中華民国 – Wikipedia

中華民国 中華民國 国の標語:民族、民権、民生 国歌:中華民國國歌(中華民国国歌)国旗歌:中華民國國旗歌(中華民国国旗歌) 中華民国(ちゅうかみんこく、繁: 中華民國)は、東アジアに位置する共和制国家。実効支配領土と政治情勢の原因で、「台湾」(たいわん、繁: 臺灣/台灣)が通称として国際的にしばしば使用されている。首都は台北市。 アジアで2番目の共和国[注 2] として1912年に大陸地区で成立したが、国共内戦で中華人民共和国に大陸地区から放逐され、1950年[注 3] 以降は台湾省の全域[注 4] と福建省の極一部の島嶼(台湾地区)、大陸時代には海南特別行政区に属していた東沙諸島と南沙諸島の太平島・中洲島[注 5] を実効支配する海洋国家となった。台湾地区は、日本やフィリピン、中華人民共和国と領海を接する。 五権憲法(中国語版)に基づく議会制民主主義・資本主義体制国家であり、1971年までは国際連合安全保障理事会常任理事国として国際社会に大きな影響を与えていた。しかし国連の代表権問題や一つの中国政策により、中華人民共和国が中華民国を国家承認しないように要求している為、2021年現在では中華民国を正式に国家として承認している国は14ヶ国に留まる。このような経緯があるため、日本など以前は国交を結んでいた国々などとの間で、経済や文化面などの交流が行われている。 日本は1972年の日中共同声明により中華人民共和国政府を「中国の唯一の合法政府」と承認して国交を樹立したことに伴い、中華民国政府(台湾当局)との国交を断絶した。これによって双方の大使館等が閉鎖された。また、国交断絶時に、民間の実務関係を維持するために、日台相互に非政府組織としての連絡機関(日本側は日本台湾交流協会、台湾側は台湾日本関係協会)を設置し、現在に至っている。 概要 成立

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松岡ジョナタン – Wikipedia

松岡 ジョナタン(まつおか ジョナタン、2000年5月27日 – )はパラグアイ出身のプロサッカー選手。中国サッカーリーグ・福山シティFC所属。ポジションはフォワード。 父親はイタリア系パラグアイ人で母親は日系パラグアイ人[3]。パラグアイで生まれ、6歳の時に来日した[3]。一部報道ではパラグアイと日本の2重国籍とされているが[4]、Jリーグでは2019年時点でパラグアイ国籍のみの外国籍選手として登録されている[1]。中学卒業後、名古屋グランパスU18に入団[3]。2018年12月16日、2019年シーズンからのトップチーム昇格と、併せてSC相模原への期限付き移籍が発表された[2]。 2020年、ラインメール青森FCに育成型期限付き移籍[5]。 2021年1月7日、カマタマーレ讃岐に育成型期限付き移籍[6]。 2021年9月3日、讃岐への育成型期限付き移籍契約を終了し、福山シティFCに育成型期限付き移籍で加入することが発表された[7][8]。讃岐ではJ3リーグでの出場はなく天皇杯1試合の出場にとどまった[7]。 2022年より福山シティFCに完全移籍[9]。 所属クラブ[編集] 個人成績[編集] ^ a b “松岡 ジョナタン:SC相模原”. 日本プロサッカーリーグ (2019年). 2020年1月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年1月24日閲覧。

