CAロサリオ・セントラル – Wikipedia

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クルブ・アトレティコ・ロサリオ・セントラル(スペイン語: Club Atlético Rosario Central)は、アルゼンチン・サンタフェ州・ロサリオを本拠地とするサッカークラブである。スーペルリーガ・アルヘンティーナに所属する。

首都ブエノスアイレスとブエノスアイレス州(大ブエノスアイレス都市圏)以外に本拠地を置くクラブとしては、アルゼンチンでもっとも成功を収めているクラブのひとつである。プリメーラ・ディビシオン(1部)で4度優勝しており、直近の優勝は1986-87シーズンである。さらに、1995年にはコパCONMEBOL(コパ・スダメリカーナの前身となった大会)でも優勝した。

アルゼンチン最古のサッカークラブのひとつであり、公式には1889年に設立された。クラブ名称はイギリス人が所有するセントラル・アルゼンチン鉄道会社に因んでいる。同じロサリオに本拠地を置くニューウェルズ・オールドボーイズとの試合はクラシコ・ロサリーノ(ロサリオ・ダービー)と呼ばれ、非常に白熱した試合になる。ホームスタジアムはエスタディオ・ヒガンテ・デ・アロシート(エスタディオ・Dr. リサンドロ・デ・ラ・トーレ)であり、ロサリオ市で最も大きなスタジアムである。

黎明期[編集]

格子模様のジャージを着用していた1903年のチーム

1889年12月24日、セントラル・アルゼンチン鉄道のイギリス人労働者達によって、セントラル・アージェンティン・レールウェイ・アスレティック・クラブ (Central Argentine Railway Athletic Club) として設立された。1904年、セントラル・アルゼンチン鉄道とブエノスアイレス鉄道が統合され、クラブの名称が現在のクルブ・アトレティコ・ロサリオ・セントラル (Club Atlético Rosario Central) に変更された[1]。当初のユニフォームカラーは赤と白だったが、その後青と白の格子模様を経て、現在の青と黄色の縦縞に落ち着いた。

アマチュアリーグ時代(1905年-1930年)[編集]

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1905年、ロサリオ市のクラブらによってロサリオサッカーリーグが設立され、ロサリオ市のサンティアゴ・ピナスコ市長がトロフィーを寄贈したため、初回大会はコパ・サンティアゴ・ピナスコと名付けられた。5月21日に行われたCAデル・ロサリオとの初戦には3-1で勝利し、6月に行われたノッティンガム・フォレストFC(イングランド)との親善試合には0-5で敗れた。1908年には初のリーグ優勝を果たし、1913年にはリーグから脱退したが、1914年に復帰すると20試合を戦って19勝1分(99得点10失点)の圧倒的な成績を残し、51得点を挙げたハリー・ハジェスが得点王に輝いた[2]。1915年と1916年にも優勝して3連覇を達成。1919年の優勝が最後のタイトルとなり、1920年に再びリーグを脱退した。脱退するやいなやアマチュア協会に加わったが、結局アマチュア協会に意見を異にしたセントラルなどのクラブは、1921年に再びロサリオサッカーリーグに復帰した。1923年、1927年、1928年、1930年にリーグ優勝し、ロサリオサッカーリーグの最多優勝クラブとなった。

1915年には、ブエノスアイレスとロサリオの各リーグ優勝クラブによって争われるコパ・イバルグレンに出場し、ブエノスアイレス王者のラシン・クルブを3-1で破って優勝した[3]。同年のコパ・デ・オノール・ムニシパリダ・デ・ブエノスアイレスではCAインデペンディエンテを1-0で破って優勝し、コパ・デ・コンペテンシア・ジョッキー・クラブでは再びラシンを破って優勝した。1920年のコパ・デ・コンペテンシアではCAアルマグロを破って優勝した。

プロリーグ時代(1931年-現在)[編集]

