舘信秀 – Wikipedia

舘 信秀(たち のぶひで、1947年3月23日 – )は、三重県出身の元レーシングドライバーで実業家。トムス代表取締役会長、TOYOTA TEAM TOM’S 代表。前トヨタ・モータースポーツ・クラブ(TMSC)会長。

信秀はレース活動における通り名であり、1960年代は本名の宗一(そういち)で活動していた[1]。トヨタ自動車と専属契約を結んだ「ワークスドライバー」として、1960年代から1980年代にかけて国内外の様々なレースカテゴリーで活躍した。1974年と1975年にはマカオグランプリの「ギアレース」を2連覇し、「マカオの虎」と呼ばれた。

1982年にレーシングドライバーを引退して以降は、1974年に設立したトヨタ系の名門レーシングチーム、及びトヨタ車のチューニングパーツ製造会社として著名な「トムス」の経営に専念している。また、2019年まで「トヨタ・モータースポーツ・クラブ(TMSC)」の会長も務めていた。長男の舘信吾もレーサーだったが、1999年に全日本GT選手権のテスト中の事故で亡くなっている。

  • 1964年 – 立教高校在学中、学友と共にロッドベンダーズというレーシングチームを結成し、ジムカーナなどに出場[2]。ロッドベンダーズの仲間には、三村建治(マキF1設計者)、小平基(後にTMSCに加入)、若松孝太郎などがいた。
  • 1965年 – 立教大学在学中にトヨタ・パブリカでレースデビュー。
  • 1968年 – トヨタ・モータースポーツ・クラブに入会。
  • 1971年 – トヨタ・ファクトリードライバーとしてトヨタ自動車と専属契約。
  • 1972年 – 日本グランプリ富士においてセリカにて優勝。
  • 1974年 – 株式会社トムスを設立し代表取締役社長に就任。
  • 1974年・1975年 – セリカをドライブしマカオグランプリのツーリングカーレース(ギアレース)を2連覇し、「マカオの虎」と呼ばれる[3]
  • 1982年 – 現役レーサーを引退し、チームオーナーに専念。
  • 1987年 – トヨタ自動車のモータースポーツ復帰により、トヨタ自動車のワークスチーム「トヨタ・チーム・トムス」の監督に就任。
トムスの中嶋一貴のマシン(スーパーフォーミュラ/2014年)
  1. ^ 「日本レース史の断章 舘信秀[後編]」『ノスタルジック・ヒーロー 2012年8月号(通号152)』、芸文社、2012年
  2. ^ 当時は16歳で軽自動車免許が取得できた。
  3. ^ マカオグランプリの歴史“. ヨコハマタイヤ. 2016年11月15日閲覧。

外部リンク[編集]

関連項目[編集]