麻田郡 – Wikipedia

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麻田郡(マジョンぐん、までんぐん、朝鮮語: 마전군)は、かつて大韓民国京畿道にあった郡であり、後の漣川郡嵋山面朝鮮語版

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麻田里マジョンニ마전리)を中心に[1]、漣川郡嵋山面、旺澄面朝鮮語版百鶴面朝鮮語版を含む範囲から成っていた。仁川広域市西区の麻田洞朝鮮語版とは別である。

本来の名称は、麻田浅マジョンチョン마전천[2]、ないし、泥沙波忽ニサパホル니사파홀)といった。『三国史記』新羅本紀の真平王4年の記述には、麻知峴城マジヒョンソンという名で出てくる。

  • 本来は、百済の領域であったが、高句麗の麻田浅マジョンチョン県(마전천현)になった。イサン面トンイ里の漣川堂浦城ヨンチョンダンポソン연천당포성)は、考古学調査によって、この城は高句麗によって築造されたと考えられている[3]
  • 757年(新羅景徳王16年):名称を臨湍イムダン県(임단현)と改め、牛峰ウボン郡(우봉군:後の黄海北道金川郡峴内里(현내리)、かつての牛峰面)の一部とした。
  • 高麗時代に入り、麻田マジョンと呼ばれ始めた。
  • 1018年(高麗顕宗9年):長湍郡(장단군)の管轄下になった。
  • 1062年(高麗文宗16年):開城府直属になった後、県監が置かれた。
  • 1414年(朝鮮太宗14年):漣川県と合わせて麻漣マリョン県(마련현)になり、後に再び分割された。
  • 1452年(朝鮮文宗2年):高麗の七王(高麗太祖・恵宗・定宗・光宗・景宗・成宗・穆宗・顕宗)と、鄭夢周など15人の高麗時代の功臣を祀る祠堂朝鮮語版である崇義殿朝鮮語版が建立され、郡に昇格して麻田郡になった。
  • 1906年9月24日 – 長湍郡長東面・江東面および積城郡河北面を編入[4]。それぞれ長新面・江新面・河新面となる。
  • 1914年4月1日:漣川郡に編入されて廃止。
    • 当時麻田郡には7面があった。:江新面・北面・西面・東面・郡内面・河新面・禾津面


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