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杉谷古墳群 – Wikipedia

杉谷古墳群(すぎたにこふんぐん)は、富山県富山市杉谷にある古墳群。史跡指定はされていない。 富山県中央部、富山平野を東西に二分する呉羽丘陵から発達する、杉谷丘陵の縁辺部に営造された古墳時代初頭頃の古墳群である[1][2]。前方後方墳1基(一番塚)・四隅突出墳1基(4号墳)・円墳1基(三番塚)・方墳または長方墳7基・不明1基の計11基から構成される[2]。現在は富山大学杉谷キャンパス(旧富山医科薬科大学)を取り巻く位置に分布し、これまでに測量・発掘調査が実施されている。 古墳群のうち特に4号墳は、方墳の四隅が舌状に突出する四隅突出墳(四隅突出型墳丘墓/四隅突出型方墳)という特異な形状として注目され、四隅突出墳としては最大級の規模になる[3]。四隅突出墳は山陰地方の島根県を中心に分布する弥生時代-古墳時代初頭の墓制であるが、北陸地方でも18基(福井県6基、石川県2基、富山県10基)が確認され[3]、いずれも外表施設に貼石を持たない点で山陰地方とは異なる特徴を示しており、日本海文化圏の実態を考察するうえで重要な資料になる[2][3]。関連して5号墳と4号墳の間(大学への進入路)の杉谷A遺跡では、古墳時代初頭の方形周溝墓17基・円形周溝墓1基・土壙2基などの墳墓群が確認されているが[3]、杉谷古墳群はその上位の首長墓群と想定され、当時の首長系譜を考察するうえで重要視される古墳群になる[2] 来歴[編集] 『越中志徴』に「糠塚」の記述[2]。 1950年(昭和25年)、「富山県石器時代遺跡地名表」に縄文遺跡として登録[2]。 1973年度(昭和48年度)、一-三番塚・4-6号墳の発掘調査、7号墳の発見・発掘調査(富山市教育委員会、1974年に概報刊行)[2]。 1974年度(昭和49年度)、富山医科薬科大学建設に伴う杉谷A遺跡の発掘調査。周溝墓群の発見(富山市教育委員会、1975年に報告書刊行)[2]。 1975年(昭和50年)、富山医科薬科大学設置(2005年に富山大学に統合)。 1983年度(昭和58年度)、一・二番塚・8-10号墳の測量・発掘調査、4号墳の測量調査(富山市教育委員会、1984年に報告書刊行)[2]。 2010-2011年度(平成22-23年度)、6号墳の発掘調査(計2次、富山大学人文学部考古学研究室、2012・2013年に報告書刊行)。 2012-2017年度(平成24-29年度)、4・7号墳の発掘調査(計6次:7号墳は2017年度のみ、富山大学人文学部考古学研究室、2014-2019年に報告書刊行)。 2018-2019年度(平成30-令和元年度)、一番塚の測量・発掘調査(富山大学人文学部考古学研究室、2020・2021年に報告書刊行)。 杉谷古墳群の一覧[2] 古墳名 座標 形状 規模 調査 一番塚古墳

