紀角 – Wikipedia

紀 角(き の つの、生没年未詳)は、記紀等に伝わる古代日本の人物。

『日本書紀』では「紀角宿禰(きのつののすくね)」、『古事記』では「木角宿禰」、他文献では「紀都奴」「都野宿禰命」「都怒足尼」とも表記される。「宿禰」は尊称。

武内宿禰の子で、紀朝臣(皇別の紀氏)およびその同族の伝説上の祖とされる。対朝鮮外交で活躍した人物である。

武内宿禰関係系図
表記は『日本書紀』を第一とし、『古事記』を併記。

系譜に関して『日本書紀』に記載はない。『古事記』孝元天皇段では、建内宿禰(武内宿禰)の子7男2女のうちの第五子として記載されている。

『新撰姓氏録』では、左京皇別 紀朝臣条等においていずれも武内宿禰の子と記されている。

また『先代旧事本紀』「国造本紀」都怒国造条では、紀臣の都怒足尼(紀角宿禰)の子に田鳥足尼(紀田鳥。写本によっては島足尼)があると見える。その他にも、後世の系図類では遠耶臣(紀遠耶)、紀白城、真利宿禰(紀真利)という息子らがいたことになっている。

『日本書紀』応神天皇3年是歳条によると、百済の辰斯王が天皇に礼を失したので、紀角宿禰は羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰とともに遣わされ、その無礼を責めた。これに対して百済は辰斯王を殺して謝罪した。そして紀角宿禰らは阿花王を立てて帰国したという。

また同書仁徳天皇41年3月条では、天皇の命で百済に遣わされ、初めて国郡の境を分けて郷土の産物を記録した。その際、百済王同族の酒君に無礼があったので紀角宿禰が叱責すると、百済王はかしこまり、鉄鎖で酒君を縛り葛城襲津彦に従わせて日本に送ったという。

『古事記』では事績に関する記載はない。

氏族[編集]

『古事記』では木臣(紀氏)・都奴臣(角氏)・坂本臣ら諸氏族の祖とする。

『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。

  • 左京皇別 紀朝臣 – 石川朝臣同祖。建内宿禰男の紀角宿禰の後。
  • 左京皇別 角朝臣 – 紀朝臣同祖。紀角宿禰の後。
  • 左京皇別 坂本朝臣 – 紀朝臣同祖。紀角宿禰男の白城宿禰の後。
  • 右京皇別 掃守田首 – 武内宿禰男の紀都奴宿禰の後。
  • 河内国皇別 紀祝 – 建内宿禰男の紀角宿禰の後。
  • 河内国皇別 紀部 – 建内宿禰男の都野宿禰命の後。
  • 和泉国皇別 坂本朝臣 – 紀朝臣同祖。建内宿禰男の紀角宿禰の後。
  • 和泉国皇別 紀辛梶臣 – 建内宿禰男の紀角宿禰の後。
  • 和泉国皇別 大家臣 – 建内宿禰男の紀角宿禰の後。
  • 和泉国皇別 掃守田首 – 武内宿禰男の紀角宿禰の後。
  • 和泉国皇別 丈部首 – 同上。

そのほか『続日本後紀』承和3年(836年)3月11日条では、紀角宿禰後裔の坂本臣鷹野ら13人が朝臣姓を賜ったと見える。

国造[編集]

『先代旧事本紀』「国造本紀」には、次の国造が後裔として記載されている。

  1. ^ 『国造制の研究 -史料編・論考編-』(八木書店、2013年)p. 258。

参考文献[編集]

関連項目[編集]