天山ウイグル王国 – Wikipedia
この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2012年2月) 天山ウイグル王国 天山ウイグル王国(てんざんウイグルおうこく)とは、11世紀から13世紀に現在の新疆ウイグル自治区に存在したウイグルのつくった王国である。西ウイグル王国、高昌回鶻、西州回鶻とも称される。都はビシュバリク。主に東西の中継交易で栄えた。 ウイグルの西走と天山ウイグル王国の成立[編集] 840年、モンゴル高原の回鶻(ウイグル)可汗国が崩壊すると、各グループは各テギン(王子)を奉じて四散した。そのうち厖(ほう)テギンの15部は西のカルルクに亡命しようと西走したが、厖テギンを奉じた一派は分岐し、途中で南下して焉耆(アルク)に落ち着き、北庭(ビシュバリク)地方には僕固俊率いる一派が割拠した。そのままカルルクへ西走した一派はのちにカラハン朝を創始することとなる。厖テギンは焉耆にて可汗(カガン)に即位し、北庭(ビシュバリク)や西州(高昌)、輪台(ウルムチ付近)などに代官を派遣した。856年には唐に使者を送り嗢禄登里羅汨没蜜施合倶録毘伽懐建可汗(ウルグ・テングリデ・クトゥ・ボルミシュ・アルプ・キュリュグ・ビルゲ・懐建・カガン)の称号を受けた。 866年、北庭の僕固俊は西州、輪台の諸城を攻撃し占領、天山ウイグルを統一した[1]。 870年、ウイグルは帰義軍の張淮深を攻めたが、西桐海(現在の敦煌南西のアクサイ・カザフ族自治県の蘇干湖)で敗れた。875年、再度攻撃を仕掛けたが敗退した。876年、ウイグル軍は伊州(ハミ)を攻め落とすことに成功した。以後の詳細な記録はモンゴル時代まで途絶えてしまう。 [2] 『遼史』と『宋史』の記録[編集] 遼帝国(契丹族)の歴史書『遼史』には「和州回鶻」(和州は高昌の別称)、「阿薩蘭回鶻」といった名称で記録されている。「阿薩蘭回鶻」(アルスラン・ウイグル)とは、当時の天山ウイグルの可汗が代々「○○・アルスラン・カガン」(獅子王の意)と称していたことに由来する。900年代から1100年代にかけて天山ウイグルは遼帝国に朝貢をおこなった。 [3] 一方、北宋の歴史書『宋史』では、「高昌回鶻」と「亀茲回鶻」が存在し、それぞれの伝がたてられ記録されている。「高昌回鶻」は『遼史』でいう「阿薩蘭回鶻」であり、その記録は984年(太平興国九年)をもって終わっている。「亀茲回鶻」は亀茲(クチャ)に拠った回鶻で、1001年(咸平四年)から記録が始まっている。 亀茲回鶻についてマスウーディーの『黄金の牧場と宝石の鉱山』では「タガズガズ(Tagazgaz=ウイグル)はホラーサーンと中国の間に位置するクーシャーン(Kouchan=亀茲)に拠り、その王はイル・ハーンと称し、マニ教を信仰していた」と記している。これを高昌回鶻と同じ政体であるか、異なる政体であるかは議論されるが、藤枝晃によると、「両者は別であり、高昌回鶻は亀茲回鶻に併合された」としている。 [4] カラハン朝の侵攻[編集] 1017年、カラハン朝がベラサグン地域から進撃して来た。天山ウイグル王国軍はこの攻撃に対して強く反撃に出て、侵入して来たイスラム軍を撃退した。そして、10万帳(一説には30万帳)と伝えられる天山ウイグル軍がカラハン朝の首都であるカシュガル地域へと追撃を続け、さらにはセミレチエ(七河流域)に侵入し、副都のベラサグンからわずか8日の行程のところにまで迫った。カラハン朝の大ハンであるアフマド・トゥガン・ハンは病を抱えながら先頭に立って「最凶悪な異教徒」たる敵を迎え打ち、天山ウイグル軍を撃退した。アフマド・トゥガン・ハンは勢いに乗じてトルファンの地まで反撃し、カラハン朝軍は20万人あまりを殺害し、10万人を捕虜とするという大勝利を収め、また大量の戦利品を獲得した。アフマド・トゥガン・ハンは帰還した後、その信仰のために「感情的な抑圧」を受けて病死した。アフマド・トゥガン・ハンによるこの反撃は未完に終わり、天山ウイグル王国に対する「聖戦(ジハード)」は成功せず、タリム盆地東部のイスラム化は300年間ほど遅れることとなった。この戦争によって大量の人口が死亡し、高昌地区(トルファン)の仏教文化は大きな破壊を被った。アフマド・トゥガン・ハンの死後、カラハン朝ではさらに激烈な内部争いが起こり、天山ウイグル王国に対する戦争は棚上げにされた。 [5] 西遼(カラ・キタイ)の属国となる[編集] 12世紀末の中央アジア 1124年、遼が金に滅ぼされると、皇族の耶律大石は一部の契丹族を率いてモンゴル高原の鎮州可敦城(現在のボルガン県近辺)に逃れて、現地の諸部族の力を借りて天祐皇帝と称した。しかし、この地にも金の勢力が迫ってきたため、耶律大石はアルタイ山脈を越えて更に西へ移動する。移動に際してビシュバリクを本拠地とする天山ウイグル王国と衝突し、1131年にウイグル王国は耶律大石の部下を捕らえて金に引き渡した[6]。東トルキスタンの横断に失敗した耶律大石は天山山脈の北方に進路を変え[7]、1132年ごろにウイグルを臣従させる[8]。さらにベラサグンを本拠地とする東カラハン朝から援助を求められると、東カラハン朝と敵対するテュルク諸部族を破った後、ベラサグンを占領した。ベラサグンを征服した耶律大石は町をグズオルドと改称して新国家の首都に定めた。
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