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藝備銀行 (1920-45年) – Wikipedia

かつての藝備銀行本店跡に建つ広島市中区紙屋町の広島銀行本店(2代目) 株式会社藝備銀行(芸備銀行 / げいびぎんこう)は、1920年(大正9年)、広島市に設立された地方銀行で、現在の広島銀行の直接の前身となった銀行である。当行を中心にした合併により1945年に新立の銀行として発足し、現在の広島銀行につながる「(新)藝備銀行」と区別して「旧藝備銀行」と称されることもある。 前史:発足の背景[編集] 1893年(明治26年)の銀行条例により銀行の設立条件が緩和されると、広島県下では各地で多くの銀行が設立されるようになり、その数は1901年までに27行、1912年(大正元年)には44行に達した。これらの多くは地方の地主・商工業者の資金を集めて設立された中小銀行であり、地域産業の振興に大きな役割を果たしてきたが、日露戦争後に好不況の波が激しくなると小規模な銀行のなかには破綻するものが出てきた。これらの銀行は財閥系の大銀行に売却され営業権を譲渡されるものも多く、県下の余剰資本が県外に流出することをおそれ中小銀行を合併して地域経済の核とする動きが出てきた[1][2]。 第一次世界大戦中の好景気が1918年の大戦終結により一転して深刻な不況(戦後恐慌)に陥ると、県内各地で多くの銀行が取り付けを受け支払い不能に陥った[3]。このような状況を背景に政府・県は小銀行の乱立を避けるため銀行合同をすすめていたが、1919年7月には若林賚蔵県知事によって広島に拠点をおく(旧)廣島銀行と広島商業銀行との統合が周旋されることとなり、これに尾道に拠点をおく第六十六銀行が加わって翌1920年春には3行の合併契約が結ばれた。安芸地方と備後地方の銀行の合併であることから新銀行の名称は「藝備銀行」と決定され、さらに別個に合併協議を進めていた三次貯蓄銀行・比婆銀行・角倉銀行・双三貯蓄銀行の備北4行もこの合併に参加することとなり、合計7行の合併によって当時としてはまれにみる大型地方銀行の誕生とされた[4][5]。 県内外の諸行の統合による経営拡大[編集] 藝備銀行は以上のような経緯から1920年(大正9年)6月30日に資本金は15,000,000円をもって設立され[6]、同年10月1日に開業した。本店となったのは広島市元柳町の旧廣島銀行本店(1908年築造)であり、県下全域に店舗がおかれた。しかし元柳町の本店は7行を統合し急拡大した支店網の事務を管轄する店舗としては手狭であり、職員・事務量ともに増加していったため、1923年には市内紙屋町に新たな本店の敷地が購入され、1925年には店舗の建設が始まった[5]。その一方で井上洋一郎『広島財界今昔物語』によれば、設立当初には前身7行それぞれの慣習の違いや人脈に由来する派閥抗争が絶えなかったという[7]。 当行は開業後も政府による銀行合同政策を背景に県内外の銀行の吸収・合併をすすめ、1925年~1926年に中国商業銀行・尾道諸品株式会社銀行部・加計銀行・仁方銀行・多川銀行の5行を合併・買収した。1927年(昭和2年)には金融恐慌を背景に銀行合同の動きが促進され、当行は広第一銀行・呉第一銀行の営業権を取得(買収)した。この年、本店は6月に竣工した紙屋町の新店舗に移転した。さらに翌1928年、当行は県外の愛媛銀行[注釈 1]・西条銀行・伊予三島銀行の3行も合併して愛媛県に営業拠点を拡大する一方、可部銀行の営業権も獲得した。翌1929年に始まる世界恐慌の波は県下における銀行の整理統合をいっそう加速させ、1934年には備後地方で独立路線をとっていた備後銀行の営業権も当行に譲渡された[4][5]。 「一県一行」政策の下で (新)藝備銀行の発足へ[編集] 1937年(昭和12年)時点で県下に本拠地をおく普通銀行は当行のほか呉銀行・三次銀行・備南銀行・広島合同貯蓄銀行の4行になった。さらに戦時体制下での政府の「一県一行」政策を背景に、大蔵省・日本銀行により県下5行の合同が斡旋され、1944年12月には5行による新銀行設立の覚書が交換された。この結果、第二次世界大戦末期の1945年4月27日に5行は合併されて新立の「(新)藝備銀行」が資本金30,700,000円をもって発足し、同年5月1日には旧藝備銀行の紙屋町本店を本店として引き継ぎ開業した。これにより1912年時点で県下に最大で44行存在していた普通銀行は新藝備銀行ただ一つに整理された[5][8]。 藝備銀行から広島銀行へ[編集] (新)藝備銀行は発足直後の1945年(昭和20年)8月6日、原爆被災により大きな被害を受けたがその後復興を遂げ、1950年8月6日には被爆5周年を機に被爆地・広島にちなむ「廣島銀行」に改称、さらに1988年には「広島銀行」と再改称して現在に至っている[5]。 年表[編集] 1919年(大正8年) 7月:若林賚蔵広島県知事の周旋により(旧)廣島銀行と広島商業銀行の合併が画策される。 1920年(大正9年)

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大法寺 – Wikipedia

この項目では、長野県の大法寺について説明しています。その他の大法寺については「大法寺 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 このページ名「大法寺」は暫定的なものです。(2017年10月) この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “大法寺” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年11月) 大法寺(だいほうじ)は、長野県小県郡青木村にある天台宗の寺院。山号は一乗山。開基(創立者)は藤原鎌足の子・定恵と伝える。本尊は釈迦如来。国宝の三重塔があることで知られる。 寺伝である一乗山観院霊宝記によると、大法寺は奈良時代の大宝年間(701~704)に藤原鎌足の子である定恵によって創立されたとされる。その後、平安時代の大同年間(801~810)に坂上田村麻呂の祈願により、義真(天台宗座主)によって再興された。 大宝年間と定恵が生きたとされる間(諸説あり)は一致しない。歴史資料や地理的事実からは、大法寺が近くに存在した東山道の浦野駅に関係する寺として創建されたと考えるのが妥当とされており、いずれにしても奈良時代に創建された信州でも有数の古刹である。 平安時代に周辺地域が牧場として栄えたことから、大法寺は牧場関係者による崇敬を受けた。重要文化財に指定されている十一面観音菩薩立像、普賢菩薩立像などはこの間に造られ、平安時代独特の作風を伝えている。 鎌倉時代に入いると大法寺は、周辺に住んだ有力地頭による崇敬を受けた。特に国宝に指定されている三重塔や、重要文化財に指定されている厨子、須弥壇などの文化財は、浦野氏、北条氏などの地頭の支援により造られた。 江戸時代、大法寺は戸隠の勧修院の末寺となっており、天台修験による山岳仏教の寺として栄えた。 国宝[編集] 三重塔

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