道ジャーナル』第21巻第1号、鉄道ジャーナル社、1987年1月、 58頁。
  4. ^ a b c d 柴田東吾「141・143系とクモハ123形」『鉄道ピクトリアル』2012年4月号、p.18。
  5. ^ a b c d 『鉄道ジャーナル』第21巻第11号、鉄道ジャーナル社、1987年9月、 124頁。
  6. ^ a b c d 『鉄道ジャーナル』第21巻第12号、鉄道ジャーナル社、1987年10月、 34-35頁。
  7. ^ 『鉄道ジャーナル』第21巻第5号、鉄道ジャーナル社、1987年4月、 86-87頁。
  8. ^ a b c d e 柴田東吾「141・143系とクモハ123形」『鉄道ピクトリアル』2012年4月号、p.19。
  9. ^ 2013年3月ダイヤ改正について (PDF)”. JR東日本長野支社 (2012年12月21日). 2013年1月1日閲覧。
  10. ^ 鉄道ダイヤ情報2013年9月号p.127
  11. ^ 「JRグループ 車両のデータバンク2006/2007」『鉄道ファン』通巻555号(2007年7月号)、交友社、2007年
  12. ^ 「JRグループ 車両のデータバンク2007/2008」『鉄道ファン』通巻567号(2008年7月号)、交友社、2008年
  13. ^ “クモハ123-4が黄色に”. 鉄道ファン. railf.jp 鉄道ニュース (交友社). (2010年5月18日). http://railf.jp/news/2010/05/18/181800.html 

参考文献[編集]

  • 柴田東吾「141・143系とクモハ123形」『鉄道ピクトリアル』2012年4月号(通巻861号)、電気車研究会。pp.15-19。

関連項目[編集]