2度目のプリメーラ昇格を果たした1951年のチーム

1931年、アルゼンチンではプロリーグ化が行われ、ロサリオでは初のプロリーグを組織するためにロサリオサッカー協会が設立された。サンタフェ州知事のルシアーノ・モリーナスに因み、コパ・ナカシオ・ビラはトルネオ・ゴベルナドール・ルシアーノ・モリーナスという名称に変更された。セントラルは1937年と1938年にリーグ優勝した。

1939年、セントラルとライバルのニューウェルズ・オールドボーイズはアルゼンチンサッカー協会に対してリーグ加盟の承認を求め、両クラブともプリメーラ・ディビシオン(1部)に受け入れられた。1941年のセントラルは20試合を戦って6勝しか挙げられず、プリメーラB(当時2部相当)に降格したが、プリメーラBで過ごしたのはわずか1シーズンであり、1942年には25勝4敗の成績でプリメーラ・ディビシオン昇格を果たした。1950年には再びプリメーラB降格となったが、前回同様に降格から1年で昇格を果たした。

初のリーグ優勝[編集]

アンヘル・ラブルナ監督が率いたナシオナル1971ではプレーオフに出場し、準決勝ではアルド・ポイがダイビングヘッドで決勝点を決めてニューウェルズを破った。この得点は今日でもサポーターに記憶されており、12月19日にはポイが参加する祝賀行事が行われることもある[4]。プレーオフ決勝ではCAサン・ロレンソ・デ・アルマグロを破り、初のプリメーラ・ディビシオン優勝を果たした。2年後のナシオナル1973では、カルロス・グリグオル監督が指揮して2度目のリーグ優勝を果たした。この時のチームの主力選手にはポイ、カルロス・アイマール、ホルヘ・ソラーリなどがおり、カルロス・ビアスット、ホルヘ・ゴンサーレス、アウレリオ・パスクティーニ、ダニエル・キリェール、マリオ・キリェール、アイマール、エドゥアルド・ソラーリ、ポイ、ラモン・ボベーダ、ロベルト・カブラル、ダニエル・アリコがレギュラーを務めた。1974年にはインスティトゥートACコルドバからストライカーのマリオ・ケンペスを獲得し、ケンペスはバレンシアCF(スペイン)移籍後の1978 FIFAワールドカップで得点王に輝く活躍を見せた。

1980年代[編集]

1970年代半ば以降は7年間無冠が続いたが、アンヘル・トゥリオ・ソフ監督が指揮したナシオナル1980で久々の優勝を飾った。この時のセントラルはピッチ上で優雅なプレーを見せ、「ラ・シンフォニカ」(オーケストラのシンフォニー)と呼ばれた。ラシン・デ・コルドバと対戦した決勝では、ファーストレグで5-0と快勝し、セカンドレグに0-2と敗れたものの、得失点差でリーグ優勝を決めた。ダニエル・カルネバーリ、フアン・カルロス・ギエルメッティ、エドガルド・バウサ、オスカル・クライジャチッチ、ホルヘ・ガルシア、ホセ・ガイタン、ダニエル・スペランディオ、エドゥアルド・バカス、フェリクス・オルテ、ビクトル・マルチェッティ、ダニエル・テグリアがレギュラーだった。その後何年かは低調なシーズンが続き、1984年にプリメーラB降格となったが、ペドロ・マルチェッタ監督が采配を振るったチームはわずか1年でプリメーラ・ディビシオン復帰を果たした。ソフ監督が再び指揮を取った1986-87シーズンには4度目のリーグ優勝を果たした。この時のチームのレギュラーはアレハンドロ・ラナーリ、エルナン・ディアス、ホルヘ・バルビス、バウサ、ペデルネーラ、オマール・パルマ、アデルキ・コルナグリア、ロベルト・ガスペリーニ、オスバルド・エスクデロ、フェルナンド・ランシデイ、ウーゴ・ガジョーニだった。

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1990年代以降[編集]

