ガルーダ・インドネシア航空 – Wikipedia

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ガルーダ・インドネシア航空(ガルーダ・インドネシアこうくう、インドネシア語: PT Garuda Indonesia (Persero) Tbk)は、1949年に設立されたインドネシアの国営航空会社。日本では「ガルーダ航空」とも、英語圏ではGaruda Indonesiaとも表記される。

イギリス・スカイトラックス社による航空会社の格付けで、実質最高評価の「ザ・ワールド・ファイブ・スター・エアラインズ(The World’s 5-Star Airlines)」の認定を得ている[1]

社名の「ガルーダ」は、インドネシアの国章でもあるヒンドゥー教の神鳥ガルダから取られている。ガルダはヴィシュヌ神を乗せ、天空を駆け抜けたと言われており、ロゴマークには“安全で快適な空の旅を”との願いが込められている。当初は旧宗主国のKLMオランダ航空が運航していた諸島間運航を引き継ぐ形で運航を開始、1954年3月には100%国有化された。インドネシアのいわゆる「フラッグ・キャリア」である。

航空券の座席予約システム(CRS)は、アマデウスITグループが運営するアマデウスを利用している。
[2][3][4]

ハッジチャーター[編集]

イスラム教国のインドネシアの航空会社である為、時期によってはメッカ巡礼の為、他社から機材をリースしてチャーター便を運航(ハッジチャーター)したりするので、保有機材中にハイブリッド塗装の機体が見られることがよくあり、運航の合間に通常定期路線に同機材を投入することもある。

機内入国審査プログラム[編集]

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同社は一部の長距離便で、独自の入国審査プログラム「機内入国審査プログラム」を実施していたが[5][6]、2015年1月7日で終了した[7]。これは、搭乗前にインドネシアの査証代金を支払い、機内にて到着査証の発給と入国審査を同乗する入国審査官が行い、到着後は専用ブースを通ってインドネシアに入国できた。

1990年代[編集]

創立時からほぼ、全世界の主要都市に乗り入れていたが、1997年のアジア通貨危機により、マニラ・ホノルル経由ロサンゼルス便率いる北米線と欧州線のほとんどが廃止された。

2001-2009年[編集]

2004年9月7日インドネシアの人権活動家Munir Said Thalibを機内で乗務員が暗殺。

当時のガルーダ・インドネシア航空CEOであったインドラ・セティアワンからの命令により乗務員が飲み物にヒ素を混入して暗殺した。2007年10月元CEOであったインドラ・セティアワン及び副CEOであったロハイニルアイニは殺人罪により有罪判決が下った。また法人であるガルーダ・インドネシア航空自体にもメディカルエマージェンシーを出さず緊急着陸を拒否したとしてMunir Said Thalibの遺族に対し賠償命令が下った。

欧州連合(EU)が「安全性に問題がある」として、他の全てのインドネシアの航空会社とともに2007年7月6日からのEU域内への乗り入れ禁止を決定されていた[8]

また、アメリカ連邦航空局(FAA)も、全てのインドネシアの航空会社は安全面の水準がICAOの基準に合わないとされ、2007年4月頃にはガルーダ・インドネシア航空の搭乗予定者(特に米国人)に注意を呼びかけていた。更にスカイチーム加盟航空会社との提携も旅客・貨物ともすべて中止していた。

ジャカルタまたはデンパサールを起点に、2009年をめどに再びロンドンやアムステルダム、フランクフルトへの3路線への就航を計画し、2008年2月にボーイング社に最新機材を大量発注した上、2007年以降に大きな事故がないことからEU域内への乗り入れ禁止解除を要望していた。しかし、2008年7月24日のリリースで「安全対策がまだ不十分」として却下されたが、一年後の2009年7月14日にリスト更新で同社の管理体制が国際基準の安全性を満たしているとして、他3社と同時に2年ぶりに禁止解除され、2010年6月よりジャカルタ/ドバイ/アムステルダム線の運航を再開した。

2009年-現在[編集]

EUの乗り入れ禁止解除を受け、2009年7月に「the Quantum Leap」という再建計画を発表した[9]。また同時にロゴ、制服、機体塗装、尾翼のデザインなどが一新された。このデザインはアメリカの大手デザイン事務所ランドーアソシエイツによるものである[10]
2010年11月23日に航空連合・スカイチームに加盟する契約を締結し[11]、2014年3月5日に加盟した[12][13]。それに合わせて、スカイチーム塗装をまとったB737-800(機体番号:PK-GMH)もお披露目されている。

