池部鈞 – Wikipedia

池部 鈞(いけべ ひとし、1886年(明治19年)3月3日 – 1969年(昭和44年)12月17日[1])は、東京府東京市本所区(現東京都墨田区本所)[2]出身の日本の風刺漫画家[4]、洋画家[1]。旧姓山下[1][2]

岡本一平の義弟[5]、岡本太郎の叔父にあたり[6]、俳優の池部良は実子[1][7][8]

1886年(明治19年)3月3日、山下鈞として東京本所に生まれる[2]。台東区立下谷小学校に通った[2][注釈 1]。1898年(明治31年)頃、12歳時に神田の錦城中学に入学[2]、翌1899年(明治32年)から1900年(明治33年)にかけての時期に白馬会展の展観作品に感動し画家を志す[2]

中学3年となった1902年(明治35年)頃、石井柏亭に師事を願い出るが断られ[2]、代わりに紹介された渡辺審也に師事する[1][2]。1910年(明治43年)東京美術学校を卒業[注釈 2]、翌1911年(明治44年)朝鮮京城日報社入社[2][9]、1914年(大正3年)には徳富蘇峰の国民新聞に入社[9]し政治・議会・社会分野などの漫画を担当した[注釈 3][注釈 4]

1916年(大正5年)、漫画誌「トバエ」が創刊され参加、翌1917年(大正7年)「漫画」創刊参加、その後も漫画分野では1922年(大正11年)「漫画の畑」、1925年(大正14年)「漫画ボーイ」[注釈 5]などに創刊号から執筆参加し漫画界の第一人者として活躍した[2][7]

漫画分野の活躍と前後して、油絵分野では1921年(大正10年)の帝展出品作「大道芸人」より帝展出品を開始、1928年(昭和3年)第9回帝展「少女球戯図」が帝展特選、続く1930年(昭和5年)第11回帝展「踊」も帝展特選および無鑑査となった[2]

1938年(昭和13年)一水会会員、のちに一水会運営委員、日展評議員も務めた[2]

1966年(昭和41年)「美人一列」が日本芸術院賞恩賜賞受賞[2]、翌1967年(昭和42年)勲四等旭日小綬章受章[2]

1969年(昭和44年)12月17日、心不全のため東京都八王子市の永生病院で死去、享年83[2]

  • 池部鈞『僕の学生時代』磯部甲陽堂、1918年。ASIN B0099H0HFI
  • 池部鈞、服部亮英、細木原青起、牛島一水、小林克巳、北澤楽天、水島爾保布、宮尾しげを『漫畫の滿洲』大阪屋号書店、1927年10月。

    NCID BN15555671

  • 池部鈞『凸凹放送局 : 池部鈞集』現代ユウモア全集刊行会、1929年。NCID BA63316851
展覧会出品目録については#外部リンク参照

注釈[編集]

出典[編集]

外部リンク[編集]