1990年代最初の数年間は国内リーグで低調な成績に終わったが、1995年のコパCONMEBOLで優勝を果たした。今日においても、この年のコパCONMEBOLはサンタフェ州のクラブが獲得した唯一の国際タイトルである。アトレチコ・ミネイロ(ブラジル)戦ではアウェーでのファーストレグに0-4で敗れたが、ホームでのセカンドレグに4-0で勝利し、PK戦に4-3で勝利したロサリオが勝ち上がった。1997年11月23日のロサリオ・ダービーには4-0で勝利したが、ニューウェルズはその試合の後半途中に試合を放棄したため、毎年11月23日は”Dia del abandono”(逃亡者の記念日)とされ、セントラルのサポーターがお祝いをしている。2000年代後半には成績が低迷し、2009-10シーズン後に行われた昇降格プレーオフではCAオール・ボーイズと対戦したが、2試合合計1-4で敗れてプリメーラB・ナシオナル(2部)に降格した。この際、オラシオ・ウサンディサーガ会長の経営手腕が疑問視され、サポーターから殺害予告を受けたため、ウンディサーガはスペインに逃避した。その後、会長選挙が行われてノルベルト・エスペシアーレが新会長に就任した。2012-13シーズン開幕時点でコパ・リベルタドーレスには10度出場しており、ボカ・ジュニアーズ、CAリーベル・プレート、CAインデペンディエンテ、CAサン・ロレンソ・デ・アルマグロに次いでアルゼンチン5位タイ(エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタやCAベレス・サルスフィエルドと同数)の出場回数を誇る。

ニックネーム[編集]

最も一般的に使用される愛称はLos Canallas(ロス・カナージャス、ならず者)である。1920年代、ニューウェルズとともに難病患者を迎えてのチャリティーマッチを企画したが、あらぬ誤解から試合をキャンセルしたため、ニューウェルズのファンにこう呼ばれたのが始まりである。本来ならば蔑称として使用される単語であるが、クラブもマスコミも堂々と使用している[5]。この出来事以来、ニューウェルズはLeprosos(レプロソス、ハンセン病患者)というニックネームで呼ばれている。1928年、セントラルのサポーターがライバルのCAベルグラーノのスタジアム近くで布地を燃やし、その際に「ならず者! ならず者!」と呼ばれたのが始まりであるとする説もある[6]。2007年1月にアメリカのニュージャージー州で行われた記者会見で、ロサリオ出身のロベルト・フォンタナローサは愛称のスペル変更を行なった。彼によれば、ロサリオ出身の人々はスペイン語の「Canallas」という単語を使用しないということで、新しいスペルは「Canayas」(カナ読みはいずれもカナージャス)となった。

下部組織から優れた選手を多く輩出していることと、アマチュアリーグ時代の優勝回数が多いことがラシン・クルブに似ていることなどから、ラシン・クルブと同様のLa Academia(ラ・アカデミア、学院)という愛称も持つ。

サポーター[編集]

巨大な横断幕を掲げるセントラルのサポーター

2008年1月にはイギリスの雑誌「UK Football」が「世界のスタジアムの熱狂度」についてのランキングを発表し、セントラルは14位でアルゼンチンのクラブ中最高位となった。CAリーベル・プレートが20位で、ボカ・ジュニアーズが23位で、ラシン・クルブが48位でセントラルに続いた[7]。アルゼンチンの地方都市では、全国的な人気クラブであるボカ・ジュニアーズやリーベル・プレートを応援するサポーターが人口の過半数を占めるとされるが、ロサリオ市では状況が異なる。1995年にナシオン紙が行った調査によると、ロサリオ市においてセントラルのサポーターは45%を占め、ニューウェルズのサポーターが30%で続いている。ボカ・ジュニアーズは7%、リーベル・プレートは6%にとどまっている。