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2012年3月13日に日本就航50周年を迎え、4月27日に羽田空港に就航した[14][15]。2013年10月16日に山梨県と相互協力協定を締結[16]。2014年3月30日からインドネシア – 日本路線とジャカルタ・デンパサール発着の国内線の一部で全日本空輸(ANA)とコードシェアを開始した[17]

2012年3月に中止した中部国際空港への乗り入れを、発着地をデンパサールからジャカルタに変更し、2015年3月より再開する予定であったが、2015年に経営陣が変わりこれまでの路線拡大から路線見直しに経営方針が変わったため、再開が見送られることとなった。当初の主な理由として愛知県からの自動車関連企業などのインドネシア進出が急増した事が挙げられた[18][19]

2017年からは成田空港経由でロサンゼルス国際空港へ乗り入れを再開する計画であった。1997年までマニラ・ホノルル経由で乗り入れていたが、アジア通貨危機の影響で乗り入れを中止して以来20年ぶりの北米線となる予定であったが、他社とのコードシェアの活用や不採算路線の見直しなどの経営改革に着手した。そのため、自社による北米線の再就航は見送られた[20][21]

2018年、スリウィジャヤ航空とコードシェア提携を始めた[22][23]

2018年9月、日本航空(JAL)と提携することになり、2018年10月以降はJALとコードシェアを実施、当初は一部の路線が対象となる。JAL運航の成田 – ロサンゼルス・ニューヨーク線も当初のコードシェアの対象となっており、それが北米線の自社運航を見送った代替となる。その後順次対象路線の拡充が進められ、マイレージの提携も今後実施される予定。ANAとの提携も当面の間は継続され、1年後を目処にガルーダ・インドネシア航空はJAL、ANAとの中で日本での共同事業の相手を選択する見込み[19]

リスト[編集]

2021年8月現在、ガルーダ・インドネシア航空の機材は以下の航空機で構成される[24]

画像[編集]

なお、同社が自社発注したボーイング社製旅客機のカスタマーコード(顧客番号)はU3で、航空機の形式名は737-5U3、737-8U3、777-3U3などとなる。

発注機材[編集]

上記の機材は2015年のパリ航空ショーにて購入する意向を示しており、エアバス A350-900とボーイング787-9はそれぞれ30機ずつ、ボーイング737MAX8は最大30機発注し[25][26]、さらにボーイング737MAX8に至っては2014年10月に50機発注を公表していた[27]。しかし、2019年3月10日に発生したエチオピア航空302便墜落事故を受け、B737MAXの発注を全て取り消した[28]。A330neoは発注済みの7機のA330からの切替えで、発注数を増やし計14機を発注している[29]

退役機材[編集]

塗装の変化[編集]

特別塗装機[編集]

就航都市[編集]

  • GA086-089: ヨーロッパ
  • GA100-199: 国内線(スマトラ)
  • GA201-299: 国内線(中部ジャワ、マラン)
  • GA300-399: 国内線(スラバヤ)
  • GA400-499: 国内線(バリ、ヌサ・トゥンガラ)
  • GA500-599: 国内線(カリマンタン)
  • GA600-699: 国内線(スラウェシ、マルク、パプア)
  • GA700-799: オーストラリア
  • GA800-899: アジア
  • GA900-999: 中東

機内サービス[編集]

座席構成は、一部を除きビジネスクラスとエコノミークラスの2クラス制で、ボーイング777-300ERのみ機内Wi-Fiを搭載したファーストクラスの設定がある3クラス制となっている。中・長距離路線では、最新の機内エンターテイメントシステムが搭載されている。日本発着路線の機内食では、インドネシア料理のほか和食・洋食が提供され、ビジネスクラスを対象に事前予約も可能である。

2016年2月1日に受領したB777-300ER(機体番号:PK-GIK)とA330-300(機体番号:PK-GPZ)には、フルフラットになるビジネスクラス「スーパーダイヤモンドシート」[36] と新仕様のエコノミークラスを搭載。

事故と事件[編集]

1950年の最初の事件以来、ガルーダ・インドネシア航空は14回の死亡事故を起こしている[37]。主なものは以下の通り。

乗員8名、乗客37名の計45名のうち、乗員4名、乗客19名の計23名が死亡した。搭乗者の中に日本人3名(ジャカルタ在住2名とメダン在住1名)が含まれていたが、全員死亡した。 ジャカルタ在住の2名は新潟鐵工所ジャカルタ事務所の駐在員で、出張先のバンダ・アチェからジャカルタに帰る為に当便を利用し、事故に巻き込まれた。なお、事故機は1976年に製造された機材であった[38]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]


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