CAチャカリタ・ジュニアーズとは非常に良好な関係を築いており、チャカリータとの試合の際には、サポーター同士がユニフォームを交換したり、スタジアム外でバーベキューをして親睦を深めている。アルゼンチンのCAヒムナシア・イ・エスグリマ・デ・フフイ、CAサン・マルティン・デ・トゥクマンとも良好な関係である。[8][9]

セントラルサポーターの著名人には、アルベルト・オルメード(コメディアン/俳優)、リタ・ラ・サルバヘ(芸術家)、リベルタ・ラマルケ(歌手/女優)などがいる。オスバルド・バジェール、フォンタナローサなどの作家、フィト・パエス、フアン・カルロス・バグリエット、ホアキン・サビーナなどのミュージシャンもセントラルのサポーターである。

セントラルは労働者階級のチームというクラブカラーの為、ロサリオ出身のチェ・ゲバラ(革命家)もセントラルのサポーターだった。[10][11]

またその影響で、キューバのフィデル・カストロ議長の贔屓のチームであると言われている。

ゲバラはクラブを代表するアイコンのひとりであるため、クラブやサポーターの愛称としてLos Guerreros(ロス・ゲレーロス、戦士/ゲリラ)が用いられる。ハビエル・マスチェラーノとエセキエル・ラベッシはセントラルの入団テストに落ちた過去があり、セントラルでのプレー経験はないが、両選手ともサポーターとして知られている。ラベッシは背中にセントラルのエンブレムのタトゥーを刻んでいる。

またPSGに所属するアンヘル・ディ・マリアも小さいころから、当クラブでプレーをしており、足にタトゥーを入れる等、熱狂的なサポーターとして知られ、復帰を夢見てる。[12]

スタジアム[編集]

ロサリオ市北東部のリサンドロ・デ・ラ・トーレ地区(アロシート地区として知られる)、アベシャネーダ大通りとヘノヴァ通りの交差部にあるエスタディオ・ヒガンテ・デ・アロシートをホームスタジアムとしている。公式には41,654人を収容する。1978 FIFAワールドカップでは、アルゼンチン代表の2次リーグ3試合すべてがヒガンテ・デ・アロシートで行われた。かつてセントラルのアイドル的存在だったマリオ・ケンペスは大声援を受け、得点王に輝く活躍でアルゼンチン代表の優勝に貢献した。

大衆文化[編集]

ロサリオ・セントラルは多くの映画、書籍、楽曲、演劇に登場し、いくつかの散文にも登場する。ロベルト・フォンタナローサの「19 de diciembre de 1971」(1971年12月19日)という物語は、ニューウェルズ・オールドボーイズ戦のためにブエノスアイレスを訪れたセントラルサポーターを題材にしている。
また毎年この日が訪れてるとロサリオでは、このときにダイビングヘッドのゴールを決めたアルド・ポイのゴールと同じくダイビング・ヘッドにてゴールを決めるということを行っている。
[13]

ユニフォーム[編集]

サプライヤーとスポンサー[編集]

2011年8月以来、アルゼンチンの都市銀行であるインヘコンセールが胸スポンサーとなっている。2012年7月、ブラジルのスポーツブランドであるオリンピクスとユニフォーム提供の契約を交わした。

ユニフォームの変遷[編集]

現所属メンバー[編集]

2018年2月28日現在

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

タイトル[編集]

国内タイトル[編集]

全国タイトル[編集]

地域タイトル[編集]

  • ロサリオ選手権 : 12回
    • 1908, 1914, 1915, 1916, 1917, 1919, 1923, 1927, 1928, 1930, 1937, 1938

国際タイトル[編集]

歴代会長[編集]

歴代監督[編集]

単一シーズン制時代 (-1966)[編集]

メトロポリターノとナシオナル時代 (1967-1985)[編集]

ヨーロッパシーズン制時代 (1985-)[編集]

歴代所属選手[編集]

GK[編集]

DF[編集]

MF[編集]

FW[編集]

外部リンク[編集]


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